「首尾はどうだい?」
腰掛けて斬魄刀についた血糊を丁寧な手付きで拭う隊士に声を掛ける。
「磯螺七席!はい、問題ありません」
「それは結構。気を張り過ぎないようにね」
「わかっております。お気遣いいただきありがとうございます!!」
肩をぽんと叩いてやると、威勢のいい返事が来て思わず苦笑してしまう。
本当にわかっているのだろうか。
昨年入隊したばかりの初々しさすら残る隊士だ。
彼の足元には何度も何度も斬り付けられた貴族の死体。赤い染料の入った桶に頭から突っ込んだように赤黒く染まったうつ伏せの頭部から年齢を推察することは出来ない。
年齢は顔以外だと手に表れるとよく言われるが、床を流れる血に手のひらを汚した手を見ても年齢はわからない。
苦労知らずの貴族の手は老いに関わらず滑らかで綺麗な女子のようなものが多いからだ。
しかし、察するところ目の前に転がっているモノが彼にとってのお目当てのようである。
べっとりと付着した血糊を噛み締めるように拭う横顔には達成感と満足感が浮かんでいる。
普通の刀とは異なり、斬魄刀は血液が付着した程度ではすぐに錆びることはない。
しかし、血糊が付いたままでは切れ味は鈍る。故に丁寧に刀の手入れを行う必要はある。
大雑把な隊士によっては一旦斬魄刀を始解させてから元に戻す者もいる。
斬魄刀は多少の刃こぼれ程度であればそれで元に戻ってしまう。血糊程度なら綺麗さっぱり消え去る。最も無用の始解は本来禁じられている。とはいうものの、それを無視している隊士は少なくない。隊長や副隊長といった領域の死神であれば始解などしようものならば霊圧の巨大さ故に感知されるが、一隊士であればそんなことはまずありえない。
故に、こうして血糊を拭う隊士は二つのいずれかに当たる。
始解をまだ会得していないか、生真面目であるか。
物腰や霊圧からこの隊士は恐らく後者だろうか。
「彼らも落ち着いたみたいだね」
「死亡している者もいます」
「ま、仕方ないよ」
視線の先、真央施薬院を血管のように巡る廊下に転がるのは破れかけた死覇装から、虚のように歪に肥大化した腕を曝け出したまま横たわる隊士だった者達。
だらりと舌を出した口元からは白く濁った泥のような血を吐いている。
無残に変わり果てた形相であったが、その顔には見覚えがあった。
嫌な男だった。
口では席官である自分に敬意を払っている風であったが、口調の端々、ふとした時に口元に浮かぶ歪んだ笑み、何より向けてくる目の奥に映る侮蔑の念。
護廷においては格上だとは理解しているが、本来の格式は自分の方が遥かにに上だと思っている驕りと軽蔑に満ちた瞳。
男は貴族の家の子だった。
不慣れな媚び諂いの態度の理由はわかりきっている。
七席の自分の受けを良くし、自分をあわよくば席官に取り立ててもらう腹積もりなのだろう。
悲しいことに生まれながらの貴族の子が染みついた傲慢さを拭い去ることは容易ではない。
はなからそのような風潮を嫌い、身分を問わず積極的に人と関わってきたならまだしも、貴族の特権を当然のものとし、その血を他者より優れたものと信じて疑わない者であればまず無理であろう。
珍しいことではない。将来家長として家を継ぐこととなる長男長女以外の貴族の子弟には護廷に入隊し、席官の座に就くことで箔を付けようとする者がい。
貴族以上の立場と見なされる副隊長とまではいかずとも、席官という立場、それも十席以上ともなると十分な格を持っている。
そして、自らを危険から出来る限り引き離し、他者の上前を撥ねることで出世していく。
実力主義と思われている護廷十三隊だが、家柄とコネを利用した席官は意外と少なくはない。
この男もそんな一人だった。
真央施薬院への薬剤の運搬。
三席、四席に任されることの多いこの任務を危険性が少ない上に名誉のある業務だと思う隊士は多い。
この業務に選ばれて辞退する隊士はまずいない。
事実、この男も一も二も無く飛びついた。
抜擢された時のこの男の表情といったら傑作だった。
自分ならば当然だという優越感と、安全な任務への安堵感がわかりやすい程伝わってきた。
『怪我は完治しておりませんが、是非ともご期待に沿えるようにいたします』
わざとらしく巻かれた腕の包帯を見せつけながら上辺だけの殊勝な言葉を返す浅ましい姿はいっそ清々しい程だった。
この男は元は八番隊であった。
単純な巡回任務と油断していたら、遭遇した最下級大虚との遭遇。
他の隊士の影に隠れやり過ごそうとしていたのが功を奏したのか、仲間の隊士達が死亡、或いは重傷を負ったにも関わらず、虚の爪を腕に受けただけに留まった。
その傷を理由に八番隊から四番隊に転属を希望。四番隊ならば楽が出来ると思っていたのだう。
こうして醜く異形と化し、同じ貴族を手に掛け、果ては同じ死神の刃にて物言わぬ死体へと変わり果てた今となっては問う術は無い。
いや、それでもまだ護廷隊士たろうとしただけでも貴族の子としてはましな方だろうか。
とうに治っているにも関わらず、心の傷を理由に実家で長期期療養している貴族もいる。
「ふっ」
思わず吹き出してしまった。
彼ら自宅である貴族の邸宅にて異形の者と化し、子や家人をその爪で引き裂き、親兄弟をその牙で噛み砕き、妻や恋人の血肉をその舌で味わっていたのだと思うだけで自然と笑みが零れる。
妄想でも予想でもない。事実であることが、磯螺の笑みをより深くする。
運よく屋敷から逃げ延びた貴族達は次々とここにやって来た。
『助けろ』
『何とかしろ』
『早く治せ』
『金ならやる』
『愚図愚図しないで早く行け』
『この傷が見えないか?今すぐ運べ』
口々にさも当然のように浴びせられる要望。
当然だろう。
真央施薬院とは彼らの為に存在する病院なのである。
平民とは彼らの為に存在する奴隷なのである。
そして、安住の地の如く此処へ逃げて来た者達が次々と屍の山の一部となっていく。
隊士達の剣の餌食になるならば運の良い方だ。白刃から逃れ、逃げに逃げた先で
命尽きるまで引き裂かれ、食い千切られ、臓腑を咀嚼される苦痛と悍ましさは実に憐れである。
最も運が無いのは、いずれにも該当しない者。
今日、この場にいる隊士にとって「個人的に用がある」貴族は治療と騙して病室に招かれ、今目の前にしている男のように切り刻まれて嬲り殺しにされる。
運が無いと言ったのは、苦痛も無くさっくりと殺される可能性が限りなくゼロに近いという意味でだ。
恐らくその笑みだけを見たのならば、年若い少女ならば頬を染めてしまうような惚れ惚れするような笑みであろう。
好青年然とした磯螺居平が浮かべる爽やかな笑顔。
その笑みは、ついさっき言葉を交わしていた刈谷草玖の浮かべていた笑みにとても似ている。
晴れやかで、満足げで、清々しさに満ちた笑み。
しかし、いずれも血に塗れた修殺死体を前にしているともなれば、まったく異なって見える。
それは凄絶な悪鬼の笑みである。
「きっと今頃てんてこ舞いだろうね。どうやってもみ消そうか四十六室は頭を抱えているだろうさ」
自分達の醜闘を握り潰すことに掛けては徹底している彼らが、ここまで大事になってどのようなカバーストーリーを組み立てるのか、賢者と自らを称するその頭脳で作り話の創作に心血を注ぐことを想像すると沸々と笑みがこみ上げてくる。
姉を凌辱し、殺した男の罪を闇に葬った時はどんな話だっただろうか。
「あぁ、そうだ。確か⋯─── 」
* * * *
「磯螺君 ─── 磯螺居平の姉は彼が幼い頃に自ら命を絶ったと言われています」
小さく砕蜂が息を呑む。
彼女がどんな表情を浮かべているのか義壱はあえて見ようとはしなかった。
「刈谷草玖は貴族の庶子という噂がありますが、真偽は定かではありません」
極秘の任務であるため、瀞霊廷を疾走するのは砕蜂、横嶌義壱、朽木白哉の三名のみだ。
副隊長すら伴わないのは異例である。
四十六室直々の命であった。
阿万門ナユラの案であった。
内々に処理をしたいという四十六室の意向は早々に固まっていたが、彼らは当初、貴族の者達、それも席官以上の者達で即席の部隊を作り、これを派遣させるべきだと主張した。
瀞霊廷内が異形化で混乱の最中、人手があって困ることが無い程忙殺されているにも関わらず、席官の多くを派遣しろという身勝手極まりない案に総隊長である京楽は辟易した。
同じ貴族であるが、余りにもみっともない傲慢である。
それらの声を一喝したのがナユラであった。
彼女は少数精説という形で隊長格数名を派遣することを提案した。
貴族である二番隊長砕蜂と六番隊長朽木白哉、そして真央施薬院をよく知り、且つ真央施薬院を占拠している実行犯である四番隊士達の隊長である横篤義壱にも責任を取らせる形でこの三名の派遣と相成った。
実力的にも立場的にも適任ともいえる選出は、四十六室の面子と人手を割かずに済む護廷の利益の両方を守ることのできる折直案であった。
「…何か含むものがある物言いだな横嶌」
瞬歩を緩めることなく、白哉が静かに問う。
らしい。噂。義壱の語る言葉はいずれも断言するものではない。
そこに含まれる意図を包み隠さずに言うよう白歳の静かな眼差しが僅かに圧を増す。
「磯螺の姉は自ら命を絶ったのではなく、殺されたのだという声もあります。彼女をよく知る隊士は、彼女は自ら命を絶つような人ではないと。彼女はある貴族の子を恋い慕うものの、想いが叶わず突発的に命を絶ったと言われています。しかし実際にはその貴族の子が執拗に彼女に言い寄っている姿が目撃されていたと聞きます」
淡々とした感情の朧らぬ義壱の語り口であったが、砕蜂は聞くに堪えぬとばかりに顔を顰める。
「刈谷の母は元々さる貴族の屋敷で奉公していたそうです。たまたま流魂街を出歩いていた貴族の目に止まって強引に使用人とされたそうです。しかし、ある日突然屋敷を解雇され屋敷を追われたと言います。主人に色目を使ったふしだらな婢女だとして。野良犬のように。刈谷を産んだのはそれから程なくしてのことです」
「その母は死んだのか」
真偽は定かではない、義壱はそう言った。
刈谷が庶子、貴族の子なのか全くの他の男の子なのかを知っているのは刈谷を産んだ母親本人である。
考えるまでもないことと知りつつ確認する白哉の言葉に義壱はただ頷く。
「強盗が家に押し入ったのだと聞きました。母親は幼い刈谷を身を呈して逃がしたそうですが母親の方は…家に立ち入った賊は拿捕され全員処刑され、それで事件は終わったそうです」
「裕福ではないのであろう?」
「朽木隊長はご存知ではないかもしれませんね。流魂街で強盗なんて珍しいことではないですよ。裕福かは関係ないですよ。その日の空腹を満たせる飯と、雨露をしのげる屋根がある。それだけで家族を皆殺しにするには十分な理由だと思う人間があそこには掃いて捨てるほどいますよ。流魂街でも片隅にひっそりと住んでいたのなら人も呼ばれにくいでしょう。ただ、人目を避けるように住んでいたのに、賊は迷い無く家に向かって来たのだと…刈谷は言っていましたね」
「ロ封じか」
「珍しいことではない。珍しくはないが⋯」
下劣極まりない、砕蜂がそう吐き捨てる。
白哉も砕蜂も貴族の社会の醜さ、悍ましさ、浅ましさを熟知している。
京楽もそうだろう。首謀者の名を義壱に告げた時の京楽の瞳は何処か物悲しく、憐れみを湛えていた。
磯螺と刈谷の過去、真実とされていることと、そこに隠されているで事実を察していたのであろう。
「磯螺が目にした姉の遺体は随分と酷いものだったそうです。辱められた上に体中に斬られた痕が残っていたのだと⋯おそらく回道で見た目だけ無理やり傷口を塞いだのでしょう。刈谷の家を襲った強盗は手際良く拿捕され処刑されたそうです。流魂街では犯罪など日常茶飯事、見回りの隊士だけでは追いつかないというのに。流魂街の片隅で起きたにも関わらずまるでどこで何が起こるが知っていたような手際だったと言います」
とんと音も無く家々の屋根を踏み台に跳ぶ。
行く人々はおろか、屋根を踏み台にされた家の住人すら駆けていく白哉達に気付いてはいないだろう。
羽毛のように音も無く、矢のように素早く、疾走と呼ぶには走るという行為からかけ離れた軽やかで華麗な動きである。
部下を引き離してしまわぬように余計な気を回す必要の無い隊長3名の瞬歩はそよ風すら起こさず、人の目に留まることも無い。
「下らん」
砕蜂は吐き捨てる。
「恨みがあるなら直接仇討ちをすればいい話だ」
貴族が耳にすれば卒倒するか、口角泡を飛ばし非難する言葉を平然と砕蜂は口にする。
貴族に対して一介の死神が逆らうことを平然と容認するようなものである。
しかし、当の貴族、それも四大貴族の一角を成す朽木家の当主たる白哉はそんな砕蜂を咎めようとはしない。
静かに瞑目していた彼の瞳には微かな不快感が映るのみである。
四大貴族の一であることに誇りを持つと同時に、全ての死神の軌範とならねばならないという苛烈なまでの使命感を抱いている。
故に、己の下衆な欲望を揉み消そうとする行いを唾棄すべきものと軽蔑こそすれど、擁護する気など毛ほども無い。
「事情は察した。だが、真央施薬院を占拠し、貴族を手に掛ける理由にはならぬ。横嶌、卿のことだ。投降を呼びかけるつもりかもしれんが、事態は最早それを許すまい」
「朽木の言う通りだ。私とて下劣な輩が貴族にいることも、その貴族に恨みを持つ者がいることも知ってはいる。だが、護廷の平穏を見出し、法に牙を剥く者を刑軍の長として見過ごす訳にはいかん」
三人の足が止まる。
砕蜂は険しい眼差しで真っ直ぐに眼前を睨む。
「誅殺あるのみだ」
は義壱の方を見ることなく、ただ目の前の建物 ─── 真央施薬院を見る。
「わかっています……ここまでのことをした彼らが、今更説得に耳を貸すとは思えません。こんなこと並大抵の覚悟では出来ないでしょう」
「ならいい」
穏やかな性格の彼にとって、大罪を犯したとはいえ自分の部下達がこれから辿る末路を思うと、胸を痛めずにはいられないのだろうと砕蜂は察する。
無論、そのことに彼女は罪悪感を抱くことはない。
貴族としてではなく二番隊隊長、そして刑軍の長としての苛烈なる使命感と誇りを持つが故に彼女は己の為すことに一切の迷いを持たない。
罪は罪であり、如何なる事情があれども裁かれるべきだからだ。
ただ、隊長となって間もない新米の身でありながら部下から大逆の徒を輩出してしまった義壱の心労については
「僕は負傷者の治療に専念するつもりで来たつもりです」
義壱は鳶色の目を微かに伏せる。
「ただ、一つだけ」
「なんだ」
「隊士達の多くはまだ年若い子達です。だから⋯」
「卿に言われるまでもない。刈谷と磯螺が首謀者である以上、まずこの二名を最優先で制圧する。当然のことだ」
決して助命が叶う保証はない。
限りなくゼロに近いだろう。
それでもこの場で白哉や自分に殺されるよりは命が繋がる可能性が生まれる。
この期に及んで何と甘いことを言う男だと呆れながらも、同時にそのような心持ちだからこそ四番隊たる所以なのかもしれないと、砕蜂は二人の男のやり取りを横目に見ていた。
「⋯⋯⋯ありがとうございます」
石のように固い言葉を、千切って捨てるように口にする白哉に義壱は困ったように、そして少しだけ安心したように笑ってみせた。