記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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あけましてごめんなさい。

年明け一発目から遅れました。
正月休みで完全に気が抜けましたね。

恐らく次も遅れると思います。許していただきたい。


Ep.37 聖夜の灯、静かなる肯定

トレーナールームの扉を開けた瞬間、私は思わず立ち止まった。

 

「失礼しま……。……なに、これ……」

 

机の上に積み上がった紙の山。封筒、書類、ファイル、見覚えのない企業のロゴ。

いつもの整然とした机は影も形もなく、まるで別人の部屋に迷い込んだみたいだった。

 

「ああ。ユーフォリア、おはよう」

 

トレーナーさんは、紙の山の向こうから顔を出して、少し疲れたように笑った。

 

「おはようございます……えっと……その、これ……どうしたんですか?」

 

「どうしたもこうしたも……全部、お前のせいだよ」

 

「えっ」

 

冗談めかした言い方。でも、その声には隠しきれない実感が滲んでいた。

 

「取材依頼、祝電、イベントの話に、将来を見据えた打診とか。……まあ、細々としたやつだな」

 

軽く言っているが、その量はどう見ても"細々"ではない。

私は書類の山を見つめ、少し気圧されたように肩をすくめた。

 

「わ、私……そんなに大きなこと、したんですね……」

 

「G1だぞ。それもコースレコードのおまけ付きだ。注目されないほうが無理ってもんだ」

 

その言葉を聞いても、胸の奥はどこか実感が薄い。

勝った。確かに、あの芝の上で一番にゴールを駆け抜けた。

けれど、その事実はまだ、身体の外側に浮いているような感覚だった。

 

「……すごいですね」

 

他人事みたいな感想が口をついて出る。

 

「他人事じゃないぞ。全部、お前が自分の脚で掴み取った結果なんだからな」

 

「え、えへへ……」

 

笑ってみせたけれど、心のどこかが追いついていない。

その空気を切るように、トレーナーさんがパン、と手を叩いた。

 

「そうだ。せっかくだし、レースの振り返りでもしようか」

 

トレーナーさんが机の端からタブレットを取り出して、私の隣に座って映像を再生する。

画面に映し出されたのは、ホープフルステークスの映像だった。

 

スタート、流れるような展開、自然と前に出ていく私。

 

(……こんな走り、してたんだ)

 

自分の姿なのに、どこか距離がある。

 

映像が進み、最終直線に差しかかる直前。

そこで、トレーナーが再生を止めた。

 

「……ここだ。ここ」

 

映像が一時停止する。ちょうど、私が一段ギアを上げた瞬間。

スロー再生される私のフォームは、少しの崩れもない。

むしろ、一切の無駄を削ぎ落とした、残酷なまでに美しい動きだった。

 

「それまでと、明らかに何かが違うんだよな」

 

トレーナーさんは純粋な興味と、それ以上に何かを探るような声で続けた。

 

「何か意識してたこと、あったか?」

 

その言葉で、胸の奥が不意にきしんだ。

 

すぐには答えられなかった。

口を開けば、あの瞬間に感じた冷たい感覚まで、一緒に零れ落ちてしまいそうで。

 

「……。……その……」

 

言葉を探す。

あの感覚を、どう説明すればいいのか分からない。

 

「無理に答えなくても──」

 

「……いえ」

 

私は、小さく首を振った。

 

「……声、というほどはっきりしたものじゃなかったんです……けど」

 

「うん」

 

「考え方、みたいなのが……急に、流れ込んできて」

 

画面の中の私は、迷いなく前を向いている。

その映像から目を逸らし、私は膝の上の手元を見つめる。

 

「勝て、とか。迷うな、とか……」

 

「……」

 

「とても、冷たくて……合理的で。でも、それが一番速いって、否定できない感じで」

 

喉が少し乾いた。

 

「すごく、怖かったんです」

 

正直な気持ちが、先に出た。

 

「それで……それに任せたら……たぶん、私が"私"じゃなくなるって思って」

 

あの瞬間、脳裏に浮かんだもの。

 

ミラクルさんの走り、ラサさんの涙。

そして──私を導いてくれる、トレーナーさんの背中。

 

「だから……振り切ろうって。みんなの思いを連れて走るって、決めたんです」

 

話し終えた瞬間、胸の奥に残っていた熱が、すっと冷めた気がした。

こんなこと、口に出してよかったのか分からない。

 

トレーナーさんは映像を消し、短く息を吐く。

 

「……そっか」

 

トレーナーさんは、それ以上踏み込まなかった。否定もしないし、深掘りもしない。

 

ただ一言、すべてを受け止めるみたいに。そして、ふっと空気を変えるように笑う。

 

「よし!」

 

トレーナーさんはそう言って立ち上がり、上着を手に取った。

 

「今日はここまでにしよう」

 

「え? でも、あんなに書類が……」

 

トレーナーさんは窓の外を見てそう言った。

 

「気晴らしだ、外に行くぞ。今日はクリスマスだしな」

 

「……お仕事は……!?」

 

「明日やる!」

 

即答だった。私は一瞬きょとんとした後、思わず笑ってしまった。

 

「……ふふ、はい。じゃあ、行きましょう」

 

その一言で、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

 

 

 

トレーナー室を出て、しばらくしてから。

私たちは、それぞれ私服に着替えて学園の外へ出た。

 

冬の空気が、頬に触れた瞬間、思わず息を吸う。

 

「……寒いですね」

 

「だな。まあ、冬だからな」

 

トレーナーさんはそう言って、心なしか肩をすくめた。

 

街は、すっかりクリスマスの顔をしていた。

通り沿いに並ぶイルミネーション。ガラス越しの店内からは暖色の灯りがこぼれている。

楽しそうな声、すれ違う人たちの笑顔。

 

どこを見ても、浮き立つような光ばかりで。

なのに、不思議と落ち着いていた。

 

(……G1、本当に勝ったんだよね)

 

ふと、そんな事実が頭をよぎる。

けれどその実感は、吐く息と一緒に白くなって、すぐに夜へ溶けていった。

 

今の私は、ただの一人のウマ娘で。隣には、いつものトレーナーさんがいる。

 

それだけで、十分だった。

 

「……きれいですね」

 

私がそう言うと、トレーナーさんは少しだけ足を止めて、同じ方向を見る。

 

「ああ。こういうの、嫌いじゃない」

 

それ以上、何も言わない。

レースの話も、勝利の話も、未来の話もない。

 

ただ、同じ光を見ているだけ。

 

「何か、飲むか?」

 

「いいんですか?」

 

自販機の前で立ち止まると、トレーナーさんは迷いなく飲み物を二本買った。

差し出されたのは、温かいココア。

 

「ほら」

 

「……ありがとうございます」

 

缶を受け取ると、手のひらにじんわりと熱が伝わる。

 

「……あったかい」

 

「冷えるからな」

 

缶を両手で包み込みながら、私は小さく息を吐く。その温もりに、ふと懐かしい記憶が重なった。

 

──まだ、自分の名前すらあやふやだった頃。

医療棟の玄関で、不安だった私にトレーナーさんが手渡してくれたココア。

あの時の温度と、今の温度は、驚くほど似ていた。

 

 

 

白くなった息が、すぐに夜に溶けていく。

 

イルミネーションの下で、誰かが写真を撮っている。

楽しそうにポーズを取る家族や、照れながら笑うカップル。

 

「……写真、撮りませんか?」

 

私がそう言うと、トレーナーさんは一瞬だけ目を瞬かせた。

 

「……記念に、か?」

 

「はい。今日の」

 

少し迷ったあと、彼はスマートフォンを取り出した。

 

「じゃあ、ここで」

 

光のアーチの前。

並んで立つと、距離は自然と近くなる。

 

「……撮るぞ」

 

シャッターの音。

画面を覗き込むと、私はちゃんと笑っていた。

作った笑顔じゃなくて、たぶん、今の気持ちのまま。

 

「……変じゃないですか?」

 

「いや。普通だな」

 

その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

歩きながら、他愛ない話をした。

街の飾りが毎年増えている気がするとか、冬のアイスは意外と美味しいとか。

 

大事な話は、ひとつもない。

だからこそ、この時間が大事だった。

 

 

やがて、橋の上に出る。

川沿いに並ぶ光が、水面に揺れていた。

 

立ち止まって、その景色を眺める。

川の音だけが、しばらく耳に残った。

 

「……私」

 

夜風に紛れるくらいの声で、呟く。

 

「こんなに……幸せでも、いいんでしょうか」

 

冗談みたいな響き。

でも、胸の奥から出た本音だった。

 

トレーナーさんは立ち止まり、少しだけ考えるように視線を上げてから、答える。

 

「……いいんだよ」

 

少しだけ、強い声。

 

「頑張った結果だ。今を楽しむ権利くらい、ある」

 

私は、その言葉を噛みしめる。

 

逃げじゃない。

先延ばしでもない。

 

「今」を、大切にするという選択。

 

街の光は、変わらず眩しくて。

その中に、不穏な影も、確かに混じっている。

 

それでも。

 

私は、ここにいる。

この光の中で、誰かの隣に立っている。

 

それだけは、揺るがなかった。

 

帰り道。

振り返ると、遠くでイルミネーションが瞬いていた。

 

「……また、来年も見られるといいですね」

 

私がそう言うと、トレーナーさんは歩きながら頷いた。

 

「ああ、また来よう」

 

たった一つのその言葉。

それだけで、心の奥が満たされていく。

 

クリスマスの光は、優しくて、眩しい。

その下で私は、確かに前を向いて歩いている。

 

 

 

冷たい思考は、まだ奥にある。

きっと、また顔を出す。

 

それでも──。

 

今夜だけは。

この光と、この温度を、信じていたかった。

 

私は静かに前を向き、次の一歩を、確かに踏み出した。

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