記憶喪失ウマ娘は幸福になれるか   作:deyus

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Ep.50 凍てつく底、届かぬ祈り

 

 

 

 

 

暗い。

 

 

 

ここには、何もない。

 

 

 

上下も、左右も、時間の概念さえも消失した、絶対的な無の空間。

 

一寸先も見えない闇が、まるで重たい泥のように身体にまとわりつき、私の輪郭を少しずつ削り取っていく。

 

 

 

(……私は、どうなったの)

 

 

 

問いかけようとしても、声が出ない。そもそも、喉という器官があるのかさえも分からない。

 

ただ、意識の断片だけが、冷たい水面に浮かぶ油のように漂っていた。

 

 

 

皐月賞の熱狂。レガリアエンブレムの鋭い眼差し。そして、トレーナーさんに吐いてしまった「嘘」の苦み。

 

それらすべてが、漆黒の深淵へと沈んでいく。

 

 

 

 

 

『案ずることはない。これは、最適化の過程に過ぎない』

 

 

 

 

 

闇の向こうから、あの声が聞こえる。

 

 

 

その声に身を委ねれば、きっと楽になれる。痛みも、迷いも、記憶喪失という不安さえも、すべては効率という名の秩序に整理される。

 

けれど、それは「私」の死と同じだった。

 

 

 

(……嫌だ。私は、まだ……あたたかい場所に……)

 

 

 

無常にも、影が私の心を塗り潰していく。

 

 

 

 

 

消え入りそうな意識の中で、私は必死に、ある「手のひら」の感触を思い出そうとしていた。

 

 

 

その小さな記憶だけが、この暗闇の中で私を繋ぎ止める、唯一の錨だった。

 

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

 

…………

 

 

 

 

 

……

 

 

 

寮にも、学園のどこにも、あいつの姿はなかった。静まり返った夜の廊下を、俺は心臓の鼓動だけを道連れに走る。

 

時計の針は門限である22時をとうに過ぎていた。無敗で皐月賞を制した彼女が、ユーフォリアの様子がどこかおかしかったことは分かっていたはずだ。それなのに、俺はなぜもっと踏み込まなかったのか。

 

「「渡辺さん!/渡辺トレーナーさん!」」

 

背後から鋭い声が響き、俺は弾かれたように足を止めた。そこには、悲痛な表情を浮かべた早瀬と、その後ろで肩を震わせているケイエスミラクルが立っていた。

 

「……早瀬、ミラクル。どうしてこんな時間に」

 

「……ユーフォリアさんと、連絡が取れないんです。それで、トレーナーさんに聞いてみたら、寮に戻ってきてないって……」

 

ミラクルの切迫した言葉に、俺は奥歯を噛み締めた。

脳裏を過るのは、数年前、自分の不手際で壊してしまったあの子の、光を失った最後の背中だ。

 

(また、俺のせいで……。俺は、なにも……)

 

「ッ……」

 

こみ上げる自責の念が、呼吸を浅くさせる。

 

「……落ち着いてください。自分を責めるのは後ですよ」

 

早瀬が俺の肩を強く掴み、その揺らぎを無理やり止めた。

 

「ユーフォリアさんが最近よく行っていた場所、あるいは……一人で考え込みそうな場所を思い出してください。……渡辺さんなら分かるはずです」

 

必死に記憶を掘り起こす。彼女がふとした瞬間に見せていた、あの寂しげな横顔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、まだ冬の厳しさに凍えていた頃。ホープフルステークスが終わってすぐの時だった。

 

 

 

 

 

トレーニングの帰り道、ふと足を止めたユーフォリアが、どこか遠くを見つめながら呟く。

 

 

「トレーナーさん。私……時々、街の音が怖くなることがあるんです」

 

 

彼女は自分の細い腕を抱きしめるようにして、寂しげな笑みを浮かべている。

 

 

「皆さんの期待の声も、学園の活気も、本当はとても温かいはずなのに。時々、それが私の知らない『私』を形作っていくような気がして……今のわたしが、どこにもいなくなってしまいそうで」

 

 

その瞳には、自分の存在が他者の意志という『ノイズ』に溶けて消えてしまうことへの、切実な怯えが滲んでいる。

 

 

「ある日、ふらりと外に出てみた時に見つけたんです。街が見渡せる、少し高いところにある公園を」

 

 

ユーフォリアは、その丘を指先でそっと指し示している。

 

 

「そこからだと、学園も、中山の激闘を待つターフも、全部が小さく見えました。街の灯りが星みたいに散らばっていて……。そこでは私が誰であっても、名前がなくても、ただの景色の一部になれる気がするんです」

 

 

その時の彼女の瞳は、手に入れたばかりの幸福を噛み締めているようでもあり、同時に、自分自身のからっぽな内側に怯えているようにも見える。

 

 

「……もし、私が自分を見失いそうになったら。きっと、あそこで街の灯りを探していると思います」

 

 

冗談めかしているが、その響きには切実な願いがこもっている。

 

 

「だから……その時は、見つけてくれますか?」

 

 

「ああ。……約束だ」

 

 

 

 

 

あの時の、冷たい風に混じった彼女の体温と、寂しげな視線の行先。それらが今、俺の脳裏で鮮明な色彩を持って弾けた。

 

 

(……そうだ、あいつは言っていたんだ。自分を見失いそうになったら、あそこへ行くと)

 

 

確信が、すべてのピースを繋げた。

 

 

 

 

 

「……公園だ。街を見渡せる、高台の……」

 

三人は、夜の重力に抗うように学園を飛び出し、暗い街へと駆け出した。

 

街灯の光がまばらな坂道を、祈るような思いで駆け上がる。辿り着いた公園は、新月の闇に包まれていた。本来あるはずの穏やかな空気など微塵もなく、そこには不気味なほどの静寂で満たされている。

 

 

そして。

 

 

人影のないベンチの側。そこに、銀髪の少女が力なく横たわっているのを見つけた瞬間、心臓が止まるかと思った。

 

「ユーフォリアッ!!」

 

俺は叫び、彼女の元へ駆け寄る。その身体を抱き上げた瞬間、衣服越しに伝わる肌の冷たさに戦慄した。氷のように、いや、命の通っていない人形のように冷え切っている。

 

「……ッ!? おい、しっかりしろッ! ユーフォリア!!」

 

必死にその名前を呼び続け、彼女の身体に自分の体温を分け与えようと強く抱きしめた。

 

「……息はある。だが、意識が深すぎる」

 

早瀬が素早く脈を確認するが、俺は彼女を抱きしめたまま、その指先に伝わる『無』の感覚に戦慄していた。

 

かつて名前すら持たなかったあいつを見つけたあの日、雨の中で震えていたあの命の灯火が、今、再び消えかかっている。

 

「ユーフォリア、目を開けてくれ……お願いだ……」

 

震える声で呼びかけながら、俺は自分のコートを脱ぎ捨て、彼女の細い肩を包み込んだ。

自分の体温が彼女に伝わるように、強く、壊れ物を扱うように優しく、その手を握りしめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

闇の底に、ひび割れたように光が差し込んできた。

 

 

音も、温度もないはずの深淵に、震えるような声が響く。

 

 

何度も、何度も私の名前を呼ぶ、ひどく必死で、今にも壊れてしまいそうなほど温かい声。

 

 

その声が、私を塗り潰そうとしていた冷たい『正解』の鎖を、内側から溶かしていくのを感じた。

 

 

「……ユー……リア……! ……くれ……!」

 

 

重たい瞼の裏側に、熱が伝わってくる。

 

 

氷の海に浸されていたはずの指先に、誰かの手のひらの体温が流れ込んできた。それは夢の終わり際、私が必死に掴もうとしていた唯一の錨の感触だった。

 

 

(あたた、かい……わたしは、まだ……)

 

 

重力のない闇から、一気に現実の冷たい大気へと引き戻される。ゆっくりと瞳を開くと、ぼやけた視界の中に、街灯の逆光を背負った一人の男性の顔が浮かんだ。

 

「……と、れーなー……さん……?」

 

視界に飛び込んできたのは、街灯の薄明かりに照らされた、今にも泣き出しそうなトレーナーの顔だった。

 

彼のコートに包まれ、その腕の中で抱きしめられていることに気づく。

 

「……っ! ユーフォリア……! よかった、気がついたんだな……!」

 

彼の震える声に応えようとしたとき、視界の端の、別の影が動いた。傍らでは、早瀬トレーナーが険しい表情で私の手首に指を当て、脈拍を確認している。その冷静な手つきとは裏腹に、私と目が合った瞬間、彼の瞳には隠しきれない安堵の色が広がった。

 

「……ユーフォリアさん……っ、よかった……本当に……」

 

早瀬トレーナーの後ろから、消え入りそうな声が聞こえた。ケイさんが、震える両手で自分の胸元をぎゅっと握りしめ、涙を浮かべて私を見つめていた。

 

「……ごめんなさい、私……。……勝手なこと、して……」

 

謝ろうとして体を動かそうとした瞬間、私は言いようのない違和感に襲われた。

 

立ち上がろうとした足が、まるで借り物の棒のように感覚を返してこない。脳からは「立て」という命令が出ているのに、その間に現実感のない『奇妙な空白』が横たわっているのだ。

 

(……あ、れ……?)

 

完全な無感覚ではない。けれど、自分の意志と動きの間に、ほんのわずかなラグがあるような、もどかしい違和感。

 

あの影が見せた圧倒的な合理性と、それに身を委ねかけた代償なのだろうか。

 

「……顔色がまだ悪いな。……学園に戻ったら、すぐに医務室へ行こう」

 

トレーナーさんが私の細い肩を包み込み、優しく促す。傍らで早瀬トレーナーが「落ち着いて、ゆっくり立ち上がって」と声をかけ、ケイさんが不安そうに私の顔を覗き込んでいる。

 

「……と、トレーナー、さん……私……」

 

本当のことを言わなければならない。私の身体が、私のものではないみたいなんです、と。

 

けれど、心配そうに私を見つめる彼らの瞳を見て、私はまた1つ、不誠実な嘘を重ねることを選んだ。

 

この温かな居場所を、私の内側に居座り始めた『異物』で汚したくないという、歪んだ願いのために。

 

「……その……わたし……。……少し、夜風に当たりすぎたみたいで……。……いつの間にか、眠ってしまっていたみたい、です」

 

夜風に当たって眠ってしまっただけ。……そんなこと、あるわけがないのに。

 

「……そうか。とにかく、無事でよかった。早く帰ろう、歩けそうか……?」

 

「……はい。……ただ、その……」

 

私は、彼のコートの袖を、縋るようにぎゅっと掴んだ。指先に触れる布地の感触さえ、どこか遠い夢の中の出来事のように感じられてしまう。

 

「……すみません。少しだけ、手伝ってほしいです。……肩を、貸してくれますか?」

 

「ああ、もちろんだ。……ゆっくり行こう」

 

トレーナーさんに肩を抱かれ、反対側をケイさんと早瀬トレーナーさんに支えられながら、私はゆっくりと歩き出した。3人の温かな手に支えられながらも、私は自分の身体の中に、決して消えない『異物』が居座り始めたことを確信していた。

 

新月の夜。

私は確かに、私の半分を、あのベンチに置いてきてしまったのだ。




物語の連続性を保たせるために、ここに失礼します。
筆が……重たい……鉛を持っているみたいに、持ち上げにくい……。過去一のスランプです。なんとかEp.50は書くことができましたがもう1か月も経ってしまった。

……それでも、私は失踪しません。約束したので、必ず貫き通します。……ただ、今は少し足取りが遅いかもしれませんが、絶対帰ってくるので、待っていてください。きっと……この物語を、予定していたシナリオ通りに終わらます。
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