義壱と白哉との間合いは十間と八尺、現世の尺度で言えば20メートルを少しばかり超えるといったところである。
剣道の試合、通常の立ち合いではありえない間合いであるが、隊長格にとってはその距離は無きに等しいものである。
十間程度の距離は隊長格にとって瞬歩で一息の距離である。
二十間とて瞬き程の間隙を縫って縮められる距離である。
されども、隊長格同士の立ち合いであれば決して捉えられぬ距離ではない。
踏み込む予備動作すら無い足捌きは先ほどまで相対していた磯螺とは訳が違う。
しかし瞬歩の練度において隊長格の中でも屈指の実力者である白哉にとって義壱の瞬歩は決して瞠目すべきものではない。
平均的と言う表現は護廷十三隊の歴史に名を残す死神のみが就くことを許された隊長格においては聊か語弊があるものの、隊長格において義壱の瞬歩は平均的なレベルのものであった。
この場にいる殆どの者にとっては煙の如く掻き消えたように見えたであろう義壱の瞬歩を即座に見切り、白哉は己の肩口に向かって振り下ろされる金色の刀身を冷静に受け止めた。
白哉の目には確かに見えていた。
闇の中を切り割く金色の剣閃も、眩い刀身の惶めきも、鳥の頭から卵形に角状の突起を持った鬼か狐の顔によく似た形へと変化した金糸雀の柄尻の飾りの形状まで、白哉の視線は確かに捉えていた。
しかし、白哉の視界は一つの違和感を捉える。
視界の下端をゆるゆると蠢く白い影。
(なんだ?)
圧縮された知覚のなかで、白哉は問い掛ける。
下から何が現れているのか。
圧縮された知覚のなかで、それは鈍間な蛇が鎌首をもたげるように、酷く緩慢にゆっくりと白哉の視界を這い上がって来るものだ。
(なんだ⋯っ)
極限まで縮められた時間の感覚の中であって、瞬歩を捉えているとしてもなお風の様に素早い達人の踏み込みを以て迫る義壱を白哉は視界に収める。
その踏み込み。
上段に振り上げた腕。
振り上げた刀の柄尻からこちらを睨む狐の顔をした飾り。
そして月光を浴びて振って来る鋸のように歪な刃。
(なん⋯だと)
眼前の義壱の動きとは正反対に、先ほどから視界をのろのろと這う白い蛇に白哉は苛立ち以上に困惑を覚える。
次第にその姿を現す蛇に、白哉の目が今度こそ動揺によって開かれる。
1秒の何百分の一に過ぎない思考の中で、しかし白哉は激しく動揺していた。
(これは私の⋯)
「腕⋯か」
金属同士がぶつかる音、そして皮を割き、肉を切られる感触。
一瞬遅れてから肩口に走る強烈な熱を帯びた痛み。
動揺の答えは受け止めきれずに肩口に食い込んだ金色の刃であった。
「朽木!!!」
悲鳴にも似た砕蜂の声に、白哉の意識は困惑と痛みの渦から俄かに浮上しあ。
「なるほど」
義壱が白哉の目と彼の肩に食い込ませた刃とを見比べながら、何かに納得したように小さく呟く。
辛うじて義壱の剣を己の剣で受け止めているものの、白哉の剣は完全に義壱の剣に比べて遅れていた。
砕蜂の目には白哉が敢えてその身に刃を受け止めたのかとさえ映っていた。
(朽木程の男があの程度の斬撃を受け止めきれないだと?)
砕蜂もまた義壱の一連の動きを捉えていた一人であるだけに、まるで白哉が甘んじて刃をその身に受けたようにしか見えない光景は不可解でしかない。
不可解なのは白哉の反応の遅さだけではない。
受け止めるべく振るわれた剣ですら平常の白哉のそれとは比較にならぬ程に緩慢であった。
無論、砕蜂以上に不可解に感じているのは当の白哉本人であった。
先ほど自然と口を付いて出た言葉。
その言葉を白哉は吟味していた。
視界を蠢く緩慢な蛇、それは義壱の剣を受け止めんと振るった己自身の腕と剣であった。
(私の認識に私の肉体が追い付いていない?)
それ以外にあり得ないことであった。
己の認識に己の肉体が付いていけていない。
付いていけていないのは動きだけではなかった。
「⋯⋯くッ」
白哉はとうに両腕で剣を握っていた。
それでも尚、めり込む剣を微塵も押し返すことが出来なかった。
義壱は「片手で」剣を握っているのにも関わらずだ。
白哉は決して非力な死神ではない。
そうでなければ如何に強大な霊圧を待っていても阿散井恋次と対峙した際に彼の卍解を僅かな間とは受け止めることなど出来ようはずもない。
しかし、現に白哉は両の腕でようやく義壱の剣を押し留めていた。
いや、押し留めてはいない。
徐々に金色の鋸が白哉の肩に獣の顎のように食い込んでいく。
めきめきと、骨が軋む音が身体を震わせる。
肩に食い込んだ義壱の刃がゆっくりとめり込む音だ。
既に隊長羽織は肩口から赤く染まっている。
今こうして白哉の肩が切断されていないのは白哉が辛うじて義壱の剣を受け止めることが出来ているから……と思う程白哉は楽観的な男ではない。
義壱は本気で剣を押し込んでいない。
鋸の形状となった刀は肉を抉り骨を削ることに特化しているのだろう、平時の刀の状態よりもその切れ味は衰えている様だ。
勿論、切れ味が無い訳ではない。
隊長格の腕力を以てすれば本来ならばすぐにも肉を引き裂き、骨を砕き、白哉の腕は肩口から切り離されているだろう。
辛うじて膝を付かないのは白哉の誇り高さと、義壱の手加減の妙によるものだ。
「ふむ」
「⋯⋯ッッ」
義壱が小さく頷く。
その目には白哉への嘲りは無い。
何かを確認しながら作業を進めるような、冷たく乾いた鳶色の目が白哉を見下ろす。
「朽木!何を、何を手加減をしている!!」
朽木白哉という男が任務において手を抜くなど決してしない、そのような半端な男ではないと理解しつつも、砕蜂はそう叫ばずにはいられなかった。
「手加減⋯卿にはそう見えるか」
白哉は砕蜂を見向きもせずに淡々と答えた。
いや、砕蜂へと注意を向ける余裕すら無いのだ。
「朽木隊長、不思議ですか?力が入らないことに」
「横嶌……貴様⋯ッ」
毒か何かを盛られたか。
そんな考えすら脳裏を過る。
砕蜂は白哉と義壱の押し比べをただ手をこまねいて見ているつもりはなかった。
千切れかけた脚に手早く包帯を巻き終えると斬魄刀を握り締めた手に力を込める。
「砕蜂隊長。その傷で余り無理はしない方がいいですよ」
「!」
ゆっくりと白哉の肩へと刃をめり込ませながら義壱が労わるように言う。
「もっとも僕に止める筋合いはありませんし、僕の言葉なんて聞くつもりもないでしょうから…いつでも手出ししていただいて構いませんけど」
僅かに浮かんだ笑みに、砕蜂は目の前が怒りに赤く染まる。
勝者が敗者を見下す優越感に浸った笑みでもなければ、強者が弱者に向ける嘲笑交じりの笑みでもない。
例えるなら子犬がじゃれ付く時に人が浮かべる余裕の笑み。
例えるなら紙細工の刀を振り回す幼子を見つめる大人の柔らかな笑み。
例えるならむずがる赤子を眺める親の温かな笑み。
その悪意無き笑みこそが、誇り高い砕蜂の心を幾百の軽侮、幾千の侮辱、幾万の嘲笑よりも深く抉った。
「尽敵螫殺」
痛みが消え去る程の噴き上がる怒りによって、砕蜂の肉体は引き絞られた矢の如く飛び掛かる。
『雀蜂』
生け捕りを念頭に置くが故に刈谷との戦いにおいては終ぞ解放することのなかった斬魄刀が向けられるのは義壱の胸元。
但し砕蜂から見て逆側、左の胸。
義壱に一直線に突っ込むように見せて、瞬歩で白哉の回りを迂回するように砕蜂は義壱の左側へとその身を滑り込ませる。
怒りに駆られつつも砕蜂は決して考え無しに突っ込むだけの猪ではなかった。
左手側、白哉と押し合いをしている剣の外側からの一撃。
結果として左手に握った剣が白哉に縫い留められている形となっていることで義壱の右腕は義壱自身の身体が邪魔をして咄嗟に砕蜂に回すことが出来ない。
手甲と一体となった刺突に特化した刃、毒蜂の針が義壱の胸元に突き立てられ ───
─── ることはなかった。
「ふう⋯」
「馬鹿な…ッッッ!!」
砕蜂は義壱に届くことのなかった雀蜂の切っ先、そして自分の腕を掴む義壱の左手を見る。
「別に驚くことでもないでしょ。剣を持ち替えただけですから」
白哉の肩に食い込む剣を握る手は右手に持ち替わっていた。
そして、空いた左手で義壱は砕蜂の刺突を止めた。
ただそれだけのことであった。
しかし、それは砕蜂にとってはありえないことだ。
「貴様…馬鹿か!!」
立ち合いの最中、それも鍔迫り合いの最中剣を握る手を持ち替えるなどありえないことだ。
一瞬でも力が緩めば押し切られる致命的な隙をわざわざ作りだすことになる。
戦う者として基本中の基本を疎かにする振る舞いに敵対を忘れた罵声が思わず彼女の口をついて出た。
だが、義壱の表情には特別なことをやってのけたという得意げな感情も無ければ、迂闊な振る舞いへの負い目も無い。
「僕だって普通ならやりませんよ。だけど、今のお二人を相手にするなら、これくらいの余裕は十分ありますから⋯いや、でも一角なら余裕とか関係無無しに面白そうなら遊び半分でやるのかな⋯」
独りごちる義壱に白哉が険しい視線を向ける。
「そうか⋯これが、そうなのか」
額に薄っすらと汗をかきながら、白哉は己が両腕と未だに驚愕の表情を浮かべる砕蜂と見比べる。
義壱はそんな白哉ににこりと微笑みかけると、
「破道の五十九⋯」
まるで気安く呼びかけるようにその名を舌の上で転がす。
「
ぞわっと白哉と砕蜂の肌が栗立つ。
迁闊
油断
未熟
浅慮
軽率
脳裏に幾つもの己を詰る言葉が浮かんでは消えた。
右手で白哉を左手で砕蜂を制している今の状況。
先程とは逆に、義壱によって自分達が縫い留められている格好となっていることに気付くのが遅れたことへの後悔と、眼前に迫る明確な危機感に砕蜂が身を翻すよりも巻き起こった鎌鼬が彼女の肌を斬り裂く方が早かった。
義壱を中心として生じた風が止むと、義壱から離れた場所に倒れ伏す影が二つ。
特に小柄な砕蜂は白哉よりも遠くへと吹き飛ばされ、義壱の生み出した牢獄にその身体を叩き付けられ、血の跡を残しながら転がっていた。
「....…貴様の卍解の能力ということか、これが…」
苦痛を堪えているはずなのに、微塵も声に痛みを滲ませること無く、血に塗れた白哉がゆらりと立ち上がる。
砕蜂よりもその身に浴びた傷は多いにも関わらず、顔の半分を血に染めて尚その表情は冷たく能面のように揺らぎが無い。
「流石ですね朽木隊長」
血の衣を纏ったように体中に刻み付けられた傷口から流す血に赤くその身を染めながら、それでも決然と立ち上がる白哉に思わず感嘆の声が零れる。
「今の咬鼬⋯この身に受けて得心が行った」
破道の五十九【咬鼬】
闐嵐が竜巻によって相手を吹き飛ばすことを主眼に置いた鬼道であるならば、咬鼬は切り裂くことに主眼を置いた術である。
鬼道によって生じた鎌鼬は対象者の肌に絡みつくように包み、切り裂く。
但しその威力は術者が余程膨大な霊圧を持っていない限り、肌を切り裂く程度のものである。並の虚や死神であれば刀傷の如き致命傷を負いかねない技であるが、隔絶した霊圧を持つ大虚や隊長格であれば十分に防ぐことが出来る。
仮に無防備に受けることがあろうとも隊長格の霊圧をもってすれば皮を切り裂かれる程度に留まるものであり、本来であれば白哉や砕蜂がこれほどに傷つくはずがない。
「膂力⋯·いや身体能力と霊圧の低下を齎す能力。それが貴様の卍解か」
言葉には出さなかったが感覚だけは変わっていないことがより悪質な能力だと分析する。
身体能力は低下していても、感覚は変わらない。白哉が義壱の一太刀を受け止める為に振るった腕を己の腕だと認識できず、異物だと錯覚してしまう程に認識と実態にズレが生じていたのがその証拠だ。
先ほど砕蜂の雀蜂を受け止めた動きにしても、白哉の目には砕蜂の動きが平時の彼女とは思えぬ程緩慢なものに映った。
義壱の言葉の通り、あの動きであれば膂力が著しく落ちている白哉との鍔迫り合いの合間に柄を握る手を持ち替え彼女の刺突を掴むことなど造作も無いことだ。
義壱の言葉の通り、義壱は特別な行動を取ってはいない。
白哉と砕蜂の速さと膂力、そして霊圧が著しく落ちているだけのことだ。
そして、それだけのことが何よりも厄介であった。
タネが割れれば途端に地金を曝す能力ではない、純粋に相手の地力を落とす能力。
白哉の目測が正しければ、今の自分と砕蜂の力量は七席か六席。多く見積もっても五席相当のものだ。
五席2人と隊長1人が真正面からぶつかって勝てる道理はまずない。
もっとも、それは五席には卍解を使うことができないという前提の話だ。
「貴様の能力⋯力を低下させるものであって、能力の剥奪ではないようだな」
滅却師のメダリオンで卍解を奪われた時のような喪失感は無い。
その点から白哉は義壱の卍解の能力を正確に見抜いていた。
手にした斬魄刀を地に向け、そっと手放す。
音も無く地面に吸い込まれるように刀が消えて行く。
「散れ⋯」
千もの巨大な刃が白哉の両脇に控えるように現れる。
桜並木の様に並んだ千本もの刃の大樹が夜風に弄ばれる桜の花びらとなって…
一斉に散る。
『千本桜景厳』
「 ! ! 」
刃の花びらが一斉に義壱に襲い掛かる。
それはさながら洪水であった。
花びらの洪水が嵐かと見紛う勢いで義壱を呑み込もうとうねりを上げる。
億を超える刃の津波を咄嗟に飛び退くことで紙一重で躱すが、空中にて白哉を見下ろす義壱は短く息を呑む。
洪水、津波、そう例えた通り、刃の花びらはぐるぐると渦巻き、まるで巨大な化生が獲物を捕食せんとするように伸ばす手、幾千もの獲物を捕らえる獰猛な前脚のように義壱へと群がる。
朽木白哉の卍解は隊長格の中でも日番谷冬獅郎の大紅蓮氷輪丸と並ぶ知名度であろう。
白哉自身の雷名に加え、美しさ強さ、そして対応できる戦局の多彩さ故に。
義壱もそれをよく知る一人であった。
その目で直に見たこともある。
しかし、眼前に広がる花弁は無慈悲なまでに獰猛で義壱が記憶するよりも遥かに鋭い。
「千本桜景厳は私が手掌で操ることで速度を倍にする」
宙に霊圧で作った足場を蹴り、空中を縦横無尽に飛び飛び跳ねる義壱の姿を冷徹な眼差しが見失うことは無い。
楽団の奏でる音を導く指揮者のように、細く形の良い手掌が流れるように死の花びらを操る。
その速度に義壱は徐々に翻弄されていく。
余りにも膨大で、余りにも速いその刃を刀一本で捌くことなど、黒崎一護でもなければ到底不可能な芸当である。
「むぅッ!!」
投網に誘い込まれた魚の様に、己を取り囲む花びらの籠を前に低い呻き声が上がった。
「誇りに思うがいい⋯私自らが繰る千本桜で散ることが出来ることを」
白哉が指し伸ばしていた手掌を握り込む。
一切の逃げ場を潰すように義壱を覆い尽くした緋色の球状の鳥籠が圧縮される
【吭景・千本桜景厳】
万力に一気に圧し潰される鞠のように、それはまさしく一瞬の出来事であった。
圧縮した千本桜を見上げながら、深く長い息を吐く。
初めて白哉の表情に濃厚な疲労の色が浮かぶ。
張り詰めていた物がほんの僅かに緩んだ途端にその身を覆う疲労と傷のダメージが一気に噴き出す。
膝を付きそうになる痛みと疲労を辛うじて堪える白哉に、牢獄まで吹き飛ばされ倒れていた砕蜂が歩み寄る。
「········朽木…」
「砕蜂隊長か。無事か」
「問題無い」
痩せ我慢なのはわかりきっていることであったが、彼女の矜持の為白哉はあえて言及することはしなかった。
そもそも痩せ我慢はお互い様だ。
右の肩口にそっと手を当てる。
強引に引き裂かれた肉と削られた骨。
鋭利な刃物では付くことの無い歪な傷口からは止めどなく血が流れている。
咬鼬によって全身に負った切り傷のいずれよりも右肩の傷が一番の深手である。
しかし、白哉以上に砕蜂が深手であった。
見れば何処かで調達していたのか、木片で千切れかけた脚を固定しているものの、その身に負った傷と失った血で白蠟のような肌には珠のような汗が幾つも浮かんでいる。
すぐにでも手当をすべきであるが、白哉達と敵対している者達がその治療を担う者達なのは皮肉な話であった。
「やったのか?」
「吭景を受けて無事に済む者はいない。原型を留めているかどうかの問題でしかない」
「確かに。あれを受けてはまず⋯」
砕蜂は見惚れるように、舞い続ける桜花びらへと目を向ける。
月明かりを浴びて煌々と輝く金の牢獄に舞う桜の花びらは、それ自体を切り取って一枚の絵画に収めたいと、芸術への関心の薄い砕蜂ですらそう思わずにはいられぬ程に美しい光景であった。
舞い続ける刃の桜景色、そして眩く神々しくすらある黄金の格子へと目を向けていた白哉の瞳が動揺に揺れた。
彼らは見ていた。
鋭くも美しい薄紅色の桜花びらを。
彼らは見ていた。
月明かりを浴びて煌々と輝く金の牢獄を。
そう、彼らは見ていたのだ、義壱の卍解を。
使用者の死亡或いは重傷によって斬魄刀の卍解は解除される。
それなのに彼らを取り囲む牢獄は消えてはいないのだ。
「僕の卍解では技は奪えませんが、それを操る霊圧は別物⋯実際に体験してみないとピンと来ないものですねやはり」
独り言のように背後から静かに響く声を認識するのと、脇腹を抉られる痛みを覚えたのは同時であった。
身体の内側から鋸状の刃が脇腹の筋繊維を断ち切る音を聞きながら、白哉は咄嗟に砕蜂を抱えて飛び退いた。
席官相当のそれも手負いの瞬歩で逃れられぬと知りつつもせめてもの抵抗の意思を以て起こした退避行動は一応の功を奏した。
幸いにというべきか、義壱は白哉達を追撃することはしなかった。
ただ、今しがた白哉の脇腹をごっそりと抉り血に汚れた金色の刀を興味深げに見つめていた。
それは今日、この場において何度も目にした眼差しである。
義壱の視線は最初から白哉達を敵対者としては捉えていない。
近いもので例えるならば、治験者に向けるそれによく似ている。
だが、そのことについて語るよりも先に白哉は手掌を義壱に向けた。
未だに解除していない千本桜が一斉に義壱に躍りかかる。
だが、それよりも義壱が白哉に向かって来る方が僅かに素早かった。
義壱を挟み込むはずの刃の波は互いにぶつかり合い、火花と共に四散した。
しかし、白哉は動じない。
知覚に衰えが無い以上、義壱のその動きは決して白哉の予想を上回るものではなく、十分に捉えることが出来ていた。
義壱の背後から千本桜を放つと同時に、自分を守る盾とするための千本桜を同時に即座に繰る。
(無傷圏に入り込むつもりか)
白哉は義壱の狙いを瞬時に見抜いていた。
千本桜を解放する際に、彼自身が己の刃で傷つかないための領域。
半径85センチの空間。
そこに入り、千本桜の及ばぬ範囲で斬り付けることが義壱の目的であるのだろう。
故に白哉は無傷圏ギリギリまで義壱を引き付ける。
すぐに盾を構築すれば義壱が間合いを取る可能性が高い。
義壱の瞬歩が白哉の無傷圏ギリギリに達する瞬間を白哉は測り、そして千本桜を己の周囲へと即座に張り巡らせた。
己の無傷圏を囲む小さな籠と、自分と義壱を取り囲む大きな籠。
二重の籠を白哉は瞬きすら及ばぬ刹那に構築する。
刃の渦のように二重の鳥籠が重なり、そして耳障りな絶叫のような金音を立てた。
「···馬鹿な」
その言葉が白哉か砕蜂かいずれから出たものかはわからない。
確かなのは、呆然とする砕蜂の視線の先で、背に無数の刃を浴びて膝を付く朽木白哉の姿があるということだ。
痛みでも疲労でも劣勢でも決して白哉は膝を付くことが無かった。
それは苛烈なまでの矜持と強靭な意思によるものに他ならない。
しかし、己の刃をその身に受けるという思いも寄らぬ事態への驚愕と困惑によって耐える間も無く白哉はその膝を付いた。付いてしまった。
無数の刃に打ち据えられ、切り刻まれ、もはや隊長羽織はボロ切れと区別がつかぬ程に破れ、血に染まり、無惨な様相を呈していた。
痛みと出血による眩暈、そして次々と胸中に押し寄せる混乱にあって、白哉に出来ることは、ただ義壱を睨み付けることだけであった。
「吭景を受けて何故無事なのだ」
「無事じゃありませんよ」
ほらと言って義壱が軽く上げて見せた右腕は無数の切り傷によって血に染まっていた。
傷だらけの腕は淡く輝き、見る見る内に癒えていく。
「咄嗟に鬼道で受け流したつもりでしたが⋯流石ですね。完全には躱しきれませんでした」
回道によって完治したのを確認するように右腕を何度も振る。
「貴様を完全に捉えたはずだ」
「捉えはしましたが、刃の収束は非常に甘かったですよ。もし、完全な形で朽木隊長の千本桜が決まっていれば無事どころか僕は原型を保てていたかどうか」
「収束⋯まさか」
「ご自分で言ったじゃないですか。霊圧や身体能力は衰えても技そのものは奪われていない」
「貴方の卍解は七席程度の霊圧で完璧に操りきれるものなんですか?」
白哉は唇を噛み締める。
それは思いも寄らぬ言葉に対する驚きではなく、図星を突かれたことへの屈辱だった。
「同じ技でも扱う者の霊圧が違えば威力も精度もまるで違う。吭景・千本桜景厳…僅かの隙間すら無い刃の膜でし潰す技なのでしょうが、今の貴方の霊圧ではせいぜい目の粗い網ですよ」
義壱は何も特別なことはしていない。
迫る吭景・千本桜景厳の刃の収束の粗い箇所を抉じ開けて難を逃れたに過ぎない。
そして、同時に自分が何故己の刃を身に受け無様に跪いているのかにも思い至る。
白哉達は金糸雀の音を耳にした。
その上で鑞牢禁糸鈴女覈謳を受けた。
金糸雀の音色によって僅かに麻痺した警戒心と緊張感。
鑞牢禁糸鈴女覈謳によって衰えた身体能力。
その二つの要素が白哉の無傷圏の認識を狂わせた。
「僕の斬魄刀は直接的な攻撃力は無いですが⋯なかなかに効くでしょう」
「金糸雀⋯耳障りな鳴き声だ」
白哉が剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がる。
先ほどまで息を呑む光景を齎していた桜花びらは姿を消している。
傷の深さと枯渇した霊圧故にとっくに卍解は解除されていたのだ。
「殺すつもりはありません」
「⋯」
「お二方とも人質として丁重に扱わせていただきます。無論、傷の手当も」
「········戯言を」
「本当です。命まで奪うつもりは最初からありませんよ僕は」
「嘲るつもりか」
「そんなつもりは。確かめたいことは概ね確かめられましたから」
淡々とした口調には跪く者への侮蔑も勝者の優越感も無い。
本心から言っているのだこの男はと納得せざるを得ない。
言葉の通りであるのならばこれは何かの検証であり、殺し合いはおろか戦いですら無い。
それは白哉にとっては嘲笑以上に屈辱的なものであった。
噛み締めた奥歯が軋みを上げる。
怒り、屈辱、無念にその身を焦がそうとも、一太刀たりとも浴びせられるだけの力が残っていない己自身の不甲斐なさを何より恥じる。
「囀るな反逆者風情が」
しかし、激情にその身を焦がしていたのは白哉だけではなかった。
「貴様らが貴族共を弑殺したことはこの際どうでもいい」
地響きを立てて、超重量の塊は鎮座していた。
「怠惰に安寧を貪っていた連中にはいい薬だ」
それは千本桜の華麗さとは余りにもかけ離れていた。
「しかし、貴様は隊長でありながら護廷に仇なした」
常に整備され小石一つとて落ちていない真央施薬院の中庭が、その砕蜂を中心に罅割れる。
「そして、あまつさえ戦いに臨む我らの誇りに唾を吐いた」
余りの超重量に支える身体の至る所から鮮血が噴き出すのも構わず、砕蜂はは刃物のような眼差しを義壱へと向ける。
「横嶌義壱……ッッ、貴様は万死に値する!!!」
巨大で武骨な金色の砲台が義壱へとその照準を合わせた。
『雀蜂雷公鞭!!!!!』
火を吐くような叫びと共に、超破壊の塊が炎の尾を引く。
義壱は引き攣るような笑みを浮かべてそれを見た。
破道の五十九【咬鼬】
闐嵐が竜巻によって相手を吹き飛ばすことを主眼に置いた鬼道であるならば、咬鼬は切り裂くことに主眼を置いた術である。
鬼道によって生じた鎌鼬は対象者の肌に絡みつくように包み、切り裂く。