年明け一発目から遅れました。
正月休みで完全に気が抜けましたね。
恐らく次も遅れると思います。許していただきたい。
トレーナールームの扉を開けた瞬間、私は思わず立ち止まった。
「失礼しま……。……なに、これ……」
机の上に積み上がった紙の山。封筒、書類、ファイル、見覚えのない企業のロゴ。
いつもの整然とした机は影も形もなく、まるで別人の部屋に迷い込んだみたいだった。
「ああ。ユーフォリア、おはよう」
トレーナーさんは、紙の山の向こうから顔を出して、少し疲れたように笑った。
「おはようございます……えっと……その、これ……どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも……全部、お前のせいだよ」
「えっ」
冗談めかした言い方。でも、その声には隠しきれない実感が滲んでいた。
「取材依頼、祝電、イベントの話に、将来を見据えた打診とか。……まあ、細々としたやつだな」
軽く言っているが、その量はどう見ても"細々"ではない。
私は書類の山を見つめ、少し気圧されたように肩をすくめた。
「わ、私……そんなに大きなこと、したんですね……」
「G1だぞ。それもコースレコードのおまけ付きだ。注目されないほうが無理ってもんだ」
その言葉を聞いても、胸の奥はどこか実感が薄い。
勝った。確かに、あの芝の上で一番にゴールを駆け抜けた。
けれど、その事実はまだ、身体の外側に浮いているような感覚だった。
「……すごいですね」
他人事みたいな感想が口をついて出る。
「他人事じゃないぞ。全部、お前が自分の脚で掴み取った結果なんだからな」
「え、えへへ……」
笑ってみせたけれど、心のどこかが追いついていない。
その空気を切るように、トレーナーさんがパン、と手を叩いた。
「そうだ。せっかくだし、レースの振り返りでもしようか」
トレーナーさんが机の端からタブレットを取り出して、私の隣に座って映像を再生する。
画面に映し出されたのは、ホープフルステークスの映像だった。
スタート、流れるような展開、自然と前に出ていく私。
(……こんな走り、してたんだ)
自分の姿なのに、どこか距離がある。
映像が進み、最終直線に差しかかる直前。
そこで、トレーナーが再生を止めた。
「……ここだ。ここ」
映像が一時停止する。ちょうど、私が一段ギアを上げた瞬間。
スロー再生される私のフォームは、少しの崩れもない。
むしろ、一切の無駄を削ぎ落とした、残酷なまでに美しい動きだった。
「それまでと、明らかに何かが違うんだよな」
トレーナーさんは純粋な興味と、それ以上に何かを探るような声で続けた。
「何か意識してたこと、あったか?」
その言葉で、胸の奥が不意にきしんだ。
すぐには答えられなかった。
口を開けば、あの瞬間に感じた冷たい感覚まで、一緒に零れ落ちてしまいそうで。
「……。……その……」
言葉を探す。
あの感覚を、どう説明すればいいのか分からない。
「無理に答えなくても──」
「……いえ」
私は、小さく首を振った。
「……声、というほどはっきりしたものじゃなかったんです……けど」
「うん」
「考え方、みたいなのが……急に、流れ込んできて」
画面の中の私は、迷いなく前を向いている。
その映像から目を逸らし、私は膝の上の手元を見つめる。
「勝て、とか。迷うな、とか……」
「……」
「とても、冷たくて……合理的で。でも、それが一番速いって、否定できない感じで」
喉が少し乾いた。
「すごく、怖かったんです」
正直な気持ちが、先に出た。
「それで……それに任せたら……たぶん、私が"私"じゃなくなるって思って」
あの瞬間、脳裏に浮かんだもの。
ミラクルさんの走り、ラサさんの涙。
そして──私を導いてくれる、トレーナーさんの背中。
「だから……振り切ろうって。みんなの思いを連れて走るって、決めたんです」
話し終えた瞬間、胸の奥に残っていた熱が、すっと冷めた気がした。
こんなこと、口に出してよかったのか分からない。
トレーナーさんは映像を消し、短く息を吐く。
「……そっか」
トレーナーさんは、それ以上踏み込まなかった。否定もしないし、深掘りもしない。
ただ一言、すべてを受け止めるみたいに。そして、ふっと空気を変えるように笑う。
「よし!」
トレーナーさんはそう言って立ち上がり、上着を手に取った。
「今日はここまでにしよう」
「え? でも、あんなに書類が……」
トレーナーさんは窓の外を見てそう言った。
「気晴らしだ、外に行くぞ。今日はクリスマスだしな」
「……お仕事は……!?」
「明日やる!」
即答だった。私は一瞬きょとんとした後、思わず笑ってしまった。
「……ふふ、はい。じゃあ、行きましょう」
その一言で、ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
トレーナー室を出て、しばらくしてから。
私たちは、それぞれ私服に着替えて学園の外へ出た。
冬の空気が、頬に触れた瞬間、思わず息を吸う。
「……寒いですね」
「だな。まあ、冬だからな」
トレーナーさんはそう言って、心なしか肩をすくめた。
街は、すっかりクリスマスの顔をしていた。
通り沿いに並ぶイルミネーション。ガラス越しの店内からは暖色の灯りがこぼれている。
楽しそうな声、すれ違う人たちの笑顔。
どこを見ても、浮き立つような光ばかりで。
なのに、不思議と落ち着いていた。
(……G1、本当に勝ったんだよね)
ふと、そんな事実が頭をよぎる。
けれどその実感は、吐く息と一緒に白くなって、すぐに夜へ溶けていった。
今の私は、ただの一人のウマ娘で。隣には、いつものトレーナーさんがいる。
それだけで、十分だった。
「……きれいですね」
私がそう言うと、トレーナーさんは少しだけ足を止めて、同じ方向を見る。
「ああ。こういうの、嫌いじゃない」
それ以上、何も言わない。
レースの話も、勝利の話も、未来の話もない。
ただ、同じ光を見ているだけ。
「何か、飲むか?」
「いいんですか?」
自販機の前で立ち止まると、トレーナーさんは迷いなく飲み物を二本買った。
差し出されたのは、温かいココア。
「ほら」
「……ありがとうございます」
缶を受け取ると、手のひらにじんわりと熱が伝わる。
「……あったかい」
「冷えるからな」
缶を両手で包み込みながら、私は小さく息を吐く。その温もりに、ふと懐かしい記憶が重なった。
──まだ、自分の名前すらあやふやだった頃。
医療棟の玄関で、不安だった私にトレーナーさんが手渡してくれたココア。
あの時の温度と、今の温度は、驚くほど似ていた。
白くなった息が、すぐに夜に溶けていく。
イルミネーションの下で、誰かが写真を撮っている。
楽しそうにポーズを取る家族や、照れながら笑うカップル。
「……写真、撮りませんか?」
私がそう言うと、トレーナーさんは一瞬だけ目を瞬かせた。
「……記念に、か?」
「はい。今日の」
少し迷ったあと、彼はスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、ここで」
光のアーチの前。
並んで立つと、距離は自然と近くなる。
「……撮るぞ」
シャッターの音。
画面を覗き込むと、私はちゃんと笑っていた。
作った笑顔じゃなくて、たぶん、今の気持ちのまま。
「……変じゃないですか?」
「いや。普通だな」
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
歩きながら、他愛ない話をした。
街の飾りが毎年増えている気がするとか、冬のアイスは意外と美味しいとか。
大事な話は、ひとつもない。
だからこそ、この時間が大事だった。
やがて、橋の上に出る。
川沿いに並ぶ光が、水面に揺れていた。
立ち止まって、その景色を眺める。
川の音だけが、しばらく耳に残った。
「……私」
夜風に紛れるくらいの声で、呟く。
「こんなに……幸せでも、いいんでしょうか」
冗談みたいな響き。
でも、胸の奥から出た本音だった。
トレーナーさんは立ち止まり、少しだけ考えるように視線を上げてから、答える。
「……いいんだよ」
少しだけ、強い声。
「頑張った結果だ。今を楽しむ権利くらい、ある」
私は、その言葉を噛みしめる。
逃げじゃない。
先延ばしでもない。
「今」を、大切にするという選択。
街の光は、変わらず眩しくて。
その中に、不穏な影も、確かに混じっている。
それでも。
私は、ここにいる。
この光の中で、誰かの隣に立っている。
それだけは、揺るがなかった。
帰り道。
振り返ると、遠くでイルミネーションが瞬いていた。
「……また、来年も見られるといいですね」
私がそう言うと、トレーナーさんは歩きながら頷いた。
「ああ、また来よう」
たった一つのその言葉。
それだけで、心の奥が満たされていく。
クリスマスの光は、優しくて、眩しい。
その下で私は、確かに前を向いて歩いている。
冷たい思考は、まだ奥にある。
きっと、また顔を出す。
それでも──。
今夜だけは。
この光と、この温度を、信じていたかった。
私は静かに前を向き、次の一歩を、確かに踏み出した。