いやー非常に忙しい。師走とはまさににこの事なんやなって。
助けてくれ(切実)
今年の投稿はこれ以上師が走らなければこれでおしまいです。よいお年を!
(12/22追記:勝負服の挿絵を追加しました)
冬の朝の空気は、肺の奥まで凍りつかせるほどに鋭かった。吐き出した息が白く濁っては、すぐに灰色の空へと溶けていく。
いよいよ、この日が来た。ホープフルステークス、G1当日。
控室の中は、いつもと違う異様なほどの静寂に包まれていた。外から聞こえる観客のざわめきや、運営スタッフの慌ただしい足音さえも、今の私には水槽の中から聞く音のように遠く、ぼやけて感じられる。
心臓が、耳の奥でドクドクと重く脈打っている。
これが高揚感なのか、それとも逃げ場のない場所に立たされているという恐怖なのか、今の私には分からなかった。
(……大丈夫、怖くない)
……そう言い聞かせた瞬間、自分で気づいてしまう。
こうやってる時点で、きっと、怖いんだろう。
「──ユーフォリア」
不意に名前を呼ばれ、肩が小さく跳ねた。振り返ると、そこにはトレーナーさんが立っていた。彼はいつも通り、淡々と、けれどどこか丁寧な手つきで荷物を整理している。
「心配するな。いつも通り、お前の走りをすればいい」
それだけ。特別な檄も、過剰な期待もない。
彼のいつもと変わらない距離感が、私の内側の強張りを少しだけ解いてくれた。
ラサさんも同じ控室にいるけれど、彼女も余計なことは言わない。
ただ、少し離れたところで、静かにこちらを見守っている。
この"普通さ"が、今はありがたかった。
何かを期待されすぎるよりも、「主役だ」と強調されるよりも、ずっと。
「……はい、頑張ります」
「じゃあ……そろそろ着替えよう。俺は外で待ってるから」
そう言ってトレーナーさんは席を立ち、静かに控室を後にした。
扉が閉まる音が、思ったより大きく響く。
「……」
私は深く息を吸い、勝負服に手を伸ばした。
白と黒を基調とした、メイド風の端正なドレス。
右脚には純白の、左脚には漆黒のタイツ。
袖を通した瞬間、胸の奥が、すっと静まった。
理由は分からない。
ただ、この服を着ていない状態のほうが、落ち着かない気がしてしまう。
(……変なの。こんな、機械みたいな装飾が好きだった覚えはないのに)
スカウターのような装飾。歯車を模した髪飾り。
それらは今の私にとって、全く見覚えのない、知らないはずの衣装だった。
けれど、鏡の中に映る自分を見た瞬間、言葉にできない不安と、それ以上の「確信」が胸を突いた。
──正しい。
そう感じてしまう自分が、少し怖い。
「……すごく似合ってます。リアさんのための服ですよ」
「……ありがとう、ございます」
頷きながら、胸の奥で、小さな疑問が残る。
本当に、私のためなのだろうか。
それとも──私が知らない"誰か"のためのものなのだろうか。
その考えを振り払うように、私は立ち上がった。
控室を出る前、ラサが一歩近づいてくる。
「リアさん。行ってらっしゃい。私の、大切な人たちの未来を……走ってきてください」
その言葉を、私はずっしりと重く受け止めた。
引退を決めた彼女が、その未練も、姉への想いも、すべてを私に預けてくれたのだ。
「……はい。ラサさんの想い、ちゃんと連れて行きます」
白と黒。
控室を出て、パドックへと向かう。地下バ道を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは、冬の陽光と無数の人々の視線だった。
「あっ見て、あの子!」
「ユーフォリアだ! がんばれー!」
熱狂的な声が、耳に届く。
私は反射的に、笑顔を作った。
身体が、そう動くことを知っている。
けれど、私の胸の奥には、ある違和感が静かに沈んでいた。
(……この人たちは)
──“私”を、見ているんだろうか。
答えは出ないまま、私は前へと歩き出した。
ゲート内。
乾いた金属音が、コース全体に張りつめた緊張を刻み込む。
狭い枠の中、金属が触れ合う冷たい音。視界が一点に絞られる。
私の視界は、まっすぐ前だけを捉えていた。
(……よし)
そう思った瞬間だった。
──ガコンッ!
全身に響く金属音とともに、私の体は弾かれたように前方へ飛び出した。
出遅れはない。それどころか、私は自然と先頭に立っていた。
『──スタートしました、ホープフルステークス! 各ウマ娘、一斉に飛び出した!!』
(……速い)
自分の感覚よりも、体が先に行っているような感覚。
追い抜こうとする他の子の気配は、今の私にはノイズにさえならない。
『ハナを奪ったのは3番、ユーフォリア! まさに電光石火、後続を引き離しにかかります!』
脚の運び。
重心の置き方。
呼吸のリズム。
全部が、噛み合っている。
(──あれ)
不思議だった。
集中している感覚が、ない。
……いや、ないわけではないのかもしれない。
けれど、少なくともいつも通りではないことは確かだった。
緊張も、迷いも同じく感じられない。
まるで、身体だけが勝手に正解を選び続けているみたいだった。
(……怖い)
それは高揚感ではなく、底知れない不気味さだった。
自分の体なのに、どこか他人事のような、寒気のするような合理性。
思考が浮かぶよりも早く、修正が入る。
脚の角度が変わり、無駄な動きが消えていく。
『ユーフォリア、完璧なレース運び! 前半1000メートルを落ち着いたペースで通過!』
"落ち着いている"。
そう評される走りを、私は選んでいない。ただ、できてしまっているだけ。
脚が、答えを知っている。
その事実が、じわじわと胸の奥を冷やしていった。
淡々と、しかし圧倒的なペースを刻みながら、レースは最終コーナーを抜け、直線へと差し掛かった。
『さあ、直線に入りました! 先頭は変わらずユーフォリア! 後ろから一斉に追い込みが来る!!』
その瞬間。胸の奥がざわついた。
アルテミスステークスの、あの感覚。背中に、冷たい影が張りつく。
(また……っ!)
観客の叫び声、追い上げる足音、そして影の圧力。
それらが混ざり合い、視界が白く霞み始めたその瞬間──。
脳内に、冷徹な結論が響いた。
──勝て。
──迷うな。
──進め。
声じゃない。
言葉でもない。
それは思考の"癖"として、私の内側を侵食してくる冷たい合理性。
効率。
最短。
勝利。
迷う理由など、どこにもない。
(……ッ!?)
背筋が、ぞくりと震えた。
アルテミスステークスの時よりも、はっきりと分かる。
──違う。
胸の奥で、何かが強く反発した。
「違う……ッ!!」
喉が、ひくりと鳴る。
これは、私の選択じゃない。
私の意志でもない。
「それは、私じゃないッ!!」
私は歯を食いしばり、その思考を強烈に拒絶する。
──その瞬間、視界の端に誰かの姿が浮かんだ。
病室で笑っていたミラクルさんの姿。
涙ながらに未来を託してくれたラサさんの温もり。
そして、スタンドの中で、今もきっと私を見つめている──私のトレーナーさん。
(……私は)
(私は、みんなの思いを連れて走るって決めたんだッ!!)
「はああぁぁぁ……っ!!」
叫び声と同時に、私は地面を強く蹴った。
過去と噛み合ったわけじゃない。
受け入れたわけでもない。
ただ、必死に──振り切った。
『ユーフォリア、突き抜ける! 後続を完全に突き放した! これは独走、完全なる独走だ!!』
視界が、白く弾けていく。
息が焼け、心臓が叫ぶ。
──それでも、ただ前へ。
逃げるように、振り切るように。
ゴール板が前に迫る。
そして。
『ユーフォリア、ゴールイン!! ホープフルステークス、堂々の一着!! さらにレコード更新だあぁ!!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間、世界の音が遅れて追いついてきた。
歓声。
拍手。
名前を呼ぶ声。
……勝った。
間違いなく。
けれど。
(……あ、れ……?)
胸の奥が、妙に静かだった。
(……勝ったのに、どうして……)
嬉しいはずなのに。
達成感が、ない。
スタンドから歓声が降る中、私は自分の白い手袋をじっと見つめる。
まるで──誰かのレースを、遠くから見ていたような感覚。
(……私、何を振り切って走ったんだろう)
その答えは、まだ、分からないままだった。
ゴール後の喧騒から少し離れた、地下バ道。
私はまだ息が整わないまま、ゆっくりと歩いていた。
コンクリートの床に、足音だけが淡く反響する。
ひんやりとした空気が、まだ火照りの残る身体に触れてくる。
そこで、ラサさんは待っていた。
私の姿を見つけた瞬間、彼女は一度だけ強く唇を噛みしめて、それから——泣いた。
「……おめでとう、リアさん……っ」
涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
それでも彼女は笑おうとしていた。
「すごかったです……本当に。あんなレース……きっと、姉も……」
言葉の途中で、ラサさんは一度、大きく息を吸った。
「これで……やっと、渡せました」
短いその言葉に、すべてが詰まっていた。
姉のこと。
叶わなかった未来。
そして、走り続けることをやめるという選択。
「私の……姉の夢も、私の未練も。全部……リアさんに」
「……ラサさん……」
「今まで……ありがとうございました」
その声には、迷いも、後悔もなかった。
涙を浮かべながらも、どこか晴れやかな表情。
──受け取ってしまった。
戻せないものを。
取り返しのつかない想いを。
「……分かりました。ちゃんと……走ります」
ようやく、それだけを口にする。
「これからは、観客席で応援しますから。……世界一、贅沢なファンになりますね」
その笑顔を、私は忘れないと思った。
しばらくして、今度は急いでいる足音が地下バ道に響いてきた。
「ユーフォリア!」
聞き慣れた声。
振り返ると、トレーナーさんが早足でこちらへ向かってきていた。
「身体は大丈夫か? どこか痛めてないか?」
開口一番、それだった。
息を切らしながら、真っ先にそう言って、私の肩や腕に触れる。
熱を確かめるように、慎重に。
「……えへへ。はい、大丈夫ですよ」
少しだけ、照れくさい。
でも、心配してくれているのが分かって、胸の奥があたたかくなった。
「……本当に、平気ですよ。トレーナーさんが、ちゃんと鍛えてくれたおかげですから」
彼は少しだけ安堵したように息を吐き、照れ隠しのように視線を逸らす。
「……そうか。なら、よかった」
そして、少し間を置いてから。
「おめでとう。G1勝利だ。立派なレースだった」
その言葉に、周囲の空気が一瞬だけ、緩む。
興奮がまだ抜けきっていない声。
それでも、どこか噛みしめるような調子だった。
私は、笑った。
たぶん、ちゃんと。
その後の流れは、正直、よく覚えていない。
フラッシュの光。
祝福の声。
マイクを向けられて、何かを答えて、笑って。
ウイニングライブも、きっとちゃんと踊ったはずなのに。
ステージの眩しさも、音楽も、歓声も、記憶の中では輪郭が曖昧だった。
まるで、少し離れた場所から眺めていたみたいに。
無敗でG1勝利。
皆が、それを喜んでくれている。
──なのに。
(……怖かった)
あの直線で感じた、冷たい合理性。
自分じゃない何かに、身体を預けてしまいそうになった感覚。
……それに。……それ以上に。
(分からなかった)
私は、何を振り切って走ったのだろう。
誰から、逃げるように前へ進んだのだろう。
過去は、まだ恐ろしい。
触れたくないし、思い出したくもない。
それでも──。
確かに、私の中で何かが動き始めている。
もう、なかったことにはできない。
控室に戻り、一人になった私は、そっと白い手袋を見つめた。
「……」
小さく息を吸い、吐く。
「……もっと、走ります」
それは、誰に聞かせるでもない、独り言。
「逃げるためじゃない」
「……私が、"私"でいるために」
白と黒の境界線は、まだ曖昧なまま。
けれど私は、確かにその上に立っている。
その自覚だけを胸に、私は静かに、次の一歩を踏み出そうとしていた。