記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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どうも管理人です。四号谷地を発展したすぎて武陵に行けません、どうしよう(?)
あっ理事長これは誤解d


Ep.41 幸福の足跡、沈黙の科学者

冬休みが明け、トレセン学園に活気が戻り始めた一月末の午後。

 

廊下の喧騒を遠くに聞きながら、私はいつものように旧理科室の扉を開けた。室内には、冬の低い日差しが斜めに差し込み、小さく舞う埃を白く照らしている。

鼻をくすぐったのは、この部屋特有の薬品臭と、消えかかったコーヒーの淡い残り香。いつも傍らにいるはずのカフェさんの姿はなく、部屋には静かな時間が流れている。

 

「やあ、ユーフォリア君。待ちかねていたよ」

 

タキオンさんは、モニターから目を離さずに私を迎えた。その瞳は、いつになく真剣で、どこか獲物を狙う狩人みたいな鋭さを孕んでいる。彼女が目を奪われているその画面には、あのホープフルステークスの動画や走行データが映し出されていた。

 

「ちょうど君のレースを解析していたところだ。ユーフォリア君も見てくれたまえ」

 

彼女は画面の一部を指差し、淡々とした、けれどどこか重みのある声で告げる。

 

「ふむ……改めて見返してみても、やはり不可解だ。特にレース終盤のこの動き、君はどう思うかね?」

 

タキオンさんがペン先でモニターに映された私をなぞる。画面の中の走りは驚くほど滑らかで、一切の乱れがない。

 

「……その、どうと言われましても」

 

「異常なまでの合理性だよ。選抜レース、メイクデビュー、アルテミスSと君の走りを見てきたが……今までの君と比べて、格段に違う。無駄を極限まで削ぎ落とし、最短距離で勝利のみを射抜く。言うなれば……まるで、何か精密な機械のようだねぇ」

 

タキオンさんは振り向き、私の顔をじっと覗き込んできた。その視線が、私の心の奥底を暴こうとしているようで、わずかに背筋が震える。

 

「もはや、見覚えのない誰かの走りのようだ。あの時、君の中にいたのは、一体……別の何だったのかな?」

 

不穏な問いかけが、静かな部屋に落ちる。

あの直線の記憶。確かにあの時、私の身体は自分の意志と無関係な"正解"をなぞっていた。自分を置き去りにして加速する、底知れない万能感。けれど、今の私は、その問いに対して恐怖を抱くことはなかった。

 

「……確かに、あの時の感覚は、今思い出しても不思議です」

 

私はゆっくりと言葉を選びながら、今の自分の胸にある思いを口にした。

 

「でも、タキオンさん。今の私は、あの日とは違うんです」

 

昨日の弥生賞に向けたトレーニングのことを思い出す。冬の冷たい風を切り裂き、ターフを踏みしめたあの感触。

 

「かつての、身体が勝手に答えへ連れていかれるような感覚……自分を置き去りにして加速する不気味な万能感は、今はもう綺麗に消えています」

 

「……ふぅン、消えた。と」

 

「はい。代わりに、地面を蹴る一歩一歩の重み、肺を焼く空気の熱さ、そして自分の意志で進路を選んでいる手応えが、今の私にはあります」

 

タキオンさんは何も言わずに、私の言葉を待っている。私は自分の両手を見つめ、指先を握りしめた。

 

「身体が重いんです。でも、その重さが、私にはとても幸福に感じられます。背中に張り付いていたあの冷たい影が消えて、世界が、自分の足跡が、ようやく自分だけのものになったような……そんな気がするんです」

 

暗い深淵から抜け出し、一筋の光を掴んだような高揚感。機械のような合理性ではなく、泥臭く、不器用で、けれど確かな"私"の足跡。それを積み重ねている実感が、今の私を支えていた。

 

 

タキオンさんは私の言葉を真っ向から受け止めると、わずかに目を細めて沈黙した。モニターの白い光に照らされた彼女の顔は、いつになく真剣で、どこか遠い深淵を覗き込んでいるかのようだった。

 

沈黙が旧理科室の空気を支配する。舞い上がる埃さえも、彼女の思考を邪魔しないように止まっている気がした。彼女が何を考えているのか、今の私には分からない。けれど、彼女の瞳の奥には、私の晴れやかな報告をそのまま「解決」として受け取ることのできない、科学者ゆえの冷徹な疑念が揺らめいているように見えた。

 

「ふむ……君自身がそう感じるのなら、今はそれがひとつの正解なのかもしれないね」

 

その言葉は、どこか突き放すようでいて、それでいて今の私の見解を優しく肯定してくれているように聞こえた。そして小さく頷き、モニターに視線を戻す。

 

「主観的な感覚が戻ったのなら、次は客観的な事実──つまり、君自身の記憶や記録を埋めていく頃合いでもあるのだろう」

 

「……はい。分かっています」

 

私は短く答え、彼女に一礼して旧理科室を後にした。

廊下の冷たい空気が頬を撫でたが、胸にはようやく取り戻した"自分の脚"への、かつてない喜びが満ち溢れていた。

 

 

 

一方、一人残された部屋で、彼女は再びモニターを見つめていた。そこに映し出されているのは、一切の揺らぎが排除された、あまりにも平坦すぎる計算結果の集積。

 

(……彼女の底の方で……より強固な形を成そうとしているのか……?)

 

冬の冷たい風が窓をガタガタと叩き、静かな部屋に残されたデータだけが、来たるべき"境界線"の揺らぎを静かに予感させていた。




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