「何だと⋯?」
声を上げたのは一角だった。
剣八が霊圧を封じる眼帯を取り、解放した始解で義壱を吹き飛ばした。
如何なる手段かは定かではないが、剣八の圧倒的な強さの前に卍解をもってしても義壱は太刀打ちできなかったのだ。
信奉にも等しいレベルで更木剣八の強さを信じている一角にとってそれは喜びと同時に約束された当然の展開であった。
血塗れになりながらも萎えるどころかいや増すばかりの闘志を滾らせ野晒を振り上げる剣八の姿の向こうに一角は倒れ伏す義壱の姿を既に見ていた。
野晒は始解でありながら純粋な攻撃力においては隊長格の卍解にすら匹敵する。
その一撃を受けて義壱がただで済むと思うはずもなかった。
しかし、
訪れるべき光景は起きなかった。
「あ?」
剣八は間の抜けた声を上げて腕を見る。
自分の腕を。
千切れかけた己の腕を。
「なんだこりゃ…」
肘から先が半ば千切れ、
逆方向へと曲がった関節が皮膚を裂いて飛び出していた。
めち、
みきっ、
ぶちっ、
ごりっ、
ぐしゃ、
剣八の身体が耳障りな乾いた音を立てる。
ぐしゃりと
糸の切れた人形のように巨体が音を立てて崩れ落ちた。
「.....ふぅ……」
「思ったよりも際どかったな」
重い空気を吐き出すと、
義壱は僅かに緊張の糸を緩めた声を上げる。
野晒の一撃に吹き飛ばされ、格子に叩きつけられていた身体をゆっくりと起こすと、傷の具
合を触診するように胸元に手を当てる。
感触を確かめるように撫でるのは黒曜石のような光沢を放つ胸当てである。
一見すればただの胸当て。
取るに足らない防具のひとつである。
死覇装の上からいつの間に身に着けていたのか、
それは些細な疑問である。
問題は、その胸当てが無傷であるということ。
更木剣八の一撃を受けたにも関わらず、胸当ては無傷のままであるということだ。
義壱は胸当てを掴むと勢いよく剥がす。
床に投げ捨てられた胸当ては生き物のように蠢く。
裏返した虫の足ように無数の触手が蠢く様は悍ましく、思わず目を背ける隊士もいる。
義壱は顔色一つ変えることなく、足元でうねうねと蠢く胸当てに目を向けると、
ぞぶ
一息に剣を突き立てた。
刃に貫かれた胸当てが動きを更に激しくする。
苦痛に悶えるように激しくうねるのを眺めながら、突き立てた剣を何度も探じると事切れるように胸当ては動きを止めた。
「涅隊長のことだからデータを取ってるんだろうけど⋯一応はね」
「何だよそいつは⋯」
「涅隊長の開発した胸当てさ。『更木剣八の一撃を受け止められるような防具は作れますか』って依頼したら作ってくれたよ」
何故、
そんな言葉は出てこなかった。
涅マユリという死神の性質を多少なりとも知っていれば疑問には思わない。
更木剣八との戦いを隠そうともしないで発注する義壱も義壱であるが、受けるマユリもマユリだ。
しかし、更木剣八の一撃を受け止められるような代物を作る、技術的に可能かどうかよりも、
マユリならば好奇心をもってそれを開発したとしてもおかしくはなかった。
動きを止めた胸当てを十分に観察し終えた義壱が剣を引き抜く。
金色の剣を一振りすると、切っ先に付着したヘドロのような粘液が飛び散る。
一息吐くと、義壱は視線を剣八へと移す。
身体の至る箇所から血を吹き出し、砕けた手足の関節を無理に動かしもぞもぞと動く姿を感情の無い瞳で見下ろす。
「バラバラにならないのは流石ですね」
血だまりの中に転がりながら、剣八はただ義壱を睨み付ける。
悔しさよりも戸惑いと渇望を滲ませた表情を浮かべるだけで言葉は無い。
自分の身に何が起きたのか理解が及ばないのだろう。
それでも自分の肉体が動かないという事実だけは理解しているのだ。
心が未だに闘争を求めているのに、動かぬ己の肉体にもどかしさすら覚えていることを剣八の目が雄弁に語っていた。
殺し合いを望む声も、
威嚇する雄たけびも無く、
言葉の代わりにその口から出るのは掠れたような呼吸音のみである。
「喋れないでしょう。激しい負荷に腹圧が上がって横隔膜がせり上がってるんですよ」
ゆったりとした義壱の歩みには、先ほどまでの張り詰めた緊張感は無い。
勝利を確信しているのだろう。
ただ、その歩みにも視線にも物腰にも油断は無い。
更木剣八という男を知っているからこそ、一片たりとも油断してはならないことを十分理解しているのだ。
「4箇所。僕がさっき隊長に吹き飛ばされた時に斬った数です。大して力を込めてはいません。速度と正確さだけを意識した手打ちのようなものです。普段の隊長でしたら傷はおろか痛みすら大して感じない程度のものです。飛び退きながら振る剣ですからね。それが精一杯ですし、それで十分でした」
剣八のすぐ傍で足を止めると、見下ろしながら小さく笑う。
敗者に向ける嘲笑ではなく、苦笑交じりの微笑み。
「医療従事者として言わせてもらうなら、貴方は痛みに対して不誠実すぎます。規格外に強靭な肉体を持つ者は総じて痛みに鈍感、というより痛みを気にしない。大抵の傷を自力で直してしまえるし、痛みからすぐに回復してしまうからです。そういう経験が自然と痛みに鈍感に、怪我に無頓着にしてしまう。痛みは警告であり、傷は明確な損傷であるにも関わらず関節が痛むのであれば負荷が掛かっているということだし、筋肉が強張っているならば乳酸が溜まり疲労から回復していないということです。出血は一定量流れれば確実に肉体の各部機能を低下させます。僕と戦っていて感じていたんじゃないですか?肉体が軋みを上げていると」
断続的に呼吸をするばかりで、剣八は何も答えが
何も答えられない。
義壱は構わずに続ける。
「耐えられる訳がないんですよ。急激に隊長格に匹敵するレベルまで成長する強さに、一般隊士程度の肉体が」
歪に千切れかけた手に握られた剣は既に巨大な戦斧からただの刀へと戻っている。
斬魄刀は使用者の霊圧、生命力、意識に左右される。
既に始解を維持することが出来ないほど消耗している証に他ならない。
「貴方は初めて卍解を発現させた時にも同じ過ちを犯していましたね。己の強さに耐えられずに自滅した。黒崎一護との戦いでも、ロイド・ロイドとやらの戦いでも、貴方は実力ではなく、自らに科した枷のせいで敗北している。戦いを味わうために自らに枷をはめ、縛り、無防備を曝す貴方の戦いは豪胆で不敵ですが、幼稚で傲慢だ」
ごりっ
義壱が剣八の頭を踏み付けると声を立てて嗤う。
「卯ノ花隊長も報われませんね⋯⋯こんな愚かでくだらない男の為に命を懸けたのだから」
ぶちっ
一角は耳にした。
自分の中の何かが千切れる音を。
それが何を意味しているのか、
それがどのような感情なのか、
それはどうでも良かった。
動けるような傷ではない、
動けない程の痛みを感じている、
それもまたどうでも良いことであった。
憎悪と呼ぶには鋭利で、
憤怒と呼ぶには苛烈で、
感情と呼ぶには衝動的であった。
背骨を溶岩のような熱が进る。
「龍紋鬼灯丸!!!」
力をそのまま形にしたかのように、
刀と呼ぶには余りにも武骨で、
刃と呼ぶには大雑把な、
三つの巨大な鉄の塊。
班目一角の
「義壱ぃぃぃぃぃぃぃーーーー!!!!」
血を吐きながら、
猿叫の如き叫びを上げ、
軋む肉体を擦り潰しながら、
殺意を迸らせて鉄塊を振り下ろす。
痛みも、
疲労も、
瑕疵も、
何もかもが消し飛んだ一撃には幼馴染への躊躇など毛ほども無い。
自らの誇りを踏み躙った男を肉片に変えるため、
否、
肉片すら残さぬという純粋な殺意と共に振り下された一撃。
その一撃が、
空を切った。
響き渡ったのは肉を潰す音でも、
鉄塊が大地を揺らす震動でも、
肌を打つ程の衝撃波でもなく、
薄くて脆い硝子細工が砕けたかのような、
きん、
とも
ぱりん、
とも聞こえる、軽く乾いた音であった。
刃が空を切ったのではない。
空を切っていたと思ったのは手ごたえが無かったから。
刃の横腹を打たれ、抵抗も無く砕かれたまま残った柄だけが虚しく斬撃の弧を描いたのである。
「嘘だろ」
細片と化して舞い散る龍紋鬼灯丸に向けたのか、
掌中の柄だけになった龍紋鬼灯丸に向けたのか、
龍紋鬼灯丸を薄氷同然に砕いた男に向けたのか、
或いはそれら信じ難い全てのものに向けたのか、
「⋯⋯だから言ったのに」
一角が思わず漏らした掠れた声に、義壱が悲し気に零す。
「君の卍解じゃ僕には勝てないって」
金色の剣を振り抜いた彼の周囲に砕かれた龍紋鬼灯丸の欠片が日の光を浴びた硝子の細片のよう輝きながら舞う。
斬魄刀の究極奥義であるはずの卍解を、
班目一角の卍解を、
義壱はただの一振りで粉砕した。
薄氷を割るよりも容易いことのように、
然程力を込める様子も無く無造作に。
「畜生…」
ごぼりと一角の口から血が塊のように零れる。
割腹したように横一文字に斬り裂かれた腹は筋肉はおろか臓腑すら垣間見える。
余りにも早い太刀であったが、万全の一角であれば決して反応出来ない速度ではない。
卍解を砕かれ、一瞬とはいえ呆けていた。
その隙を逃さず、義壱の太刀が一角の腹をさぱっと斬り裂いたのだ。
ロと腹から溢れる程の血を滴らせ、一角が倒れる。
奇しくも剣八に寄り添うように、彼のすぐ傍に崩れ落ちた一角から流れ出る血は瞬く間に血溜まりを作り、剣八の血溜まりと重なっていく。
ねっとりとした血の匂いが空気に溶け、
むっとするような鉄臭さがより濃くなる。
「知ってはいたけれど…こうして目の当たりにすると、思った以上にショックなものだね。君の
ただ立っているだけで赤く汚れてしまうのではと思う程の濃い血の匂いの中、義壱が寂し気な眼差しを一角へと向ける。
「あんなにも力強く、美しかった君の鬼灯丸が⋯⋯⋯ねぇ、一角。君は覚えているかい?君は出会った頃からずっと言っていたよね。誰よりも強くなりたいって。事実君は勝ち続けていた。殺され掛けても意地で食らい付いて、死にそうになっても生き延びて、そうして最後には必ず勝ってきた。君は無敵ではなかったけれど最強だった。焔のように熱く、美しく、純粋な強さの象徴だったんだ、あの頃の僕にとって」
一角に向けていた目を剣八に移す。
悲し気に揺れていた鳶色の目が細められる。
「そう、更木剣八に出会うまでは」
鳶色の目に昏い焔が灯る。
きらきらと硝子片のような殺意がその瞳から零れる。
「腕を磨いていつか改めて挑戦するんだと思っていたよ」
「更木剣八を斬り捨てて、その首に剣を突き立てる」
「更木剣八の屍を踏み付けて、勝ち名乗りを上げる君の姿を見たくて僕も一緒に死神になったんだ」
「それなのに君は⋯」
「更木剣八の下で戦って死ぬ⋯君はいつからかそう口にするようになったね」
「最強になるんじゃなく、最強と認めた男の下で戦うと」
「愚かな誓いだよ」
「自ら犬に成り下がると口にしたんだ君は」
「あれほど強く気高く純粋だった君が」
「ただの薄汚い野良犬になったんだ」
「その誓いが君にくだらない拘りを持たせた」
「その誓いが君の美しかったものを汚した」
「その誓いが君を弱く無様に堕とした」
「その誓いが君を僕に失望させた」
「一角」
義壱は握っていた剣を静かに振り下ろした。
「残念だよ」