記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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うーん、遅刻。許してくれ、パソコンのキーボードが謎に効かなくなったりしたんです。

スマホで書けって? ぐうの音も出ないです……。


Ep.28 約束と祈りは夕闇に融けて

夕暮れのトラックには、まだ走り終えたばかりの熱気が残っていた。

汗を拭ったタオルを肩にかけたまま、私は軽く息を整える。トレーナーさんは片付けに向かい、そのまま解散の流れになった。──そのとき。

 

「……ユーフォリアさん」

 

背後からかけられた声に振り向くと、そこには早瀬トレーナーが立っていた。

いつもとは違う、影の差す横顔。迷いと疲れをそのまま抱え込んだような瞳が、まっすぐにこちらを射抜いている。

 

「……少し、いいですか」

 

言葉を選ぶように区切りながら、彼は続ける。

 

「ここじゃ……話しづらいので」

 

私はうなずいた。胸の奥が小さくざわめく。

──ただならぬ気配。きっと、ミラクルさんのことだ。

 

 

 

人気のない校舎裏に移ったとき、早瀬トレーナーは深く息を吐いた。

何かを押し殺すように視線を落とし、それから搾り出すように告げる。

 

「……止められませんでした。……ミラクルのことを」

 

「……ぇ……」

 

一瞬、耳が信じられなかった。

 

「……今、なんて……」

 

その声が、自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。

答えを恐れるように問い返した私を見て、早瀬トレーナーは唇を噛む。

 

「……すまない」

 

その一連の言葉を理解していくうちに、空気が一気に冷え込んだように感じる。

早瀬トレーナーは拳を固く握りしめ、影に沈んだ顔をこちらへ向ける。

 

「君の意見を……蔑ろにしてしまった。あの時、止められなかったのは……俺だ」

 

その言葉は、後悔の色を濃く滲ませていた。

それと同時に、それでも背負うと決めている人の声だった。

 

「──この責任は、俺が果たす。だから……」

 

責任。

その言葉が胸の奥でひどく重く響いた。

 

「責任って……」

 

自分の口から零れ落ちたその声はひどく掠れていた。

 

「……もし、ミラクルさんが……」

 

それ以上は言葉にならなかった。

喉が詰まり、続きがどうしても出てこない。

頭の中には、最悪の光景がいやというほど鮮やかに浮かぶのに。

 

 

 

「……っ、わかってる」

 

一拍の沈黙。

その後で、押し殺すような声が落ちた。

 

「……そうなっても、だ」

 

その表情は、痛ましいほどに険しかった。

覚悟の光が宿っていて、けれどその裏側で、砕けそうなほどの不安が透けて見えた。

 

その様子から繰り出された彼の言葉が刃のように胸を刺し、私の心臓が強く跳ねさせる。

 

 

……嫌だ。こんなの、絶対に。

 

──間違っている。

 

 

けれど声は、喉の奥で凍りついたまま動かなかった。

 

これ以上声を出せば、彼を責めてしまう。

叫べば、彼を突き放してしまう。

 

……止めなければ、ミラクルさんを……。……ただ、止める方法はもう存在しない。

 

夕暮れはすでに夜の色をまとい始めていて、校舎裏にかかる影は濃く深く伸びていた。

私たちの間に落ちた沈黙は、その影よりもずっと重くのしかかっていた。

 

──逃げ場は、どこにもない。

 

 

 

~スプリンターズステークス直前・控室~

 

控室の空気は、張り詰めた糸のように重たかった。

椅子に腰掛けたミラクルさんは、静かに目を閉じて呼吸を整えている。

その隣で、早瀬トレーナーは深く腰を落とし、拳を握っていた。

 

「……ミラクル」

 

彼は低く呼びかけ、真剣な眼差しを向ける。呼ばれた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「約束だ。……絶対に、無事に帰ってきてくれ」

 

短く、けれど全身を賭けるような言葉だった。

ミラクルさんはゆっくりと目を開け、ふっと微笑む。

 

「……はい。……必ず」

 

その一瞬のやり取りが、私の胸を強く締めつけた。

重さを孕んだ言葉は、どこか不吉な響きを持っていたから。

 

 

──そのとき、控室の扉が小さく叩かれた。

 

「失礼します。ケイエスミラクルのトレーナーさん、少しいいですか」

 

「……分かりました」

 

彼は一度だけ私と視線を交わし、すぐに立ち上がった。

そして何も続けず、扉の向こうへと消えていった。

 

 

静寂が落ちる。

さっきまで張り詰めていた空気が、逆にやけに広く感じられる。

残されたのは、私とミラクルさんだけ。

 

彼女はしばし瞼を伏せ、静かに息を吐いた。

それからもう一度こちらを見て──

 

「……ユーフォリアさん」

 

ぽつりと呼ばれた声に、心臓が跳ねた。

顔を上げた先で、ミラクルさんはまっすぐにこちらを見ていた。

決意と、どこか儚さを含んだ瞳で。

 

「……おれ、必ず奇跡を起こします」

 

その言葉は、強い光を帯びて胸に飛び込んでくる。

けれど同時に、胸の奥をざわめかせる影も落とした。

 

「……ミラクルさん……」

 

彼女がそう言っても私は何も言えず、ただただ不安な気持ちに埋もれていた。

 

何か言わなくちゃ。そう思うのに、声が詰まる。

伝えたいことが多すぎて、けれど言葉に変えると全部が壊れてしまいそうで。

 

「その……私も、信じたいんです。だから……」

 

搾り出した声は、情けないほどに震えていた。

 

「私とも、約束してください。帰ってくるって」

 

私の精一杯は、たったそれだけだった。既に、早瀬トレーナーが言った言葉。

 

「っ……」

 

一瞬、彼女の瞳が揺れる。

けれどすぐに、いつもの笑みで覆い隠してみせた。

 

「……うん、もちろんだよ」

 

そう言ってミラクルさんは立ち上がり、ドアノブに手をかける。

その背に、私は無意識に指先を握りしめていた。

 

………………

 

私はレース関係者の席に向かい、早瀬トレーナーの隣に腰を下ろした。

彼は視線をスタンドに向けたまま、拳を膝の上で固く握っている。

 

「……ミラクルの様子は、どうだった?」

 

掠れたような声。

言葉を選びかねているのが伝わってくる。

 

「その……とても張りつめていて……。……なんて声をかければいいか、分かりませんでした……」

 

「そうか……」

 

彼の短い呟きが、妙に重く響いた。

返答できなかったことがひどく申し訳なく思えてしまう。

 

「……ごめんなさい。……うまく聞けなくて」

 

「いやいや!君が謝る必要はないよ」

 

早瀬トレーナーはわずかに笑みを見せ、首を横に振った。

けれどその手は、まだ固く握られたままだ。

 

「……とりあえず今は、ミラクルが無事に帰ってくることを祈ろう」

 

「……そうですね」

 

互いにうつむいたまま、沈黙が落ちる。

遠くで鳴る場内アナウンスだけが、静かな空気を震わせていた。

 

……

 

『ゲートイン完了……各ウマ娘、態勢整いました!』

 

ガコンッ!!

 

『スタートしました! ほぼ揃ってのスタート!』

 

ゲートが開いた瞬間、空気が弾け飛ぶ。蹄鉄の音が大地を叩き、地響きのように広がっていく。

ミラクルさんは中段、やや後ろ寄り。落ち着いた入りに見えるが、その肩には張り詰めた力が宿っているように見えた。

 

『内から果敢に1番! ハナを奪ってリードは1バ身から2バ身ほど!』

 

序盤から先頭は飛ばす。観客の歓声も大きくなる。

かなり早めの流れ。けれどミラクルさんの脚は乱れていない。

 

『3バ身、4バ身下がりまして11番、さらにはケイエスミラクル!』

 

中団の群れの中、彼女の姿を見つける。

確実に脚を溜めて前を窺っている。位置取りは悪くない。それどころか、じわじわと前に、着実に食らいついていた。

 

『第4コーナー中間を通過して第4コーナーへと向かいます! 先頭は変わらず1番! リードはクビ差ほど!』

 

「……っ」

 

手に汗が滲む。心臓がうるさい。

その背中を必死に目で追う。

 

『さあ第4コーナーを通過して最終直線へと迫る! ケイエスミラクルが4番手ぐらいに上がってきた!』

 

スタンドが大きく揺れる。耳を塞ぎたくなるほどの歓声が轟く中、ミラクルさんは先頭集団のすぐ後ろに取りついていた。

もう少し……あと少しだから……!

 

私は合わせている手に力を込め、祈るように目を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──しかし。

 

「ッ!?」

 

『おっと、13番ケイエスミラクル! 故障発生だッ!!』

 

一瞬で、世界の音が崩れ落ちた。

 

耳を震わせていた歓声も、鋭い実況の声も、遠くへと溶けていく。

 

──時間が、遅くなっていく。

 

 

芝が舞い上がるひとつひとつまでが、はっきりと見えるほどに。

 

 

心臓の鼓動すら、重たく引き延ばされて響く。

 

 

気づけば、私はその流れに呑み込まれていた。

 

 

 

現実は水面のように遠ざかり、代わりに胸の奥底で凍りついた記憶へと沈み込む。

 

 

 

………………

 

 

 

…………

 

 

 

……

 

視界が揺れる。

 

地面に叩きつけられた衝撃が、全身を震わせる。

 

足が……動かない。

 

喉に広がる鉄の味。

 

顔を上げようとしても、重たい靄が頭を締めつけ、前が見えない。

 

遠くから、誰かの足音が近づいてくる。

 

そして、冷たい声が落ちてきた。

 

「……まだ、走れるだろう」

 

「おまえの力は、こんなもんじゃない」

 

 

 

その声が胸を突き刺した瞬間──

 

 

 

現実が、波のように押し返してきた。

引き延ばされていた時間が一気に弾け、耳の奥に轟音が戻ってくる。

視界の色が急激に濃くなり、芝と匂いが鼻を突いた。

 

でも今は私の記憶なんてどうでもいい。

あのときの痛みも、あのときの恐怖も。

目の前にいる彼女のことだけが、すべてだった。

 

「「ミラクルッ!!/ミラクルさんッ!!」」

 

私とトレーナーは同時に叫ぶ。

考えるより先に体が動いていた。ミラクルさんのもとへ駆け寄る。

 

「左脚ッ! 左脚を支えるんだ!!」

 

私は早瀬トレーナーに言われるがまま、彼女の左脚をそっと支え、地面に寝かせる。

その感触が、ひどく生々しく、怖かった。

 

「ミラクル……さん……!」

 

「……っ。ユー、フォリア……さん……。トレーナー……さん……。……ごめん……おれ……奇跡、起こせなかった……」

 

「いい、喋らないでください! すぐに救護が……!」

 

私は叫ぶ。けれどミラクルさんは、ゆっくりと首を横に振った。

 

「おれ……ユーフォリアさんと出会えて、幸せだったよ……」

 

「……ッ! そんなことッ! 言わないでくださいよ!」

 

涙が視界を揺らす。

声が裏返っても、構わずに叫ぶ。

 

彼女は続きの言葉を、かすかに笑いながら続けた。

 

「……リア、さん……。おれと……出会ってくれて、ありがとう……」

 

「馬鹿なことを言うなッ!!」

 

掠れた声が、横から絞り出される。

私が振り向くと、早瀬トレーナーは歯を食いしばり、震える声で言葉を紡いでいた。

 

「まだ……まだ何も終わっちゃいない! 控室で約束、しただろ……!! だから、生きてくれ……生きてくれよ、ミラクルッ!!」

 

その叫びは涙に濡れて、震えていて、それでも力強かった。

ミラクルさんはわずかに目を細め、唇を動かした。

 

「……トレーナーさん……。あり、がと……」

 

「退いてください! 救護です!」

 

救護員の声が割って入る。

でも、私は彼女の手を離せずにいた。

ただその指先の温もりだけを、必死に確かめていた。

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