スマホで書けって? ぐうの音も出ないです……。
夕暮れのトラックには、まだ走り終えたばかりの熱気が残っていた。
汗を拭ったタオルを肩にかけたまま、私は軽く息を整える。トレーナーさんは片付けに向かい、そのまま解散の流れになった。──そのとき。
「……ユーフォリアさん」
背後からかけられた声に振り向くと、そこには早瀬トレーナーが立っていた。
いつもとは違う、影の差す横顔。迷いと疲れをそのまま抱え込んだような瞳が、まっすぐにこちらを射抜いている。
「……少し、いいですか」
言葉を選ぶように区切りながら、彼は続ける。
「ここじゃ……話しづらいので」
私はうなずいた。胸の奥が小さくざわめく。
──ただならぬ気配。きっと、ミラクルさんのことだ。
人気のない校舎裏に移ったとき、早瀬トレーナーは深く息を吐いた。
何かを押し殺すように視線を落とし、それから搾り出すように告げる。
「……止められませんでした。……ミラクルのことを」
「……ぇ……」
一瞬、耳が信じられなかった。
「……今、なんて……」
その声が、自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。
答えを恐れるように問い返した私を見て、早瀬トレーナーは唇を噛む。
「……すまない」
その一連の言葉を理解していくうちに、空気が一気に冷え込んだように感じる。
早瀬トレーナーは拳を固く握りしめ、影に沈んだ顔をこちらへ向ける。
「君の意見を……蔑ろにしてしまった。あの時、止められなかったのは……俺だ」
その言葉は、後悔の色を濃く滲ませていた。
それと同時に、それでも背負うと決めている人の声だった。
「──この責任は、俺が果たす。だから……」
責任。
その言葉が胸の奥でひどく重く響いた。
「責任って……」
自分の口から零れ落ちたその声はひどく掠れていた。
「……もし、ミラクルさんが……」
それ以上は言葉にならなかった。
喉が詰まり、続きがどうしても出てこない。
頭の中には、最悪の光景がいやというほど鮮やかに浮かぶのに。
「……っ、わかってる」
一拍の沈黙。
その後で、押し殺すような声が落ちた。
「……そうなっても、だ」
その表情は、痛ましいほどに険しかった。
覚悟の光が宿っていて、けれどその裏側で、砕けそうなほどの不安が透けて見えた。
その様子から繰り出された彼の言葉が刃のように胸を刺し、私の心臓が強く跳ねさせる。
……嫌だ。こんなの、絶対に。
──間違っている。
けれど声は、喉の奥で凍りついたまま動かなかった。
これ以上声を出せば、彼を責めてしまう。
叫べば、彼を突き放してしまう。
……止めなければ、ミラクルさんを……。……ただ、止める方法はもう存在しない。
夕暮れはすでに夜の色をまとい始めていて、校舎裏にかかる影は濃く深く伸びていた。
私たちの間に落ちた沈黙は、その影よりもずっと重くのしかかっていた。
──逃げ場は、どこにもない。
~スプリンターズステークス直前・控室~
控室の空気は、張り詰めた糸のように重たかった。
椅子に腰掛けたミラクルさんは、静かに目を閉じて呼吸を整えている。
その隣で、早瀬トレーナーは深く腰を落とし、拳を握っていた。
「……ミラクル」
彼は低く呼びかけ、真剣な眼差しを向ける。呼ばれた彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「約束だ。……絶対に、無事に帰ってきてくれ」
短く、けれど全身を賭けるような言葉だった。
ミラクルさんはゆっくりと目を開け、ふっと微笑む。
「……はい。……必ず」
その一瞬のやり取りが、私の胸を強く締めつけた。
重さを孕んだ言葉は、どこか不吉な響きを持っていたから。
──そのとき、控室の扉が小さく叩かれた。
「失礼します。ケイエスミラクルのトレーナーさん、少しいいですか」
「……分かりました」
彼は一度だけ私と視線を交わし、すぐに立ち上がった。
そして何も続けず、扉の向こうへと消えていった。
静寂が落ちる。
さっきまで張り詰めていた空気が、逆にやけに広く感じられる。
残されたのは、私とミラクルさんだけ。
彼女はしばし瞼を伏せ、静かに息を吐いた。
それからもう一度こちらを見て──
「……ユーフォリアさん」
ぽつりと呼ばれた声に、心臓が跳ねた。
顔を上げた先で、ミラクルさんはまっすぐにこちらを見ていた。
決意と、どこか儚さを含んだ瞳で。
「……おれ、必ず奇跡を起こします」
その言葉は、強い光を帯びて胸に飛び込んでくる。
けれど同時に、胸の奥をざわめかせる影も落とした。
「……ミラクルさん……」
彼女がそう言っても私は何も言えず、ただただ不安な気持ちに埋もれていた。
何か言わなくちゃ。そう思うのに、声が詰まる。
伝えたいことが多すぎて、けれど言葉に変えると全部が壊れてしまいそうで。
「その……私も、信じたいんです。だから……」
搾り出した声は、情けないほどに震えていた。
「私とも、約束してください。帰ってくるって」
私の精一杯は、たったそれだけだった。既に、早瀬トレーナーが言った言葉。
「っ……」
一瞬、彼女の瞳が揺れる。
けれどすぐに、いつもの笑みで覆い隠してみせた。
「……うん、もちろんだよ」
そう言ってミラクルさんは立ち上がり、ドアノブに手をかける。
その背に、私は無意識に指先を握りしめていた。
………………
私はレース関係者の席に向かい、早瀬トレーナーの隣に腰を下ろした。
彼は視線をスタンドに向けたまま、拳を膝の上で固く握っている。
「……ミラクルの様子は、どうだった?」
掠れたような声。
言葉を選びかねているのが伝わってくる。
「その……とても張りつめていて……。……なんて声をかければいいか、分かりませんでした……」
「そうか……」
彼の短い呟きが、妙に重く響いた。
返答できなかったことがひどく申し訳なく思えてしまう。
「……ごめんなさい。……うまく聞けなくて」
「いやいや!君が謝る必要はないよ」
早瀬トレーナーはわずかに笑みを見せ、首を横に振った。
けれどその手は、まだ固く握られたままだ。
「……とりあえず今は、ミラクルが無事に帰ってくることを祈ろう」
「……そうですね」
互いにうつむいたまま、沈黙が落ちる。
遠くで鳴る場内アナウンスだけが、静かな空気を震わせていた。
……
『ゲートイン完了……各ウマ娘、態勢整いました!』
ガコンッ!!
『スタートしました! ほぼ揃ってのスタート!』
ゲートが開いた瞬間、空気が弾け飛ぶ。蹄鉄の音が大地を叩き、地響きのように広がっていく。
ミラクルさんは中段、やや後ろ寄り。落ち着いた入りに見えるが、その肩には張り詰めた力が宿っているように見えた。
『内から果敢に1番! ハナを奪ってリードは1バ身から2バ身ほど!』
序盤から先頭は飛ばす。観客の歓声も大きくなる。
かなり早めの流れ。けれどミラクルさんの脚は乱れていない。
『3バ身、4バ身下がりまして11番、さらにはケイエスミラクル!』
中団の群れの中、彼女の姿を見つける。
確実に脚を溜めて前を窺っている。位置取りは悪くない。それどころか、じわじわと前に、着実に食らいついていた。
『第4コーナー中間を通過して第4コーナーへと向かいます! 先頭は変わらず1番! リードはクビ差ほど!』
「……っ」
手に汗が滲む。心臓がうるさい。
その背中を必死に目で追う。
『さあ第4コーナーを通過して最終直線へと迫る! ケイエスミラクルが4番手ぐらいに上がってきた!』
スタンドが大きく揺れる。耳を塞ぎたくなるほどの歓声が轟く中、ミラクルさんは先頭集団のすぐ後ろに取りついていた。
もう少し……あと少しだから……!
私は合わせている手に力を込め、祈るように目を見開いた。
──しかし。
「ッ!?」
『おっと、13番ケイエスミラクル! 故障発生だッ!!』
一瞬で、世界の音が崩れ落ちた。
耳を震わせていた歓声も、鋭い実況の声も、遠くへと溶けていく。
──時間が、遅くなっていく。
芝が舞い上がるひとつひとつまでが、はっきりと見えるほどに。
心臓の鼓動すら、重たく引き延ばされて響く。
気づけば、私はその流れに呑み込まれていた。
現実は水面のように遠ざかり、代わりに胸の奥底で凍りついた記憶へと沈み込む。
………………
…………
……
視界が揺れる。
地面に叩きつけられた衝撃が、全身を震わせる。
足が……動かない。
喉に広がる鉄の味。
顔を上げようとしても、重たい靄が頭を締めつけ、前が見えない。
遠くから、誰かの足音が近づいてくる。
そして、冷たい声が落ちてきた。
「……まだ、走れるだろう」
「おまえの力は、こんなもんじゃない」
その声が胸を突き刺した瞬間──
現実が、波のように押し返してきた。
引き延ばされていた時間が一気に弾け、耳の奥に轟音が戻ってくる。
視界の色が急激に濃くなり、芝と匂いが鼻を突いた。
でも今は私の記憶なんてどうでもいい。
あのときの痛みも、あのときの恐怖も。
目の前にいる彼女のことだけが、すべてだった。
「「ミラクルッ!!/ミラクルさんッ!!」」
私とトレーナーは同時に叫ぶ。
考えるより先に体が動いていた。ミラクルさんのもとへ駆け寄る。
「左脚ッ! 左脚を支えるんだ!!」
私は早瀬トレーナーに言われるがまま、彼女の左脚をそっと支え、地面に寝かせる。
その感触が、ひどく生々しく、怖かった。
「ミラクル……さん……!」
「……っ。ユー、フォリア……さん……。トレーナー……さん……。……ごめん……おれ……奇跡、起こせなかった……」
「いい、喋らないでください! すぐに救護が……!」
私は叫ぶ。けれどミラクルさんは、ゆっくりと首を横に振った。
「おれ……ユーフォリアさんと出会えて、幸せだったよ……」
「……ッ! そんなことッ! 言わないでくださいよ!」
涙が視界を揺らす。
声が裏返っても、構わずに叫ぶ。
彼女は続きの言葉を、かすかに笑いながら続けた。
「……リア、さん……。おれと……出会ってくれて、ありがとう……」
「馬鹿なことを言うなッ!!」
掠れた声が、横から絞り出される。
私が振り向くと、早瀬トレーナーは歯を食いしばり、震える声で言葉を紡いでいた。
「まだ……まだ何も終わっちゃいない! 控室で約束、しただろ……!! だから、生きてくれ……生きてくれよ、ミラクルッ!!」
その叫びは涙に濡れて、震えていて、それでも力強かった。
ミラクルさんはわずかに目を細め、唇を動かした。
「……トレーナーさん……。あり、がと……」
「退いてください! 救護です!」
救護員の声が割って入る。
でも、私は彼女の手を離せずにいた。
ただその指先の温もりだけを、必死に確かめていた。