もしかしたらこれのせいでEp.35が遅れるとかいう事態になるかもしれません、ゆるして。
今日のトレセン学園は、冬の匂いが濃い。
窓の向こうでは薄い陽が差しているのに、風だけはやけに冷たくて、書類に触れる指先までじんと硬くする。
ユーフォリアは授業。
だから、この時間のトレーナー室は静かで、紙の擦れる音だけが続いていた。
「……よし、これで午前分はあと少し」
積み上げた書類の山──3センチ弱。最近にしては"マシ"と呼べる量をひたすら片付けていたときだった。
束の中に、1枚だけ質の違う紙が挟まっているのに気づいた。
「……ん?」
見覚えのない、普通より少しだけ厚い紙。
差し込む光を反射して、机の上で少しだけ浮いて見える。
その紙を目を通した瞬間、息が止まった。
『勝負服意匠申請書』
「……あ」
そのタイトルを見た瞬間、背中が冷たくなった。
ホープフルまで──もう時間がない。
完全に頭から抜けていた。
いや、どこかで「いつかやらないと」と思っていた気もする。
思ってはいた……はずなのに、今日まで手を付けていなかった。
俺は書類を指先で整えながら、息をゆっくり吐いた。
ユーフォリアにとって、初めての"自分だけの勝負服"。
本当ならもっと早く、余裕を持って一緒に考えるべきだった。
「……やっちゃったな、これは」
背もたれに沈み込み、静かに息を吐くと、教室にいるユーフォリアの顔が脳裏に浮かんだ。
驚くだろうか、困るだろうか。
それでも、きっと笑ってくれる気がして……それが余計に胸に刺さる。
気を取り直し、紙を丁寧に揃えた。
午後になったら、ちゃんと話をしよう。
謝って、相談して……一緒に決めればいい。
「よし。午後、ちゃんと時間を取ろう」
小さく呟き、いつもの業務に戻った。
目の前の書類の文字はしっかり読めているのに、頭のどこかではあの紙のことばかり考えていた。
………………
…………
……
午後。
授業を終えてトレーナー室の扉を開けると、空気が普段と違っていた。
トレーナーさんが机に向かっている。
その姿はいつも通りだけど、なぜか少しだけ固く見えた。
「……お疲れさま、ユーフォリア」
顔を上げた彼は、なぜだか申し訳なさそうに笑った。
「えっと……どうか、しましたか?」
ソファに座る前にそう聞いてしまうくらいには、その空気ははっきりと伝わってきた。
「……これ、なんだけど」
「これ……?」
トレーナーさんは、机に置いていた一枚の紙をそっと持ち上げた。
『勝負服意匠申請書』
その文字を読むまで、心臓が跳ねた。
「勝負服、の……」
「……すまない、完全に抜けてた。本当ならもっと前に、一緒に考えるべきだったのに」
謝られた瞬間、なぜか少し笑いそうになった。
怒りとか失望とか、そういうのじゃない。
ただ「ああ、トレーナーさんらしいな」と、そんな風に思えてしまって。
「……ふふ、大丈夫ですよ。今から、一緒にやればいいんですよね?」
ほんの少しだけ笑って言うと、彼の肩の力が抜けるのが分かった。
「ああ。……ありがとう。じゃあ、デザインを考えてみようか」
紙を広げると、余白がやけに真っ白で、
そこに"私だけの勝負服"が描かれると思っただけで、胸の奥がじんと熱くなる。
どんな色が似合うんだろう。
どんな線なら、私が私に見えるんだろう。
──記憶がなかった頃の私は、何を着て走っていたんだろう……?
ペン先を走らせては止まり、止まっては戸惑って。
そのくり返しの合間に、胸の奥で小さなざわめきが揺れる。
理由はわからないけれど"この形にしたい""こっちの線がしっくりくる"
そんな直感だけが、ぽつりぽつりと浮かんできた。
私の手が迷ったとき、隣でトレーナーさんが静かに言った。
「正解なんてない。……伝えたいものを服に落としこむっていうかさ。極論、ユーフォリアが着たいと思えるなら、それでいい」
たった一言なのに、胸の霧が少し晴れたような気がした。
私は深く息を吸って、またペンを握る。
私の走る姿。
私が見つけた"今の私"。
そのイメージを、ゆっくりと白い紙の上に落としていった。
白と黒。
小さな歯車の髪飾り。
近未来めいたスカウターのような飾り。
スカウターとか歯車なんて、好きだった覚えはないのに。
でも、どうしてだろう……置かないと落ち着かない。
「…………」
最後の線を置いたとき、肩からふっと力が抜けた。
「……できました」
そっとスケッチを差し出すと、
トレーナーさんは小さく息を呑み、目を細めながら紙を受け取った。
「うん……いいと思う。これなら職人さんも文句言わないだろう」
トレーナーさんは、腕を組みながら私の描いた紙を覗き込んでいた。
「こことか、こういうラインは意図があるのか? ……いや、別に説明しろってわけじゃなくてな」
慌てて付け足す声が、少しおかしくて、少し安心する。
「……うまく言えないんです。理由はないんですけど……でも、こうした方が"しっくりくる"気がして」
「なるほどな」
彼は穏やかにうなずき、どこか安心したように笑った。
「感覚で一番しっくりくるなら、それでいいさ。勝負服はその子らしさが出るもんなんだから」
その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。
「じゃあ……すぐに持っていこう」
トレーナーさんはスケッチを丁寧にクリアファイルへ挟み込み、静かに立ち上がった。
…………
学園の外れにある小さな工房は、夕方の陽を吸い込むようにひっそりしていた。
ノックをすると、油と布の匂いをまとった職人さんが顔を出す。
目つきは鋭いけれど、その奥にある色は不思議と嫌ではない。
「……ん? お前ら、今日は何の用だ」
渡辺トレーナーさんが一歩前に出る。
「ホープフルに……勝負服を間に合わせたいんです」
「……ホープフル?」
分厚い眉が跳ね上がった。
そのまま、短く鼻で息を鳴らす。
「おいおい……今、何日だと思ってる。──15日もねぇぞ」
その数字が落とされた瞬間、私は反射的に背筋が伸びた。
隣で渡辺トレーナーさんが深く頭を下げる。
「すみません。本当に、間に合わないのは分かってます。でも……それでも、どうしても」
謝罪だけじゃなくて、どこか"頼る"みたいな声だった。
職人さんはそんな彼を真正面から見つめ、しばし無言の時間が落ちた。
その後、ため息をゆっくり吐きながら手だけを差し出す。
「……案を見せな。ダメならダメと言うからな」
緊張で少し震える指で、私はスケッチを差し出した。
職人さんは一言も発さず、それをじっくり見ていく。
線の流れを追う指が、ほんの一瞬だけ止まった。
そして──。
「……なるほど。お前の線、悪くねぇな」
それは怒気でも妥協でもなく、職人としての率直な評価に聞こえた。
「無茶は無茶だ。ただ……このデザインなら、詰めりゃ形にはできる」
「本当ですか……!」
渡辺トレーナーさんの声が上ずる。
その横で私の胸の奥にも、きゅっと熱いものが灯った。
「ただし条件がある。採寸は今日中に全部やるぞ。俺は今から素材を見に行く。──寸法のメモはここに置いとく。測り忘れたら知らんからな」
淡々と言い残し、上着を掴んで足早に出ていく。
けれどその背中には、どこか頼もしさがあった。
扉が閉まると、工房には私たちだけが残った。
…………
「じゃあ……始めようか。悪いな、俺がやるしかなくて」
「いえ。お願いします」
メジャーが首筋に触れた瞬間、ひやりとした。
トレーナーさんの手は丁寧だけど、指先だけがほんの少し硬い。
緊張しているのは私だけじゃないと分かった。
彼は慎重すぎるほど丁寧に測っていく。
肩幅。
胸囲。
腰の位置。
腕、脚の長さ。
測るたびに、距離が近くなる。息の音さえ分かるくらいに。
トレーナーさんは必要以上に触れないようにしているのが分かる。
けれど、どうしても一瞬だけためらう手つきがあって、その小さな呼吸の揺れが胸の奥に残った。
「動かないで……そう、そのまま」
声は静かで、けれどどこか優しい。
私は息を整え、メジャーがそっと体に沿っていくのを感じていた。
「……よし、終わった」
メジャーを巻き取りながら、彼は申し訳なさそうに笑う。
「本当にごめん。バタバタしたままで」
「……大丈夫です。むしろ……その、ありがとうございました」
言い終えると、胸の奥がじんわり熱くなった。
「私……楽しみです。どんな服になるのか」
トレーナーさんは一瞬だけ目を丸くして、すぐに柔らかい表情に変わった。
「……俺もだよ」
…………
工房を出ると、夕日が斜めに差し込んでいた。
冬の光は弱いのに、どうしてか少しあたたかく感じる。
二人並んで歩く帰り道。
まだ見ぬ勝負服のことを思うと、自然と足取りが軽くなった。
「……私のための服、なんですね」
言うと、トレーナーさんは少しだけ照れたように笑った。
「そうだよ。お前が走る日のための……世界に1つだけの服だ」
その言葉が、ゆっくりと胸に落ちていく。
私は空を見上げた。
今日の夕暮れは、やけに優しい色をしていて──。
まるで新しい景色が、すぐそこまで来ているように思えた。