そしたらついに出してきたあの概念ですよ(ネタバレ防止)。
そして改めて報告。『Ep.31 秋の光、遠い影』のレース中の表現を一部変更しました。
今後にかなり関わってくる変更をしてしまったことを、
この場を借りてお詫びします。申し訳ありませんでした。
翌日の教室はいつもより少し静かだった。
カーテンの隙間から差し込む光が、机の上のノートを淡く照らしている。黒板には先生の字が並び、生徒たちのシャーペンの音だけが一定のリズムで響いている。
私はその音を聞きながらぼんやりと空を見ていた。ふと、この前のレースのことを思い出す。
(……どうして、あんなに恐ろしく感じんだろう)
──あの瞬間の風、歓声、そして背後の気配。
どれも、忘れようとしても消えない。
けれど今はもう焦りや不安じゃない。ただの胸の奥に淡く残る残響のようなものだった。
先生が黒板を向いたままさらさらと文字を書き続ける。
私はその音を聞きながら、不意に自分の指先を見つめた。
シャーペンの芯が欠けて、細い粉がノートに散っていた。
それをそっと指で払う。
けれど、白いページと私の指先に薄く跡が残ってしまった。
ほんの少し触れただけなのに、完全には消えない。
(……やっぱり、こういうのって残るんだ)
胸の奥が、かすかに冷える。肩先がぞくりと震える。
誰にも言えない影の気配が、私の背後にじわじわと近づいてくる。
その気配に意識が引き寄せられそうになった瞬間、
──チャイムが鳴って、教室の空気が揺れた。
「じゃあ、ここまでを宿題にしておくぞ」
それとほぼ同時に放たれた先生の声で我に返る。教科書を閉じる音が一斉に響き、空気が緩む。
席を立ちながら外を見ると、校庭の木々が風に揺れていた。
その葉がゆっくりと舞い落ちていく様子をしばらく見つめていた。
5限目が終わった後、トレーナー室のドアをノックするといつもの穏やかな声が返ってきた。
「どうぞー」
中に入ると、トレーナーさんは机の上にレース日程の書類を広げていた。
その横にはペンとカップが置かれていて、いつものコーヒーの香りが漂っている。
淹れたてなのか普段より少しだけ香りが強かった。
「お疲れ。授業、どうだった?」
「えっと……普通でした。……まあ、5限目はちょっと眠くなりましたけど」
思わず笑うと、トレーナーさんも小さく笑ってくれる。
その表情が柔らかくて胸の奥が少し軽くなった。
「それでな、この前『様子を見て葉牡丹賞、ホープフルステークスに出るか決めよう』って言ったじゃん?」
「はい。……決まったんですか?」
彼は書類から視線を上げ私の方を見た。
「うん。葉牡丹賞はやめておこうって思ってるんだ」
「……え?」
一瞬、意外で声が漏れた。
でも、すぐに彼が何かを考え抜いた上での言葉だと分かる。
「この予定だとレースの間隔が少し詰まる。体調は問題ないけど、詰め込みすぎると疲労が抜けきらないままホープフルに入ってしまう」
そう言って彼は穏やかに笑った。
疲れてる自覚は、あまりない。
でもトレーナーさんがそう言うなら、きっと私は気づいてないだけなんだろう──そんな風に思えた。
「焦る必要はない。アルテミスで十分すぎる結果を出してるし、今の君なら少し休んで調整に回った方がいい」
「……分かりました」
返事をしながら、胸の奥がゆるやかに温かくなった。
トレーナーさんはちゃんと見てくれている。
私の走りだけじゃなくて私自身の細かい変化も。
トレーナーさんは少し姿勢を崩して書類を閉じる。
「次の調整ではフォームを中心に見直していこう。ユーフォリアの走りは綺麗だけど、後半で少し肩に力が入ることがある。そこを抜ければ、もっと長い距離にも対応できる」
「わかりました。……ホープフルに向けて、がんばります」
「うん。それでいい。お前の今の調子なら十分に狙える。焦らなくていいんだ」
「はい」
短く答えると彼は静かに笑った。
その笑顔を見ていると私もようやく肩の力を抜けたように感じた。
「じゃあ、今日は軽く脚だけ動かしておくか。フォームも見たいし」
「はい」
トレーナー室を出ると外の空気は少しだけひんやりしていた。
私はそのまま更衣室へ向かい、制服を畳んでジャージに着替える。
鏡越しに息を整えてから外のトラックへ歩いていった。
午後のトラックはちょうど練習が始まる時間帯でそこそこの賑わいがあった。
誰かが地面を蹴る音、スタートの掛け声、風を切る足音。
それらが混ざり合って独特のリズムを作っている。
私はその横を通り抜け、軽く準備運動をしながらトラックに入っていった。
「じゃ、いつもの流れで。最初はゆっくりでいい」
「はい」
軽く息を吸って走り出す。
地面を蹴るたびに昼間の教室で感じていた重さが少しずつ溶けていく。
──練習で走っている時は、何も異常は無いのに。
レースの後半。あの風景。
背後の気配が迫ってくるような、あの瞬間。
しばらくするとトレーナーさんの声が飛んできた。
「ユーフォリア、右肩ちょっと上がってるぞー。もう少し楽に」
「っ……はい!」
肩を落とし腕の振りを柔らかくする。
すると、自分でも驚くほど呼吸が軽くなった。
(……やっぱり、ちゃんと見てくれてる)
一周、二周と重ねるうちに身体が自然と馴染んでいった。
動きは特別速くも力強くもないのに妙にしっくりくる。
走り終えてトレーナーさんのところに戻ると、彼はメモを取りながら満足そうに頷いていた。
「うん、今の感じなら問題ないな。ちゃんと仕上がってるよ」
「そう、ですか……?」
「もちろん。もっと自信を持っていい」
ぽん、と軽く頭を撫でられた。
本当に軽く、風が触れた程度の重さなのに、胸まで響く。
「ぁ……」
小さく言葉が漏れた瞬間、耳の先がじんわり熱くなるのがわかる。
思わず目を伏せると、トレーナーさんは何事もなかったように手を離してトラックの方へ視線を向けた。
「……ホープフルの前にもう一段階だけ負荷を上げる調整を入れるつもりだ。だけど、それは君の様子見て決める。大丈夫、無理はさせない」
「……はい。お願いします」
自然と背筋が伸びる。
トレーナーさんがそう言うなら、大丈夫だと思えた。
……
その後も姿勢を整える走りをしていると、しばらくして解散となり夕方の風が頬をかすめた。
更衣室から出た後、トレーナー室の灯りを背に歩き出したところでふと振り返る。
窓の向こうで彼はまだ何か書類を見ていた。
ペン先が動く音は聞こえないのに、なぜかとても近くに感じる。
(……ちゃんと、支えられてるんだな)
胸の奥がまたひとつ温かくなる。
でも、そのまま歩き出そうとした瞬間──
背中のどこかが、ほんの少しだけ冷えた。
名前も形もわからない、薄い影の気配。
昼間、教室で感じたものと同じもの。
(……まだ、消えてない)
それでも足は止めなかった。
遠くの夕焼けが校舎の窓に反射して光が揺れている。
「……大丈夫。私なら」
小さく呟いて、寮へと歩いた。
日常は静かで、温かい。
けれど、そのすぐ横で、まだ動き始めていない時間が息を潜めている──そんな気がした。