(キャンディスが弾きたいな)
検分を終えた三番隊長鳳橋楼十郎は愛器が酷く恋しく感じていた。
キャンディスとは楼十郎のヴァイオリンの名である。本当ならば今すぐにでも隊首室へと戻り、存分に愛器と触れ合いたい。
彼の中にさっきからノイズが走り続けている。
常に体に、魂に、心に、吐息にすら満ち満ちている旋律が不協和音となって鳴り響いている。
それは他者の言葉に言い換えれば第六感或いは虫の知らせといった言葉で言い表せるものであるが、楼十郎はそれを好まない。
特に虫の知らせという言葉が美しくないのだ。
「隊長。虚はこれで全てのようです」
「うん、そうみたいだね。対処してくれた子達は無事だったのかな?」
「幸い大した虚ではなかったようでしたので」
隊士達や周辺の住人達からの話を纏め、報告してくれるお気に入りの副隊を労うように楼十郎はうなずく。楼十郎と同じくイヅルも嫌な予感を抱いているのだろう、愁いを帯びた横顔に少しだけ楼十郎の不協和音が和らぐ。
イヅルは陰鬱さと気品を兼ね備えている。
ただ、陰気なだけでは惨めでしかないが、そこに気品が合わさることで美しい悲劇性となり、それこそが楼十郎の感性を刺激してくれるのだ。イヅルは嫌な顔をするであろうが。
(そういえば拳西の容態はどうなんだろう。真子が向かったみたいだけれど)
拳西ならば大丈夫だろう。
友人としての信頼抜きにしても、現在の護廷十三隊において肉体の強靭さで拳西の右に出る者は多くない。
検分する隊士達を見つめながら、楼十郎は自らの肌を撫でる。
嫌だなぁ。ざらりとした粟立つ肌の感触にうんざりとする。
懐に入れていた伝令機が震え出した。
喜助に頼んで入れてもらったお気に入りのクラシックが流れる。
相手は平子であった。
「·····拳西が?」
伝令機越しに伝わる報告に、楼十郎は悩まし気に眉を顰める。
なるほど、ノイズが一向に止まないはずだ。
楼十郎に報告し終えると、吉良イヅルは普段から陰気な表情を一層曇らせる。
瀞霊廷内に出現した虚に対応したのは一般隊士であった。その規模も霊圧も近年流魂街を中心として頻出している虚には遠く及ばないものであり対応に当たった三番隊士達は苦も無くこれを討伐することが出来たという。
住人にも被害は無く大事に至るものではなかった。これが瀞霊廷に虚が現れたのでなければの話であるが。
問題となったのは当然のことであるが虚の侵入経路であった。
瀞霊廷は周囲を覆う毒霊壁とそれの放つ波動によって瀞霊廷を中心に球体状に護られている。真っ先に確認された瀞霊壁に不備は確認されなかった。ならばどうやって虚は侵入したのか。
強い霊圧を放つ虚であれば、残った霊圧の残滓から特定することもできたが、これも叶わない。
被害はあって無いものと同じであったが、イヅルには到底楽観視する気にはなれなかった。
ダムが決壊する時というのは、突然全てが粉々になる訳では無い。
最初は何処かにほんの小さなが罅が入る。
罅は亀裂となり、亀裂が少しずつ広がり、そしてある日裂け目から水が溢れ出て崩壊へと至るのだ。
イヅルの眉間の皺がより深くなる。
自分が目にしているのはその最初の罅なのではないか?
自分が心配性だとは自覚しているが、自分が今、抱いているこの不安が杞憂に過ぎないとどうして言えるだろう。
いや、杞憂であればそれに越したことは無い。
杞憂であると証明する為にも何とかしなければならない。
しかし、原因がわからない。
小さな罅を見つけても対処の術がわからないのと同じだ。
いたずらに不安だけが膨らむ。
楼十郎へと目を向けると、彼は伝令機で誰かと話している。
聞こえてくる会話から相手は恐らく平子真子だろう。
九番隊が壊滅状態だという報せはイツルも耳にしている。楼十郎の反応からすると、拳西らの容態は想像以上に酷いらしい。檜佐木は無事なのだろうか。
瀞霊廷内がこの虚の出現に然程関心を見せていないのはそのせいだ。
九番隊の隊長と副隊長が揃って綜合救護詰所に担ぎ込まれたことの方が只事ではないのは間違いない。
しかし、この罅を看過していても良いのか。
イヅルは鉛を吐くように溜息を吐いた。
****
「帰らなくていいのかよ」
「一角さん」
「たわけ、私もいるぞ」
「ルキア」
六番隊の執務室でぼんやりとしていた恋次は、入口に立つ一角にようやく気付いた。特に霊圧を抑えているわけでもない自分の気配に気づかないどころか、ルキアにすら気付かないとは、
いくら小柄な彼女が一角の影に隠れてしまっていたとはいえ「あの」恋次がルキアに気付かないとは、相当疲れているのか気が抜けているなと一角は呆れる。
「任務帰りに檜佐木達を見つけて、そのまま護衛から搬送まで手伝ったんだろ?帰って休んでも良いと思うがな」
「斑目副隊長のおっしゃる通りだ。恋次、貴様ろくに寝ておらんだろ」
夜半過ぎまで任務に出て、その足で瀕死の拳西と檜佐木を発見したのは恋次と三席の行木理吉だ。四番隊へ連絡をして終わりという訳ではない。拳西達に応急処置を施し、四番隊が到着するまで周囲を警戒、その後も現場での救命活動を行う四番隊士達を護衛し、搬送にもそのまま付き添った。綜合救護詰所まで拳西達を搬送する四番隊が道中襲われないとも限らないからだ。
恋次達が討伐していた虚も決して楽な相手という訳ではなかった。恋次と理吉の二名のみであったのは、偏に隊長クラスの実力を誇る恋次だからだ。
「何となく目が冴えちまって」
「六車隊長は卍解をしてたって話だったな」
「直接見た訳じゃないっすけど、あの霊圧は間違いなく…」
「恋次がそう感じるとは…」
恋次もルキアも、そして一角も、副隊長でありながら卍解を会得している者達だ。
卍解を解放した時に生じる嵐の如き霊圧を誤認することは無い。
「ただ、もう一つデカい霊圧があったんすよ」
「⋯⋯死神か?」
何かを含むようなロぶりに直感的に一角はそう尋ねる。それが意味するところを承知の上で。
「知らない霊圧でした。少なくとも虚のモノじゃねー⋯それだけは確かです」
「お前が知らないとなると、隊長達の誰かってことは無ぇわけか」
「一角さん!?それって」
「馬鹿野郎。俺だって疑ってるわけじゃねーよ。だけどな、そういうことだろ。俺達が死神と虚、それに破面の霊圧を間違えることはまず無ぇ」
「恋次、それは兄様には…」
「いや、感じたのはほんの一瞬だったから…」
「…言える訳ねーか、テメェに」
朽木白哉であれば、それを「怠慢」の一言で切って捨てたのかもしれない。
それは護廷の者として正しいのだろうが、一角は恋次を責める気にはなれなかった。
仲間を疑いたくない、仲間を疑うのは最後の最後で十分だ。
それが命を預け合う仲間であるかもしれないのならば尚更。
しかし、冷徹な戦士としての心がそれを間違っていると断じてもいる。
恋次の感覚が正しければ隊長、少なくとも隊長格に近い実力者が裏切り者である可能性が高いからだ。
藍染惣右助の反乱の残した爪痕は未だに生々しく残る。
仮面の軍勢の隊長加入に難色を示した者が少なからずいたのは彼らの持ちうる異質な力が原因なだけではない。
110年以上も昔に追放された彼らを知らない隊士は多い。
三名もの隊長の裏切りを招いた尸魂界は、よく知りもしない者を受け入れることに強い抵抗を抱いていた。
特に彼らは嘗て尸魂界に切り捨てられた者達だ。恨みを抱き反乱を起こすのではないかと疑ったとて、それを責めることは出来ない。
(恋次がそこまで考えていたのかは定かではないが、今隊長格への疑惑を向けることは早計だろう。真っ先に平子隊長を疑う者とて現れかねん)
隊長達の中で疑惑を持たれるとすれば、それは仮面の軍勢へ向けられることは十分に考えられる。
ルキア自身は平子を始めとした仮面の軍勢は盟友である一護の味方であり続けてくれた者達であり、また彼らが隊長に復帰して以降は個人的にも交流を結ぶことでその人となりが信頼できる者達だと思っているが、全ての隊士がそうとは限らない。
最悪その疑惑が正しければいいが、誤りでたとしたら?
再び尸魂界から切り捨てられたと感じた彼らが護廷十三隊から抜ける、最悪の場合敵対する可能性とて考えられる。
拳西が重傷を負っていることを鑑みて疑惑の対象から外すのか?
昔よりは随分とマシになったとはいえ、四十六室がそこまで物分かりが良いとは思えない。
他の誰でもない、藍染惣右助がそうしたではないか。
自らの死を偽装することで彼は裏切り者の疑惑から逃れるどころか秤の皿にすら載せられないように仕向けていたではないか。
救護を担う四番隊が、隊長格が欠けた部隊の中でも真っ先に正規の隊長を擁立出来た以上、十二分に助かる算段を立てた上で拳西自らがその役目を担ったのでは?疑り深い四十六室であればそこまで考えたとしても不思議ではない。
しかし、そうとなれば拳西が卍解を使う理由が不可解だ。拳西がグルになっているのであればわざわざそこまでする必要があるのか。
正体不明の敵を相手に本気で戦ったのだと話に真実を持たせるため?そう考えることも可能だ。
「仮に卍解だとしたら、その敵は隊長格かそれに匹敵する者⋯しかし、隊長以外に」
「いるだろ今の尸魂界には。ルキアちゃんだってその一人だ」
「⋯はい」
ルキアは口を噤む。
現在隊長格の他にも卍解を会得している者は複数いる。
嘗ては恋次、一角、今は亡き雀部そして、見えざる帝国との戦いを経た今ではルキアや檜佐木といった者までが卍解を会得している。恋次は霊圧を感じ取ったのであって姿を見てはない以上、それらの者達へ疑いが向く可能性があるのではないか。
(この感じだと気付いてねーなルキアちゃんは)
俯き考え込んでいるルキアのつむじを見下ろしながら、そっと溜息を吐く。
隊長を除き、卍解を使える者達の中で尸魂界への反逆を企てる者がいるとして誰が一番に疑われるのか。
それは藍染の計略に踊らされた護廷により投獄され、処刑寸前にまで追い込まれたルキアに他ならないだろう。
無論、ルキアの人となりを知る者程そのようなことを彼女がするはずがないとわかるが、それは翻せは彼女の人となりを知らずに記録だけを見る者であればそうではないとも言える。
四十六室が裁定を下す際に目を通すであろう記録に果たして人となりが書かれているのか。
一角にはそこまで四十六室に期待することも、信じる気にもなれない。
「⋯⋯あ」
「どうしたんすか?」
「班目副隊長?」
「いや、なんでもねー」
もう一人疑われる可能性があるのは誰かに思い至った。
誰であろう一角自身だ。正確には更木剣八と一角だ。
旅禍こと黒崎一護が瀞霊廷に乗り込んで来た時、未だに藍染の裏切りが発覚してなかったにも関
わらず旅禍の側に付き、護廷十三隊に剣を向けたのは誰なのか。
更木が計略を駆使して尸魂界に弓を引くとは誰も思わないだろうが、退屈に倦むあまり戦いを求めて火種を起こすと考える者ならばいてもおかしくはない。
自らの欲望のために瀞霊廷に剣を向けることを厭わない者が隊長にいるとすれば、多くの者が涅マユリか更木剣八の顔を思い浮かべるのではないか。
と、そこまで考えるとやはり恋次が報告を上げなかったことは正解であったのかもしれない。
「ところで、恋次。もう一つ気になることがあるんだが…」
内心恋次の働きに喝采を挙げつつ、一角はもう一つの気掛かりであったことを切り出す。
「テメェが報告した方の件だ。テメェと理吉が倒した虚…ありゃあマジだったのか?裏廷隊の連中が六番隊に入れた報告とテメェの報告。虚の数が違ったてたのは」
「はい。俺達が報告を受けたのは六体。着いてすぐにそいつらが二体ずつ殺し合いを始めて、勝った方が片方を食いました。そして、俺がその内の一体を斬ったところで…」
「残りの二体が更に殺し合いを始めた…その後はやはり勝った虚が負けた虚を食べたのだな?」
「ああ…」
六番隊に連絡が入った虚の数は六体。
流魂街に派遣された阿散井恋次が倒した虚は二体。
虚は逃げたのではなく、共食いを始めた。
大虚が共食いをすることはおかしなことではない。
不審な点は『恋次の姿を確認して』からの行動ということだ。
「前に十一番隊と四番隊が斬った虚も似たような行動を取ってやがった。いや、その時よりわかりやすいな…それでだ。恋次、テメェが斬った二体目は破面だったのか?」
「!?」
ギョッとした顔のルキアを横目に、一角は真っ直ぐ恋次を見る。
「…はい。多分ですけど」
「何だハッキリせんな」
「あのなぁルキア。俺は破面を見たことも戦ったこともあるが、破面が生まれる瞬間なんて見たことねぇんだよ。俺達が知ってるのは藍染が生み出した破面だけだ」
破面の存在そのものは藍染が崩玉を手にするより前から確認されていた。藍染の従えた破面が脅威であったのは彼の手によって生み出された破面はより高次元の存在であったからだ。
藍染を倒したからとて、破面は生まれる。
「破面が生まれるのは驚くことじゃねぇ。問題は恋次の姿を見てから破面になったってことだ。恋次が着いた時に共食いを始めた…こいつはまだ偶然かもしれねぇが、恋次が一匹を斬ってからのはいくら何でも早ぇ」
「…斑目副隊長は」
一角の言葉を呑み込むように沈黙していたルキアが、咀嚼を終えたように口を開く。
「虚が恋次の強さを測って行動したのだと仰るので?」
「最下級大虚に大した知性は無ぇ。中級大虚からサイズも知性も人並になる。半端なんだよ。強さも知性も」
どかっと手近な椅子に腰掛けると、一角が「まぁ、義壱からの受け売りだがな」と続ける。
「恋次の霊圧を感じて大虚は共食いを始めた。殺されると判断してだ。それから1匹が恋次に斬られたことで残りの2匹はそれでもダメだと思って更に共食いをした。だが本能だけで働く虚なら勝てないと思った時点で逃げりゃいい。結局共食いして霊圧を上げてもその虚は恋次には勝てなかったんだろ?」
恋次は頷く。
四匹の最下級大虚が食い合い、破面擬きへと進化したが、それでも尚恋次の敵ではなかった。
あと2、3匹いたら卍解をしていたかもしれないが、1匹の破面擬きであれば隊長格レベルの今の恋次であれば決して油断をして良い相手ではないものの蛇尾丸の始解で事足りる。
「だからその虚達が逃げなかったんじゃなくて、逃げられなかったんじゃねぇのかって言ってやがったな」
「逃げられなかった⋯?」
一角の脳裏に義壱との会話が思い起こされる。
『破面擬きが自分の力に溺れて格上に挑んで殺されるならわかるけど、そこまでの知能を持っているようには思えない。だけど、恋次の霊圧と自分の霊圧差を測ることが出来る程の虚なら本能ですぐに逃げ出すはずだ。燃え盛る炎に自ら飛び込む獣はいないからね。だとすれば、その虚達は逃げなかったんじゃなくて、逃げられなかったのかもしれない』
『逃げられなかった?』
『逃げることを禁止されていた、とかね』
『禁止って⋯そう躾けた奴がいるっていうことかよ』
『命令なのか躾けなのかはわからない。中級虚に近い霊圧の大虚を、それも破面になれるような大虚に命令を刷り込める存在なんてそう多くはない。
『ヘッ、
『もっとも⋯いや、やめておこう』
『なんだよ切れが悪いな。そこまで言いかけたなら言えよ』
『そうだね⋯』
「最上級大虚…」
「あくまでも可能性の話だけどな。義壱の奴が考え過ぎる奴だってのは知ってるだろ」
「そうっすね」
横嶌義壱は嘗て十一番達にいた頃の先輩であり、一角や弓親と共に世話になっていた男だ。
十一番隊とは思えない程穏やかで静かな男だったと恋次は記憶している。
常に先陣を切って戦い、傷付く一角をフォローしていたのは義壱だ。弓親も一角の援護をする事は多々あるが、彼もまた一角と共に争いの渦中へと飛び込むことも少なくはなく、結局2人の援護に回る義壱は恋次の目には常に貧乏くじを引いている先輩として映っていた。
「虚に命令…か」
「どうしたんだよルキア?」
「いや、何でも無い。気にするな」
「気にするだろそんな面されちゃ」
「だから気にするなと⋯か、顔が近いぞ!」
「イチャつくなテメーら⋯⋯⋯で、ルキアちゃんよ、何か引っ掛かってるみてぇだな?」
ルキアの顔を覗き込む恋次と、頬を赤くするルキアのやり取りに自分は一体何を見せられてるんだと問いたくなる気持ちを一角は押し殺しながら、ルキアに続きを促す。
「引っ掛かるというか⋯たただ今のお話を聞いていて、ふと思ったのですが。仮に虚を躾けして命令を下せる者がいるとして、それは最上級大虚や中級大虚に限ったことなのかと」
「やっぱり考えちまうか」
「班目副隊長も?」
「ああ⋯虚にあれこれ命令して、従わせられる奴に俺達は心当たりがあるだろ」
「······まさか!?一角さん!!」
恋次の顔色が変わる。
ルキアも一角も、肯定とも否定とも口にせずただ表情を強張らせる。
あくまでも可能性の話である。しかし、例えであろうとも、それを口にすることは憚られる気がするからだ。
『最上級大虚や中級大虚、それらが進化した破面以外にも可能性はあるかもしれないけれどね』
『なんだそりゃ』
『一角だって勘付いてるだろ』
『.....まさか、いくらなんでも』
「藍染⋯アイツなら同じような真似が出来るんじゃねーのかってな」