社会人になって1週間が経ち研修が終わりました。……社会人ってすごいですね……。Twitterで見る絵師の人とか、YouTubeで見る人とかってこんなんみんなやってるって考えたら……すげえなって。
ちなみに遅れた理由は社会とは関係ない(と言えば嘘になるがほとんど)無いです、先週日曜の段階で見直し以外は出来てました。
大変ですけど頑張ります……。きっちー……。
四月が訪れた。学園内の空気はいよいよクラシック初戦、皐月賞に向けて熱を帯び始めている。学園の至る所に植えられた桜が咲いており、春の陽光がターフを照らす中、私は弥生賞での激戦を経て、次なる戦いへと調整を続けていた。
舞い散る花びらが、芝の上に薄紅色の斑点を作る中、私はその上を軽やかに、かつ力強く踏みしていく。
記憶という欠けた欠片を探すためではなく、今を共に歩む人たちの想いに応えるために走る。その決意が私の胸に火を灯し、揺るぎない確信となって私を支えていた。
(……レガリアさん。あの時の言葉、忘れていませんよ)
弥生賞でわずか1/2バ身差まで私を追い詰めた、レガリアさんの紅い旋風。彼女の「次はない」という宣言が、私の背中を静かに、けれど強く押し続けている。彼女との再戦に向けて、私はトレーナーさんと共に、より熱のこもったトレーニングを積み重ねていた。
その日の練習も、いつも通り真剣な雰囲気の中で進んでいた。
「いいぞ、ユーフォリア。そのリズムだ。脚の出し方も安定している」
コースの脇でストップウォッチを握るトレーナーさんの声が響く。その穏やかな声を聞くたびに、私の心は凪いだ水面のように落ち着きを取り戻すことができた。
──しかし、不測の事態は一瞬の隙を突いて訪れる。
昨日降った雨のせいで、コースの出口付近にはわずかなぬかるみが残っていた。コーナーを抜け、直線へと加速しようとしたその瞬間、私の左脚がわずかに地面を滑らせた。
「──あ」
思考が追いつくよりも早く、視界が大きく傾く。抗う間もなくバランスを崩し、無様に土を噛んだ。
鈍い衝撃と共に、右腕に鋭い痛みが走る。泥にまみれた腕を見ると、ジャージの袖が小さく破れ、その下の肌が赤く擦りむけていた。
「……っ、痛たた……」
ただの転倒だ。ウマ娘の頑丈な身体なら、数日もすれば消えてしまう程度の軽傷に過ぎない。私はすぐに立ち上がろうとして、駆け寄ってくる足音に顔を上げた。
「ユーフォリアッ!!」
悲鳴に近い絶叫だった。駆け寄ってきたトレーナーさんの顔を見た瞬間、私は自分の痛みさえ忘れて息を呑んだ。
「あ、あの、トレーナーさん? 大丈夫ですよ、ちょっと擦りむいただけですから」
彼の顔からは、血の気が完全に引いていた。青ざめた唇は小刻みに震え、私を見つめる瞳には、底知れない恐怖と深い怯えが混ざり合っていた。
「ダメだ。保健室へ行く。すぐにだ」
「でも、これくらい──」
「いいから、来い!!」
「ッ!?」
不意に差し出された彼の手が、私の細い腕を掴む。その力は驚くほど強く、強引だった。普段の穏やかで優しい彼からは想像もつかない激しさに、私は思わず肩を震わせ、大きく目を見開く。
向けられた瞳の奥にあるのは、私への怒りではない。もっと根源的な、過去の亡霊に追われるような底知れない「恐怖」だった。その気迫に、私はただ圧倒されるしかなかった。
懸命に無事を呼びかけるが、彼の手の震えは止まらない。
胸の奥が、ちくりと痛む。レガリアさんとの戦いや、自分自身のことよりも、今はこの恩人の瞳に宿った虚無を、どうにかして拭ってあげたいと願わずにはいられなかった。
「……うん、大丈夫。ただの擦り傷よ。すぐに良くなるわ」
白衣を纏った保健室の先生が、私の腕に丁寧に触れながら、穏やかに告げた。
私の脚や身体に触れる手つきは以前と変わらず優しかったが、その視線は私の傷よりも、その後ろで幽霊のように立ち尽くしている人へと向けられていた。
「……渡辺トレーナー。そんなに青い顔をしなくても、彼女は丈夫よ。ねえ、ユーフォリア?」
「はい。……ほら、痛みもほとんどありません」
私は努めて明るい声で答え、トレーナーさんの方を振り返った。けれど、彼は私の言葉が耳に入っていないかのように、ただ一点──私の腕に貼られた白い絆創膏を、光を失った眼差しで私の腕の絆創膏をただ見つめ続けていた。
処置を終えた先生が席を外すと、室内にはさらに重い静寂が降り積もる。
「……すまない、ユーフォリア」
彼は椅子に座ることもできず、拳を握りしめて床を見つめている。
「俺がもっとコースの状態を確認していれば……。俺が、お前を無茶に追い込まなければ……。また、俺のせいで……」
掠れた声が、静かな部屋に落ちる。自責の念という名の毒が、彼の心をじわじわと侵食していくのが分かった。
(……私に、何ができるだろう)
名前も、記憶も、居場所すらも持たなかった私を拾い上げ、光のある場所へと導いてくれた人。「幸福」という名をくれた、かけがえのない恩人。今の私がここにいて、笑っていられるのは、間違いなく彼のおかげなのだ。
今の私が受け取っているこの「幸福」を、少しだけでも彼に返したい。
「トレーナーさん」
私は勇気を出して、彼の震える手の近くに、そっと自分の手を添えた。彼はびくりと肩を揺らし、ようやく私を見た。その瞳は、光を遮られた深い闇のように濁っている。
その闇を、少しでも拭ってあげたいと願わずにはいられなかった。
「あの……今夜。もしよかったら、一緒に桜を見に行きませんか?」
「え……?」
予想外の言葉だったのか、彼の思考が一瞬だけ止まったようだった。
「学園の桜も綺麗ですけど、外の桜も見てみたくて。……一人だと、少し寂しいですから」
「……ダメ、ですか?」
私は少しだけ首を傾げて、彼の顔を覗き込んだ。
……少しだけ、ずるい言い方だったかもしれない。けれど、彼をこの暗い深淵から連れ出すには、今の私にできる精一杯の誘いだった。
トレーナーさんは、まだ迷うように視線を泳がせていた。自分の不手際で怪我をさせたウマ娘と、のんびり花見などしていいのか。そんな真面目すぎる問いが、彼の心の中で渦巻いているのが手に取るように分かった。
「……君が、そうしたいなら」
長い沈黙の末に、彼はようやく、絞り出すような声でそう答えた。その凍りついた眼差しは、まだ晴れてはいない。けれど、私の誘いを受け入れてくれたことに、私は小さな安堵を覚えた。
「はい! ありがとうございます。……じゃあ、一緒に行きましょう」
私は作ったものではない、心からの笑顔を彼に向けた。私の胸の奥に、春の陽だまりのような柔らかな温もりが広がっていった。
………………
…………
……
学園の喧騒から少し離れた、並木道の奥。夜の帳が下りたそこには、街灯の淡い光に照らされた夜桜が静かに咲き誇っていた。
昼間の鮮やかさとは違う、どこか幻想的で、それでいてひっそりとした白。風が吹くたびに、薄紅色の花びらが雪のように舞い、地面に落ちる。不意に昼間のトレーニングを思い出した。
隣を歩くトレーナーさんは、まだどこか心ここにあらずといった様子だった。昼間の保健室での強張った表情が、月明かりの下でも影を落としているのが分かる。彼の中に宿った「恐怖」の正体を知りたい、そしてそれを少しでも拭ってあげたいという思いが、私の胸を焦がしていた。
「……綺麗ですね、トレーナーさん」
「ああ。……そうだな」
彼は短く答えたものの、その視線は桜ではなく、地面に落ちた花びらに向けられていた。
しばらく二人で歩き、やがて人影が絶えた大きな桜の木の下で、私たちは足を止めた。静寂の中に、私たちの足音だけが消えていく。
私は一歩踏み出し、彼と相対するように立ち止まった。
「トレーナーさん。今日のことは、もう気にしないでください。私は、こうして元気に歩けています。かすり傷ひとつで、そんなに悲しい顔をされたら……私、どうしていいか分からなくなります」
私の言葉に、彼はびくりと肩を揺らした。そして、震える唇から言葉を紡ぎ始めた。
「……すまない、ユーフォリア。俺は、怖かったんだ。君が倒れるのを見た瞬間、頭の中が真っ白になった」
彼はゆっくりと顔を上げ、月を見つめた。その瞳には、深い後悔の念が滲んでいる。
「俺がまだ、チームのサブトレーナーをしていた頃の話だ。……俺には、かつて担当していたウマ娘がいた。その子は、どこか君に似ていたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私は以前トレーナー室で見た、あの写真を思い出した。私に似た、けれどどこか違う、強い瞳をしたウマ娘。
「真っ直ぐで、危ういほど一生懸命で。……俺はその輝きに甘え、彼女を無茶に追い込んでしまった」
………………
『トレーナーさん! お願いします、まだ走れますから、もっとトレーニングさせてくださいっ!』
『いや……。やめておいたほうがいい、今の体力じゃ──』
『大丈夫ですから! ……こんなんじゃ、次のレースは勝てません。もっと強くならないといけないんです……っ!』
『……。……はぁ、分かった。ただし、無理はしないことだぞ』
………………
『はぁっ! はぁっ! ──ぁ』
『ッ!? おい! 大丈夫かッ!?』
………………
『……ごめんなさい、トレーナーさん……。……わたし、バカでした。あの時、トレーナーさんの言うことを聞いていればこうはなってなかったんですけどね』
『……さようなら』
………………
「結果、彼女は致命的な怪我を負った。そのまま、一度もターフに戻ることなく引退した。……俺の、慢心と無知が、一人のウマ娘の未来を永遠に奪ってしまった……事務職に逃げたのも、自分を許せなかったからだ」
彼の告白は、夜の静寂を切り裂くように重く響いた。
「君を見ていると、時折、彼女の影を重ねてしまう。もし、また俺のせいで君が傷ついたら。もし、君の未来を、俺の手で壊してしまったら……そう思うと、足がすくむんだ。今の俺には、君を支える資格なんてないんじゃないかって」
月明かりの下で震える彼の背中は、あまりにも脆く、小さく見えた。彼がどれほどの重荷を背負って私の隣に立っていてくれたのかを、私はようやく理解した。
私は一歩踏み出し、彼の震える大きな手をそっと包み込んだ。その手は驚くほど冷たく、けれど確かに生きて、私を支えてきてくれた温度があった。
「……トレーナーさん」
私は、彼の瞳をまっすぐに見つめて言った。
「あなたが救えなかった人の代わりに、私がいるわけじゃありません。今の私は、あなたが名前を付けてくれた、ユーフォリアです」
「あなたがいてくれたから、私は走る楽しさを知りました。あなたが信じてくれたから、ここにいて、笑っていられる。……今の私はきっと、世界で一番、幸せですよ」
私の言葉に、彼は息を呑み、目を見開いた。
「……ユーフォリア……」
「怖くてもいいです、自信がなくてもいい。それでも、私の隣にいてください。隣にいる限り、私が何度でも、今の幸福を伝えますから。……だから、自分を許してあげてください」
夜風が吹き抜け、桜の花びらが二人の間を舞い上がる。彼の手の震えが、ゆっくりと収まっていくのが分かった。彼は包み込まれた私の手を、力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで握り返した。
「……ありがとう、ユーフォリア。……君は、本当に強いな」
ようやく彼が浮かべた微笑は、月明かりのように淡く、けれどどこか清々しいものだった。
「……ああ。俺は、もう逃げない。これからも、君の隣に居させてくれ。君が、その未来を掴み取るまで」
そう言って、彼はようやく、いつもの穏やかな笑みを見せてくれた。その瞳に宿っていた暗い影が、月明かりに溶けるように少しずつ薄れていくのが見えた。
皐月賞という大きな舞台が、すぐそこまで迫っている。強大なライバルの存在や、私自身の内側に潜む影への不安が、完全に消えたわけではない。けれど、この人と共に行くのなら、どんな闇さえも越えていける。
そんな予感が、降り積もる花びらと共に、私の心を満たしていった。