近いうちに仮免を受けに行かなければならないので何とか受かりつつ何とか投稿もしていきたい所。
元日の朝。
トレセン学園はいつもよりずっと静かだった。冬の冷たい空気が肌をぴりっと刺すようで、吐き出す息が白く、まっすぐに消えていく。
私は少しだけ背筋を伸ばして、トレーナー室の扉をノックした。
「失礼します。……あけましておめでとうございます、トレーナーさん」
新年最初の挨拶は少しだけ改まった声になった。デスクに向かっていたトレーナーさんがこちらを見て穏やかに笑う。
「おう。あけましておめでとう、ユーフォリア」
その声はいつも通りで。でも、どこか新しい年を迎えた安心感があるように聞こえた。
部屋の中を見渡して、私は思わず声を漏らした。
「……あ、すごい。片付いてます」
クリスマスの頃には机の上を埋め尽くすほど山積みになっていた祝電や取材依頼の書類が、すっかり整理されていたのだ。きちんとファイルに収められて、机の天板がちゃんと見えている。
「だろ。年を越す前に、どうにか整理しておきたくてな」
トレーナーさんは少し誇らしげに、肩をすくめて笑った。
「あんなにたくさん……。トレーナーさん、お疲れ様です。片付けるの大変でしたよね」
「お前の実力なら、これからもっと増えるぞ。覚悟してるからな」
冗談めかして返された言葉。整理された書類の束を見ていると、自分が本当にG1ウマ娘になったんだという実感が、ゆっくりと胸の中に染み込んできた。記憶がなくて不安だった私が、こうして大きなレースに勝って、新しい年を迎えられている。
トレーナーさんは穏やかな表情で私を見ていた。過酷な状況の中で走り抜いてきた私が、今こうして落ち着いた顔をしていることに、心からほっとしてくれているのが分かった。
「……正月くらいはゆっくりしたいな。近くの神社まで、初詣に行かないか?」
「初詣……。はい、ぜひ行きたいです」
静かなトレーナー室に朝の光が差し込んでいた。
新しい年の始まり。
その一歩目を、こうして並んで踏み出せることが──今の私には、何より大切なことだと思えた。
神社へと続く参道は新春の活気に包まれていた。
冬の澄んだ空気の中に、屋台から漂う香ばしい匂いと、参拝客たちの穏やかな話し声が混ざり合う。私は少しだけ緊張しながらも、隣を歩くトレーナーさんの存在に心強さを感じていた。
「すごい人ですね……」
「そうだな。正月早々、みんな願掛けに来てるんだろう。ほら、はぐれないように気をつけろよ」
「はい……」
人波に気圧されそうになりながら歩みを進めていると、ふと見覚えのある後ろ姿が目に留まった。私と同じような芦毛の髪のウマ娘と、青色のショートヘアのウマ娘。
「……あ」
「ん? どうかしたか?」
トレーナーさんの問いに答えるより先に、その人──ケイエスミラクルさんが、こちらを振り返った。
「……ユーフォリアさん?」
「ミラクルさん……! それに早瀬トレーナーさんと、ヒシミラクルさんも」
そこにはミラクルさんと、付き添いの早瀬トレーナーに、同じクラスのヒシミラクルさんが並んで歩いていた。
何より私の目を引いたのは、誰の手も借りず、自分の脚で立っていたミラクルさんの姿だった。
「あけましておめでとうございます、ユーフォリアさん。渡辺トレーナーさんも」
「おめでとうございます、ミラクルさん。……脚、だいぶ良さそうですね」
私が歩み寄ると、彼女はふわりと柔らかく微笑んだ。
「はい。おかげさまで、自分の脚でこうして初詣に来られるくらいには回復しました。……本当に、奇跡みたいです」
「よかった……本当に、よかったです……」
こみ上げてくる安堵感に、胸の奥が熱くなる。そんな私を見て、隣にいたヒシミラクルさんが「あはは、そんなに泣きそうにならないでよ~」と、いつものマイペースな調子で笑いかけてくれた。
「ヒシミラクルさんも、あけましておめでとうございます」
「おめでとー! ……ところで、ユーフォリアちゃん。さっきから『ミラクルさん』って呼ぶたびに、私とケイちゃんの二人がびくっとしちゃうんだけど」
ヒシミラクルさんが苦笑いしながら口を挟んだ。確かに、同じ「ミラクル」の名を持つ二人が揃っていると、呼び方に困ってしまう。
「あ……そうですね……」
「分かりづらいから、私のことは『ミラ子』って呼んでいいよ!」
明るい提案に、ミラクルさんもクスクスと笑った。
「それならおれも、ユーフォリアさんの好きな呼び方で呼んでください」
「ええと……じゃあ、改めて。今年もよろしくお願いします。ミラ子さん、そして……ケイさん。」
少し照れくさそうに名前を呼ぶと、二人は顔を見合わせて、新春の陽光のような晴れやかな笑顔を返してくれた。
参道を並んで歩きながら、ケイさんがふと、私の顔をまっすぐに見つめた。
「ユーフォリアさん。ホープフルSの走り、見ていましたよ。……あの走りに、また勇気をもらいました」
「──っ」
ケイさんの言葉が、胸の奥にちくりと刺さった。
(……勇気……)
私の視界が一瞬だけあの冬のターフへと引き戻される。
脚の運びも呼吸のリズムも、自分じゃない「誰か」が正解を選び続けているような不気味な感覚。
私はあの時、勝つために走っていたんじゃない。自分を侵食しようとする、あの底知れない「何か」から、ただ必死に逃げようとしていただけだった。
(私は……怖くて、逃げていただけなのに)
ケイさんはあの走りに光を見てくれた。けれど私は自分の内側に潜む深い闇を思い出し、指先がかすかに冷たくなるのを感じる。
もし、本当のことを伝えたら。
私が「私」でなくなる恐怖に震えていたのだと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「……ありがとうございます、ケイさん」
私は、心の中のざらついた感覚を悟られないよう、精いっぱいの笑顔を作った。
「そう言ってもらえると……その、走ってよかったって、思えます」
それは嘘じゃない。けれど、すべてでもなかった。自分の内側で動き始めている「影」の正体を知るのが、今の私にはまだ、たまらなく恐ろしい。
「おれも、またあなたと一緒に走れるように頑張ります。……あの時の約束、まだ消えていませんから」
静かだけれど、芯の通った言葉。それは、かつて私たちが交わした未来への約束だった。
「……はい。私も、待っています。また一緒に風を切りましょう」
失った記憶の代わりに、今の私にはこの温かな繋がりがある。奇跡的に回復した彼女の姿を見ていると、これから始まる一年を少しだけ信じてみたくなっていた。
けれど、参道を吹き抜ける冬の風が不意に私の背中をなでる。その冷たさは、あのレースで感じた温度を思い出させた。
本殿の前に立つと、先ほどまでの参道の賑わいが少しだけ遠のいた気がした。
澄んだ空気の中で、鈴の音と、柏手の響きだけが、境内に穏やかに広がっていく。
私は胸の前で手を合わせ、そっと目を閉じた。
──願いごと。
一瞬、失った記憶のことが頭をよぎる。
けれど、それは不思議なほど、言葉にならなかった。
(……今は、いい)
思い浮かんだのは、隣で歩くトレーナーさんの背中。
笑い合っていたミラ子さんとケイさんの顔。
支えてくれる人たちとの、当たり前で、かけがえのない日常。
(どうか、みんなが平穏に暮らせますように)
それだけを、心の中で静かに祈った。
目を開けると、冬の光が、本殿の屋根を淡く照らしていた。
参拝を終え、自然とおみくじを引く流れになった。
「おれ、こういうのちょっと緊張するんですよね」
そう言いながら引いたケイさんは、紙を開いた瞬間、目を丸くした。
「……大吉、です」
「おお、すごいじゃないか」
早瀬トレーナーと顔を見合わせて、二人で小さく笑う。
「奇跡、続いてるみたいですね」
「ああ……本当に、ありがたいな」
二人の間に流れる安堵の空気は、見ているこちらまで温かくさせた。
「俺は……吉か」
早瀬トレーナーは紙を折りながら小さく息をついた。
「ふう……まあ、悪くないな」
胸をなでおろすその仕草に、ケイさんがくすっと笑った。
「安心しました?」
「……まあ、そうだな」
そして、ミラ子さん。
「どれどれ~……あ、中吉だ! うん、いたって普通! ……まあ私らしいか~」
相変わらずのマイペースさに場の空気が和む。
「俺は……末吉、か」
トレーナーさんは自分のおみくじを見つめて、少し苦笑した。
「……ま、地道に頑張れってことだな」
それぞれの結果に自然と笑い声が混じる。
その流れの中で、私は最後の一枚を、そっと開いた。
そこに刻まれていた文字を見た瞬間、胸の奥が、すとんと沈む。
「……凶」
紙には、静かで容赦のない言葉が並んでいた。
──運気、底に沈む時。
進めば足を取られ、止まれば心が曇る。
今は抗わず、影の中で息を整えるがよい。
指先が、かすかに震えた。
『待人:来る。されど、それは邪であろう』
『失物:戻るが、光は失われる』
(……来る、の……?)
アルテミスSで。ホープフルSで。
何度も感じた、あの冷たい感覚。
背筋をなぞるように、同じ「影」が、確かにそこにあった。
「……ユーフォリア?」
トレーナーさんの声で、はっと我に返る。
気づけば、みんなが心配そうにこちらを見ていた。
「あっ……だ、大丈夫、です……」
けれど、私の様子で察したのだろう。
みんなが、一斉にフォローに回ってくれた。
「凶ってことはさ、これから上がるって意味だよ!」
ケイさんが、少し慌てたように言う。
「そうそう! ケイちゃんが大吉で、私が中吉なんだからさ〜。ユーフォリアちゃんの分まで、私が支えてあげるよ!」
ミラ子さんも、軽い調子で笑った。
「……気にするな。おみくじはあくまで目安だ」
トレーナーさんの声は、いつもより少しだけ低くて確かな響きがあった。
みんなの声が、優しく胸に染みていく。
(……ああ)
私は、こんなにも大切にされている。
この穏やかな時間を、確かに生きている。
そう思った、その時。
──ひらり。
空から、小さな白いものが舞い落ちた。
「……雪?」
誰かがそう呟いた頃には、境内の空から、静かに雪が舞い始めていた。
音もなく、ただ淡々と、世界を白く塗り替えていく。
私はおみくじをそっと畳み、境内の木に結びつけた。
凶も、吉も、すべてここに預けるように。
ひらりと揺れる紙が、雪と同じ白に溶け込んでいく。
そして、もう一度だけ、空を仰ぐ。
(どんなに暗い影が近づいていても──)
今、この時間を、手放したくない。
不吉な予感は、消えないまま胸の奥に残っている。
それでも。
隣を歩くトレーナーさんの足音を聞きながら、私は、そっと一歩を踏み出した。
新しい年の、最初の一歩を。