記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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めちゃめちゃ遅刻しました。申し訳ない。
いやー非常に忙しい。師走とはまさににこの事なんやなって。

助けてくれ(切実)



今年の投稿はこれ以上師が走らなければこれでおしまいです。よいお年を!
(12/22追記:勝負服の挿絵を追加しました)


Ep.36 運命の鼓動、白と黒の境界線

冬の朝の空気は、肺の奥まで凍りつかせるほどに鋭かった。吐き出した息が白く濁っては、すぐに灰色の空へと溶けていく。

いよいよ、この日が来た。ホープフルステークス、G1当日。

 

控室の中は、いつもと違う異様なほどの静寂に包まれていた。外から聞こえる観客のざわめきや、運営スタッフの慌ただしい足音さえも、今の私には水槽の中から聞く音のように遠く、ぼやけて感じられる。

 

心臓が、耳の奥でドクドクと重く脈打っている。

これが高揚感なのか、それとも逃げ場のない場所に立たされているという恐怖なのか、今の私には分からなかった。

 

(……大丈夫、怖くない)

 

……そう言い聞かせた瞬間、自分で気づいてしまう。

こうやってる時点で、きっと、怖いんだろう。

 

「──ユーフォリア」

 

不意に名前を呼ばれ、肩が小さく跳ねた。振り返ると、そこにはトレーナーさんが立っていた。彼はいつも通り、淡々と、けれどどこか丁寧な手つきで荷物を整理している。

 

「心配するな。いつも通り、お前の走りをすればいい」

 

それだけ。特別な檄も、過剰な期待もない。

彼のいつもと変わらない距離感が、私の内側の強張りを少しだけ解いてくれた。

 

ラサさんも同じ控室にいるけれど、彼女も余計なことは言わない。

ただ、少し離れたところで、静かにこちらを見守っている。

 

この"普通さ"が、今はありがたかった。

何かを期待されすぎるよりも、「主役だ」と強調されるよりも、ずっと。

 

「……はい、頑張ります」

 

「じゃあ……そろそろ着替えよう。俺は外で待ってるから」

 

そう言ってトレーナーさんは席を立ち、静かに控室を後にした。

扉が閉まる音が、思ったより大きく響く。

 

 

「……」

 

私は深く息を吸い、勝負服に手を伸ばした。

 

白と黒を基調とした、メイド風の端正なドレス。

右脚には純白の、左脚には漆黒のタイツ。

 

袖を通した瞬間、胸の奥が、すっと静まった。

 

理由は分からない。

ただ、この服を着ていない状態のほうが、落ち着かない気がしてしまう。

 

(……変なの。こんな、機械みたいな装飾が好きだった覚えはないのに)

 

スカウターのような装飾。歯車を模した髪飾り。

それらは今の私にとって、全く見覚えのない、知らないはずの衣装だった。

けれど、鏡の中に映る自分を見た瞬間、言葉にできない不安と、それ以上の「確信」が胸を突いた。

 

 

──正しい。

 

 

そう感じてしまう自分が、少し怖い。

 

「……すごく似合ってます。リアさんのための服ですよ」

 

「……ありがとう、ございます」

 

頷きながら、胸の奥で、小さな疑問が残る。

 

本当に、私のためなのだろうか。

それとも──私が知らない"誰か"のためのものなのだろうか。

 

その考えを振り払うように、私は立ち上がった。

 

控室を出る前、ラサが一歩近づいてくる。

 

「リアさん。行ってらっしゃい。私の、大切な人たちの未来を……走ってきてください」

 

その言葉を、私はずっしりと重く受け止めた。

引退を決めた彼女が、その未練も、姉への想いも、すべてを私に預けてくれたのだ。

 

「……はい。ラサさんの想い、ちゃんと連れて行きます」

 

白と黒。現在(いま)と過去。自分でも知らない「過去」の自分が、この服を通して私の肌に触れているような気がした。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

控室を出て、パドックへと向かう。地下バ道を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは、冬の陽光と無数の人々の視線だった。

 

「あっ見て、あの子!」

「ユーフォリアだ! がんばれー!」

 

熱狂的な声が、耳に届く。

 

私は反射的に、笑顔を作った。

身体が、そう動くことを知っている。

 

けれど、私の胸の奥には、ある違和感が静かに沈んでいた。

 

(……この人たちは)

 

──“私”を、見ているんだろうか。

 

答えは出ないまま、私は前へと歩き出した。

 

 

 

ゲート内。

乾いた金属音が、コース全体に張りつめた緊張を刻み込む。

 

狭い枠の中、金属が触れ合う冷たい音。視界が一点に絞られる。

私の視界は、まっすぐ前だけを捉えていた。

 

(……よし)

 

そう思った瞬間だった。

 

──ガコンッ!

 

全身に響く金属音とともに、私の体は弾かれたように前方へ飛び出した。

出遅れはない。それどころか、私は自然と先頭に立っていた。

 

『──スタートしました、ホープフルステークス! 各ウマ娘、一斉に飛び出した!!』

 

(……速い)

 

自分の感覚よりも、体が先に行っているような感覚。

追い抜こうとする他の子の気配は、今の私にはノイズにさえならない。

 

『ハナを奪ったのは3番、ユーフォリア! まさに電光石火、後続を引き離しにかかります!』

 

脚の運び。

重心の置き方。

呼吸のリズム。

 

全部が、噛み合っている。

 

(──あれ)

 

不思議だった。

集中している感覚が、ない。

 

……いや、ないわけではないのかもしれない。

けれど、少なくともいつも通りではないことは確かだった。

 

緊張も、迷いも同じく感じられない。

まるで、身体だけが勝手に正解を選び続けているみたいだった。

 

(……怖い)

 

それは高揚感ではなく、底知れない不気味さだった。

自分の体なのに、どこか他人事のような、寒気のするような合理性。

 

思考が浮かぶよりも早く、修正が入る。

脚の角度が変わり、無駄な動きが消えていく。

 

『ユーフォリア、完璧なレース運び! 前半1000メートルを落ち着いたペースで通過!』

 

"落ち着いている"。

そう評される走りを、私は選んでいない。ただ、できてしまっているだけ。

 

脚が、答えを知っている。

その事実が、じわじわと胸の奥を冷やしていった。

 

 

 

淡々と、しかし圧倒的なペースを刻みながら、レースは最終コーナーを抜け、直線へと差し掛かった。

 

『さあ、直線に入りました! 先頭は変わらずユーフォリア! 後ろから一斉に追い込みが来る!!』

 

その瞬間。胸の奥がざわついた。

 

アルテミスステークスの、あの感覚。背中に、冷たい影が張りつく。

 

(また……っ!)

 

観客の叫び声、追い上げる足音、そして影の圧力。

それらが混ざり合い、視界が白く霞み始めたその瞬間──。

 

 

脳内に、冷徹な結論が響いた。

 

 

──勝て。

 

──迷うな。

 

──進め。

 

 

声じゃない。

言葉でもない。

それは思考の"癖"として、私の内側を侵食してくる冷たい合理性。

 

効率。

最短。

勝利。

 

迷う理由など、どこにもない。

 

 

(……ッ!?)

 

 

背筋が、ぞくりと震えた。

アルテミスステークスの時よりも、はっきりと分かる。

 

 

──違う。

 

 

胸の奥で、何かが強く反発した。

 

「違う……ッ!!」

 

喉が、ひくりと鳴る。

 

これは、私の選択じゃない。

私の意志でもない。

 

「それは、私じゃないッ!!」

 

私は歯を食いしばり、その思考を強烈に拒絶する。

──その瞬間、視界の端に誰かの姿が浮かんだ。

 

 

病室で笑っていたミラクルさんの姿。

涙ながらに未来を託してくれたラサさんの温もり。

 

そして、スタンドの中で、今もきっと私を見つめている──私のトレーナーさん。

 

(……私は)

 

(私は、みんなの思いを連れて走るって決めたんだッ!!)

 

「はああぁぁぁ……っ!!」

 

叫び声と同時に、私は地面を強く蹴った。

 

過去と噛み合ったわけじゃない。

受け入れたわけでもない。

 

ただ、必死に──振り切った。

 

『ユーフォリア、突き抜ける! 後続を完全に突き放した! これは独走、完全なる独走だ!!』

 

 

視界が、白く弾けていく。

 

息が焼け、心臓が叫ぶ。

 

 

──それでも、ただ前へ。

 

逃げるように、振り切るように。

 

 

ゴール板が前に迫る。

 

 

 

そして。

 

『ユーフォリア、ゴールイン!! ホープフルステークス、堂々の一着!! さらにレコード更新だあぁ!!』

 

ゴール板を駆け抜けた瞬間、世界の音が遅れて追いついてきた。

 

歓声。

拍手。

名前を呼ぶ声。

 

 

……勝った。

 

 

間違いなく。

 

 

けれど。

 

 

(……あ、れ……?)

 

 

胸の奥が、妙に静かだった。

 

 

(……勝ったのに、どうして……)

 

嬉しいはずなのに。

達成感が、ない。

 

スタンドから歓声が降る中、私は自分の白い手袋をじっと見つめる。

 

まるで──誰かのレースを、遠くから見ていたような感覚。

 

(……私、何を振り切って走ったんだろう)

 

その答えは、まだ、分からないままだった。

 

 

 

ゴール後の喧騒から少し離れた、地下バ道。

私はまだ息が整わないまま、ゆっくりと歩いていた。

 

コンクリートの床に、足音だけが淡く反響する。

ひんやりとした空気が、まだ火照りの残る身体に触れてくる。

 

そこで、ラサさんは待っていた。

 

私の姿を見つけた瞬間、彼女は一度だけ強く唇を噛みしめて、それから——泣いた。

 

「……おめでとう、リアさん……っ」

 

涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

それでも彼女は笑おうとしていた。

 

「すごかったです……本当に。あんなレース……きっと、姉も……」

 

言葉の途中で、ラサさんは一度、大きく息を吸った。

 

「これで……やっと、渡せました」

 

短いその言葉に、すべてが詰まっていた。

 

姉のこと。

叶わなかった未来。

そして、走り続けることをやめるという選択。

 

「私の……姉の夢も、私の未練も。全部……リアさんに」

 

「……ラサさん……」

 

「今まで……ありがとうございました」

 

その声には、迷いも、後悔もなかった。

涙を浮かべながらも、どこか晴れやかな表情。

 

──受け取ってしまった。

 

戻せないものを。

取り返しのつかない想いを。

 

「……分かりました。ちゃんと……走ります」

 

ようやく、それだけを口にする。

 

「これからは、観客席で応援しますから。……世界一、贅沢なファンになりますね」

 

その笑顔を、私は忘れないと思った。

 

 

 

しばらくして、今度は急いでいる足音が地下バ道に響いてきた。

 

「ユーフォリア!」

 

聞き慣れた声。

振り返ると、トレーナーさんが早足でこちらへ向かってきていた。

 

「身体は大丈夫か? どこか痛めてないか?」

 

開口一番、それだった。

 

息を切らしながら、真っ先にそう言って、私の肩や腕に触れる。

熱を確かめるように、慎重に。

 

「……えへへ。はい、大丈夫ですよ」

 

少しだけ、照れくさい。

でも、心配してくれているのが分かって、胸の奥があたたかくなった。

 

「……本当に、平気ですよ。トレーナーさんが、ちゃんと鍛えてくれたおかげですから」

 

彼は少しだけ安堵したように息を吐き、照れ隠しのように視線を逸らす。

 

「……そうか。なら、よかった」

 

そして、少し間を置いてから。

 

「おめでとう。G1勝利だ。立派なレースだった」

 

その言葉に、周囲の空気が一瞬だけ、緩む。

興奮がまだ抜けきっていない声。

それでも、どこか噛みしめるような調子だった。

 

私は、笑った。

たぶん、ちゃんと。

 

 

 

その後の流れは、正直、よく覚えていない。

 

フラッシュの光。

祝福の声。

マイクを向けられて、何かを答えて、笑って。

 

ウイニングライブも、きっとちゃんと踊ったはずなのに。

ステージの眩しさも、音楽も、歓声も、記憶の中では輪郭が曖昧だった。

まるで、少し離れた場所から眺めていたみたいに。

 

 

無敗でG1勝利。

皆が、それを喜んでくれている。

 

──なのに。

 

(……怖かった)

 

あの直線で感じた、冷たい合理性。

自分じゃない何かに、身体を預けてしまいそうになった感覚。

 

……それに。……それ以上に。

 

(分からなかった)

 

私は、何を振り切って走ったのだろう。

誰から、逃げるように前へ進んだのだろう。

 

過去は、まだ恐ろしい。

触れたくないし、思い出したくもない。

 

それでも──。

 

確かに、私の中で何かが動き始めている。

もう、なかったことにはできない。

 

 

 

控室に戻り、一人になった私は、そっと白い手袋を見つめた。

 

「……」

 

小さく息を吸い、吐く。

 

「……もっと、走ります」

 

それは、誰に聞かせるでもない、独り言。

 

「逃げるためじゃない」

 

「……私が、"私"でいるために」

 

白と黒の境界線は、まだ曖昧なまま。

けれど私は、確かにその上に立っている。

 

その自覚だけを胸に、私は静かに、次の一歩を踏み出そうとしていた。

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