記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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どうも、管理人です。
生産ラインを作るのは楽しいですね。

あっまってたずなさんこれには訳g


第4章 三冠の胎動と、境界線。
Ep.40 静かなる深淵、偽りの安寧


夢の中で、私は沈んでいた。

 

 

どこまでも深く、どこまでも暗い。

 

 

まるで、光も音も届かない、深い海の底。

水は冷たく、重く、身体の輪郭をゆっくりと押し潰してくる。

 

息をしようとして、できないことに気づく。

けれど苦しさはなかった。

 

ただ、世界そのものが私を拒んでいるみたいだった。

 

 

その拒まれた世界の先に、何かが見えた。

 

それは人の形をしていた。

 

私と同じ背丈、同じ輪郭。ただ、髪だけが夜闇のように黒い。

 

彼女は、周囲に散らばった無数の"モノクロのノイズ"を拾い上げていた。

 

白と黒が滲んだ欠片。形を定める前に崩れ落ちる、不定形な断片の集合。

 

彼女はそれを1つずつ、丁寧に集めては、さらに深い場所へと沈めていく。

 

壊すわけでも、乱暴に扱うわけでもない。

 

ただ、見えないところへ。

確実に、隠すように。

 

 

——それを、見てはいけない気がした。

 

 

そう思った刹那、彼女がこちらを向いた。

 

視線が合う。ぞくりと背中を冷たいものが走る。

 

目元は見えない。けれど、口元だけが、わずかに弧を描いた。

冷たく、静かな微笑。

 

そして、指先をそっと唇に当てた。

 

「……Hush」

 

その一言が、命令のように胸に落ちる。

 

次の瞬間、世界の重さが反転した。

水圧が一気に抜け、身体が急速に浮上していく。

暗闇が引き剥がされ、意識が、光のある場所へと引き戻されていった。

 

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

 

…………

 

 

 

……

 

「……っ」

 

目を覚ました瞬間、胸いっぱいに空気が流れ込んできた。

 

冷たいはずの朝の空気が、驚くほど澄んでいる。

肺の奥まで一気に満たされて、思わず小さく息を吐く。

 

……軽い。

 

身体が、信じられないほど軽かった。

 

昨日まで、確かにあったはずの、背後に誰かがいるような感覚。

意識の奥に張り付いていた、冷たい違和感。

 

それらが、跡形もなく消えている。

 

 

 

私はゆっくりと起き上がり、部屋を見渡した。

 

ラサさんがいないことは、すぐに分かった。

隣の机に残る、四角い埃の跡。

胸の奥に、静かな寂しさが広がる。

 

──でも、それだけだった。

 

怖くない。感じたのは、あくまで"寂しさ"。

不安も、ざらつきもない。

 

鏡に映った自分の顔を見ても、何も感じなかった。

これまでのレースで覚えた、あの「私ではない誰か」に触れたような恐怖は、微塵も残っていない。

 

ただ、そこにいるのは私だけだった。

 

胸の奥が、ひんやりと澄み切っている。

まるで長い間絡みついていた何かが、きれいに洗い流されたみたいに。

 

私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 

「……大丈夫。おはよう、私」

 

理由は分からない。

けれど、今の私は、確かにそう思えた。

 

 

 

~グラウンド~

 

弥生賞に向けたトレーニングが始まった。ターフに立ち、冷たい冬の空気を肺いっぱいに吸い込む。

駆け出した瞬間、私は驚きに目を見開いた。

 

──身体が、ちゃんと重い。

 

足が地面を蹴る感触。

蹄鉄が土を噛み、筋肉が伸び縮みする。その一つひとつが、はっきりと身体に返ってくる。

 

以前のような、勝手に正解へ連れていかれる感覚はなかった。

気づいたら最速のラインに乗っている、あの不気味な合理性もない。

 

「……私、が……」

 

胸の奥で、言葉にならない実感が膨らんでいく。

 

今の走りは、決して完璧ではないのかもしれない。無駄な動きもあるだろうし、あの時の鋭さには及ばないのかもしれない。けれど、一歩一歩を自分の意志で踏みしめているという実感があった。

 

──トレーナーさんと一緒に歩んできた、今の私が走っている。

 

「いいぞ、ユーフォリア!フォームも安定しているし、何より動きが柔らかい」

 

コースの脇でストップウォッチを握るトレーナーさんの声が響く。その表情を見て、私は心の中で小さく微笑んだ。彼もまた、私の変化を好意的に受け止めてくれているのが分かったからだ。

 

 

並んで歩く帰り道、夕焼けが私たちの影を長く伸ばしていた。

 

「……トレーナーさん」

 

「どうした?」

 

「今日、走るのが……すごく、楽しかったです」

 

本当はもっと、かっこいいことが言いたかった。でも、口から出たのはそんな当たり前の言葉だった。トレーナーさんは少し驚いたように私を見たあと、いつも通り、穏やかに笑った。

 

「そうか。……なら、よかった」

 

その短い肯定が、今の私には何よりも心強かった。この脚で。この意志で。トレーナーさんと共に歩む未来を、私は確かに信じることができていた。

 

冬の風はまだ冷たかったけれど、私の胸の中には、消えない小さな灯が灯り続けていた。

 

………………

 

 

…………

 

 

……

 

この一連の様子を、少し離れた場所から眺めているウマ娘がいた。

 

アグネスタキオンは、白衣の袖の中で、無意識に指を強く握りしめていた。

 

──おかしい。

 

タブレットに映る数値を、もう何度も確認している。

ユーフォリアの走行データ。心拍、呼吸、反応速度。

 

そして、彼女が密かに追っていた、深層由来の"癖"。

 

「……消えてる、だと?」

 

異常値が、ない。いや、正確には……。

 

あったはずの揺らぎが、綺麗に姿を消している。

 

回復ではない。

正常化でもない。

 

彼女のあの"ノート"から出てくるものが、どこにもないのだ。

 

──隠された。

 

背筋に、冷たい汗が流れる。

 

それは、問題が解決した状態ではない。

観測できない場所へ、押し込められただけだ。

 

視線を上げると、トラックの中央で、ユーフォリアが笑っていた。

心から安らいだ、何の影もない表情。

 

その笑顔を前にして、タキオンは口を噤んだ。

 

「……今は、言えないね」

 

ここで真実を告げることが、彼女を壊す可能性がある。

それだけは、避けなければならない。

 

タキオンは白衣の裾を整え、静かに踵を返した。

 

「観測を続けよう。答えが浮かび上がる、その瞬間まで」

 

凍りついた不安を胸の奥に押し込みながら、彼女はそう結論づけた。

 

その頃ユーフォリアは、自分を見つめる視線があったことすら、知らなかった。

──ただ、今を走れていることが、嬉しかった。




再び新章開幕──。

(追記:UA10000↑ありがとうございます!これからも頑張ります!)
(2/3 追追記:挿絵を追加しました。)
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