真っ直ぐに見つめてくる竜胆の花を思わせる色みの瞳に胸が高鳴る。
彼女とこんなに近くに居ることが彼には信じられなかった。
咲良葵
真央霊術院に在籍していた頃、彼女に憧れる生徒は多くいた。
可憐で庇護欲をそそる華奢な身体。頭一つ低い小柄な見た目とは裏腹に性格は潔癖にして壮烈であることで知られていた。
斬拳走鬼のすべてにおいて優秀な成績を誇り、とりわけ鬼道の素質は同学年に並ぶ者が無く、雛森桃以来の逸材と言われる程の才女が彼女なのだ。
真央霊術院卒業前に護廷十三隊に入隊が決定していたのは彼女の代では彼女一人であった。
そんな彼女が入隊を四番隊を希望したことは大きな話題となった。
誠実で潔癖な彼女だからこそ十三隊で唯一の救護・治療を担う隊を希望したのだと讃える声もあれば、四番隊だから容易く入隊できたのではないかと彼女の優秀さを妬む口さがない者達の噂まで、噂は様々であった。
ただ、彼にとっての真実は一つだ。
四番隊に入隊が決まってから、彼女と日々を共にする機会が増えたということ。
闘いを好まない性分から四番隊に入隊したことで、雑用部隊と馬鹿にされることを恐れるよりも、彼女と生活を共に出来ることへの喜びが遥に勝っていた。
彼が入隊するころには、彼女は四番隊七席の座に就いていた。
学院での優秀さは翳るどころかより磨かれ、黒い死覇装は白を基調とした学院の制服よりも彼女の嫋やかな魅力を引き立てているように映った。
小紐で括った艶やかな金青の髪を靡かせ任務に訓練にと励む姿は、学院時代遠巻きに見つめていた頃とは比べ物にならない程に眩しく映った。
「はぁ!!」
引っ叩く様に放たれた気合が、そんな夢見心地を打ち砕いた。
瞬歩でも使ったのかと思う程に、一足飛びに踏み込んで来たと思った頃には、強かに木刀を払い落され返す刀で喉元に切っ先を突き付けられていた。
「また切れてたよ、集中」
「は、すみません咲良先輩」
腕に当てられてはいない。木刀を叩き落されただけにも関わらず、感覚が無くなる程に手が
痺れていた。
この小さな身体、その細い腕の何処にこれほどの力があるのだろうか。
そんなことを思いながら自分の木刀を拾ってくれている彼女を見下ろすと、不意に襟から覗く白い肌と鎖骨に視線が釘付けになる。
ふと甘い香りが鼻腔を擽る。
自分が知る香水のような強い匂いではなく、花の香りのような仄かで優しい匂いだ。
それが目の前の憧れの人からのものであると思い至ると鼓動が一層強く高鳴る。
彼女が身に着けている香が鍛錬で温まったため匂いを強めたのだろう。
下卑た行為と知りつつ、密かに花の香を吸い込む。
「こらッ」
びくっと背筋が伸びる。
彼女の胸元を覗いていたことがバレたのか。
焦りと恐怖に背筋を冷たい汗が流れるが、それはすぐさま杞憂に終わる。
「先輩じゃないでしょ?いつまで学生の気分でいるの。ダメよ」
拾い上げた木刀を手渡しながら、手の掛かる子どもに言って聞かせるように嗜める彼女に、密かに胸を撫で下した。
「失礼しました!咲良五席!」
「はい、よろしい」
竜胆色の瞳を細めて、柔らかく微笑む。
その笑顔を見るだけで身体が熱くなる。
鍛錬場の壁際に座する隊員の何人かが嫉妬の眼差しを向けてくるのを感じるが、そんなことはどうでもいい。
それどころか、淡い優越感すら感じる。
憧れの少女がすぐ近くで可憐な微笑みを湛え、甘い香りが肺を満たしている今の状況は数多の隊士達の嫉妬の念など紙吹雪が当たった程の疼痛も感じない。
身体を覆う多幸感に当てられたせいか、普段ならば想像すらできない大胆な考えが脳裏を過る。
「あの、咲良五席⋯」
自然と口が開く。
「この後、鍛錬に付き合っていただけないでしょうか」と続けるために。
向上心からではなく、二人きりでの鍛錬をすること、あわよくばその後に二人で食事に行けたらという下心からの言葉だ。
しかし、そんな下心は呆気無く行き場を失う。
「やぁ、みんな頑張っているね」
柔らかな声が鍛錬場に響く。
決して大声ではないのに、その声は涼やかな風のように滞留していた鍛錬場をするりと吹き抜けていった。
同時に、その場を満たす程の霊圧が、隊士達の誰もが思わず背筋を正してしまうような巨大な霊圧が場を支配する。
それは決して息苦しさや恐怖を与えるものではなく、ただ大きな広がりを持つ霊圧であるが、一介の平隊士である彼にはそれでも柔らかい綿が身体を包むような圧迫感を覚えずにはいられないものであった。
「横嶌隊長っ!!」
誰よりも先に反応したのは、微かな圧圧迫感と現れた存在に気圧されて言葉を途切れさせている自分の目の前に立つ葵だった。
「鍛錬の邪魔をしてしまったね。ごめん」
「いえ!もう終わりましたから。問題ありません!!」
「そ、そうなんだ」
一瞬ちらりと自分に申し訳なさそうな視線を向けてきたのは鳶色の眼差しに、どんな顔をすればいいのかわからずただ力なく情けない笑みで返す。
先ほどまで大人びた表情で自分を叱り付けていた敬愛する上官たる少女は、既に自分を瞳に映すことすらせず、鳶色の瞳と、赤銅色をした長めの髪をした男を見上げている。
ただ一人の男のみを竜胆の瞳に映す葵の表情は大人びた凛としたものとは一変し何処か幼く無防備でさえある。
朱に染まった頬も、明け透けな好意が見える表情もいっそ自分の見間違いであればどれほどよかったのか。
しかし、自分には葵の見つめる男に張り合って見せる度胸も力も無く、何より資格が無い。
四番隊の誰もが知るその男、卯ノ花烈亡き後に空席となっていた四番隊隊長の座に新たに就いた横嶌義壱と、下っ端の一隊士でしかない自分との間にはそれほど隔絶した差がある。
「隊長こそどうしてここに?御用でしたら私から伺いましたのに」
葵が何かに気付いたのか、慌てて襟元を正す。髪をさりげなく整える様は護廷十三隊の五席を務める女傑ではなく、女学生のようなかわいらしさがあった。
見惚れてしまう程のそのかわいらしさにしかし彼は今度こそ打ちのめされた。
自分には無防備に晒していた些細な着衣の乱れ一つで淡く染まっていた頬を、羞恥でより色濃く赤らめる姿に、隊長と平隊士という天地程の差以上の長大な差を見たからだ。
「いや、用事があったのは僕の方だし」
「もう、ダメですよ?お言葉ですけれど貴方はもう私達の隊長なのですから。隊長らしい振
る舞いをしていただかないと」
「う〜ん⋯まだどうにも実感がね。この羽織も隊首室に置いておきたいくらいなんだよ」
「ダメです。もし見つけたらすぐに届けに行きますから」
「困ったな〜」
小さな花びらのような唇からは、先ほどまで自分を叱り付けていた時と口調こそ変わらないのに、比較にならない程の甘みを帯びた優しい声が零れる。
葵の視界からも思考からも、自分という存在が髪の毛一筋すら消え失せているのだと思い知る。
「あっ」
そこでようやく葵はここが何処で、自分がどんな顔をしていたのかに思い至ったようだった。
「隊長、ここでは何ですから改めて後で隊首室にお伺いいたします」
「そんな悪いよ」
「いえ。すぐに伺いますから。いえ、身支度だけは整えてから改めて」
「えっと⋯じゃあ、そうしてもらえるかい?」
「はい!!」
葵と横嶌が鍛錬場から立ち去るのを半ば呆然と見送っていると、不意に不戦な腕が肩に回される。
「ドンマイ」
ニッと笑っているのは霊術院時代からの友人の一人であり、四番隊においても同期の男であった。
にやにやとした笑みが全てを物語っている。
ことの一部始終を見ていたが故のいやらしい笑みだろう。
そっと周囲を見回せば、さっきまで嫉妬の眼差しで自分を射抜いていた男達が大なり小なり友人と似たような笑み、所謂「ざまぁみろ」という表情を浮かべていた。それ以外の隊士達からも同情的な視線が向けられ、落ち込んだ気持ちが更に沈んでいく。
「なんだよ」
「いやいや、慰めてるんだよ」
「別に⋯そんなんじゃないし」
「そういうことにしておいてやるよ。ま、諦めろ。四番隊の新入りの通過儀礼みたいなもんだって」
「なんだよそれ」
「ん?お前知らないの?」
「だから、なんだよそれ」
「有名だぜ?俺も先輩方から聞いたけど」
友人が目を丸くしたかと思うと露骨に溜め息を吐いた。
その仕草一つ一つがやたらと大袈裟なことがささくれだった心を逆撫でする。
「咲良葵せん⋯五席は真央霊術院入学前からずっと横嶌隊長に憧れてたって」
「えっ···」
葵の去った鍛錬場の入り口を未練がましく見る自分に、友人が同情とからかい(同情はせいぜい1〜2割程度だろうが)が混ざった表情を向けていることとは顔を見ずともわかる。「マジで知らなかったのかよ」という呆れた声が雄弁に物語っている。
「なかには横嶌隊長を追い掛けて四番隊に入隊したなんて噂まであるんだからさ」
その言葉は最早過剰な殴打に等しい。死体蹴りなど生温い。深く地にめり込む程に沈んでいた心が地中の奥深くまで埋まっていくようだ。
「無駄口が過ぎるぞ!立ち合いが終わったのなら下がりなさい」
「やべ⋯は、はい!!」
「すみません!!」
ぴしゃりとした叱貴の声に、顔を打たれたように友人と共に背筋を正す。
鏡の奥から厳格な眼差しを向けてくるのは四番隊三席伊江村八十千和であった。
背中に鉄の棒でも仕込まれているのではないかと囁かれる程にぴんと背筋を伸ばし正座を微塵も崩さない伊江村に、深々と頭を下げると鍛錬場の壁際に引っ込む。
「はぁ⋯お前のせいで叱られたじゃん」
「悪かったって。けど、ま、元気出せよ」
ぼそぼそと小声で囁き合う。友人は額に汗を浮かべて苦笑いを浮かべていた。
お調子者の友人とはいえ三席からの叱責には流石に肝を冷やした様子だ。
先ほどまで散々自分の失恋を弄ってくれた友人のしょげた様子に少しばかり溜飲が下がる心地がしたものの、沈む気持ちは変わらず胸の内に巣食ったままだ。
「横嶌隊長かぁ⋯」
自分の想い人の心を自分が想い人と出会う以前から奪っていた男の名を彼は呟く。
その呟きはすぐ隣に座す友人すら聴き取れない程に小さくか細い。
奮起して想い人の、咲良葵の心を自分に向けさせようと思うにはあまりにも護廷十三隊隊長という存在は雲の上にある頂と呼ぶのもおこがましい月にも等しい存在だ。
彼には月に向かって行く強さも吠える気概すら無い。
何故なら彼は取るに足らない隊士の一人でしかないのだから。