そういえばようやく新時代見ました、旧理科室ってあんなに狭いんですね……。
ぼちぼち書いていきます、失踪はしません。
皐月賞を無敗のまま制した翌日。窓の外では、春の柔らかな日差しが中山の激闘を過去のものにしようとしていた。
スピーカーから漏れ出す昨日の熱狂が、静まり返った室内に場違いなほど明るく反響している。分析のために映像をコマ送りするたび、無機質な操作音だけが、時計の針のように等間隔で空白を刻んでいた。
室内には淹れたてのコーヒーの香りが漂い、いつも通りの穏やかな時間が流れているはずだった。
「……特にあの坂での伸びだ。正直、鳥肌が立ったよ。レガリアの気配を完全に読み切って、最短のラインで加速に転じた。あの判断こそが勝利の決め手だったな」
トレーナーはモニターを指差し、誇らしげに語る。その声はいつも通り温かく、私の勝利を心から喜んでくれているのが伝わってきた。
「身体の使い方も、加速のタイミングも非の打ち所がない。君自身の意志が、あの極限状態で勝利を掴み取ったんだ。本当に、強くなったな」
トレーナーの言葉は、私への純粋な信頼と誇りに満ちている。今の私を「一人のウマ娘」として真っ直ぐに見つめてくれるその瞳。
けれど、私の指先は、膝の上で微かに震えていた。
(……あの時、私は)
脳裏に蘇るのは、あの瞬間の凍りつくような感覚。熱いターフの上にいながら、心臓の奥底だけが絶対零度の静寂に支配されていた。勝利という結果を導き出すためだけの、冷徹なまでの最適解。
それは、私の意志であって、私の意志ではなかった。
「……どうした、ユーフォリア? 何か、考え事か?」
問いかけに、私ははっと顔を上げた。トレーナーが少し身を乗り出し、心配そうに私の瞳を覗き込んでいる。その瞳には、私のどんな小さな揺らぎも見逃さないという献身さが滲んでいた。
「ぁ……」
言いかけて、喉の奥が引きつる。
もし。もし今、あの不気味な感覚のことを話したら。自分の身体の中に、自分ではない『何か』がいて。勝つたびに、私は私から遠ざかっているような気がすると伝えたら。
彼は、今のままの私を見てくれるだろうか? それとも、この温かな眼差しは、冷たい失望に変わるのではないか。せっかく手に入れた、この「
失いたくない。この人の隣で笑い、自分の足跡を刻んでいく今の幸福を。
「……いえ。その……」
私は、無理やり口角を上げた。
「……昨日の、ファンの皆さんの歓声を思い出していたんです。……あんなにたくさんの方が、私の名前を呼んでくれていたのが。私の存在を皆さんに知ってもらえているのが……なんだか、夢みたいで」
言葉が、嘘の形をしてこぼれ落ちる。なるべく自然に、なるべく今の私らしい返事を選んだつもりだった。
「ははっ、そうか。確かにな。お前の名前を呼ぶ声は、スタンドの端まで響いていたよ」
トレーナーさんは安心したように笑った。その笑顔が、今の私には眩しすぎて、直視することができなかった。
彼が再びモニターへと視線を戻した瞬間、私は奥歯を噛み締めた。
(……最低、だ)
胸の奥に、どろりとした嫌悪感がじわじわと広がっていく。自分を救ってくれた、世界で一番信頼すべき人に対して、私は偽りを述べた。真っ直ぐな彼の想いを、濁った沈黙で返してしまった。
余計なことを言ってはいけない。ただ、求められる『正解』の中にいなければならない。心のどこかで、そんな歪んだ強迫観念が、私の呼吸を浅くさせる。
かつて自分の思考が、自分の意志が、他者にとっての『ノイズ』でしかなかった場所が、あったような気がする。
余計な想いを、余計な感情を抱く度に何かが奪われ、身体が痛みに軋んでいたような、そんなおぼろげな残像。
今の私は、自由なはずなのに。「
「……ユーフォリア?」
「……。……なんでも、ありません。……皐月賞、勝てて本当によかった、です」
私はもう一度、借り物の平穏を演じるように、口角を引き上げた。窓から差し込む夕映えが、部屋を赤く染め上げていく。その美しさが、今の私には耐えがたいほど残酷に感じられた。
勝利の熱は、もう冷めていた。手元に残ったのは、一冠という栄光と、誰にも言えない冷たい秘密だけだった。
………………
…………
……
トレーナー室を出た後の足取りは、ひどく重かった。
窓の外はすっかり帳が下り、街灯の光がまばらに夜を灯している。トレーナーさんに浮かべてしまった「塗り固めた不誠実な表情」が、口元にこびりついて離れない。
私は逃げるように学園の外へ出て、夜の冷気に身を委ねた。門限まではまだ1時間以上の猶予がある。今の私には、壁に囲まれた寮の部屋も、人の気配がする学園も、どれも耐えがたいほど窮屈に感じられた。
辿り着いたのは、街を見渡せる少し高い場所にある公園だった。ベンチに腰を下ろし、街の灯りをぼんやりと眺める。
見上げる夜空には、月がない。新月の闇のせいで、街の明かりは余計に寂しく見えた。地平線の下に隠れてしまった月みたいに、私の心も真っ暗な闇の中に沈んでいた。
ベンチに腰を下ろし、冷たい風に身体を強張らせる。
「……月さえも、私を避けているみたい……」
ぽつりと漏れた言葉は、風にさらわれて消えた。
皐月賞を勝った。無敗のまま一冠を手にした。けれど、その栄光を実感するほどに、胸の奥には泥のような嫌悪感が広がっていく。あの坂での加速、あの最短のライン。あれは、私の意志ではなかった。私の身体を借りた『何か』が導き出した、冷徹な最適解だった。
その事実を隠し、トレーナーさんに「夢みたい」などと偽った自分の狡さが、吐き気がするほどに忌まわしい。
『──それなら、何のために、嘘をついた?』
「っ!?」
不意に、背後から凍り付くような冷たい声が聞こえた。
絶対零度の静寂に支配された、あのレース中の感覚と同じ冷たい声。
はっとして振り返る。しかし、そこには誰もいない。夜風に揺れる植え込みの影があるだけだった。
(……うそ、だ。レース以外に、聞こえるなんて)
激闘の疲れだろう。そう自分に言い聞かせ、前を向き直そうとした刹那。
『逃げるのか。あの時と同じように。保身という偽りの中に』
今度は右から声が響く。先ほどの思考を許さないように、鋭く、合理的で、感情の欠片もない響き。反射的に視線を向けるが、やはり暗闇が広がっているだけだった。
「……やめて」
『何を恐れる必要がある』
左から囁かれる。私の感受性が捉えるのは、他者の感情ではなく、私自身の内側から溢れ出す圧倒的な『個』の意志だった。
「……答えてッ! あなたは、誰なの!?」
震える声で問いかけた瞬間、再び背後で気配が凝縮された。
ゆっくりと振り返った先、私が先ほどまで座っていたベンチの上に、それは立っていた。
人の形をした、漆黒の塊。街灯の光さえも吸い込むような深い闇を纏い、顔の造作は見えない。ただ、深海の底で出会ったあの存在と同じ、絶望的なまでの静寂を纏っている。
その立ち姿には、一切の迷いも無駄もない。ミリ単位の狂いも許さぬ、冷徹な秩序がその立ち姿に凝縮されていた。
その影が、私をじっと見つめているのが分かった。視線が合うわけではない。けれど、魂の根源を覗き込まれているような、逃げ場のない感覚に支配される。
「……あな、たは……」
「私は、お前が切り捨てようとした『正解』だ」
その存在から、目が離せなかった。蛇に睨まれた蛙のように、足が震え、声が震えて出てこない。
影が一歩、こちらへ踏み出したように見えた。
その瞬間、異変が起きた。
まず、つま先の感覚が消えた。冷たい氷の海に浸したかのように、自分の脚が、どこにあるのか分からなくなる。
感覚の麻痺は、太腿、そして腰へと這い上がるようにして私を奪っていく。逃げようとしても、逃げ出すことのできる部位は私の支配下にない。
(……あ、れ……)
次に、指先が凍りついたように動かなくなった。手のひら、そして腕へと"無"が浸食していく。
「……ま、って……」
視界が急速に狭まっていく。街の灯りも、公園の木々も、すべてがモノクロのノイズに呑み込まれていく。
「……トレー……ナー、さん……」
さいごに名前を呼ぼうとしたけれど、唇はもう動かなかった。
意識が、黒く濁っていく。
私はそのまま、深い、深い闇の中へと、力なく崩れ落ちていった。