窓から飛び出した破螺居平を追った白哉は音一つ立てることなく中庭に着地する。
物腰は優雅であり、その眼差しは一瞬磯螺の存在を見失ったかのように虚空に向けられている。
ほんの僅かであるが、達人にとっては致命の隙である。
油断か、余裕か、そのいずれでもない。
着地後に生じたこの隙を狙って磯螺が斬りかかって来るところを逆に迎え撃っための白哉
の撒き餌であった。
あからさまなものではなく、有るか無いかの針の如き隙。
だからこそ、それは些細な気の緩みにより生じた隙として映る。
しかし、磯螺が斬りかかって来ることは無かった。鬼道を唱える様子も無い。
磯螺はただ六角形の盾を展開したまま白哉と距離を取る。
隙を突けなかったのか、突かなかったのか。
そもそも気付けなかったのか。
ともすれば買い被ったか、脳裏に過る懸念を白哉は即座に否定する。
千本桜を受け切った磯螺の始解を侮るつもりはなかった。多角的且つ多面的な能力を有する千本桜であるが、始解において言えば決して攻撃力に優れている訳ではない。無数に散る花びらにより立ちどころに相手を切り刻むが、ひとつひとつの刃の殺傷力はその実、低い。
そもそも花びら程の刃であるが故に軽いともいえる。
だかはこそ嘗て黒崎一護と戦った折には、強力無比な斬撃を巨大化し飛ばす技、月牙天衝に吹き飛ばされたのである。
防御力に優れた者を相手にするのであれば、千本桜をそのままぶつけるよりも、白哉自身の振るう斬撃の方が遥に威力は高い。
故に始解を解き、わざと作ってみせた隙を突いて一太刀浴びせんとしてくる隙を逆に突こうという目論見であった。
目論見こそ外れたものの、白哉は磯螺を侮ることは無かった。
隙に気付いたか否かは別として、不敵とも思える笑みこそ浮かべるものの磯螺は明らかに白哉に対する警戒を解いてはいない。
火中の栗を拾う真似をするつもりは無いのだろう。
それは白哉とて同様である。
磯螺の始解。形状といい、千本桜を防いだ事実といい、間違いなく防御に特化している。
しかし、防御一辺倒であるのかは定かではない。
攻撃力を一切持たぬ始解というのはかなり珍しい。
白哉の知る限りでは前四番隊長卯ノ花烈の肉雫唼くらいであろうか。それさえも白哉が知る能力が全てであるという保証はない。
鬼道系が付与される始解も珍しくない以上白哉とて迂闊に近づくことはしない。
しかし、先ほどとは異なる点がある。
病棟の廊下という狭い空間から、今白哉達がいるのは中庭である。
ただの病院の中庭とは訳が違う。
真央施薬院の敷地における中庭の広さは小さな村の一つや二つを優に超える広さを誇っている。
入院患者が貴族であれば、見舞うのも貴族かそれに仕える者達である以上、景観には万全の配慮がなされている。
花壇はおろか、桜や梅といった四季折々の代名詞とも言える木々が植えられ、湖の如き広さを持つ池には石橋が架けられている。
季節によって催し物も開かれるそこは白哉本来の戦いをするには十分すぎる程の広大かつ雑多な場所であった。
そして何よりも異なるのは、頭上を照らす月。
赤々と染まっていた世界は闇の色が濃くなり、夕闇はとうに完全な夜へと変わっていた。
夜の闇と遮蔽物を利用した多角的な移動と鬼道を以て戦うことが可能だ。
と、白哉が脳裏に浮かべた無数の戦法からより確実な、窮鼠猫を噛むことすら許さぬ戦いを選ばんとしている時であった。
けたたましく硝子が砕け散る音と共に、視界に小さな影が飛び込んできた。
「朽木…」
白哉の目の前に転がり落ちてきたのは、砕蜂であった。
鼻を突く血の香と、月明りに照らされより一層際立つ青白い顔に、彼女が深手を負っていることは明白である。
「何があった」
砕蜂に駆け寄る代わりに、彼女を守るように白哉は注意を磯螺から、彼女の振って来た方へと割く。
無論、磯螺への注意も怠ることは無い。
「横嶌だ」
「何?」
搾り出すように告げられた名に白哉が眉間に皺を寄せる。
「その傷もか」
質問ではなく確認の言葉である。
辛うじてぶら下がっている程に深々と斬り割かれた砕蜂の足、そして離脱の際に負わされたのであろう袈裟懸けに斬り割かれた背中の傷。
本来真っ白な隊長羽織は見る影も無く、白い箇所を見つけるほうが難しい程に彼女自身の血で染め上げられている。
傷口からは垣間見える鮮やか赤みを帯びた桃色の肉が傷の深さを物語っている。
砕蜂が相手をしていたのは六席の刈谷だが、いくら他部隊の同格の席官を凌駕するとはいえ、六席を相手に砕蜂がこれ程の手傷を負うとは考え難い。
今、
「磯螺君、大丈夫⋯でもないか」
「ご覧のとおり、かなりやられましたよ」
「朽木隊長を相手にして五体満足で持ち堪えただけで十分だよ」
赤黒く乾いた血の跡が磯螺の顔から首元に蛇のように続いている。
流れ出た血は磯螺の肌も死覇装も赤黒く汚し、回道で応急手当をしたとはいえ磯螺の負った手傷の程は十分に物語る。
ざわりと、空気が騒めく。
暗闇の中にいくつもの人影が現れた。
人影は至る所より姿を現す。
灯り一つと無い夜に包まれた病棟や中庭の茂みに息を潜めて隠れていたのであろう多くの者達だ。
白哉も砕蜂も殊更に狼狽えはしない。
敷地内に点在していた多くの霊圧が自分達の前に集まっていることに気付かぬはずも無い。
それらの霊圧は大小問わず共通していることがあった。
白哉達の霊圧を前にして恐怖や不安にその霊圧を乱しながらも、それらを超える程の明確な敵意、否、殺意を滾らせていた。
人影共の放つ殺気は闇の中でより一層白々と際立って見えた。
数にして四十と四。
刈谷と磯螺が率いて来た四番隊士達であろう。
「.....四番隊だけでは、ないようだな」
水を被ったように青白い顔に汗を滴らせながら、砕蜂が嗤う。
月明かりを浴びて浮かび上がる人影のシルエット。
顔こそ覚えが無いものの、その装いは砕蜂のよく知るものであった。
「隠密機動の者達か」
「ふん⋯顔も知らん。新顔か、取るに足らぬ者達だろう」
吐き捨てる砕蜂に闇夜から刺さる殺意が俄かに鋭さを増す。
「横嶌、数を頼みにしているのではあるまい?いくら砕蜂隊長に手傷を負わせたとて、烏合の衆を伴い卿が我らに勝てるとでも?」
刈谷、磯螺そして義壱の三名に合流した人影が四十四。
数の上であれば白哉と砕蜂の二名に対して四十六名と勝負にならないであろう。
しかし、隊長格二人を相手取るのに隊長が一人であるのと大差は無い。
義壱が首謀者であるとすれば先ほどまでの枷は無い。
義壱一人を生かしておけば問題無いのだ。
施設の被害を度外視し、生け捕りに拘らずとも良いのであれば、白哉にとって同じ隊長格である義壱以外はものの数ではない。
仮に、手負いの砕蜂を守ることで白哉の隙を突く目論見があるとすれば、それは見込み違いも甚だしい。
任務を優先する白哉が敵の討伐を後回しにしてまで砕蜂を庇うことなど無く、砕蜂も足手纏いになる屈辱を味わうくらいならば死を選ぶ気性の持ち主である。
そして、
「卿の卍解はここにいる砕蜂は無論、私も直に目にしている。仲間を守り、敵対する者から霊圧を奪い、それにより傷付いた隊士を癒す卍解。大したものだが、卿自身が強くなる訳ではない」
月を背にしているせいか、義壱の表情は白哉からは確認し得ない。
しかし、砕蜂の血で赤く染まった血刀を手にしたまま、刈谷をはじめとした部下達を庇うように後ろに下がらせてじりじりと前に出ているのは、正に今その卍解を解放せんとしているのだろう。
仲間を保護し、如何なる攻撃も通さない鉄壁の巨大な鳥籠の卍解。
同時に、敵から奪った霊力を鳥籠の中に入れた仲間達へ送ることでその傷を癒す卍解。
仲間にいれば心強く、継戦における消耗を解決する頼もしい能力である。
それを目にした者達からは「最も穏やかな卍解」とも、「四番隊の矜持を体現する卍解」とも呼ばれている。
そして、同時に最も攻撃性の薄い卍解であるともいえる。
対して白哉の卍解千本桜景義にとって多少の数の不利など無きに等しい。
合流してきた四十四もの隊士達、隊長を前にしても戦意を失わない心構えは称賛に値するものであるが、その霊圧は義壱はおろか刈谷や磯螺にすら遠く及ばない。
平隊士ばかりなのであろう。白哉にとってそれは雑兵ですらない。
億に達する刃の洪水の前に、五十足らずの雑兵等塵芥と相違無いと言っても過言ではない。
「なるほど⋯僕の卍解をそう認識してくださっているのですね」
穏やかで抑揚の無い声。
普段通りの穏やかな義壱の声に似て非なるもの。
感情が欠けているのではない、何処か張りつめたものを堪えるような薄い硝子のように固い声。
その声に含まれる微かな感情。
嘲笑?否。
昂揚?否。
愉悦?否。
「ありがとうございます」
安堵。
これは安堵だ。
「聴かせておくれ⋯金糸雀」
左手には柄尻に鳥の頭部を模した飾りが施された音叉にも似た金色の十手。
右手には鉄拵えの六尺棒。十手同様に金色のそれは月明かりを浴びて幻想的な程に輝いている。
リィィィィ…ン
澄んだ音が息苦しく重たい闇の中を涼やかに響き渡る。
白哉は切っ先をつと義壱に向ける。
微かに白哉の中に迷いが過った。
義壱と戦うことにではない。
卍解を用いて一気にこれを殲滅すべきか、或いは解放せぬままに鬼道を用いるべきか。
突如として広々とした空間に戦場が変わったこと。
四十数名を率いた自身と同じ隊長格との戦闘の口火をどのように切るべきか。
迷いとは即ち警戒である。
義壱を単なる身の程知らずと侮ることはできない。
短慮な男に隊長が務まるはずがない。
その証左の如く、目の前に立つ男に気負いも傲慢も垣間見ることすら出来ない。
何よりも義壱が見せた安堵。それが言葉にし難い形無き不気味な陽炎となって白哉の長き歳月を経て蓄積された経験と磨き上げられた戦闘本能に警鐘を鳴らしていた。
『卍解……』
とぷんっと義壱の右手にしていた六尺棒が地に沈み込んでいく。
『
真の名と共にそれは現れた。
陽を浴びて綺羅星の如き眩さであった俺はそこには無く、月明りに濡れたてらてらと鈍く輝く黄金色の檻。
金色に輝く華美な鳥籠ではなく、武骨な鉄格子に包まれた牢獄。
瞬間、白哉は不思議な虚脱感を覚えた。
それはほんの一瞬のことであった。
しかし、傍らの砕蜂が低く呻いたことが気のせいではないのだと理解させられる。
「⋯それが貴様の卍解⋯真の姿か」
義壱が手にしていた剣をゆらりと振る。
滑らかで微塵も力みも気合いも無いが、空気を切り裂く音はその太刀筋が神速のものであることを物語る。
そう、剣だ。
義壱が左手に握っていた十手はひと振りの刀へと変化していた。
それも、太刀でも打刀でもない。
釵が最も近い形状であろうか。
ただそれは鍔のみの形状である。
鍔から伸びるのは刺突用に尖ったこん棒ではなく刃。
荒い鋸のような、動物の牙の如く幾つもの刃が連なる禍々しい ───
「ご覧の通り。切れ味は然程良いものではありません」
─── 鋸の如き刀身
具合を確かめるように幾度か素振りをしていた義壱がぽつりと言った。
「出来れば降参などしないでください。痛いと思いますが耐えて抗ってください」
「愚弄⋯しているのか?」
白哉のこめかみにうっすらと血管が浮かび上がっていた。
変わらぬものの、彼の声が、視線が、放つ霊圧が憤怒に耐えていること
と示している。
対する義壱は普段と変わらぬ穏やかな口調、穏やかな眼差し、そして穏やかな笑み。
その瞳には一切の侮蔑が無い。
「戦う前から既に勝ったつもりか?」
「まさか。戦ってみなければわからないでしょ
「貴様あ⋯」
「砕蜂さんも全力でお願いします。出来ればお二人とも死なないでくださいよ?」
「横嶌…ッ!どこまでも我々を嘲弄するつもりか」
「お願いですよ」
心弱き者であれば、その気迫に当てられただけで失神しかねない砕蜂の気迫を受け止めて、なお義壱は穏やかに、少しだけ困ったように微笑む。
「そうじゃなきゃ、貴方方をここに招いた甲斐が無いでしょう。私も、彼らも」
義壱はそう言って視線を背後の隊士達へと向けた。
余りにもごく自然に、いっそ隙だらけの仕草に白哉は不覚にも一瞬、ほんの刹那であったが義壱へと向けていた警戒の糸をほんの僅かにではあるが緩めた。
そして、その一瞬を義壱は逃さなかった。
偶然ではなく、義壱が呼び込んだ緩みである以上、それは痛恨とも言える油断であった。
「朽木!!!」