護廷隊士の出動要請は昼夜を問わない。それが火急のものであればある程に要請は稲妻の如く瀞霊廷を駆け廻る。
檜佐木はその要請を瀞霊廷通信編集所で受けた。
流魂街で頻出する虚の出現。
そこは九番隊の管轄地であった。
出現が確認されたのは中級大虚クラスの虚であり、席官の出動が必須であった。
数で囲みさえすれば五席以下の席官達であっても対処することはできたかもしれない。
しかし、徒に戦力を出し惜しみして死者を増やすといった事態が頻繁に見られたこと、先日の四番隊の出稽古で苦杯を舐めさせられたことが記憶に新しいことが、五席のみならず三席と四席の出動を招いた。
九番隊の隊士達は四番隊の手など借りるものかという意気込みの下、半ば檜佐木の制止を振り切るように駆け出して行った。
間が悪いことに、その日は瀞霊廷通信の締め切りが間近に迫っていたせいで、檜佐木は彼らに同行することなく編集作業に移ってしまった。
檜佐木の判断は決して間違ってはいない。
九番隊で三番手の強さを持つ三席を始めとした
複数名の席官の派遣は寧ろ過剰な戦力投入と呼んでも差し支えない。
三席以下が出払い、必然的に隊士達からの報告をいつでも受けられるように執務室に籠るのは副隊長の檜佐木になるはずであるが、隊長であり本来編集長になるべき六車拳西は「俺は執務室に待機してるから安心しろ修兵」と端から手伝うつもりも無く、犬でも追い払うように檜佐木を編集所へ送り出した。
檜佐木としては思わぬところが無かった訳ではないが、その意識はすぐに編集作業へと移る。
普段は分業している作業を憎佐木が一人で行う羽目になり、あれこれ思いあぐねている余裕は無かったのだ。
今夜は徹夜作業になるだろう。進捗具合と締め切りを勘案するとどう足掻いても睡眠を犠牲にしなければ間に合いそうにも無い。ペン尻で頭を掻きながら檜佐木が一息吐いた時であった。
「檜佐木副隊長様!!ご報告がございます!!」
息を切らせて駈け込んで来た裏廷隊の隊士の後ろには、険しい顔をした拳西が立っていた。
「修兵、先行ってるぞ」
「隊長!?」
拳西の表情と裏廷隊の様子だけで事態の重さを瞬時に察した。
ペンを置き、作業机の横に立て掛けていた斬魄刀を握り締める頃には既に拳西が走り出していた。
檜佐木が視線を寄越した裏廷隊士が頷く。
既に拳西には説明が済んでいるらしい。すぐにでも拳西に追いつくべく手短に報告を受けた檜佐木は唇を噛み締めた。
裏廷隊士が現れた時点で嫌な予感はあったが、それが一つ漏らさず当たっていた。
虚退治に向かった隊士達が一人残らず消息を絶った。
拳西が火の王の如く飛び出した理由がよくわかる。おそらく彼の脳裏には今110年前の藍染の事件が過っていることだろう。
檜佐木が拳西に追いついた時にも彼は何も口にはしなかった。
しかし、その胸中には焦燥と苛立ちが渦巻いていることは想像に難くない。
隊長格二人の全力の瞬歩だ、時間にすれば僅か数分のことであったにも関わらず、檜佐木には到着するまでの時間が何時間にも感じられた。
拳西達が着くと、そこに転がっていたのは九番隊の隊士達と、既に彼らに斬り伏せられた虚の躯であった。
立っている者は一人もいない。
あちこちから小さな霊圧を感じる。
微かに怯えた気配。息をひそめほんの僅かに擦れる衣服の音。
この地区の住民であろう。
見渡す限り、虚の躯を除けば倒れているのは死覇装姿ばかりである。身を呈して住民達を守ったのであろう、彼らの矜持を感じ取り檜佐木は胸が潰れる思いがした。
「...ぅう⋯」「」「たい、ちょお」「あぁ⋯」
聞こえてきた小さな呻き声に拳西の顔色が変わる。
「修兵!」「はい!!」
声のする方、拳西は離れた場所から微かに聞こえた方へ、檜佐木はすぐ近くから聞こえてきた声の方へと駆ける。声の主の一人、三席の男を抱きかかえると男は焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。
抱き寄せた拍子にべちゃりと生温い血と濡れて重たくなった死覇装の感触が剥き出しの檜佐木の腕に絡みつく。胸元を大きく斬り割かれ、噴き出した自分の血に顔半分を染め上げながら男は空気の中で喘ぐように喉を震わせる。
「喋るな」
いつ死してもおかしくはない重傷であるが、三席の霊圧と肉体の強靭さであればもつかもしれない。
少なくとも四番隊の応援を要請するまでもちさえすれば⋯
「副⋯隊ちょ、まだ⋯」
血に塗れた手で檜佐木の死覇装をつかみながら、三席が言葉を振り絞る。
男が口を真一文字に開き小さく「ぃ」と発音しようとしていることに気付く。
まだ⋯
まだ⋯いる⋯
続く言葉が檜佐木の脳裏に呪言のように響く。
檜佐木の背筋を氷柱が突き刺さる様な寒気が走った。
「カハ⋯⋯ッ」
まず、冷たかった。
冷たいものが身体の隙間をとおり抜けたとわかった。
次に感じたのは異物感。
胸の中に何かが挟まって邪魔をしている。疎外していると感じた。
檜佐木が見下ろすと、胸からはぬるりと赤く尖ったものが飛び出していた。
赤く染まった冷たく尖ったモノは月明かりに照らされ、てらてらと艶めかしく輝いている。
それは刃であり、月光の下艶めかしく輝いているのが己の血であると思い至った瞬間熱と痛みが檜佐木の身体の隅々まで駆け抜けていった。
「がは⋯っ、げぼ⋯ッッ」
喉元を競り上がる吐き気に抗えず咳き込むと、湯飲みをひっくり返したように血の塊が檜佐木の喉から毀れ落ちる。
「運が良かった」檜佐木は咳き込みながらまずそれを思った。
振り向くのではなく、飛び退こうとした。
刹那のことであった。
咄嗟に檜佐木は判断した。振り向くことよりも飛び退くことを。
その選択が檜佐木の明暗を分けた。
臆病な自分はまだいるであろう存在を確かめるよりも先に、その場から少しでも離れることを選んだ。
そうしなければ今頃自分は顔か首を刺し貫かれ絶命していただろう。
檜佐木の視線の先には自分を刺し貫いた者と、その足元に転がっている三席の男がいる。
抱きかかえていた三席を咄嗟に手放してしまったことへの罪悪感が一瞬だけ過るが、すぐさま雑念として振り払う。
罪悪感に苛まれるのは今ではない。
今考えるべきはこの場をどう切り抜けるかだ。
ミ木はかすむ目を擦りながら斬魄刀を抜く。
襲撃者は檜佐木の様子を観察しながらも追撃をすることはない。
自分の傷の深さと、まだどれだけ動けるのかをじっくりと見極めようとしているのか。
檜佐木が訝しむのを嘲笑うように、襲撃者は足元に転がる三席の男のこめかみに刀を突き刺した。
即死を疑う余地も無い。
左のこめかみから突き刺さった切っ先が右のこめかみから飛び出るのがやけにゆっくりと映った。
(馬鹿か俺は…ッ!!)己の浅慮を罵る。
襲撃者は確実に息の根を止めることを選択したのだ。現に三席を屍に変えた襲撃者はようやく檜佐木へと視線を戻す。
向けられる切っ先に檜佐木の背筋が粟立ち、引き攣る様な声が漏れかける。
息も触れる程間近に迫る死を目前にした恐怖に檜佐木が総毛立つ。
「てめぇ!!!」
檜佐木が死を覚悟した瞬間、怒号と共に襲撃者に向かって飛び込んでくる影があった。先程まで襲撃者が佇んでいた場所が地響きを立てて砕け、小さく陥没する。
飛び退いた襲撃者を追うことも無く、飛び込んで来た影 ── 拳西は事切れた三席の遺体を抱えこみながら瞬歩で瞬く間に檜佐木の隣に駆け寄る。
「修兵、逃げろ」
「たい、ちょう⋯」
「喋るんじゃねぇ。そのザマじゃあ足手纏いだ」
容赦の無い言葉とは裏腹に、拳西の眼差しは檜佐木を気遣うものである。
しかし、その気遣いが檜佐木を居た堪れなくする。
「俺は⋯カハッ⋯」
「真っ青なツラで何強がってやがる」
斜線上から檜佐木を庇うように立つ拳西の手には既に始解状態の断地風が握られている。
いつの間に接近してきたのだろうか。
気が付けば黒い影は三つに増えていた。
檜佐木を刺し貫いた襲撃者を庇うように立つ二つの影。
「⋯ゲホッ⋯誰だ⋯テメェ」
「おい」
「大丈夫っす」
口の中に広がる血を吐き捨てながら、檜佐木はゆっくりと剣を抜く。
檜佐木を襲った者を含め、三人の襲撃者は全身を黒い外套に包み、顔も黒い布で覆っている。
服装はおろか顔すら見えない。但し、唯一隠せていないものがある。
(子ども……いや、女か?)
檜佐木を襲い三席にトドメを刺した者、恐らくはこの場で最も立場が上と思われる者は他の二名よりも明らかに小柄な体つきであった。
衣服の上から羽織っているのであろう、それにも関わらず小柄で華奢な体つきをしていることが暗闇越しにもわかる。
そしてもう一つわかったことがある。
それは紛れも無く襲撃者達が手にしているものが斬魄刀であるということだ。
では死神なのか。
それが檜佐木にはわからなかった。
死神としては霊圧が小さいからではない、まったく霊圧を感じることが出来ないからだ。
「てめぇら⋯その外套⋯どこで手に入れた?」
当然襲撃者は答えず、ただ静かに剣を構える。
切っ先からは赤い雫が雨露のように滴り、地に赤い染みを作る。
答えなど最初から期待していない拳西は油断無く断地風を構える。
3対2、いや檜佐木は数に入れないならば3対1か。六車拳西の実力であれば絶望的な人数差という程のものではないが、3人の襲撃者の実力の底がわからない以上は楽観視出来る状況ではない。
どのような理屈かはわからないが相対する3人から霊圧を感じることが出来ない。
しかし殺気までは隠しきれないらしい。
強い殺気が檜佐木の肌を針のように刺す。
それは拳西も同様であろう。
先ほどまでの拳西が威嚇をしているだけだとすれば、今の拳西はさながら牙を突き立てる寸前の狼だ。
庇われているはずの檜佐木すら肚の底から震えが来るような殺気と霊圧が地を割り、粗末な作りの流魂街の家屋が悲鳴のような軋みを上げる。
見えない薄い膜が拳西と襲撃者達の足元から広がる。一瞬でも触れれば粉々に砕け散るような薄く脆い透明の膜だ。
それが砕けた時が全てが始まる合図だろう。
「⋯行くぜ⋯」
拳西が唸るように呟く。
びりっと檜佐木の産毛が逆立った。
見えない膜を内側から粉々にするように、拳西の霊圧が一気に膨れ上がった。
「卍解
鐵拳断風!!」
そこが限界であった。
檜佐木が朦朧とする意識を繋ぎ止められていたのは拳西の舎弟としての意地であり、副隊長としての矜持であった。
拳西の咆哮を耳にしたのを最後に、ぷつりと檜佐木の意識は途切れた。
そして、事態は瀞霊廷を揺るがすこととなる。