グリッドマン リバース -Lost Letter- 作:od-
ツツジ台に現れた新たなる脅威。
冠する字名は自縄自縛怪獣ゼッガー。
忘れようもない。かつて最も大切な友人が過ちの果てに至ったその姿を、ジャンクの画面越しに六花はこの目で観測している。
「なんで……? また、アカネが……⁉︎」
一人きりのジャンクショップに虚しく響く驚愕。ナイトは先刻Gコールが鳴り出すと同時に外に飛び出してしまった。その直前に見積もりに出掛けた母の安否も気掛かりだ。ゼッガーは先に現れた三つ編み風の怪獣と睨み合いを利かせ、今にも戦いの火蓋を切り落とそうとしていた。
無視出来ない懸念点がもう一つ。怪獣の発生地点がよりにもよって裕太の暮らす住宅街から近い事。何度も携帯で安否確認を試みているが、一向に繋がらない。
情報の洪水に押し流される中、六花の焦燥は募るばかりで、永遠に鳴り続ける呼び出し音に耐え切れず一旦打ち切る。
途端、間髪入れずに『内海』の名が表示された。こんな時、一人きりで抱えずに済む事がどれだけ有難いことか。六花はワンコールも待たず飛び付いた。
『六花! 状況は⁉︎』
息を荒げた内海の声。この店に向けて走っているであろう彼の動向を掴んで、六花は安堵と共に情報を共有する。
「怪獣が、街に二体っ。一体は初めて見るけど、もう一体は、たぶん……アカネ」
口にして尚信じ難い。だがジャンクに映る景色は嘘をつかない。この街を創った神様、新条アカネという名の女子高生がかつてあの怪獣に変じた場面に六花は立ち会っている。抱えた衝動を手当たり次第にばら撒いて、最後にはアルマジロのように転がり去った球状のフォルムも寸分違わず健在だ。
このような帰還は、六花はおろか当のアカネ本人も望んではいないだろうと、そう思うのは穿ち過ぎだろうか。
『新条さんが⁉︎ また、何か起こり始めてるってことかっ……!』
事態の深刻さを認めて、内海から通話を切った。今は尻に火を点けてでも走りたい一心だろう。話し相手を失うと、肩に伸し掛かる重圧が一層増して感じられた。
対峙する怪獣達は動かない。
元は新条アカネであった怪獣の第一声から、お互いを探り合う時間が過ぎるばかりだ。そこまで現状の認識に務めると、六花はある違和感を覚えた。
怪獣は生ける災害。破壊の化身。ただそこに居るだけで不都合に世界を侵略する。親友の顔を彷彿させるとはいえ自縄自縛怪獣もまた例外ではなく、ただの発声のみで衝撃波を起こしていた。
だがゼッガーの周辺には、未だ破壊の爪痕は見当たらない。咆哮という挨拶代わりの攻撃を可能としているのにも関わらず、だ。
今はまだ、ただの違和感に過ぎない。あの怪獣が敵であれ味方であれ、ゼッガーが現れて以降の膠着状態は六花達に猶予を与えてくれていた。今一度六花は、携帯に保存された裕太の名に指を滑らせる。
再び鳴り出す無機質なコールを耳に、縋るように呟いた。
「返事してよ……。裕太……ッ」
彼と通話が繋がらない事が以前にもあった。グリッドマンとなり戦って、帰って来ない裕太の身を案じた。今はあの時以上に、不安に胸が締め付けられている。自分が考えている以上に、響裕太という少年はとっくに六花の一部だった。
仮にこの電話が繋がって、裕太と連絡出来たとして、自分は彼を、もう一度戦いに送り出せるだろうか?
それはグリッドマンの落書きに着手する彼を見つめる度、六花の中で浮上する疑念だった。答えはまだ出ない。耳元の電子音だけが無情に鳴り響いている。
◆
甲高いコールが眠っていた意識に触れる。
裕太はゆっくりと目を覚ますと、身体の輪郭を徐々に取り戻す。瓦礫に埋もれかけたあの一瞬から暗転した視界は、到底無事を保証出来る幕切れではなかった。だが裕太の想定を裏切り、倒壊した家屋も、重傷を負った少女も周辺には見当たらない。
ただ裕太の側には、底無しの闇が広がるのみだった。
「俺、どこに……」
投げ掛けた問いが暗闇に吸い込まれる。まるで深い海の底に揺蕩っているような感覚だった。足場もなく、どこまでも背中から落ちていく。自分という存在はあの時点で、もう死んでしまったのだろうか?
そんな筈はない。
鳴り止まない電話が、途切れる事のない繋がりが、自分を呼んでいる。闇に沈み行く中、裕太はもがくように手を伸ばした。
〈大丈夫〉
裕太の意思に呼応するように、夜に一点の光が差し込んだ。光は意志を持つように少女の声音を伴った。今日何度となく聴いたその声が、裕太の意識を一際強く引き戻す。
「美咲山、さん……?」
〈あなたは、私が守るから〉
光はそれのみを告げて、笑いかけるように瞬いた。再び深い夜の帷が降りて、一切の明かりを失った世界が裕太の瞼を閉ざす。抗えない眠気は、裕太を戦いから遠ざけたい意思によるものだろうか。守られたいだなんて、自分は少しも望んでいないのに。
あの街には大切な人達が居る。掛け替えのない家族が。何度も友達になってくれた親友が。そして、一番悲しませたくない人が。
「りっ……か……」
鳴り響くコールの下で、彼女の名を呼ぶ。
裕太はそれ以上、意識を保てなかった。
◆
互いの喉元に刃を突き付けるような緊張感が、二対の獣達の間に張り巡らされている。夕暮れに連れて影を濃くする二体の巨影を遠巻きに、怪獣使い達は何食わぬ顔で言葉を交わす。
「……あんな怪獣、予定にあった?」
「見ねぇ顔だな。アイツの差し金か?」
四方を阻む物もないビルの屋上。その中心で語らうムジナとオニジャに、ジュウガもまた所感を述べる。
「だとしたら、俺達も信用がないですね。確かめてみましょうか」
専ら話題の中心である新参者の怪獣に向けて、ジュウガは銃口のように掌の照準を合わせた。シズムがしたように己の目を塞ぐ形ではなく、怪獣を〝掴む〟際に最も有効な構え。伸ばした右手に揃えられた四指を内から切り開けば、この作業は終わる。
インスタンス・ドミネーション
ジュウガが直に取り掛かるよりも早く、ムジナとオニジャもそれぞれ右手を前に突き出した。怪獣との相性に左右される怪獣使いにとって、個人が全ての対象を支配下に置けるとは限らない。適性を測るためにも総当たりで未知の怪獣に対処する事は最適解と言えた。
だが、ジュウガの足元に突き立てられたスクラップメーカーダガーにより、その試みは阻まれた。
アスファルトの上に深々と刺さった刃が夕陽を反射し、投げ放たれた角度からジュウガは視界の端にある給水塔へと目を滑らせる。
タンクを支える入り組んだ鉄骨に腰掛けて、ボラーが今し方投げたダガーと同様の一本を宙に放ってはキャッチし、手持ち無沙汰に弄んでいた。吹く風にツインテールをなびかせて、少年はニヒルに笑う。
「これ以上お前らの好きにはさせないぜ」
「ちっ。まだうろついてやがったか」
舌打ちするオニジャ。幾ら血気盛んな彼でも、武器が敵の手にある以上迂闊な真似は出来ない。ジュウガは腕を下ろし戦う意思が無い事を周囲に伝える。四隅を塞ぐように怪獣使い達は既に囲まれていた。
ジュウガの対角から迫り来る偉丈夫、マックスは右腕に装着されたガントレッドを解除する事なく歩みを寄せ、冷戦に徹する。
「君らが怪獣を操れる事は、レックスから聞いている」
「……お仲間がいるなんて、こっちは初耳ですがね」
自覚的にせよ無自覚にせよ、ジュウガの言い草には旧知の仲を責める棘があったが、それに取り合う者はいなかった。
「このへんで大人しくしてくれたら、うちらも助かるんだけど」
「それはこっちの台詞だけど」
ジュウガと背中合わせになりながらムジナもまた、弓銃型の武器を構えた優男、ヴィットを視線で迎え撃つ。走って銃を叩き落とせる距離では無い。ヴィットは今にも風に攫われてもおかしくないビルの角を止まり木のようにして、悠々と佇んでいた。
そしてマックスの対角線上で怪獣使い達に詰め寄るのは、愛用の長刀を右手に携えたサムライ・キャリバー。包囲網が完成したこの段階にあって、キャリバーの左手は携帯を握り締めていた。
サムライキャリバーブレードの切先が、断罪するように怪獣優生思想へ突き付けられる。その最中、キャリバーは電話越しにも届けるように語り掛けた。
「あ、あの怪獣が、お前達を取り込んで進化する事も把握している。なら俺達はここで、お前達を押し留めるまでだ」
現在、グリッドマンのサポートを使命とする新世紀中学生達は、他でもないグリッドマンの不調故に万全を欠いている。であれば、単独で動けることもまたアシスト・ウェポンの強味。対怪獣から対人に切り替えて、キャリバー達はここに集結した。
作戦の立案及び怪獣使いについての情報提供者こそが、キャリバーが通話中の相手だ。それぞれの役割を請け負い、この緊急時に最善に努めた彼の背中を、キャリバーは一押しする。
「後は頼んだぞ。グリッドナイト」
「ああ──かたじけない!」
そう言って脇目も振らず、スマートフォンを握り締めたままナイトは屋上から飛び出した。自縄自縛怪獣ゼッガー目掛けて放たれたナイトの身体が重力に囚われる前に光を発する。奇しくも怪獣が現れる際と似た赤い光は、ナイトを人体という枷から解放し、怪獣と勝るとも劣らない存在へ彼を同期させる。
〈オォッ‼︎〉
猛々しい雄叫びと共にツツジ台の地を踏んだのは、ジャンクに内包された英雄と瓜二つの巨人。否、グリッドマンを守る騎士──グリッドナイトだ。
両腕を組みゼッガーを背にした彼は、ナイトの肉声に更なる威厳を漲らせ、未だ動かない怪獣に問い質す。
〈……お前は、新条アカネなのか?〉
肩越しに向けられた問いに反応はない。だがバイザーで覆われたグリッドナイトの目線は、ゼッガーとピントが定まっているようにも思えた。これは奇妙な感覚だった。怪獣が剥き出しにするのは敵意ばかりで、本来言葉を交わす間も与えられない。
だがこの怪獣とは、意思疎通らしきものが出来ている。その錯覚に足元を掬われる可能性を考慮しつつ、ナイトの中では期待と信頼が勝った。
〈貴様が何者かはこれ以上問うまい。あの怪獣がお前にとって敵なら、我々の利害は一致している。今は手を貸して貰うぞ!〉
中腰に姿勢を崩し、飛びかかれるフォームから一気呵成に走り出すグリッドナイト。歩道橋を飛び越えて踏み出した一歩を足掛かりに跳躍した巨体は弧を描き、ガギュラに向けて渾身の飛び蹴りを定めた。
そして騎士の初撃が見舞われる寸前、ゼッガーは四本の腕を用いて砲身を作り、指向性を定めた咆哮を一直線に放った。
衝撃波はナイトが宙空に浮かんでいる間にガギュラへと浴びせられ、即席のコンビネーションにより生まれた隙を見逃さず、グリッドナイトの重々しい蹴りがガギュラに叩き込まれる。
その巨体で地面を引き摺りながら勢いを殺し、不意打ちにあっても尚倒れる事なく、ガギュラは敵を認め進軍を再開した。
「ッ……始まったか……」
「ガウマさん、今は安静に……」
住宅街の中心で荒れ狂う暴威がぶつかる中、深手を負った身体に騙し騙し息を取り込んで、一命を取り留めたレックスは呟く。消え入るその声を拾って、蓬は潤んだ瞳を堪えるように細めた。
沈み行く日輪を背景に、激戦を繰り広げる巨影を望める街の一角。新世紀中学生達に待機を命じられたとはいえ、壁に身を預けてじっとしているだけではレックスの性分に合わない。怪獣の種は今も心臓の近くで根を張り、情動という不可視のエネルギーを吸い取られないよう、平静を保つので精一杯。
徐々に預けた背中から身体がずり落ちていく。立つこともままならない現状が、ただ歯痒かった。
「悪りぃな、蓬。またこんなザマ見せちまって……」
それでもレックスは空元気で口の端を釣り上げて、目線を合わせて身を屈める蓬の髪に指を撫で付けた。下手糞な虚勢を振り払わず、少年は真剣な眼差しで首を振った。
「……ガウマさんのせいじゃないです。謝らないで下さい」
「……だな」
きっと、子供扱いする年齢でもないのだろう。教えた事も教えられた事もたくさんある。謝るよりも先に伝えたい事はあって、その機会もこの騒動を乗り越えた先にしか訪れない。
「──蓬」
断崖に立つように屋上の縁で首を返して、夢芽が栗色の髪を風になびかせた。決意に満ちた双眸は蓬を捉え、その左手にはかつての愛機、ダイナウイングが握られている。
「私達に出来る事、まだあるよ」
幾度となく肩を並べた少女の背は、今も変わらず頼もしい。我が世の春を謳歌する昨今の浮かれっぷりの下から芽を出した、培った戦士の面影。そして呼び掛けられた少年もまた、決して彼女を一人にはさせない。
蓬は右手に握っていた人形大の愛機、ダイナソルジャーを見つめて、意を決し面を上げた。
「うん! 行こう! 夢芽! ガウマさん、ここで待ってて下さいね!」
走り出す蓬。並び立つ夢芽。少年少女は空いた手を繋ぎ合って、それぞれの相棒を夕空に掲げる。
〈〈アクセスモード‼︎〉〉
重ねた声と共に眩い光に包まれて、二人が手にしたメカ達が巨大化する。
その内部に少年少女を乗り込ませ、夕焼けに負けじと燃え盛る真紅のボディ。
片やグリッドナイトの半身をも越える竜人機。片や全幅60メートルにも上る戦闘機。天と地に現れた両者は己が名を轟かせる。
〈ダイナソルジャー‼︎〉
〈ダイナウイング‼︎〉
そして示し合わせたようにダイナソルジャーが跳躍すると、天空に舞い上がる戦士の背中にダイナウイングが接近。合体のフォーメーションを取った。
久しい操縦にも関わらず阿吽の呼吸を発揮した二機は空中で引かれ合い、地を駆る戦士に翼を与える。影を重ねるように結び付いた一対は、大空を旋転し今一度、生まれ変わった自らの名を高らかに叫ぶ。
〈〈ダイナソルジャー!! ウイングコンバイン!!〉〉
その内に乗せた少年少女達を象徴する形態が、大空に軌跡を残し怪獣へ向かって飛び去った。後は任せろとでも言わんばかりの頼もしい勇姿を見送りながらも、レックスは置き所のない使命感に手を動かす。
「くたばってる、場合じゃねぇよなぁ……」
負けん気で己を鼓舞し、レックスは携帯を耳に押し当てた。地べたにバラバラに転がった赤いメカ達が、物言わずその時を待っている。
◆
その日の山中暦は珍しく緊張していた。というのも、久し振りに手応えを感じていた面接の返事を自宅で待っていたからである。
近日、という表現が厳密に何日を指定しているかは甚だ疑問だが、兎にも角にもまだ指定期限である今日という日は終わっていない。メールにせよ電話にせよ、不採用なら何のリアクションもない企業もあるわけで、何かしらのレスポンスが明言されているだけでも有難いと言えた。
しかし文明の利器は依然として沈黙を保っている。世間はバレンタインデーを通り過ぎ甘やかな空気が広がっているが、現実は非常である。さりとて待ち時間一杯緊張の糸を保てる程暦は人間が出来ていない。出来てたら34歳無職はやっていない。だが未解決の案件というものは脳に未知数の負荷を与えるもので、何も身に入らず暇潰しにベッドの上をコロコロ掃除していた。
スマートフォンが鳴ったのは、丁度その頃だった。自慢にもならないが従姉妹経由以外では滅多に鳴らない電話が鳴り出したこの時点で、九分九厘面接先であろうと信じて疑わなかった。これで今日の不安を明日に持ち越さなくて済む。最早合否よりも暦には重大事項だった。
かくして、表示されていた〝ガウマ〟の三文字にがっくり肩を落とし危うくぎっくり腰になりかけた。悲しきかな30代。従姉妹に連れ回されるバッティングセンターもおちおち寿命を縮めかねない。気持ち腰をさすりながら暦は通話ボタンをタップする。
「もしもし。ガウマさん?」
『よぉ、暦ぃ……。手ぇ、空いてるか……?』
自分より遥かに死にかけた声がした。
歳下の上司に叱られる時よりも背筋が伸び、暦は恐る恐る答える。
「暇っちゃ暇ですけど……。ガウマさん、大丈夫ですか……?」
『細かい話は後だ。……今、お前が必要なんだよ』
暦よりも推定5000歳程歴史を重ねているらしい電話の主は、いつだって言葉が足りない。主旨が前のめり過ぎるガウマだが、彼が真っ先に頼る相手に自分という人間が含まれている事実が図らずも誇らしかった。
万年就職活動中の手前、その判断には少なからず『お前は絶対フリーだろう』という前提が込められている事は言わずと知れているが、それも信頼には違いない。そして何より、社会復帰という暦本来の戦場に横槍を入れる真似を普段の彼はしない。そのガウマがなりふり構わず協力を申し出たのであれば、事は一刻を争うのだろう。断る選択肢はなかった。
「一大事なのはわかりましたけど、俺は具体的にどうすれば……」
『待ってろ……。今、迎え寄越すから』
「それなら、俺家居るんで。2代目さんに宜しくおねが、……切れた」
相変わらず性急な人だ。待ったがきかない職務上仕方ないが、暦も巻き込まれる事には慣れている。生活スタイル上買い出しや就活くらいでしか外出しないので、一年程前まではほぼ一張羅にしていたジャージをこの冬もまた引っ張り出している。着替えくらいしておこうとクローゼットを開いたその時と、部屋のドアが開け放たれたタイミングはぴったり同時だった。
「失礼します! 暦さん!」
「また宇宙のピンチっすよ‼︎ センパイ‼︎」
「はやっ⁉︎」
通話が切れて一分も経っていない。この状況下でドアの向こうからひょっこり顔を出した二人の女性は無論、暦とも面識がある。
次元渡航担当、OL風味のパンツスーツ姿の眼鏡女子、自らを2代目と名乗る謎めいた彼女の隣で、暦を催促する少女こそが従妹の飛鳥川ちせだ。赤い毛髪の毛先に金のツインテールを翻し、一も二もなく部屋に踏み込むと、彼女は有無を言わさず暦の手を取った。
引き摺られた暦が出入口に立つと、家の廊下がなくなっていた。
記憶通りの間取りはどこへやら。ちせや2代目のバックには、ピンク色の空間が上下も左右もなく撮影のグリーンバックのように広がっていた。
「二人とも、なんでここに……っていうか、うちのドアどこに繋げちゃってるんですか⁉︎」
山中家にリフォームの予定はない。明らかにこちらに利がある言い分は、宇宙の橋渡し役として〝パサルート〟なる道を繋ぐ2代目の耳には届いた上で取り沙汰されなかった。
「申し訳ありません! 緊急事態故、手間を省かせて頂きました!」
「いやプライベート⁉︎」
「どうせ暇してますよね。さっさと行きますよ! センパイ!」
「一応俺、求人返事待ちなんだけど……」
「だったらその間に次の履歴書書けや‼︎」
「うぉわ⁉︎」
抵抗虚しく暦の人権は無視された。今から書くとこだったとか、言い訳の余地は最早ない。奈落の底のようなパサルートに引き摺り込まれ、今日も今日とて暦の休日は安まらない。
人知れず震えた携帯に表示されたお祈りメールを暦が目にするのは、もう少しだけ先の話になる。