From outside Kivotos   作:ケトゥ毛

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迷える子供たちを導かなければ
救わなければ
殺さなければ
観測しなくては

とりとめのない有象無象は羊飼いとなった
いや、子羊のままだったのだろうか



78話『偽りの王』

 

 案山子のようにただ不気味に突っ立つ腕のない人型。

 『シッテムの箱』がその胸に突き刺さった何か。

 

 怪物は変わらず歯を剥き出しにして微笑んでいる。

 いや、それは本当に笑っているのだろうか。あるいは、泣いているのだろうか。

 ……それとも憤っているのだろうか。

 

 その場にいる生徒たち、そして通信越しのオペレーターたちの誰もが、その異形の表情を正しく『理解』することができなかった。いや、理解してはならなかった。なぜなら、その悍ましい本質を理解してしまったとき、その者の精神はすでに“狂って”いるに等しいからだ。

 

「うっ……! みんな、構えて……!」

 

 脳髄を焼くような強烈な悪寒から、シロコがハッと意識を最も早く持ち直した。ホシノ、ネル、ツルギ、ヒナの最強たちも遅れず素早い反応ですぐさま一斉に武器を構える。

 

 直後、五人の銃口から同時に放たれた弾丸の嵐。

 あらゆる遮蔽物を消し飛ばせるほどの総攻撃が、直線的に案山子の肉体へと肉薄する。

 

 しかし、その刹那。

 あらゆる弾丸は、まるでそこに見えない透明な歪みでも存在するかのように、ことごとく“弾道が逸れる”ようにして四方八方へと散っていった。

 

 直撃のコースに乗っていたはずの銃弾が、案山子の肌に触れることすらなく虚空へと弾かれる。まるで誰かの防衛手段のよう。なぜか見覚えがある。

 

「そんな……弾かれた……!?」

 

 シロコは自身の放った弾丸が虚しく明後日の方向へ滑り落ちていく光景に眼を見開いた。

 

「これ……先生のと、同じ……?」

 

 かつての先生と全く同じ防御手段を扱っているように見えた。

 しかし……何故?

 

 案山子は呻くように、しかし表情一つ変えずに笑い続けている。

 いや、その剝き出しの歯の隙間から漏れ出る引きつった呼吸はどこか、ひどく幼い子供がすすり泣いているようでもあった。

 

 腕を持たぬ案山子は、その鉄筋のような脚部を地面から僅かに浮かせた。

 まるで見えない絞首刑の縄で首でも吊られているかのような不自然な姿勢で。そのまま、天からの何かに引っ張られるようにして、ずるずると後方の虚空へと浮き上がり、引きずられて離れてゆく。

 

 直後、怪物の頭部に深く巻き付いた茨の冠が鈍く紅色に光った。

 

 それに呼応するように、極彩色の空が激しく脈打つ。

 ドクンと空間がえづき、天に座する『黒い太陽』が、まるで癌細胞が分裂を行うかのように、その数を一気に三つへと増殖させた。天のあちこちにぽっかりと開いた暗い穴。その奈落の底から、再びずろりと悍ましい質量の塊が垂れ流され、次々と戦場へと産み落とされていく。

 

『新たな高エネルギー反応が複数! 質量、座標、すべて異常です!!』

 

『嘘でしょ……デカグラマトンの預言者が、さらに三体……!?』

 

 オペレーターたちの悲鳴が無線を埋め尽くす。

 

 激しい着地衝撃とともに爆煙の向こうから姿を現したのは、第一セフィラ『ケテル』、第二セフィラ『コクマー』、そして第四セフィラ『ケセド』。

 それらもまた、先ほどのビナーと完全に同じだった。本来の高潔な神々しさは微塵もなく、ひどく損傷し、全身を血錆と茨に侵食されたヘイローを持たぬ『屍』の群れ。しかし、それらは胎内の狂気に突き動かされるように、一斉に咆哮を上げて混成軍へと襲いかかり始めた。

 

『“みんな、落ち着いて! 敵の戦力が分散したなら、こちらも陣形を変えるだけだ! 各校の最高戦力は即座に自軍の防衛線へ戻って!”』

 

 ノイズを貫いて響いた先生の鋭い通信。その的確な指示により、全軍の陣形が瞬時に再編成される。

 

「チッ、おい! てめえの獲物はあっちだ!」

 

「き、きひひひひっ! さぁ暴れる時間だぁ……!」

 

 ネルは即座に反転してC&Cの防衛線へ、ツルギもまた奇怪な笑い声を上げながら正義実現委員会の本隊へと文字通り突き進んでいく。ヒナもまた、押し寄せるケセドの軍勢を足止めすべく、ゲヘナの風紀委員会陣形へと翼を広げて飛び立った。

 

 最強たちがそれぞれの戦場へと分散していく中、残された課題は、あの元凶たる“案山子”への対処だった。

 

『“シロコ、ホシノ! あの人型があらゆる怪物を呼び寄せている原因のはず! 奴のターゲットはアビドスに任せる!”』

 

 先生の言葉に二人は短く応じる。だが、アビドス対策委員会の戦力もまた一様ではなかった。

 ノノミは少し離れたセクターの防衛に回っており、アヤネは別回線のオペレートを引き受けているため、こちらの前線への合流には少し時間がかかる。

 

 つまり……今はシロコとホシノの二人だけで、あの未知の絶対障壁を持つ怪物相手に、この場を凌がなくてはならないのだ。

 

「先生の守りと同じなら、隙を付けない以上どうやって攻撃を通せばいいかは分からない。……だけど、やるしかない」

 

 シロコがマフラーをきつく締め直し、グリップを握り直す。

 その隣で、ホシノはシールドを叩きつけ、不敵に、だがどこか懐かしむように目を細めて微笑んだ。

 

「へへっ、久方ぶりのツーマンセルだね。……いくよ! シロコちゃん!」

 

「ん。了解!」

 

 たとえ少数であろうと彼女たちはキヴォトス最強格の生徒であることに変わりはない。二人の少女は泥を撥ね上げ、不気味に宙を浮きゆく案山子を目がけて、同時に地を蹴り走った。

 

 幾度となく砂漠で死線を潜り抜けてきた二人の、息の合った完璧なコンビネーション戦術。ホシノがシールドで弾道を確保し、その影からシロコが寸分の狂いもない精密射撃を叩き込む。

しかし、その連撃を以てしても、放たれた弾丸はすべて案山子の手前で不自然に歪み、虚しく弾け飛ぶばかりだった。

 

 相手はただ見えない縄で吊られた人形のように、ゆらゆらと宙を浮いて後退していく。

未だ明確な反撃も攻撃の意思すらも見せてこない。その絶対的な沈黙こそが、底知れない不穏さとなって二人の焦燥を煽っていた。

 

「(……銃撃は完全に無意味。弾丸じゃ、あの障壁を絶対に突破できない)」

 

 この場にいるシロコは、一度世界を滅ぼしかけた『死の神アヌビス』の神秘をその身に宿す存在、シロコ*テラー。生と死の境界を操り、あらゆる命を砂へと還す絶対的な死の権能を以てしても、そもそも攻撃が“届かない”以上、その神秘を機能させることすら叶わなかった。

 

 そもそも単に殺せば死ぬような代物なのだろうか。

 ちんたらと無意味な攻防を続け、全校の戦力を疲弊させるわけにはいかない。

 

 弾き返される銃弾の嵐の中でシロコの視線が、案山子の胸元に突き刺さった『シッテムの箱』の一点を見据えた。

 

「(障壁の起点があの端末だとしたら……直接触れて、あれごと叩き割れば……!)」

 

 何が起こるか分からない。それは文字通りの、命を賭けた大きな大賭けだった。

 

「ちょシロコちゃん、突っ込みすぎ……」

 

「ん。これで、終わりにする!!」

 

 ホシノの制止の声を置き去りに、シロコは爆発的に跳躍した。

 肉眼では捉えきれない超高速の肉薄。無敵の障壁を強引にすり抜けるようにして、シロコは空中を浮遊する案山子の眼前に迫り、その血汚れた胸元へ躊躇なく素手を突き伸ばした。

 

 ガチリ、と。確かに、青く透き通った端末の端をその掌で掴み取る。

 握力が容赦なくそのガラスの筐体へと込められた。

 

 小気味よい破壊音が響く。成功だ。掴んだ端から、シッテムの箱が蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、粉々に握りつぶされていく。無敵を誇った絶対障壁の気配が、霧散するように一気に霧消した。

 

 その直後だった。

 腕のない人型の首が、骨の軋む音を立てて、真下を見下ろすように傾いた。

 

 シロコは、思わず上を向いた。

 

 目が、合った。

 

 鋭く長い棘を持つ赤い茨の冠の奥。光など届かない黒ずんだ暗がりの奥。

 その奥の、奥の、奥の、底なしの深淵の奥。

 

 そこでひしめき合っていた.

 無数の『瞳』がこちらを凝視していた。

 

 目が合った。

 目が合った。

 合った。

 

 

 

 

 

-----------

 

 

 

 

「……ぃ」

 

「……ぉ……ぃ」

 

「ぉ~~いシロコちゃ~~ん」

 

 耳の奥をくすぐる、ひどく懐かしい声。

 

「お。やっと起きたねぇ。うへぇ~ほっぺたに変な姿勢で寝てた跡がくっきりついてるよ~……」

 

 ゆっくりと目を開けると、そこには見慣れたアビドス高等学校の教室があった。

 私の顔を覗き込んでいるのは、いつも通り眠たそうな目を細めているホシノ先輩。

 

 ……ん。どうやら私、机の上に突っ伏して寝てたみたい。

 なんだか、すごく冷たくて、痛くて、とても長い夢を見ていたような……そんな気がする。何だったっけ。思い出そうとしてもすぐに消えていってしまう。

 

 なんだ。

 みんないる。

 

「もう、シロコ先輩ったら。お昼寝の時間はとっくに終わってますよ? ほら、ノノミ先輩がせっかく美味しいお茶を淹れてくれたんですから、早くシャキッとしてください」

 

「ふふ、シロコちゃん、まだ寝ぼけてますね~? はい、あったかい紅茶ですよ~☆」

 

 眼鏡の位置を直しながら書類をまとめているアヤネ。隣で、にこにこと上品に微笑みながらカップを差し出してくれるノノミ。今度はどこで買ってきたものなんだろう。

 

「シロコ先輩……? さっきからボケっと私の顔見てどうしたのよ……? ……べ、別に、心配なんてしてないんだからねっ!」

 

 腰に手を当てて、ぷいっと顔を背けるセリカ。

 みんないる。目の前のホシノ先輩も、ノノミも、アヤネも。そして、セリカも。

 

「……ん。ごめん、みんな。ちょっと、変な気分で」

 

 軽く頭を振って、トレーニングの成果を確かめるみたいに自分の両手を握りしめてみる。うん、状態良好。変なドキドキも、もう治まりつつある。

 

 備えあれば患いなし。シンプルなルールだ。

 今日をいつも通りに過ごすために、まずはいつものように銃器の点検時間を確認して、それから……。

 

 ……セリカ。

 セリカ、がいる……?

 

「……シロコ先輩? どうしてさっきから無言で私の顔をそんなにまじまじと見るの……? もしかして何かついてる……?」

 

 セリカ……。

 違う。何か忘れてる気がする。おかしい。私は……私は……。

 

「シロコちゃん……!? シロコちゃん! どうしたの!? 返事をして!」

 

 ホシノ先輩の声が聞こえる。

 だけど、おかしい。目の前にいる、のんびり笑っている先輩の口からは、そんな声は出ていない。もっとずっと遠くから……いや、もっとすぐ近くの、この目の前の世界じゃない場所からくぐもった声が響いてくる。

 

「シロコちゃん!!」

 

 耳元で張り裂けるような悲鳴が叫ばれた。

 あれ。なんで。私は、何を見てるの?

 

 嘘。

 

 ふと、教室の窓ガラスに映る、“今”の自分の姿が目に入った。

 西日の差すのどかな教室の風景の中に、そこだけどす黒い輪郭を持った現実が鏡のように張り付いていた。

 

「……っ!!」

 

 そうだ。私は戦わなければならないはず。

 おかしい。ここは何。私は今どうなってるの?

 

 ハッと気づいたときには身に纏っているものが制服ではなくあの黒いドレスになっていた。

 

 これが、現実の私。

 

「シロコちゃん! しっかりして! 急に動きが止まったからおじさん肝が冷えちゃったよ……!」

 

 横を見れば、“今”のホシノ先輩が私を揺さぶっていた。

 だけど、視界がおかしい。

 足元は確かにあのビナーの残骸の上、重油と血の海のはずなのに私の目には周りに広がるアビドスの懐かしい教室内が、そのまま二重に重なって見え続けている。

 

 教室の景色が現実の戦場と混ざり合って歪んだまま剥がれない。

 

 ……うぅ、頭が、割れそうに痛い。

 あの案山子に目が合った瞬間に……私は……。

 

「ホシノ先輩……敵は……どこ……?」

 

 私の問いかけに、先輩の気配がぴくりと強張ったのが分かった。

 私の目にはあの不気味な案山子の姿も、爛れた赤い空も映らない。見えるのは、ただ、ひたすらに幸せだったアビドスの記憶ばかり。

 

「どこって、あそこに見えるでしょ……?」

 

 ホシノ先輩が私の視線を誘導するように細い指で前方を見据える。

 その指さす先。二重にブレる教室の真ん中で、セリカやノノミ、アヤネ、みんなに囲まれて、本当に嬉しそうに笑っている“過去”の私がいた。

 

 中途半端に幻覚を見ているみたい。

 現実の過酷な戦場と、胸が痛くなるような理想の過去が、同時に重なって見えている。なぜか今、最も銃口を向けなきゃいけない『目標』が、どうしても視界に映らない。

 

 そうか。

 理解してしまった。

 

 あの怪物、ものすごく悪辣だ。

 敵を倒すために、この先へ進むためには……私は、あの幸せだった、何もかもが起きる前の傷一つない私自身を撃ち抜かなきゃいけないんだ。

 

「シロコちゃん」

 

 ホシノ先輩の声が、重なる視界の向こうから聞こえる。

 

「今、きっとよくないものが見えているんだね」

 

 見透かしたように私の顔を覗き込んで、本当に案じて心配してくれている。

 先輩の言葉は、半分正解。だけど同時に、その真逆。

 

 私は、私にとって一番“良かったもの”を見ている。

 

 少なくとも、昔はそうだった。

 そして今は……これ以上ないくらいに、間の悪いものだ。

 

「……」

 

「……うぅん、なんでもない」

 

 私は小さく首を振って、アサルトライフルのボルトをもう一度、強く引き絞った。金属の冷たい音が、頭の中の雑音を強引に削ぎ落としていく。

 

「いこう、ホシノ先輩。まだまだ、攻撃を続けなきゃ!」

 

 決意は、とっくに固めてある。

 私は元の世界を失って、取り返しのつかない罪を背負って、それでも、失ったものをすべて取り戻すって、あの日誓ったんだ。名前のない彼が、私にきっかけを、もう一度自分のわがままのために歩き出すための足を与えてくれたから。

 

 幻覚の私が、どれだけ幸せそうに笑っていようとも。

 こんなところで、止まっているわけにはいかない……!

 

 バンッ、と乾いた銃声が響き、“今の私”が放った弾丸は、“過去の私”を確かに撃ち抜いた。

 

 よし、幻覚に亀裂が入った。

 画面がバグるように黒いノイズがバチバチと発生して、誰かが消える。

 

 ……でも、消えたのは幻覚の私じゃなかった。

 私のすぐ隣で心配そうに声をかけてくれていた、幻覚のホシノ先輩の姿が掻き消えた。

 肝心の、幸せそうに笑う過去の私は、まだそこに無傷のまま立っている。

 

「……! まだまだ……!」

 

 反動を抑え込み、すぐさま追撃を加える。立て続けに引き金を引いた。

 また黒いノイズ。今度は幻覚のアヤネが消えた。撃つたびに、撃つたびに、私以外の周りのみんなが消えていく。セリカも、ノノミも砂の底に沈むみたいに消えていった。

 

 気付けば、のどかだった教室は消え去り、ただただ暗い部屋の中で過去の私が一人ぼっちですすり泣いている。

 

 知ってる。

 覚えてる。覚えてるよ。

 

 みんながいなくなって、一人きりになって、本当に辛かった。寂しかった。怖かった。絶望してた。あの時の一番思い出したくない記憶。

 ああ、なんて悪辣なんだろう。あの案山子は私自身の手で、私の心をズタズタに引き裂こうとしているんだ。

 

 それでも止まるわけにはいかないから、一人きりになった過去の私に向けて、もう一発、弾丸を叩き込んだ。

 

 視界が一瞬で最悪の思い出に塗り替わる。

 

 そこにあったのはアビドスの部屋じゃない。

 私が名無しさんを撃ち殺したときの、あの雨の景色がどこまでも広がっていた。

 

 雨の音。

 次にトリガーを引けば、どうなるか分かってしまう。

次に撃てば、この銃弾の先にあるのは、私が殺そうとして、どうしても殺せなくて前に立ち尽くすことしかできなかった……あの時の重体の先生の光景だ。

 

 みんな死んで、私だけが生き残ってしまった。

 だから……これが『苦痛』なんだ。

 

 私は今、あの案山子が呼び寄せた怪物じゃなくて、私自身の『苦痛』と対峙させられている。

 この銃の引き金を引くたびに、自分の手で、一番触れられたくない最悪の経験をフラッシュバックさせられているんだ。

 

 ああ。

 忘れるはずもない。

 忘れたいのに、忘れられない。

 

 怖い。恐ろしい。

 引き金をかける指が、信じられないくらいにガタガタと震え出す。

 次に撃てば、私はまた。

 

 ガタガタと、身体の震えが止まらなくなっていた。

 

 息が上手く吸えなくて、胸が苦しいほどに荒くなっていく。

 分かってしまう。きっと次は引き金を引くたびに、私がこの手で奪ってきた命、裏切ってきた記憶、そのすべてが何度も、何度も、目の前に現れるんだ。

 

 恐い。

 恐いよ。

 

 恐いんだ。私は今、あの怪物が仕掛けた、私自身の底なしの『恐怖』と対峙させられている。

 

「シロコちゃん……? シロコちゃん……!?」

 

 カラン、と冷たい金属音がして、震える両手から黒いアサルトライフルが地面に滑り落ちていった。

 膝の力が完全に抜けて、その場にへたり込んでしまう。

 

 ホシノ先輩が私の名前を叫んで、必死に駆け寄ってきてくれている気配はする。私の肩を掴んで揺さぶってくれているはずなのに、その肌の触覚が、今の私には全く感じられない。先輩の声もまるで深い水の中にいるみたいに、やけに遠く、くぐもって聞こえる。

 

 一瞬、臆するたびに。

 引き金を、一発引くたびに。

 私はあの救いのない幻覚の檻の奥深くへとどんどん閉じ込められていくようだった。

 

 だめ。進まなきゃ。

 みんなで、現世に、私たちの日常に帰るって約束したんだから。進まなきゃ、進まなきゃ……!

 

 だけど、辛い。苦しい。もう何も見たくない。ここから逃げ出したい。

 

 延々と続く、終わりなき『苦痛』との対峙。

 そうか。これこそが、あの“苦痛(Agony)”という存在が示す“本質”なんだ。

 

 生きている限り、この罪の重さに苦しまなければならない。

 生きている限り、苦痛は絶対に絶えない。

 

 どうすればいいの。

 完全に、手詰まり。

 

 自分の心の内側から湧き上がる『恐怖』に、完全に打ち勝つことなんて、誰にもできない。

 ホシノ先輩だって、あの名無しさんだって、……きっと先生だって。みんな、何かしらの恐怖に縛られて生きている。

 

 そんなものに、どうやって勝てばいいんだろう。

 一人ぼっちで、暗闇に沈みそうな時、本当に必要なもの。それがあれば、私はまた銃を握れるかもしれないのに……。

 

「……」

 

「……?」

 

 その時、私の頭を押し潰していた最悪のフラッシュバックを掻き消すような、別の気配を感じた。

 

 どんよりとしたアビドスの幻覚が混じる極彩色の空に、ぽっかりと、歪な“穴”が開いた。

 突然のことだった。これは幻覚じゃない。“変化”が起きた。停滞を破壊する予測不能な乱数のイベントが起きたんだ。

 

「な、なに!?」

 

 現実の私の隣で、ホシノ先輩が驚愕の声を上げた。

 上空に開いたのは、まるで小さなブラックホール。あらゆる瓦礫や重油の泥、そして私の幻覚の景色すらも強引に吸い上げようとする、凄まじい局所重力が世界を歪ませる。

 そして次の瞬間、その重力の中心から、何かが凄まじい勢いでこちらに落ちてこようとしていた。

 

「~~~~~~っっ!!」

 

「……なに?」

 

 穴の向こうから、凄まじい風切り音と一緒に聞こえてきたのは、耳が痛くなるほどの悲鳴。

 だけど、それは私にとって聞き馴染みのある、大好きな声の一つだった。

 

「きゃぁぁぁああああああああ!!」

 

「セリカ……!?」

 

 なにあれ、嘘でしょ……?

 これもあの案山子が見せている、私を苦しめるための新しい幻覚なの……!?

 いや、違う。このわめき散らし方は、絶対に幻覚なんかじゃない。本物だ。本物のセリカが、空から降ってきてる……!?

 

 それだけじゃない。セリカの後ろからも、ぞろぞろと“何か”がまとめて芋蔓式に落ちてきた。

 

 凄まじい衝撃音。

 空から弾丸のように落ちてきたセリカと、その巻き添えを食らった他の何か、よりによって、私の目の前でずっと泣いていた“一人ぼっちの過去の私”の真上に、容赦なく直撃した。

 

「ぐふっ!」

 

 セリカが見たこともないほどマヌケなカエルの潰れたような声を上げて、私のトラウマの象徴だった過去の私が、セリカたちの下敷きになって綺麗さっぱり押し潰され、ノイズを吐き出して消滅した。

 

[コこは……何処でしょう?]

 

「うゥ~ん……あいたたた……オジさんももう年なんだから腰やっちゃうよ……」

 

「何よ……! とんでもない目にあったじゃない! 地下の遺物を使って時空間移動なんてめちゃくちゃなこと……!」

 

 思考が、一瞬だけ停止した。

 歪んだ視界、さっきまで私の心を抉り続けていた『恐怖』の幻覚、そして重力異常のブラックホール。その混沌の中で、私は信じられないものを見た。

 

 ……セリカ。

 あの時、私の前から消えてしまった、あのセリカ。

 

 その服装は見慣れたアビドスの制服とは似ても似つかない過酷な経験を物語るようなワイルドで世紀末的な装備。

そしてその背後には、鳥の頭をしたムキムキの巨漢と、重武装した異様なロボットたち。

 ……本当に何があったの?

 というかつまりセリカはあの世界線で死んではいなかった……?

 

「……っぇえ!?」

 

 セリカがこちらに気づいた。

 

「シ、シ、シロコ先輩!? ホシノ先輩!? ってことは……ついに私は『キヴォトス』に戻ってきたのね!? 会いたかったーーーー!!!!」

 

 砂埃を巻き上げて、私の元へ一直線に駆け寄ってくる。次の瞬間、衝撃的な勢いで私の胸元に飛び込んできた温もり。

 私は反射的にその身体を受け止めていた。

 

「うぅっ……本当に会いたかった! あんな最低最悪下劣醜悪の過酷な世界を生き延びて頑張った甲斐があったわ……! 本当に、本当に…!」

 

 私の胸の中で、セリカが声を上げてわんわんと泣いている。

 抱きしめた腕に伝わってくるのは、彼女の鼓動。そして、隠し切れないほどの傷から発せられる熱。

 彼女の身体からは微かに、でも確実に、この地のものじゃない乾いた土と、混じり合った血の香りがした。あちこちに巻かれた包帯の感触が、彼女が過ごしてきた時間の苛烈さを物語っている。

 

 私は震える手で、彼女の頭をそっと撫でた。もう何日もケアできていなかったであろう硬い髪の感触。いつも通りの少し気の強い、頑張り屋の私の大切な後輩。

 

「……ん。おかえり、セリカ」

 

 掠れた声で、それだけが言えた。

 彼女の泣き声で張り詰めていた戦場の空気がわずかに緩む。

 

「シロコちゃん、ホシノ先輩、大丈夫ですか~?」

 

 上空から、聞き慣れたローターの爆音と一緒にアヤネちゃんの声が響いてきた。

 ヘリを爆速で飛ばして駆けつけてくれたアヤネちゃんと、それに拾われて乗ってきたノノミ先輩。二人がハッチから身を乗り出して、信じられないものを見るように目を見開いている。

 

「すみません! 遅れました! ……って、セリカちゃん!?」

 

「み、みんなぁぁぁぁあああ!」

 

 ノノミ先輩たちの姿を見つけて、セリカがさらに決壊したように号泣する。

 と同時に、アヤネちゃんの装着していた戦術端末のホログラムがパッと空間に展開された。そこに映し出されたのは先生の顔。

 

『“せ、セリカ!? ど、どうやってここまで!? ケガしてるみたいだけど大丈夫!?”』

 

「せんせぇぇぇぇええ!!!」

 

 先生の声を聴いた瞬間、セリカの涙腺は完全に崩壊して、とうとう鼻水まで少し垂れ始めてしまった。ん、しょうがないな……。私はセリカの鼻をそっと拭ってあげた。

 

 少しして、わんわん泣いて我に返ったセリカが、ふと上を見上げて顔を引きつらせる。

 

「うわぁあっ!? なんなのよこの気持ち悪い空は!?」

 

『“せっかくの再会だけど、みんな、今立て込んでるんだ……!”』

 

 先生の焦ったような声がホログラムから響く。そう、まだあの茨の冠を戴く案山子“Agony”との決着はついていない。

 

「セリカ、立てる?」

 

 私はセリカの脇を支えて、ゆっくりと立たせてあげた。

 さっきまで、手足の震えが止まらなくて、恐怖の幻覚に押し潰されて、地面にへたり込んで立つことすらできなくなっていたのが、まるで嘘みたいに身体が軽い。

 

 そうだ。理解した。

 生き続けるうちに失うものがあまりに多すぎて、『苦痛』を感じすぎると、人は次第にネガティブになってしまう。過去ばかりを見て、世界を呪って、目の前にあるごく当たり前の事実が見えなくなっていく。

 

 だけど、そうじゃない。

 いいことも、ちゃんとあるんだってことを、今セリカが文字通り空から降ってきて思い出させてくれた。

 

 人生は、決して悪いことだけじゃない。

 落ちることもあれば、こうして奇跡みたいに上がることもある。その泥臭い繰り返しのすべてが、私たちが『生きている』っていう証明なんだ。ごく当たり前で、気づけば忘れてしまう大切な“現実”。

 

「ん。大丈夫、もう恐くない」

 

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。実は嘘。本当はまだまだ怖い。恐怖を完全に克服することはできない。でも今は『仲間』がいるから別。私は地面に落ちていた黒いアサルトライフルを拾い上げ、バシッと力強く構え直した。

 

 黒いノイズと共に私を縛り付けていた最悪の幻覚は完全に霧散した。

 視線の先。“Agony”が、こちらに向いている。見えているのかは分からない。

 

 私は銃口を真っ直ぐに案山子へと向けたまま、隣のひたむきな後輩へと声をかけた。

 

「セリカ、急だろうけど戦える?」

 

「えっ?」

 

 セリカはまだ状況が飲み込めていないみたいに、猫耳をピクッと動かして目を丸くする。

 

「私たちは“アレ”を倒さなくちゃいけない。それができないと、みんなまた離れ離れになってしまう。……どう? いけそう?」

 

 短い言葉の中に込めた戦況の重さを、セリカは瞬時に察知してくれた。その瞳から涙の跡が消え、いつもの勝気で頼もしい目へと変わる。

 

「な~んだ……そういうことだったら……みんな!」

 

 セリカが振り返り、空から一緒に落ちてきたあの奇妙な集団へと鋭く号令をかけた。

 

「ン、ン」

 

 銀色の毛並みをした犬が、喉を鳴らすような掠れたうめき声で応じ、低く身を構えて鋭い牙を剥き出しにする。

 

[ツいに私たちの出番ですか?☆]

 

 2メートルを超えるバキバキの人型ロボットが、その威圧感の塊のような巨体に似合わないあざといポーズをビシッと決めた。直後、その手にある巨大なガトリング銃がギュルルル……と火を吹く寸前の冷たい回転音を上げ始める。

 

「紹介するわ! 私が『キヴォトスの外』で出会った仲間たちよ! こんなヘンテコな見た目でも、めちゃくちゃ頼りになるんだから!」

 

 セリカが自慢げに鼻を鳴らした。

 

 私の真横に、ファサッと大きな羽が擦れるような華麗な着地音を立てて、何かが現れた。

 

「今回の獲物はアイツみたいだねぇ……そこのナウいショットガン持ちの嬢ちゃん。オジさんと気が合いそうだ。いっちょ組んでみないかい?」

 

 上裸で筋骨隆々の鳥頭の男が同じくショットガンとシールドを携えたホシノ先輩の隣にすっと立ち、超イケボで声をかけた。ナウい、っていつの時代の言葉だろう……。

 

「お、オジさん……? うへぇ~おじさんナンパされちゃったよぉ~……でも上裸の人はちょっとねぇ……」

 

 ホシノ先輩は引きつった笑みを浮かべながら、そのムキムキの鳥頭から露骨に一歩、距離を置いた。おじさん同士の謎のエンカウント。

 

「あらざ~んねん振られちゃったぁ……ま、主役を譲るさ。オジさんは後方支援も得意なの。脇役だっていいものでしょ」

 

「ホーロス! おしゃべりはそこまでよ! さっさと準備をしなさい!」

 

 セリカからの鋭い怒声が飛ぶ。

 

「あら、姉御に怒られちまった。それじゃまた後でねん」

 

 ホーロスはそう言うと、目の上のほうに指を二本添える少しイタイかっこつけなポーズを取りながら、元の位置へと背中を向けて帰っていった。ちょっとだけ、アヤネちゃんが呆れて頭を抱えているのが通信越しに見えた気がする。

 

「うへぇ~かなりイタイオジさんだったねぇ……。ま、こっちもいこうか! アビドス生徒会の意地を見せつけてやろう!」

 

 ホシノ先輩が、いつものヘラヘラした雰囲気を一瞬で戦闘モードへと切り替える。その瞳には、さっきまで私を心配して曇っていた色なんて、もう一欠片も残っていない。

 

「うん!」

 

 私も力強く頷き、しっかりと両足で大地を踏みしめて立ち上がった。状態良好。身体の震えは完全に止まった。

 隣にはホシノ先輩。後ろにはノノミ先輩とアヤネちゃん。そして、私たちの光になって戻ってきたセリカと、その賑やかで野蛮な新しい仲間たち。

 

 もう、一人じゃない。

 自分の引き金を引くことでフラッシュバックする苦痛なんて、この大騒ぎなイレギュラーたちが全部吹き飛ばしてくれた。

 

「ターゲット設定完了。火力支援を始める、みんな、私に続いて!」

 

 私は銃口を迷いなく“Agony”へと向け、アビドス全員での総力戦へと戦線復帰した。

 

 

 

 

 

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 静止していた案山子が、唐突に猛烈な勢いで痙攣し始めた。

 首がへし折れたような生々しい破壊音が戦場に響き渡り、怪物の顔が不自然に九十度真横へと傾く。その剥き出しの歯、表情一つ変えない狂気の輪郭のまま、怪物の口から『音の濁流』が溢れ出した。

 

 何百、何千人もの怨嗟の声。狂ったような笑い声、子供のようなすすり泣き、亡者のようなくぐもった呻き、キヴォトスの市民や生徒たちの絶叫が、幾重にも重なるノイズとなって空間を震わせる。

 

「来るっ! 全員、遮蔽を確保!!」

 

 シロコが叫ぶのと同時だった。

 腕のない案山子の、その引きちぎられた両肩の付け根から、泥と血を吸った赤い茨が爆発的に伸長した。生き物のようにのたうつ茨の触手は、すぐ近くに転がっていたビナーの死骸、あの超巨大な金属の巨躯へと容赦なく突き刺さり、絡みつく。

 

 そして怪物は、重さなど存在しないかのように、その超質量の巨躯を軽々と持ち上げ、頭上へと振り回した。

 

 空気ごと圧殺するような質量攻撃。案山子は首を吊られた姿勢のまま、見えない糸で操られる人形のように、アクロバットかつ重力を無視した不自然な軌道で空中を跳ね、ビナーの金属塊を叩きつける。

 

「うへぇ~! 結構芸達者なんだねぇ!」

 

 最前線、ホシノがシールドを構えて突進する。キヴォトス最高峰の防御力と攻撃力を兼ね備えた圧倒的パワーが激突し、凄まじい火花と衝撃波が周囲の重油の海を消し飛ばした。

 

「させないわよっ! 邪魔者の分際で、調子に乗るんじゃないわよ――!!」

 

 セリカが新しいライフルを構え、弾倉が空になる勢いで弾幕をぶち込む。その横から、巨体ロボットのガトリング銃が咆哮を上げた。

 

[カ~~~~~っ気持ちいいですねェ☆ この火薬の匂いも最高だお☆]

 

 掃射される7.6ミリ弾の嵐。超高回転の銃身から放たれた無数の火線が、ビナーの盾を強引に削り、案山子の肉体を抉ろうと肉薄する。だが、案山子は空中で体をねじり、まるで軟体動物のように弾道をすり抜けて距離を詰め寄る。不気味な笑い声が彼女らの耳元で響いた。

 

[ターゲット、追尾開始!]

 

 メガネのドローンが子機ドローンを作動させ、空中から案山子の不自然な軌道を強引にロックオン。その支援の下でシロコが黒いドレスを翻し、弾丸の雨を降らせながらサイドステップで肉薄する。生と死の境界を操るアヌビスの神秘が、今度は弾かれることなく、案山子の纏う茨の防壁へと直接突き刺さった。

 

「ン、ンーッ!!」

 

 死角から飛び出したのは狼っぽい犬。案山子の足元に絡みつく茨の触手へと果敢に飛びかかり、その鋭い牙で肉厚の茨を噛みちぎる。動きが僅かに鈍ったその瞬間、

 

[ザ標固定! 今です!]

 

「オジさんにおまかせあれっ!」

 

 メガネドローンのレーザー誘導が案山子の眉間を捉え、鳥頭がその巨体からは想像もつかない俊敏さで跳躍した。無骨な盾でビナーのカウンターを強引に弾き返し、至近距離からショットガンを零距離でブチかます。

 

 肉を焦がす爆煙。しかし、案山子は顔を九十度傾けたまま、なおも引きつった声で笑い、さらに広範囲へと茨の触手を広げて地面を激しく叩きつけた。隆起する土砂、飛び散る破片、飛び交う怒号。

 

「ノノミちゃん、後方から制圧射撃! アヤネちゃんはセリカたちのバックアップを!」

 

「はい、お任せください~☆ みなさん、下がっててくださいね~!」

 

 ノノミのミニガンが火を吹き、空からの圧倒的な火力支援が戦場を一気に制圧していく。

 

 生徒たちの絆と、外の世界の生存者たちによる混沌とした連携。

 狂ったようにアクロバティックに狂い踊る案山子を相手に、私たちは一歩も退くことなく、泥塗れの弾丸と火花を散らす激戦の渦中へと飛び込んでいく。

 

 激しい弾雨と火花が交錯する死闘の中、シロコの隻眼が怪物の“奇妙な不自然さ”を捉えていた。

 

 先ほどまでアクロバティックに狂い踊っていた案山子は、今や完全に見えない糸に吊られた操り人形そのものの動きへと変貌していた。関節が有り得ない方向へと駆動し、何かに強引に引っ張られるようにして宙を滑る。その節々の動作はどこか生気のない“物”のそれであり、生物としての意志を微塵も感じさせない。

 

「(何か別の存在が、あの怪物を上から操っている……?)」

 

 一瞬、そんな疑念が脳裏をよぎったが、シロコは即座に思考を戦闘へと引き戻した。今は深く考えるときではない。目の前の元凶を叩き潰す、それだけだ。

 

 シロコは裾を翻してまた鋭くステップを踏み、アサルトライフルから一連の精密射撃を放つ。その弾丸のいくつかが、怪物の身体に複雑に絡みついていた、半透明の歪な『糸』に酷似した空間の歪みをかすめた。

 

 世界が静止したかのような錯覚を覚えるほどの、不快な切断音が響き渡る。

 直後、見えない天井から切り離されたかのように案山子は地面へとドサリと落下した。

 

 だが、安堵の隙は与えられない。糸を失った怪物は、間髪入れずに四足歩行の獣のような悍ましい動きへと転じた。

 文字通りの激しい憎悪と怒りに満ちた咆哮を上げ、肉厚の茨で形成された腕で地上の巨大な金属片を掴み取る。それを無骨な鈍器のように荒々しく振り回してノノミやクリスティーナの重火器の弾丸を強引に弾き飛ばすと、凄まじい脚力でホシノのシールドへと肉薄し、荒れ狂う畜生以下の獣のごとき近接攻撃と鋭い蹴りの連撃を繰り出してきた。

 

「うおっと!? 急にワイルドになっちゃってさぁ!」

 

「ン、ンーッ!」

 

 ホーロスが盾を重ねてホシノを援護し、ロコちゃんがその隙を突いて怪物の足首に噛みつく。獣の動きに明確な隙が生まれた。シロコがトリガーに指をかけ、一気に仕留めようとしたその瞬間、怪物の動きが唐突に霧散するように変化した。

 

 ずり、と不自然に直立する。

 それは、どこか気品すら感じさせる、洗練された紳士のような立ち姿だった。

 

 怪物の頭部に戴く赤い茨の冠が、禍々しく鈍い光を放つ。

 直後、彼らの足元の空間がドロドロと溶け落ち、かつてゲマトリアの一員が造り出した人工天使『ヒエロニムス』に酷似した赤黒い巨影が瞬時に出現した。巨影は不気味な詠唱と共に、周囲へ向けて破壊的な爆発の魔術を撒き散らし、一瞬にして姿を消す。

 

「なっ……今のは……!?」

 

「避けて、アヤネちゃん!!」

 

 爆風の中をヘリで辛うじて回避したアヤネが悲鳴を上げる。

 攻撃が終わると同時に、怪物の立ち振る舞いはまたしても変貌を遂げていた。

 

 今度は自らの胸に深く突き刺さったままの、シロコによって砕かれたシッテムの箱。その壊れた端末の端を茨が強引に引き抜くようにして掲げた。

 

 その立ち姿、その背中、その佇まい。

 それはシロコにとっても、他の生徒の面々にとっても、あまりに馴染み深い『誰か』の面影を最悪の形で模倣したものだった。

 

 怪物が壊れたそれを誰かに酷似した姿勢で構えると地面の重油の海から、歪んだキヴォトスの生徒たちの姿をしたミメシスが大量に這い上がってきた。怪物は冷酷な指揮官のようにそれらを統率し、一斉にアビドス軍へと突撃させてくる。

 

 復讐者、探究者、そして、指導者。

 戦闘スタイルも、立ち振る舞いも、その本質すらも、秒単位で目まぐるしく移り変わり、一切の安定を見せない。

 

 それはまるでありとあらゆる『苦痛』と『妄執』の歴史をその身に宿しているかのようだった。

 

 誰でもあり、そして、誰でもない。

 万人の痛みを象徴するその怪物を前に、シロコたちは絶え間なく変化する予測不能な猛攻の嵐へと、さらに深く巻き込まれていく。

 

 攻撃を続けながらシロコは疑念を深めていた。

 

 確実に弾丸は肉を穿ち、神秘の力が案山子の肉体を損壊させている。それなのに、手応えが決定的に足りない。どれだけ致命傷を与えても、瞬時に別の形質へと変化して戦い続けるその姿を見てシロコはある一つの仮説、いや確信へと至る。

 

「(この存在には……『一つの命』なんて定義は最初から存在しないんだ)」

 

 無数の意思、無数の苦痛の記憶が一つの器の中で泥のようにひしめき合い、秒単位で分裂と融合を繰り返している。だから、一人の個体を殺すように引き金を引いても、無数にある命のほんの数滴を削り落とすことにしかならない。

 この案山子を単体で完全に『殺す』ことは、構造的に不可能に近い。

 ……あるいは。

 

「(この無数の苦痛を繋ぎ止め、操っている『別の根元』が、どこかにある)」

 

 先ほどかすめて千切れた、あの空間の歪みのような半透明の糸。それこそが本体であり、今の案山子はただの受信機もしくは端末に過ぎないのではないか。

 だが、その糸の根元を断つにしても、まずはこの誰でもあり誰でもない暴虐の端末を完全に沈黙させ、動きを止めて無力化させなければ、探す余裕すら作れない。

 

「先生、私の声、聞こえる?」

 

 シロコは戦術端末の向こうの指揮官へと鋭く呼びかけた。

 

「ん。あの化け物、多分命の数が無限にある。だから肉体の動きを止められるほどに一瞬で消し飛ばせる最大火力が必要。……ホシノ先輩と二人で、一番深い一撃を叩き込む。指揮をお願い。」

 

『“了解した。……みんな、シロコとホシノの道を切り開いてくれ!”』

 

 ホログラムの向こうで先生が叫ぶ。その瞬間、戦場のすべての火線が、一斉に一つの方向へと収束した。

 

「全弾装填! 撃ち尽くしてやりますよ~!」

 

「邪魔よ、どきなさーーいっ!!」

 

 ノノミのミニガンが文字通りの鉄の暴風を紡ぎ、セリカとアヤネの連動射撃が、案山子が召喚した生徒のミメシスたちを次々とハチの巣にして消滅させていく。

 

[ツいに☆ 最高の見せ場だおっ♧!! 私はバルカン・クリスティーナだぁぁっ]

 

「ン、ンーッ!!」

 

 クリスティーナがガトリング銃の銃身を真っ赤に燃やして案山子の足元を強引に削り、ロコちゃんが茨の防壁を容赦なく引き裂く。

 

「うへへ、主役の登場だねぇ。姉御の妹分、頼んだよ!」

 

 ホーロスが至近距離で盾を叩きつけ、案山子が振り回していたビナーの金属片を強引に弾き飛ばした。

 全員が己の限界を越えて作り出した、一瞬の、しかし絶対的な『隙』。怪物の防壁が完全に剥がれ、その不気味な茨の身体が完全に無防備に晒される。

 

「ホシノ先輩」

 

「いこうか。シロコちゃん!」

 

 先生の『出撃命令』が脳髄に響くと同時に、二人の最高峰のタッグが爆発的な速度で地を蹴った。

 

 一切の無駄がない、超高度な同時飽和攻撃。

 まずホシノが、色彩の残光を纏いながらシールドを構えて直線的に突進する。音速を越えた盾の一撃が、案山子の胸元へと容赦なく叩きつけられた。テラー化の残滓のようなもので偶然、色彩を扱えた彼女の力は更に強大になる。

 

「はああああっ!!」

 

 空間ごと圧壊させるようなホシノの全力のシールドバッシュ。その凄まじい衝撃により、案山子の身体はへし折れ、その肉体を纏っていた茨の半分が消し飛び、空中に強引に固定される。

 

 そのホシノが作り出した僅か数ミリの隙間、寸分の狂いもない最高速度の軌道で、シロコが影のように滑り込んだ。

手にした黒いアサルトライフルの銃口は、すでに案山子の胸の中央。砕けたシッテムの箱奥のまさにその一点へと、完全にロックオンされている。

 

「これで……!」

 

 シロコのアヌビスとしての神秘が、銃身を通じて限界まで励起される。放たれたのは、ただの弾丸ではない。生と死の境界を強制的に断絶させる、絶対的な『死』の概念の奔流。

 

「止めて見せる!!」

 

 至近距離から放たれた極大の光条が、案山子の胸部を完全に貫通した。

 

 脆い肉体は胸部を貫かれるばかりかほとんどが損壊して上半身の更に上部のみになり、地面へ叩きのめされたのだった。

 





[補足]
-セリカ(猛者)
 極貧劣悪最悪環境の地球を生き抜き、かつての名無したちですら成し遂げられなかったキヴォトスへの移動を成し遂げたサバイバー。生存競争を勝ち抜き身も心も猛者に成長した。詐欺以外ならなんでも勝てそう。
 戦闘力はエデン条約以前のサオリぐらいまで上達していたりする。

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