冬の空気が頬を刺す、夕方のひとときだった。
私たちは学園から少し離れた、静かなカフェの窓際の席に座っていた。ホープフルステークスまであとわずか。トレーナーさんとの調整トレーニングは順調に進んでいると、自分でも実感できている。そして、あのデザインを職人さんに託したばかりの勝負服の制作も、なんとか間に合いそうだという。
「リアさんの勝負服、楽しみだなぁ」
ラサさんは温かい紅茶のカップを両手で包みながら、ふっと微笑んだ。
「デザイン画を初めて見たとき、思わず息を呑んじゃいました。とっても、リアさんに似合ってるなって」
「ふふ、ありがとうございます。ラサさんの言葉を聞くと、なんだか勇気が出ます」
私は自分のカップから立ち上る湯気をそっと眺めた。ラサさんがこのお出かけを誘ってくれたのは、ホープフルステークス前の"息抜き"としてだった。彼女はいつも、私を気遣ってくれる。
でも、今日のラサさんは、どこか違っていた。
誘ってくれたのは彼女なのに、会話の端々で、ふと手が止まる。紅茶を飲むためにカップを持ち上げたかと思えば、そのまま遠くの窓の外を見つめてしまう。
その目は、まるで何かを待っているように静かだった。誰かに背中を押される瞬間を待っているように。
「……ラサさん?」
「あ、ご、ごめんなさい! どうしたんですか?」
慌ててこちらに顔を戻すその笑顔は、いつもの明るいラサさんそのものだった。だけど、その目の奥に、私はわずかな"影"が沈んでいるのを感じた。
(この感じ……なんだろう)
それは、ミラクルさんが夏合宿の頃に見せた、どこか遠くに行ってしまいそうな眼差しに似ていた。
「……? リアさん、どうかしましたか?」
ラサさんが心配そうに尋ねる。
「いえ、大丈夫です。ただ、ラサさん……最近、少し無理をしていませんか?」
そう尋ねると、彼女の瞳が一瞬大きく揺らいだ。すぐに目を伏せて、ティーカップの模様を指先でなぞり始める。
「……そんなこと、ないですよ。ただ、年末になってきて……なんとなく、落ち着かなくて」
そう言ったラサさんの声は、少しだけ震えていた。その震えが、隠されている真実を伝えているように思えてならなかった。
(ラサさん……何か、抱え込んでいる)
尋ねるべきか迷って言葉を飲み込んだ瞬間、ラサさんがそっと顔を上げた。窓の外は、少しずつ夕闇が空を染め始めていた。カフェの中の暖かな光とは対照的に、外の景色は冬の冷たさを増している。
「あのね、リアさん」
ラサさんは少しだけ声を落として、まるで秘密を打ち明けるように言った。
「私……お気に入りの場所があるんです。星が綺麗に見える場所で……。夜になるにはもうちょっとだけ時間がかかるけど、もしよかったら、そこへ一緒に行きませんか?」
彼女の瞳は、夕闇の光を吸い込んで強く輝いていた。
「そこに行けば、きっと……話せると思うから」
その声は、何か大切な決意を固めた後のように、静かでまっすぐだった。
「……はい。行きましょう、ラサさん」
そう返すとラサさんはほんの少しだけ表情を緩めた。
冬の並木道が、これから向かう静かな場所への道しるべみたいに淡く光っていた。
……
カフェを出てから歩き続けて、どれくらい経っただろう。
街の灯りが遠ざるたび、空気はゆっくりと身を締めるように冷たくなっていった。
足元には、冬枯れの落ち葉が淡く積もっている。
踏むたびに、サク、サク、と乾いた音が静寂の中に吸い込まれていく。
「……もう少しです」
ラサさんの声は、吐いた白い息の中へ溶けていくように小さかった。
私たちは並んで歩いていたけれど、互いにほとんど言葉は交わさなかった。
ただ、遠くから聞こえる街のざわめきが少しずつ薄れるたびに、胸の奥でラサさんの『これから話す何か』が輪郭を持ち始めていくのがわかった。
冬の山道は、余計なものを全部凍らせてしまったみたいに静かで、足音だけが世界に残された唯一のリズムみたいに響いていた。
やがて、視界が少し開けた場所へたどり着いた。
山の中腹、遠くの街の光が、夜になる直前の空に淡く滲んでいる。
ラサさんは、そこでふと立ち止まった。
「……ここです。ここが、私のお気に入りの場所です」
その声には、どこか覚悟のような響きがあった。
私たちは並んで柵のそばに立つ。
街の灯りが遠くに揺れていて、まるで別の世界を眺めているみたいだった。
しばらく沈黙が続いたのち、ラサさんが小さく息を吸った。
「……私、ずっと姉の背中を追ってたんです」
その言葉は、雪が落ちるみたいに静かだった。
「私の姉は……秀才でした。私とは違って、走ることに何の迷いもなかった。誰よりも才能があって、誰よりも速かった」,
そこで一度言葉を切り、息を吸う。
その沈黙の中で、ラサさんの記憶が遠くへ遡っていくのを感じた。
「……けれど、姉はレース中に……故障して、引退しました」
私は小さく息を呑んだ。
あのスプリンターズSでミラクルさんが倒れた時の光景が、一瞬、胸をよぎる。
「……その瞬間を、私は見ていました。歓声が……一瞬で、全部、消えたんです」
「まるで、何かがひび割れるような。冷たい音だけが、最後に残って……」
ラサさんはそこで言葉を区切った。目を閉じている。その顔には、今もその時の音が響いているように見えた。
「それから……家の空気も、周囲の視線も、全部変わりました」
風が木々を揺らす。
その音が急にひどく冷たく感じられた。
「"どうしてあなたじゃなかったの"って……直接言われたわけじゃありません。でも、言葉の外側に……そういう気配がずっとあったんです」
「学園に入っても同じでした。"姉ほどじゃないね"って……言われるたび、わかってたのに。私は、姉にはなれないのに」
語りながらもラサさんの声は淡々としていた。
その淡さが逆に胸を刺した。
「そうしてるうちに……いつしか、走ることが姉の代わりになるための"義務"みたいになってて。自分の走ってる理由が、どこにも無かったんです」
ラサさんはわずかに笑った。
泣くよりずっと、苦しい笑顔だった。
「自分の速さなんて、信じたことがないんです。勝っても、褒められても……違うって思ってしまって」
私は何も言えなかった。言ってはいけない気がした。
ただ、ラサさんの隣に立ち、その声の行き着く先を黙って待った。
冬の風が枝の間を通り抜けていく。
その音の方が私たちの言葉より大きく聞こえた。
「ユーフォリアさんを見ていると……思い出すんです」
ラサさんは、ようやくこちらに振り向いた。
その瞳には、夕闇の光と、隠しきれない痛みが重なっていた。
「姉の、あの綺麗で……届かなかった走りに似てるような気がして」
胸の奥がきゅっと縮む。
「だから、憧れて。羨ましくて。……時々、怖くなるんです」
思わず、胸の奥が軋んだ。
「……うらやましいなんて……」
かすれた声が出た。
「私、何も……思い出せないのに」
それだけ言うと、ラサさんはわずかに首を振った。
「……だからだと思います」
その声は、小さくて、でも強かった。
「あなたの走りは"純粋"なんです。混じりけがない……ただ前だけを見ていて──だから、目を奪われるんです」
その言葉は、冬の空よりも静かに、でも確かに胸の奥へ落ちていった。
ラサさんはしばらく夜景を見つめていた。
肩にかかる髪が、冬の風にそっと揺れる。
その沈黙が、いつもの気弱さではなく、何かを決めてしまった人だけがまとう静けさを帯びているのを感じた。
やがて、ラサさんは両手をぎゅっと握りしめた。
震えているようにも見えた。
「……あのね、リアさん」
小さく呼ばれ、私は横を向く。
少し間を置いてから、ラサさんは言った。
「……ホープフルステークスを見届けたら、私は引退します。トレセン学園も……今年いっぱいで辞めます」
「気づいたんですよ。どれだけ走っても、姉には届かないって……。そう思った瞬間に、私の中で何かが、そっと終わってしまって……」
冬の山道から、すべての音が葬り去られたように思えた。
風も、遠くの街のざわめきも、足元の葉の気配さえも。
世界が一瞬だけ止まったみたいに、静かだった。
驚いたけれど、私は否定の言葉を口にしなかった。
今、ラサさんがどれほどの重さを抱えてここまで来たのか……。
それを思うと、簡単に「行かないで」などと言う資格なんてないと分かっていた。
ラサさんは続けようとして、少しだけ息を震わせた。
「──もう、自分の走りに答えが見つからないんです」
ラサさんの声が震えはじめた。
無理に抑えようとしているのが、痛いほど伝わってくる。
「どれだけ走っても、どれだけ頑張っても……"姉じゃない私"が、どうしても許せなくなる瞬間があるんです」
「でも……あなたを見ていると……」
言葉がそこで詰まった。
その沈黙が、悲しみよりも、何かを恐れているように見えた。
私はそっとラサさんの方へ一歩近づく。
「ユーフォリアさん……」
かすれる声。
「あなたを見ていると……お姉ちゃんの見せてくれた"未来"が、まだどこかに続いているような気が、するんです……」
こらえていた涙が、ぽとりと落ちた。
私はハッとした。
——ふと、思い出す。
目覚めて間もないころ。
悪夢の恐怖で泣き崩れた私をラサさんが優しく抱きしめてくれたことを。
気づけば私は、あの時とは逆に、震える彼女の背中にやさしく腕を回した。
「っ……う、うぁ……ッ!」
肩が小さく震えて、潤んだ瞳が俯いたまま揺れる。
泣きたくないのに、泣いてしまう時の呼吸の乱れ方だった。
その泣き声が、冷たい風の中で響いた。
私はラサさんの背中を、そっと、強く抱きしめた。彼女の抱えていた重い影を、少しでも和らげたいと願いながら。
しばらく、ラサさんの嗚咽だけが静寂の中に響いていた。
私はただ、その震えが少しずつ落ち着いていくのを待った。
やがてラサさんは顔を上げ、涙を拭った。その瞳は、夕闇の光を吸い込んで、強く輝いていた。
「ユーフォリアさん……あなたに……姉が見たかった未来を託したいんです」
言葉が細く、けれど確かに続く。
「どうか……あなたの走りで……私たちの悔いごと、前に進んでください……!」
彼女の言葉は、何か大切なものを手放しながらも、光を求めるような響きがあった。
私は静かに息を吸った。
胸の奥に、あたたかい何かが広がっていくのがわかった。
「……はい。ラサさんの気持ち……私が、ちゃんと受け取ります」
私の声は、不思議なくらい迷いなく揺れなかった。
ラサさんは、ほっとしたみたいに瞳を閉じ、かすかに頷いた。
その瞳から零れた最後の涙は、痛みでも後悔でもなく……。
ようやく誰かに渡せた想いの、静かな余韻のように見えた。
どれくらい、そうしていたんだろう。
やがてラサさんが目元を拭き、「……帰りましょっか」と小さく笑った。
……
私たちは並んで山道を歩き出した。
言葉はほとんど交わさなかったけれど、その沈黙は行きと違って、柔らかかった。
山道の向こう、街の光がゆっくり瞬いている。
ふと、空のどこかで。静かに、けれど強く星が輝いた気がした。
ホープフルステークスまで、もうすぐだ。