復讐を終えた後には虚しさしか残らない。
小さな頃に読んだ物語でそんな文言を目にした記憶がある。
何という物語だったかと記憶を探るがすぐには思い出せない。
大好きで読んでいたはずなのになぜパッと思い出せないのか。
そうだ、その文言を目にして読むことを止めてしまったのだった。
その物語は友情、愛、努力そして正義を訴える物語だった。
正義感溢れる主人公が悪を成敗する。成敗する悪には悪に堕ちるだけの理由があり、主人公は持ち前の熱い正義感と優しさでもって悪を成敗し、改心させるのだ。
耳障りの良い物語だった。子どもにもすいすいと読みやすく書かれた文章に、シンプルなストーリー。
しかし、読み込めば奥深く、子ども達に正しく健やかに育って欲しいという作者の願いが文章を通じて伝わってくるようであった。
それを執筆している作者が十三番隊隊長と知り、彼に憧れて護廷を目指した子ども達は少なくない。
自分もその一人だった。
愛読していた頃は間違いなくそうだった。
しかし、読むのを止めてしまった。
復讐は無意味と説く、その綺麗事に虫唾が走った。
その物語はそれまでもしばしば子どもの自分ですら気恥ずかしくなる程真っ直ぐに綺麗事を綴っていたが、その時、その文章を目にした自分にとっては我慢ならないものだった。
友情も努力も勝利も愛も否定しない。ただ、復讐を過ちとして、正義によって裁かせることに我慢がならなかった。
怒りを、悲しみを、憎しみを、痛みを、感情のままにぶつけることが悪で、それを理性で包み飲み下すことが善だと、何故言ってしまえるのだ。
自分よりも苦しい境遇の者はたくさんいる。
自分の悲しみをまき散らしてはいけない。
自分だけが不幸ではない。
そうかもしれない。
自分より恵まれない環境を生きている者は確かに多く存在するだろう。
自分の抱く悲しみを噛み殺し笑顔で前を向いている者だっているのだろう。
自分よりも不幸、最大公約数としての一般的な価値観によって決められた幸不幸の基準に照らし合わせれば自分よりも不幸な者など数えきれない程いるのかもしれない。
しかし、それがどうしたというのか。
喪失の痛みは決して共有することはできない。
腕をもがれた者同士であろうと、足を切り落とされた者同士であろうと、光を失った者同士であろうと、まったく同じく痛みを分から合うことなど出来るはずがない。
その痛みは自分だけのものだ。
その悲しみも、怒りも、憎しみも、自分にとって耐え難いことが全てだ。
幼い自分は気付けば手にしていた本を引き裂いていた。
「刈谷」
「居平」
自分を呼ぶ声に、腰かけていた寝台から立ち上がる。
柔らかくも程よい固さの寝台は安物のそれとは異なり、190近い長身とそれに見合う体躯を誇る大柄な刈谷草玖の体重を余裕で受け止め、軋み一つ上げることがない。
死覇装と滑らかな生地の擦れる音がほんの僅かにするだけである。
入院患者が貴族のみで構成される真央施薬院の病室の寝台は全てがこの上質な生地を用いた敷布と高価な寝台が配備されている。そして無論のこと全てが個室であった。
いつの間にか思考に耽っていたようだ。
「飲め」
「おう」
磯螺に手渡された丸薬を水で流し込む。
よく冷えた水に追憶の渦へと飲まれつつあった意識が引き戻される心地がした。
身体にじっとりと纏わりついていた疲労感が、汗が渇くようにすぅっと遠退き、手にしていた斬魄刀を握る手に力が戻る。
「⋯凄いな」
「ああ。
「山田三席のでなくてな」
磯螺居平が噴き出す。四番隊士に支給される丸薬、四番隊士が不休でも働くことが出来るように支給されている滋養強壮剤のことであるが、山田花太郎三席の待つ物に関しては彼の先輩連中のいたずらで小麦粉を丸めただけのものであったこと、それに全く気付かずに花太郎が「よく効く」と使い続けていたのは有名な話だ。
「随分と派手にやったみたいだな」
磯螺の言葉に揺蕩っていた意識を戻した途端に、鼻を突くのは生臭さを含む鉄の臭い。
血の臭いだ。
「あぁ〜…そうだな」
思い出したように曖昧な声をあげて足下に視線を移す。
檜造りの優しい色合いの床に絨毯のように広がるどす黒い染み、その真ん中にごろりと転がる老人。
白髪混じりの髪や髭は白い箇所を見つける方が難しい程赤黒い血に染り、よく手入れされていた筈の髪はたっぷりと濡れ、捩れて、乾いた血で見苦しく固まっている。
うつ伏せに倒れる血塗れの男、既に事切れている初老の男の首に突き立てた斬魄刀を引き抜く。傷口は刀で貫いたにしては歪で大きい。
突き立てた刃を何度も何度も捻り、血肉を抉り傷口を広げなければこのような歪な傷口とはならない。事実、そうしてやった。
引き抜いた刀を腰掛けていた寝台の敷布で拭ってやると、居平に白い手拭いを差し出された。
「顔汚れてるから、拭いておけよ」
「すまん」
礼を言って、顔を拭うと手にした白い手拭いはすぐに染料に浸けたように赤くなる。
毛先を指で摘むとここも血を浴びていたのか、乾いた血でゴワゴワとよじれていた。
まぁ、もともと収まりの悪い頭だ。同期には「鳥の巣」などと揶揄する者もいる。
「静かになったな」
「あらかた済んだ。三割程の患者は医師共々逃げられたけどな。流石は山田総代だよ。見事な対応さ。ま、目的は概ね達成したからいいけどな」
「欠心共も大人しいもんだな。死んだか?」
「もう少しは保つだろ。なり損ないでも3日は生き延びるらしいし」
真央施薬院中に響いていた阿鼻叫喚と呼ぶに相応しい絶叫と怒号、悲鳴と獣の唸り声。
硝子が割れ、石柱が砕け、引火した薬品で木々が燃える音。
逃げ出す者達と、それを追いかける者達の足音が地鳴りのように建物を震わしていた。
それが今では余韻を残して静かなものだ。
祭りが終わり、屋台が撤去した後の微かに散らかり、熱と人々の匂いが残った跡を眺めた時に少し似ている。
ある意味で祭りかもしれないが。
「手強かったか?」
「話にならんかった。元五席で鬼道の達人だったとか嘯いてたらしいが、このザマよ」
「こちらも似たようなもんだったな。所詮は名ばかりの貴族なんだろう」
吐き捨てると、居平がつま先で転がっている血塗れの死体の頭を小突く。
なんと喚いていただろうか。
そうだ、自分は問いかけたのだ、「刈谷という名に聞き覚えは無いか」と。
『何を言っている!くだらん』
男はにべもなく吐き捨てた。
『貴様こそこんなことをしてただで済むと思っているのか?たかが一介の隊士ごときが』
侮蔑と苛立ちを隠そうともしない眼。
貴族でも無い一席官程度を見下す侮蔑、そんな下賤の者が自分に盾突いていることへの苛立ち。
自分が口にした名などとっくに忘れている様子であった。
忘れたふりをしているのではない、本当に記憶に無いのだろう。
白髪交じりながらも形良く整えられた髭を生やし、少し脂ぎった血色の良い頬を怒りに紅潮させたその表情には下賤な輩から理不尽な悪意を向けられる己の不幸への憤りすら滲ませていた。
躊躇は微塵も無かった。
俺の手が斬魄刀の柄に伸びるのを眼にして、すぐさま鬼道を唱えようとしたのは一応は流石は元席官だったと言うべきかもしれない。
しかし、髭に隠れた唇が力ある言葉を紡ぎ上げるよりも抜き放った白刃が男の喉を真一文字に斬り裂く方が遥かに早かった。
男の目には白く輝く光が目の前をつと横切ったようにしか見えなかったのだろう。
何が起きたのか完全には理解が及んでいないのか、信じられないと訴えるようにぱっくりと裂けた首に手を当て、血に染まる手と俺の顔をを何度も見比べていた。
一句すら刻めずに、男の声はくぐもり意味もない擦れたような呼吸と水音混じりの音の破片だけを血とともに零しながら男は二、三歩とふらふらと歩き出した。
体が本能に突き動かされて逃げようとしていたのか、助けを呼ぼうと判断しての意味のある行動なのかを問う気はなかった。
瞬歩を使うことも出来ず、自分の喉を斬り裂いたばかりの男に無様に背を向けて歩く惨めな背中を暫し眺めた後に一息に刃を振り下ろした。
筋肉を裂き、肋を断ち割り、臓物をぶつんと切り分ける感触を刀越しに感じ、背筋が震えた。
後悔や戸惑いではない。後戻りができないことをしたという事実への慄きでもない。
歓喜だ。
悦びとして達成感。満足感。
血と絶叫を迸らせながら、転がり崩れる血に塗れた姿を見下ろしていると、自然と笑みが溢れた。
『 ─── ッッ、─── !!……─── ッッ!』
『いいザマっすね。お袋は恨み言を言う暇も無かったんすよ…親父殿?』
『 ─── ッッ!?』
陸に上げられた鯉のように口をパクパクとさせながら自分を見上げる男の眼を見つめながら、そっと耳元で囁いてやった。
結局、男の俺を見上げる眼からは、俺が誰なのかようやく思い出したのか、ただただ心当たりの無いまま自分をこんな目に遭わせた存在に恐怖を抱いているだけなのかはわからなかった。
しかし、真偽を確かめるつもりは既に無かった。
存分に肉を斬り、悪意を言の葉に乗せて耳元にて注いでやった満足感を噛み締めることに精一杯だったのだ。
無様に丸めた背に足を乗せ、その首元に斬魄刀の切っ先を思い切り突き立ててやると、何度も何度も捻ってやった。
詠唱破棄をされていれば危うかったのかもしれないと思い至ったのは男の首の肉を抉り、踏みつけた足越しに鼓動が止まるのを確認してからのことであった。
「居平も少し休めよ。お客様が来るだろう」
「そうだな…もう護廷には伝わってるだろうな」
「そりゃあそうさ。派遣されるのは何番隊だろうか」
「…二か四か六…あとは十三あたりか」
「朽木ルキアか…隊長じゃないけど実質次期隊長に内定しているようなものだしな」
「貴族だしな」
「貴族様だな」
せせら笑う居平につられて笑う。
居平の表情は実に清々しいものだ。おそらく俺も同じなんだろう。
そして、この場にいない仲間達も俺達と同じような顔をしている者は少からずいるだろう。
手のひらの中の『モノ』を弄ぶ。
思い返す度に笑みが溢れる。
異形のモノに引き裂かれ、圧し潰され、へし折られ、食い千切られ、そして噛み砕かれる貴族共の姿。
痛みと混乱、理解の範疇外の恐怖からの叫び声には知性も品性も無く、常日頃奴らが口にする貴族としての誇りや『格』とやらは感じ取れなかった。
流魂街の野党やゴロツキ共で試した時に耳にした悲鳴と聴き比べたとしても、いずれが貴族でいずれが流魂街の賤民なのか果たしてどれ程の者が聴き分けられるだろうか。
部隊のヘタをすれば隊長格連中が来るかもしれないというのに恐怖は無い。
一時の熱病のような全能感はとうに過ぎ去った。無根拠に楽観的な気持ちがあるわけでもない。
この身を焦がし尽くすように覆っていた昂揚感は夜中に地面が昼間の余熱をゆらゆらと立ち上らせる程度のものだ。それでも尚、胸に込み上げるのは後悔でも不安でも恐怖でもない。
満足感、達成感。浮足立つような激しい歓喜の後に残る、実感を伴った深く静かな喜びの感情とでも言おうか。
ゆっくりと、骨の髄まで心の芯まで染み込んでいく幸福感。
まだ全ての目的は達成した訳ではないと、己を戒めてみても抗いがたい喜びの感情。
磯螺もまた同じなのだろう。昨日までの張り詰めたものは既にその横顔には無い。
「刈谷」
「なんだ」
「笑ってるよ」
「楽しいからな」
「はははっ」
「そっちこそ楽しそうだな」
「うん。楽しいな。ああ、楽しいな。最高だ。もう、死んでもいい」
「それは早くないか」
「そうか」
「そうだよ」
「そうだったな、まだ早いな」
「ああ、まだだ。まだ、もう少しは…な?」
「そうだったそうだった。気が急いていたな」
浮竹先生。
復讐を遂げて、今、俺は最高の気持ちです。
こんなに気持ちよくて、幸せなことをよく今日まで我慢できたなと自分を褒めてやりたい程に。
あの日、お袋を殺されたばかりだった頃の俺、あんたの本を破り捨てたばかりの俺が今もしも目の前にいたのなら、きっと言ってやるだろう。
その気持ちは間違っていないと。お前の中の憎しみは正しい形でお前を気持ちよくするのだと。
お前のお袋を殺した男を、お前の父親を、お前自身の手で斬り殺すことは、この先の百年間を通して味わうどんな快楽よりもお前を虜にするのだと。