「なんや臭いな〜」
雛森が手にしていた書類をひょいと指で摘まみ上げると、五番隊長平子真子が目を眇めながら呟く。
「だからいつも言ってるじゃないですか。部屋の換気をしてくださいって。隊長の部屋は臭いんですから」
同隊副隊長の雛森桃が呆れたように言う。
「臭い言うんやめてや!ごっつい傷つくやん!俺が臭いみたいやんか!」
「だって焦げ臭いですし⋯」
「せやからいつも言うてるやろ。これは香ばしい言うんやて。桃にはわからんかこの芳醇な珈琲の香りが」
「え〜…」
畳張りに書斎机の隊首室には似つかわしくない器から湯気と共に漂う香りを心地よさげに嗅ぐ平子を雛森は疑わし気な眼差しを向ける。
「私にわかるのは隊長が度々書類に珈琲を零していることと、そのせいで作り直しになる手間なんですけれど」
「そんないけずなこと言いなや」
じとりとした雛森の視線から逃げるように平子が珈琲を啜る。
ジャズと呼ばれる音楽機器の他にも隊首室には似つかわしくないものが数多く存在する。それらの大半は平子が現世より持ち帰ったものである。
ジャズについては、聴いていて心落ち着くこともあり、音楽に造脂が深い訳でもない雛森としても良いものだと理解できるのであるが、「珈琲」と呼ばれる飲み物については完全に理解の範疇を超えていた。
虚の穴のように真っ暗な黒い色、鼻を突く自己主張の強い焦げ臭さ、口に含んだ瞬間に広がる強烈な苦みと酸味は初めて口にして以来雛森の密かなトラウマになっている。『桃はお子ちゃまやな〜』と笑った平子のヘラヘラした笑みは忘れていない。
雛森としては度々訪れる隊首室にそのような得体の知れない飲み物の臭いが充満しているのは勘弁願いたいものだが、雛森の気持ちとは裏腹に珈琲にハマる平子の隊首室は日に日にその匂いを強くしていくのだ。
「⋯ってちゃうちゃう。臭いのは珈琲ちゃうて」
「他に何があるんですか?」
「そない真っ直ぐな目で見られるとホンマ傷つくわ〜。まぁええわ。臭いっちゅうんはこれや」
摘まんでいた書類を雛森に手渡す。
「斑目副隊長の報告書ですか?」
十一番隊副隊長の斑目一角が慣れない事務作業に業に忙殺されていると聞いた雛森は彼の手持ちの書類の幾つかを手伝いとして受け取っていた。
最初は自部隊の業務を雛森にやらせることに渋っていた一角であったが、同期の友人である阿散井が心配していたことに加え、一角の目の下に色濃く刻まれた隈を見ては世話焼き気質の雛森としては放っておくことができなかった。
結局、書類の細かい書き損じや不備のチェックくらいは手伝うという形で半ば強引に書類をもぎ取った雛森は先ほどまで一角の書類に目を通していたのであった。
「報告内容は確かに言葉はつっけんどん過ぎる気もしますけど…」
一角の書類は彼の性格そのもののように実に素っ気無く、ともすれば内容不十分として突き返されかねないものであったが、必要最低限の内容は書かれている。
意外にも達筆の部類に入る一角の字は、書道を嗜む雛森の目からは勢い良く、躊躇いも無い気持ちの良い字である。
そこに書かれる簡潔な文章はぶっきらぼうな性格が伝わってくるものの読み易く寧ろ好感が持てるくらいであったのだが、平子は何が気に食わないのか書類をじろりとした目で睨み付けている。
「言い回しはまぁええわ。斑目っちゅうたら、あの血の気の多そうなハゲやろ?寧ろアイツがこんな綺麗な字書くのがびっくりなくらいや。臭い言うんは内容やな」
「そこまでおかしい内容でしょうか。他の隊士からも聞いている内容とほぼ合致していますけれど」
「せやな。隊首会でも聞いとるわ。
「横嶌隊長が卍解を出されて、斑目副隊長と綾瀬川三席と共に
「そこや」
ぴっと平子の細長い人差し指が書類の該当箇所を指さす。
「最下級大虚とは異なる外見。獣くらいのサイズで霊圧は最下級大虚を遥かに超えるデカさ。戦闘力も席官では歯が立たへんかったから中級大虚と思われるっちゅう話やな。桃、中級大虚の定義は知っとるな」
「自我を持った最下級大虚が他の最下級大虚を捕食し、その霊力を取り込みつつ自我を維持し続け進化した大虚⋯ですよね」
「まぁ、共食いを繰り返した自我の強い大虚やな簡単に言えば。つまり中級大虚には自我があんねや」
雛森が神妙な顔で頷く。
普段ヘラヘラとした平子が真剣な目をしている時に語る言葉は、それだけの重みをもつことなのだと彼女は理解していた。
「人は二度死に、虚は二度生まれる⋯聞いたことあるやろ?」
「霊術院で最初に習う言葉ですよね。人は二度死に、虚は二度生まれる。虚が二度生まれることの無いよう、人に二度目の死を⋯現世において、人間は肉体的な意味で一度目の死を迎え、死神の魂葬で魂を昇天させることで本当の意味で現世において死を迎える。人の霊は虚となり彷徨い、他の虚に食われ獣に堕することで二度目の誕生を迎える。彷徨える魂を穢さぬよう、苦しめぬよう、我々死神は魂が獣に堕する前に魂の声を聴き取り速やかに安らぎを与えるべし。死神の心得としてそう習いました」
「流石は優等生やな。完璧や」
すらすらと教本に書かれている文言を諳んじる雛森に、平子は手を叩く。
小馬鹿にする風でもなく、素直に褒められていると察し、雛森は恥ずかし気に微笑む。
「けどな、ホンマはちゃうねん」
「え?」
雛森の諳んじた言葉自体は正解だ。
真央霊術院の教本に載っている死神の心得である。
「霊術院ってところは言ってしまえば、プロを育てる場所や。一定のレベルの任務をこなせるノウハウとスキルを持ったプロを養成して護廷に送る所や。せやから、真っ新なヒヨッコ共に余計な先入観は入れんようにするっちゅうことやな」
朽木ルキアが嘗て黒崎一護に虚は背後から一撃で斬るように指示したのと同様に、真央霊術院は霊力の高い若者を死神へと効率的に育て上げるプログラムを持っている。書かれているのは効率的に迅速に虚を倒し、霊を送ることの出来る死神の養成をするものであって、決して勇猛な戦士を育て上げるものではない。
「ええか、虚は生まれるんやない、人の霊が虚に“成る”んや」
平子の言わんとする言葉を察したのか、雛森が秀麗な眉をひそめた。
(聡いやっちゃ)出来の良い妹を見るように平子の目が優し気に細められる。
「おかしいとは思わんかったか。魂葬とは言っとるが俺らは殺してるつもりはあらへん。あくまで送っとるだけや。だったら、何を以って人の死と言う?何を以って虚が生まれると言うんや?」
「二度目の死は⋯自我の喪失、ですか?」
「人は肉体の死を経て虚に成る。虚に成った人の魂は他の虚に食われることで自我を失い二度目の死を迎える。そして生まれるんが獣に堕した虚や。魂を食ってデカくなり続けた虚は共食いを始め更にデカく強くなる。そこからもう一度自我が生まれるんや」
「中級大虚·…」
「……喜助が言うてたな。人の自我が虚に食われて無くなるんは池の水に塩を降るみたいなものやと」
マグカップに半分ほど残っていた珈琲をゆっくりと一口飲む。
藍染の策謀により虚化し現世への潜伏を余儀なくされていた頃、浦原喜助が口にしていた言葉を思い出す。
『あくまでもアタシの解釈なんっスけど、人の自我をひと摘みの塩とすると、巨大な虚に食われるのは他にそのひと摘みの塩を降るようなもんなんス。池の水にひと摘みの塩は容易く呑み込まれる。けれど、それが量を増していけばどうなります?海のように膨大なだけなら巨大虚や最下級大虚でしかありません。けれどその海を圧縮して熱したなら…』
「塩の結晶が中級大虚の自我、喜助はそう言っとったな」
霊力は圧縮すると密度が濃くなる。
霊圧が強くなるということだ。
ある領域を超えると、虚が体積を縮めるのはこの現れだ。
中級大虚や最上級大虚は小さいのに霊圧が強いのではない、霊圧の強さの証明があの体積なのだ。
そして、霊力の圧縮による高密度化は自然発生するものでは決してありえない。
強い自我、強靭な意思の力、強さへの貪欲なまでの渇望という「熱」が必要とされる。
「それじゃあ本当の言葉の意味は…」
「人が二度目の死を迎えることと虚が二度の生まれるんは一つの流れのことや。そうして中級大虚以上の存在になる。けど教える連中も途中で気付いた。
「じゃあ、隊長が疑問に思ってらっしゃるのは、この報告の"自我が確認できない中級大虚“という箇所なんですね」
「自我の有る最下級大虚はおるけど、自我の無い中級大虚はおらんのや」
斑目の報告書に視線を落としながら、雛森が微かに頬を強張らせている。
おそらく既に察しているのであろう、平子の言葉の続きを。
「もし、いたとしたら?」
ぴっと二本指を立てる。
ピースサインのようにおどけて見せているが、そうではない。
「二つやな。一つは自分で自分の自我を放棄した場合⋯これはそうおらんやろうな。可能というだけの話や。そんでもってもう一つは」
カップの中の残り少ない冷めた珈琲を一息に飲み干す。
「壊されたかやな」
雛森が微かに息を呑む。
平子には容易に彼女の気持ちがわかった。
何故なら平子も同じことを考えていたからだ。
そのような行いをする者などそうはいない。
おそらく同じ男の顔を思い浮かべているのだろう。
(