ゾルディック家のブラコン長男 作:見切り発車丸
他者視点
ぼんやりとして過ごすことが増えた。夢見心地にふわふわと意識がぼんやりとしているけれど、そのことに気づくのは我に帰ってからで、その我に帰る時間も日に日に短くなってきているらしい。
わたしはそう、人から聞いた。自覚はできない。
愛する夫と、愛する息子と、三人で暮らしていける。ただそれだけでとても幸せなのだけれど、どうしてかしら。
頭のなかには常に薄白い靄がかかっていて、深く考えることができない。
おかしくなったのは、いつからだったかしら……あら、もう思い出せない。
息子を育てながら、わたしは自分の命がそう長くないことを悟っていた。
神様もう一日、あともう一日だけでもこの子と、夫と一緒に過ごさせてください。
そんな縋るような思いで日々暮らしていた。
わたしはいつの間にか捨てたはずの故郷――流星街に帰ってきていた。
流星街出身だという話を、わたしは夫にしたのだったかしら。……まあいいか。
流星街でも比較的治安のいい場所に建てられた家に住んでいたから、家のなかに泥棒は入ってこないと思うのだけれど、なぜだか家のなかから物が減っていく。深く物事を考えられないから、そんな気がするだけなのだけれど。
お料理をしようと台所に立ったら、包丁もなければキッチンバサミもピーラーもなくて、おまけに食材はすっかり萎びた状態で冷蔵庫に入っていた。
粉々に砕かれた野菜が冷凍されていて、わたしは小首を傾げた。
なにかしら、これ。
夫がなにかしらの隠し事をしていることに、わたしは気づいている。
わたしのなかの疑問は、積み重なってゆくけれど、考えたそばから深く考える前に霞のように消えてゆく。不思議と気にならなくなっていくのだ。
彼はこっそりとどこへ行っているのかしら。
わたしに隠れて、一体何をしているのかしら――
目の下を真っ黒にして明らかに疲れている様子で、時々死んだように意識を失っている。
命を削りつつ必死に笑みを張り付ける彼の姿はとても痛々しくて、わたしは一刻も早く彼を解放してあげるべきだと思っていたし、その都度言っていた。
わたしのことなんて放って、はやく逃げてちょうだいと。
わたしを抱きしめる彼の優しい背中に、ナイフを突き立てようとして、彼に止められたことが何度もあった。
わたしは自分の凶行に信じられない思いだった。
だってナイフを刺そうとしたことをまるで覚えていないのだ。
鋭利な刃物を、鋭く尖った針を、研ぎ澄まされた鋏を、大切な人に向けて振りかぶっていることに、まるでわたしは気づかない。とんだ殺人鬼の所業ではないか。
無意識下で人を――それも自分の愛する人を刺そうとするだなんて、気狂い以外の何でもない。
わたしのもとから離れてと願うのと同じくらいに、わたしは彼に側にいて欲しいと願っている。
欲深い、罪深いことだ。
彼はとても優しい人だから、わたしが口先だけでどこかへ行ってと言ってるだけで、実は側にいて欲しいことを分かっている。
わたしはそんな彼の優しさにつけ込んでいる。
夫はキミはなんにも悪くない、と笑顔でわたしを抱きしめた。
わたしはその腕の温かさがたまらなく怖くなる。
この優しくて強い腕が、なくなってしまうのが怖い。
頭のなかで誰かがずっと囁いている。
裏切り者、死ねばいい、って。女の人の声。
ねちゃねちゃと纏わりつくヘドロのような臭くて汚いものがべったりと心を汚染していく。
わたしがぼんやりとし始めてから、夫は念というものを教えてくれた。
もっと早く教えておけばよかった、と深く後悔しながら生命エネルギーを操る方法を教授してくれた。
きらきらと時々光っている人がいる。
夫もきらきらと光っているときがある。
あのときわたしが見ていたのはオーラというものだったんだ。
夫はいつも夜にキラキラと光っていて、わたしは夢見心地にその美しい光景を楽しんでいた。
わたしはオーラを思い通りに動かすことがそこそこ得意だった。
生命エネルギー――オーラの運用を自由自在にできるようになると、不思議なことに頭のなかの靄や絶え間なく呪詛を吐く女の声が少しマシになった気がする。
夫いわく、念には身体を頑丈にする効果もあるらしい。
しかしながらそれは、本来ならばすぐに終わるはずだったわたしの命をいたずらに長引かせることに繋がった。
相変わらず思い通りに動かないわたしの身体。
大切な夫のことはどうしてか傷つけようとするけれど、同じく大切な息子のことだけは傷つけなかった。
それだけがわたしの誇りだった。
命を懸けて産んだ大切な我が子。
彼だけは無意識下の凶暴な
急速度で近づいてきていた死が、念を覚えることでゆるやかになった。
それでもゆっくり着実に近づいてくる死を感じながら、至って平気でいられたのは、あたたかくて小さい我が子を胸に抱くことができて、愛する夫が側にいてくれる幸せを噛み締めていたからだ。
夫と息子と三人で珍しくゆったりとしたひとときを楽しんでいたときのことだった。
来客があった。
わたしはぼんやりとすることが多いから、一人で外に出かけることは夫から禁じられていた。
同じく流星街に住む母さんたちはよくこの家に来てくれていて、きっとそうだと思ったのだけれど。
いつものように夫が迎えにいった。わたしは息子を横抱きにして子守唄を歌っていた。
玄関から声がする。珍しくも夫が大声を上げていた。
「どうやってここを知った?
キミはどれだけボクたちを苦しめれば気が済むんだ。
いますぐ去ってくれ。でないと、ボクはキミをどうにかしてしまいそうだ」
なにかを言い合っているようだ。長いこと帰ってこなかった。
わたしは遠くで聞こえるその声をとらえつつ、歌い続けていた。
その日は雨だった。ごうごうと降り注ぐ雨が窓ガラスを強く叩いて、時折吹き抜ける強い風がビュゥンと建物内にまで聞こえるほどだった。
夫は眠っている。
目の下に真っ黒い隈をこしらえて、ソファに腰掛けて微動だにせず。
無理をさせて本当にごめんなさい。靄のかかる視界のなか、わたしは彼の頭をやさしく撫でた。
今日は結構調子がいい。
バン、と鈍い音が響いた。窓ガラスをなにかが叩いたのだ。風に飛んできた何かがぶつかったのだろうか。
わたしは閉ざしていたカーテンを開いた。
透明な窓にべったりと張り付いた女。手形が押し付けられている。
目をひん剥いて、口を動かしている。パクパクとゆっくり言葉がかたどられる。
ああ、あの子の泣き声だ。
わたしは踵を返した。
満足にお乳をあげられていないから、お腹が空いて泣いているのかもしれない。あれ……離乳食ははじまったのだったかしら……?
とにかくあの子のもとへ行かないと。
すぐにママが行くわ、待っていてね。かわいいかわいいわたしの息子。
何よりも大切なわたしの宝物。
今日はなんだか、霧がかったような視界が晴れて、頭の靄も随分とマシだ。
頭も働く。
わたしはベッドに横になっていて、やけにクリアな天井を見つめた。
身体を起こすと、人がいた。不思議。とても身体が軽い。息がしやすい。
わたしを真っ直ぐに見つめているのは老婆だ。
叫ばなかったのは、その顔に不思議と覚えがあったからだ。
「母さん……?」
母親がわりにわたしを育ててくれた女性が、随分と老いた姿でわたしを見つめていたのだ。
「分かるのかい……そうか、やはり念は弱まったね……よかった。
そうだよ、お前の母さんだ。
いまセレネが除念師を探しているからね」
母さんの双子の妹がセレネだ。
わたしは彼女のこともまた母さんと同じくらいに慕っていて、わたしは彼女のことはママと呼んでいた。
母さんはよく家に来てくれたが、ママは一度も来たことがなかった。
だから母さんの口からママが元気でいることを聞けてわたしはうれしかった。
「どうして母さんは突然そんなに……あら……? あの子は? あの人は……?」
わかりやすく母さんの顔が引き攣った。
見慣れない老人姿の母さん。老人らしい深い皺がぐっと深くなる。
母さんが突然老け込んでしまったのも気になる。
疑問を口にしたのは随分と久しぶりのことだった。以前は疑問に思っても、考える前に疑問が消えていってしまっていたから。
自分の頭で同じことを考え続けることができること。これが幸せなことだったなんて、失ってから初めて気づいた。
「いまのお前には耐えられない……酷な話だ。だが、それでも聞くかい?」
聞くだろう。言外にそう言っているのに、至極言いたくなさそうに、視線を合わさずに母さんはそう言った。
「夫とあの子に関係があるのね?」
半ば確信しながらわたしが尋ねると、母さんは弱々しく頷いた。
ついでおいで、と掠れた声で言う。
見た方が早いから、と。
小さく丸まった背中を追いかけつつ、家中が随分と埃っぽく、殺風景なことに気づく。
掃除は行き届いておらず、物がほとんど置かれていない。
こんなところに暮らしていたのかとわたしは声に出さずに驚愕していた。
母さんが扉を押し開けると、そこには大量の赤が地面に海のように広がっていた。鉄臭い。
飛び散った血痕とずるずるとなにかを引きずったような痕。暴力的なまでの赤が地面や壁に広がっている。
「ひっ……」
気道がぎゅっと締め付けられて、喉がなった。
喉……
ふとわたしは、自分の手のひらの感触を思い出す。
のど。
あたたかくて、やわらかくて、むぼうびで、しろくて――わたしはちいさなあかごのくびを――
――じわじわと、じわじわと、てのひらにちからをこめていくと、あかごのなきごえが すこしずつ ちいさくなっていって――
――いきができずにあえいで じんじょうでない ひめいじみたものになって
――ぶつりてきにのどがしめつけられたそのこの こえが やんだ
――それでも てのなかの それは あたたかくて わたしはそのまま――
「わ、わた、わタし…………ワタシ……」
どうしよう、母さん、わたし、ワタシ、あの子を殺したかもしれないの。
その手の感触が残っている。
夢のようだけど夢でないと、生々しく記憶するわたしの手が物語っている。
わたしは手を見下ろした。
「え……?」
血濡れて真っ赤だった。
床や壁に広がるのと同じ赤。子どもがペンキで遊んだかのようにべっとりと赤に染まっている。
薄汚れた服にも、壁に飛んでいるのと似たような点々とした赤がたくさん付着している。
「ああ……やっぱり気づいていなかったんだね。
大丈夫、大丈夫だよ。落ち着いて。ゆっくりと深呼吸をして」
大丈夫? なにが?
わたしは呼吸さえできなかった。
グラグラと揺れる視界のなか、膝が何度も折れて真っ直ぐに歩けない。生まれたての子鹿のように何度も倒れながらわたしは歩いた。
視界が滲んで見えない。以前みたいに不思議な白い靄のせいじゃなくて溢れて止まない涙のせいで。
ぼやけて揺れる母さんの老いた背中はわたしが追うのを待ちつつゆっくりと進んでいく。
玄関脇に不自然にこんもりと膨らんだ毛布があった。使い慣れたいつもの毛布だ。
母さんはその毛布のそばに立った。
そしてなにも言わずに、ただ血ぬれの床を見据えて止まった。
置物のように微動だにしなくなる。
わたしはガクガクと震える手でその毛布をまくった。
そうするまでにどれほどの時間が経ったのかはわからないけれど、母さんはなんにも言わずにずっと立っていた。
自分の手で、それをしたからか。
時間があったからか。
どこかで覚悟していたからか。
わたしは不思議と、どこか落ち着いて、大切な夫と、命よりも大切な宝物の物言わぬ死体を見ることができた。
血濡れの夫は顔から足先まで裂傷だらけで、本人かどうかもわからないほど傷つけられていた。だけどその指に、わたしと揃いの指輪が嵌めてある。
彼の身体のうえに、小さな身体が横たわっている。
首に締め付けられた痕がある以外は、びっちょりと濡れてはいるものの綺麗で、ただ眠っているだけのような。
ああ――
ああ――
ああ――
このきもちは、なんだろう。
「ワタシがやったのね」
掠れて声にならないそれに、答える者は誰もいなかった。
「彼がね、私の家までなんとか来ようとしていたんだよ。血濡れで走っているのを男衆が気づいてね、知らせに来てくれたんだ。誰かもわからないくらいに血濡れた様子だったけれどこの子を抱いていたから――」
静かに説明する母さんの声は耳の奥で音として響いていたけれど、もう意味をなしては届かなかった。キーン、と耳鳴りがする。
死後の世界がもしもあるならば。
こんな血濡れた姿でなく、いつもの通りに美しい彼でいてほしい。
愛しいあの子にも、笑顔でいてほしい。
落ち着いて考えてみると、あの子の泣き声ばかりが思い出される。
愕然とした。
わたしはあの子の笑い声を一度として聞いたことがなかった。見たことがなかった。
ああ、なんてむごい母親。むごい妻。
こんなわたしに許される願いではないけれど、ズタズタに全身を傷つけられた彼が、最後まで苦しみにあえぎ母に殺されたあの子が、いまは苦しんでいませんように。どうか笑顔で召されますように。
わたしは地獄に堕ちるからそばにはいけないけれど、心の底からあなた方の冥福を祈ります。
神様どうか、罪深いワタシに、ただそれだけ祈ることを許してください。
ワタシと違って、彼らは善良なあなたの子です。
わたしの身体が一際強く光って、夫とヒソカを覆い尽くす。
煌めくオーラが細かな粒子状になって傷口へと吸い込まれていく。
みるみるうちに暴力的な赤が消える。
「なん……と……」
母さんが目を見開いた。
傷ひとつない姿で安らかに眠る夫と、首の傷跡のないヒソカ。
彼らが生き返ることはない。それでも、美しい身体で送ってやりたかった。
わたしならそうできる、となぜかわたしは確信していた。
ああ、綺麗な寝顔。
わたしも一緒に眠らせてもらえないかしら。
「下手なことを考えるんじゃないよ。お前のせいじゃあない。すべては、お前にかけられた悪い念のせいなんだ。
辛くても、生きていかねばならない。それがお前の贖罪だと思いなさい……絶対に、絶対に死んではならないよ」
贖罪、か。
この罪を償えるとは思わないけれど、もっと苦しめと言われるのは尤もだ。
生きて苦しみ続けることこそがわたしの罰なのならば、死んで楽になるのは許されないというのならば、わたしはそうしなければならない。
力なくだらりと垂れる夫の腕を両手で持ち上げる。夫の腕にわたしの指先が食い込み、わたしの指の形に凹んで戻らない。
わたしは夫の左手の薬指に嵌まっていた指輪をゆっくりと抜いた。
そして彼の両手を息子の胸元へと乗せた。
「大丈夫。死は、二人を別つわ」
わたしは自分の左手の薬指で輝く銀色のそれを引き抜いた。