悲しくて寂しくて苦しくて
なんと美しいことか
きっとこの日こそ俺の初めて泣いた日になる。
今まで何も感じていないように自分を錯覚させてきたんだろう。耐えてきたはずのあらゆる苦痛がぶり返して痛む。
もう眼球のない眼孔から次々と赤い涙が溢れだした。
涙腺が痛む。酷く痛む。全身が既にいくら満身創痍であろうと胸と食いしばった顎の痛みのほうが大きかった。
ただ天に向かって慟哭した。叫んだ。咽び泣いた。嗚咽し、何度も壁に頭を打ちつけ、地べたを指が削れるまで引っ掻いた。痛い。頭を抱え、掻きむしり、喉が裂け切るまで叫んだ。痛い。もう現実に耐え切れない。向き合いたくない。ただひたすらに、苦しかった。
“黒い太陽”が見える。
声が聞こえる。
聞き覚えのある声。二度と聞きたくなかった声が。
なんだ。何が欲しいんだ。もう俺を解放してくれ。ほっといてくれ。
呼んでる。
彼女が呼んでる。
彼女が俺を呼んでる。
「やっと、私を見てくれた」
目が合う。嫌だ。来るな。
「私の言った通りだったでしょう? みんな、何かを救うために酷い事をするんです。そして苦しむ事になってしまう。」
「生きていたって酷い事ばかり。こうなるぐらいなら生まれない方が良かったと、ようやくあなたも理解したはずです。」
あの日見たひび割れた“輪っか”。髪色。一生こびりついて消えない狂った微笑みの顔。“彼女”だ。一生忘れない、一生思い出したくない”彼女“だ。
「 」
「私の名前、覚えていてくれたんですね。嬉しいです。」
目を逸らしたくて、周りに目を向ける。真っ暗な空間。どこを見ても”それ“がいる。いくら目を逸らしても目が合い、逃げ場はなくなっていた。
「ずっと苦しかったでしょう? 辛かったでしょう?」
「でも、もう大丈夫。」
が両手を広げた。
やめろ。来るな。こっちに来るな。
逃げようとするも腰が抜けてこけてしまった。
恐い。尻這いになって後ずさるも、すぐに目の前まで来る。
「私が、あなたの側にいます。」
迫られた。恐ろしくて、無意識に腕を顔の前に出して自身の視界を防いでいた。子供みたいに、情けない格好で。
直後、抱きしめられた。温もりが伝わってくる。初めて暖かさを感じた。それが何よりも不快だった。こんなにも暖かくて、優しい温もりを“これ“から感じさせられるなんて気持ち悪くて仕方がない。
狂いそうだ。
「大丈夫、私を受け入れて」
「あなたを救いますから。」
狂いそうだ。
「 」
「 」
狂いそうだ。
……いや。違う。
もう、いいのか。
もういいんだ。
もう拒まなくていいんだ。みっともなく縋ればいい。
だって受け入れてしまえば楽になるじゃないか。
「 」
狂いそうだ。
「 くれ」
狂っている。
「たすけてくれ」
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『“苦痛を感じることができる。これが何よりも生きている証だよ”』
生きるからこそ苦しむ。逆に言えば、ちゃんと苦しめているのなら、それは生きている事を示すと私は思うよ。だから俺は今、苦痛の中にいる。これも結果であり、過程だ。数多の点が一体となり線を画すであろう。その線の導く先。見よこれが新しき世界だ。僕は何を求めていたんだろう。
「なるほど」
罪のない人々を殺すのは苦痛だ。酷く苦しい。辛い。だから俺は今、生きているんだ。生きるために、これからも“苦痛”を求め続ければいいんだ。だったら、もっとたくさんの生徒たちを
「どうやらテクストが完全に“狂って”しまっているようです」
まだ、あの学園の子たちが残っているはずだ。一刻も早く助けてあげないと。何故だ。殺せ。輪っか付き共は全部殺せ。
「……もはや自他の境すら消失した、という事なのでしょう。自分を表す記号と他者を表す記号が混同され、機能していないようです」
信仰、教義、次は何を求めればよいのだ。私は、一体何を成している?王女は、王女は何処にいるのですか。
これが、正しさのレプリカであるというのか。嗚呼、美しい。ふざけるな。俺は。 A.L.O.N.A、いつも通りサポートを頼めるかな。……なんだったんだろう。 我々が観測できたのは、裏側の『恐怖』のみ。『神秘』の解明には、ついに至りませんでした。
「……どうやら
「後は頼みましたよ。と言いたいところでしたが、
そういうこった!
“俺”って、なんだ?
困っている生徒を助けるのが、
なんて辛いのだろう。
なんて悲しいのだろう。
なんて寂しいのだろう。
しあわせだ。
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もはやごくわずかな欠片となった案山子は地面に叩きつけられたままグラグラと不自然に痙攣し始めた。
頭部の茨の冠が紅く、赫く、まるでそれ自体が生命を持って泣いているかのように光を放つ。生々しく絞り出された赤黒い血涙が、泥塗れの器を濡らしていく。
直後、怪物の表情に決定的な変化が訪れた。
これまでずっと仮面のように張り付いていたあの不気味な微笑みが、音を立てて崩れ去る。剥き出しの歯の隙間から、耳を劈くような笑い声が湧き上がった。
地にのされたまま、肉体を損壊されながらも、怪物は狂ったように泣き続ける。それはまるで無上の“歓喜”に打ち震えているかのようだった。
世界で一番の幸せを噛み締めるように。あるいは、あらゆる苦痛に喘ぐように。
「やっぱり一筋縄ではいかないよねぇ……!」
ホシノは一切の慢心を見せず、戦闘体勢を維持したまま叫んだ。シールドを強く握り直し、その残骸を文字通り跡形もなく消し飛ばそうと即座に突進する。
しかし、その肉薄よりも早く、案山子の身体は再び見えない糸に引っ張られるようにして、ずるずると不自然に宙へ浮き上がった。
見上げれば、怪物の頭部に戴く冠が、鋭い棘の数々を皮膚に引きずらせながら、頭部よりさらに上空へとゆっくりと持ち上がっていく。
いや。
そもそも、これは本当に“茨”なのだろうか。
銃口を向けたまま、シロコはその光景に初めて気づき、息を呑んで絶句した。
茨の冠だと思っていたもの。それは、へし折られ、破壊された、無数の“誰かのヘイロー”の残骸の集まりだったのだ。キヴォトスにおいて、生徒たちの命と神秘の象徴であるはずの光輪。
それが死と苦痛の泥に塗れ、お互いを傷つけ合うように複雑に噛み合わされ、一つの悍ましい冠の形を成していたのだった。
頭上へと昇華したそれはまた新たなヘイローのように浮く。
もはや、一つの偶像のようになった案山子。
首を吊られた人形のような怪物が、空の特等席で口角を吊り上げ、引きつった笑みを浮かべながら泣いている。
その歪な神の誕生を祝福するように、極彩色の空に座する『黒い太陽』が、今度は三つどころではない規模で無数に分裂し、増殖を始めた。
ポツポツと、空一面に開いていく暗い穴が癌細胞のように空を蝕む。
無数の黒い巨大な『目』が、天からこちらのすべてを見下ろしているかのようだった。雲の代わりに無数の顔が空を埋め尽くし、キヴォトス全域を覆わんばかりの吐き気を催す光景。
直後、戦術端末のスピーカーから、鼓膜を引き裂くようなオペレーター陣の悲鳴と通信ノイズが爆発的に鳴り響いた。
『ダメです! 各校の防衛線、統制が完全に崩壊しています!』
『分隊が……次々と、突然頭を抱えて……ッ!』
『命令を……言葉を認識できていません! 敵と味方の区別を失って、お互いに、お互いに銃を向け合って……!!』
戦力差による敗北などよりも遥かに恐ろしい、絶対的な内壊の報せだった。天を埋め尽くした無数の目と顔に見下ろされた瞬間から、生徒たちの精神が急速に汚染され始めている。認知能力の崩壊。一時的なものか、あるいは永遠の破壊か、誰もが自己と世界の境界を保てなくなっていた。
「みんな……っ!」
シロコは戦慄し、状況を把握するために、すぐ近くにいるはずのアビドスの仲間たち、そして共に空から降ってきた生存者たちを確認しようと、勢いよく振り返った。
そして、その眼に映った光景に思考の止まる。
そこにホシノはいなかった。セリカも、ノノミも、アヤネもいない。
ただ『自分』がいた。シロコ自身が、そこに無数に立っていた。
「(……え?)」
同じ目でこちらを見つめ返す無数の
いや、違う。他人がすべて自分の姿に見えてしまっているのだろうか。あるいは、自分がその他人の肉体に融解し、全てが『私』になってしまったのだろうか。
そんなもの、今の誰にも理解できなかった。
そもそも“私”とは何かという疑問すら生じ始める。
私とあなた。敵と味方。人間と怪物。
世界を構成する最も根源的な『自分』と『他者』の概念が崩壊していく。
同時に、シロコの脳髄の奥深くへ、直接ドロドロとした“何か”が、濁流となって強制的に流れ込み始めた。理解してはいけないものが。
「あ、っ……頭が、割れる……っ!!」
視界が回る。ぐるぐると回って、反転して、それを繰り返し続ける。
目の前にいる無数の『自分』が、一斉に口角を九十度吊り上げて笑い、同時に子供のようにすすり泣いた。あれは敵なのかとシロコの認識が狂い始める。
思考が自らの制御を離れ、悍ましい色のノイズで塗りつぶされていく。引き金を引く指が、今度は恐怖ではなく、純然たる世界の歪みによって痙攣を始めた。
内側から精神をズタズタに引き裂き、強制的に世界の理から引きずり降ろそうとするこの圧倒的な感覚。
『狂気』だ。
「無事か。」
脳髄をかき回す汚泥のような狂気の中、唐突に肩を強く叩かれた。
直後、叩かれた箇所からじわりと染み渡るような熱を感じる。脳内がジリジリと直接焼かれるような鋭い痛みが走ったが、それは苦痛を伴うようなものではなかった。頭を埋め尽くしていたどす黒いノイズが、その熱によって文字通り焼かれ、浄化されるようにして急速に霧散していく。
認知の歪みが正され、視界のブレが収まる。シロコが荒い息を吐きながら振り返ると、そこに立っていたのは……。
「……あなたは、錠前サオリ」
『憎悪』を乗り越え、己の罪を背負って足掻き続けるアリウススクワッドのリーダー、サオリ*テラーだった。彼女の指先には灯のごとく紅い火が灯っており、それがシロコの肩にあてられていた。サオリは鋭い視線を空の怪物に向けたまま、静かに口を開く。
「どうやら、この火で“茨”を焼く事ができるようだ。……、詰めが甘かったな。敵の狙いはこれか」
「茨……?」
シロコが言われて周囲を見渡すと、狂いが治癒されたことで、ようやく元の仲間たちの姿が見えるようになっていた。だが、安堵の息を漏らすことはできない。ホシノ、セリカ、ノノミ、アヤネ、そして空から来た生存者たち。その全員のヘイローや頭部に、半透明の紅い“茨”が、まるで寄生虫のようにべっとりと巻き付いていたのだ。誰もが頭を抱え、発狂しかけている。
「空を見た者は精神を汚染され、アレが現れるのだろう。」
サオリは自嘲気味にそう呟き、指先の火を見つめた。
「じゃあ、早くみんなを助けないと!」
シロコがサオリと共に仲間たちの精神汚染を解こうと一歩を踏み出した、その瞬間だった。
不気味な地鳴りが響く。二人の足元や、先ほど撃破したデカグラマトンの預言者の屍の残骸から、突如として無数の紅い茨が噴き出した。それは一本や二本ではない。意思を持つ生き物のように急速に増殖し、うねりを上げ、まるで血の津波のような巨大な壁となって二人の行く道を完全に遮断したのだ。
この“茨”と呼んでいるものだが、ただそう見えているだけで本当はまた何か別のもののように思えてしまう。
「くっ……急ぐぎたいところだが、このまま行かせる気はないということか……!」
サオリが即座に遮蔽物に狙いを定め、銃口を構えるも到底破壊しきれないほど茨の壁は肥大化していった。眼前に迫る茨の津波はその場にいる全てに手を伸ばし、触れるものすべてを侵食せんとしている。
「そんな、どう動いたらいいの……!?」
「仕方ないか……。やはり“アレ”を先に潰すしかないらしい。命令してくれ、と言いたいところだが……今は私に判断させてもらおう」
サオリは空に浮かぶ、無数のヘイローを戴く案山子の偶像を睨みつけた。
「みんなをこのまま放っておくの!? で、でも……」
「……今は
サオリにだってこの場における最適解は分からない。だが、その言葉に嘘や迷いはなかった。
「……。ん、分かった」
シロコは思いの外、簡単にそれに応じた。
一瞬の躊躇が致命傷になることを彼女は誰よりも知っている。何より、今も苦痛に耐えているアビドスの仲間たちが、この程度の汚染で完全に壊れてしまうほど柔ではないと信じていたからだ。ここにいる全員が、すでに退路を断ち、覚悟を決めてこの戦場に立っている。
「前を走る。援護して」
「了解、対処を始める。私たちは……これからも、足掻き続けるしかないからな」
二人の少女は同時に地を蹴った。道を阻む茨の津波を躱し、切り裂きながら、元凶たる空の偶像へと向かって突撃を開始する。
迫りくる地面からの茨を避けながら二人は距離を詰め、遥か宙に浮かぶそれへと近づき続ける。
仮に茨が彼女らの足に鋭く絡みつき、その前進を阻もうとしても、サオリの指先から生じる紅い火が触れる端からそれらを跡形もなく焼き尽くした。
この紅い火は、元を正せば人格すらも焼き溶かすカインの憎悪の火であった。つまり、この“茨”とは、そういうものなのだろう。
突如として天頂から、視界を白く染め上げるほどの眩さと共に、白い光柱が彼女らを目掛けて容赦なく降りかかってきた。
「(光……?)」
今までにない神聖さすら孕んだ攻撃パターンに、シロコは一瞬の疑念を覚える。
思わず上空を見上げるが、もう先ほどのように狂いそうになることはない。シロコのヘイローに生じた茨に対し、サオリが灯したあの紅い火が、常に延焼し続けて消えないからだ。
もし精神汚染の茨が生じ続けなければ、今度はサオリの火がシロコのヘイローそのものを焼き燃やすリスクがある。だが、そのリスクを制してこそ成せる有効打だ。
「くっ、これでは……近づけないか……!」
サオリが歯を食いしばる。光柱を躱しながら近づこうとしても、あの偶像は宙を何か不自然なものに掴まれるようにして移動し続けており、徒歩の跳躍ではどうしても追いつけない。
「サオリ、私の肩を掴んで。……ん、ううん。これなら」
シロコは即座に判断し、サオリの側へと躍り出ると、その華奢な肩を強引に引き寄せてガシリと肩を組んだ。
「な、何をする気だ……!?」
「『色彩』を利用して、座標を直接繋ぐ。一気にあの真上まで跳ぶよ」
サオリは反転してまだ日が浅いため、シロコのように『色彩』を己の意志で自在に制御することはできない。ならば、自分が連れていくだけだとシロコは判断したのだろう。
「了解……!」
サオリが銃を強く握り直す。
直後、シロコの呼びかけに応じるようにして大気からおぞましい極彩色の裏返った光『色彩』が滲み出し、二人を完全に飲み込んだ。
異次元空間のねじれを経由し、極彩色の光から解き放たれた二人は、偶像のすぐ近くの虚空へと躍り出た。
怪物の精神汚染による妨害か、出現座標はわずかに狂ったものの、少なくとも地上を置き去りにした遥か上空。あの不気味な偶像の喉元へと、ついに肉薄したのだ。
そして、この距離まで急接近して初めて、二人は目の当たりにすることになる。
地上からシロコが見据えていた、あの“見えない糸”のようなものの、真の正体を。
それは人間の脳が理解してはならない領域の存在であるがゆえに、防衛本能が認識を阻害しているのか、瞬きをするたびに朧げに歪んで見えた。
白い翼を生やし、歪にねじれたヘイローを持つ女性の形をした何かが、偶像を背後から優しく、しかし呪縛のように抱きしめて宙を飛んでいる。
瞬きをするたびにその姿はノイズのように移り変わり、消え、また現れた。
慈悲深い女神のようでもあり、しかし次の瞬間には顔や目の数、その位置が目まぐるしく変化する、おぞましい妄執の塊。
「……!」
シロコの瞳が鋭く見開かれる。これこそが、あの無限の命を持つ案山子を繋ぎ止め、操っている『別の根元』、あるいは本体と呼ぶべき存在ではないか。
女神の形をしたそれは、腕のない偶像を頑なに離そうとしない。まるで、磔にされた哀れな落とし子を愛おしむように抱きしめるその姿は寵愛を授けているようでもある。
「ん。これで……動きを止める!」
二人の意思が完全にシンクロした。
偶像の身体から延びる茨に対処するためサオリが紅い火を応用し弾丸に纏わせる。
サオリが紅い火を纏わせた銃弾を容赦なく叩き込み、道を阻む茨を焼き尽くす。その僅かな隙間を縫って、シロコの攻撃が命中。
今度は障壁に阻まれることなく、二人の渾身の連携攻撃が偶像へと直接着弾する。
攻撃が命中するたびに、偶像の底の見えない深淵のような顔、その上部にひしめき合っていた無数の不気味な瞳が、一つ、また一つと、悲鳴を上げるようにして焼き切れ、消滅していった。
だが無数の瞳を焼き切ってもなお、“壊れた存在たち”は未だ仕留めきれない。
宙に足場のない上空数百メートル。二人の身体は、非情な重力という物理の制約によって、無慈悲に地上へと落下を始める。
だが、シロコは焦らなかった。
落下するその刹那、あえて頭からダイビングするかのように体を反転させ、完全な逆さの姿勢を取る。その加速する慣性を、そのまま突撃のエネルギーへと変換するために。
サオリもまた、長年の苛烈な戦闘経験からシロコの意図を瞬時に察知し、全く同じように落下の体勢を変えた。
「サオリ、もう一回……跳ぶよ!」
「ああ、お前のタイミングに合わせる!」
直後、シロコは『色彩』の権能を再び励起した。
ただの瞬間移動ではない。落下による凄まじい運動エネルギーの方向を色彩の歪みによって力技で捻じ曲げる、超高度な立体座標変換を行う。
次の瞬間、二人の位置が同時に転じた。
シロコは敵の遥か真上から、弾丸のごとき速度で真っ逆さまに飛び込む形で急接近。逆にサオリは、下から天へと突き上げるように逆噴射の如き速度で急上昇する。上空数百メートル分の自由落下エネルギーがそのまま推進力へと昇華された、超高速の立体挟み撃ち構造。
二人は、狂い狂う二つの異形を完全にその中心へと挟み込み、同時に決定的な一撃を放った。
頭上、背後から抱きしめていた“壊れた救世主”の無防備な背中へ、シロコはアサルトライフルの銃口を完全に押し当てた。アヌビスの神秘が対象を死地へ誘う。
「これで、本当に……終わり!!」
ゼロ距離から放たれた弾丸が、女神の背中を完全に撃ち抜いた。
背後から心臓部を破壊されたその異形は、悍ましい悲鳴ではなく、どこか哀れな、ひどく満足げな笑い声を響かせながら、ノイズと共に泥のように形が崩れ、そのまま虚空へと掻き消えていった。
「良かった。あなたの命は一つだったみたい」
シロコは激しい風圧の中で、ホッと安堵の息を漏らす。偶像を繋ぎ止めていた、無数の苦痛の根元たる本体は、確かに今、完全に消滅した。
拠り所を失い、完全にただの『物』となった腕のない偶像が、重力に従ってずるりと落下を始める。
その瞬間の隙を下から突き上がってきたサオリが見逃すはずはなかった。すれ違いざま、サオリの容赦のない掌が、無防備になった偶像の残骸へと直接叩きつけられる。
「Vanitas vanitatum!」
ガチリと触れたその瞬間、サオリの紅い火が爆発的な勢いで発火した。紅く、赫い劫火が偶像のすべてを包み込み、侵食していた茨ごと焼き尽くしていく。
「……やはり、つい言ってしまうな。」
虚しさを乗り越えた身であろうと、マダムとの真の決別をした後であろうとかつての決まり文句のように言っていた言葉に、サオリは自嘲気味に微笑んだ。
極彩色の元凶たる怪物は赫々たる紅い火の粉を夜空の流星のように散らしながら、今度こそ完全に沈黙し、地上へと真っ逆さまに墜落していった。
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二人は激しい風を切りながら、地上へと降り立った。
凄まじい勢いで墜落した怪物は、もはやただの頭部だけの姿へと成り果てていた。サオリが放った火に包まれながら、今はただ、小さく燻る焚き火のようにパチパチと音を立てて燃え続けている。
そこにひしめき合っていた無数の命はがあの紅い火によって完全に焼き尽くされていたのか、一つだけの瞳がじっとシロコのことを見つめていた。
もはや何もしてこようとせず、笑うこともない。だがまだすぐそばに落ちている茨の冠は壊れておらず、これ以上放置すれば、また細胞分裂を繰り返すようにして命の数を増やしていくかもしれない。そうなれば、この地獄の悪循環は永遠に続いてしまう。
燻る炎の光に照らされながら、シロコはかつて『名無しの彼』から託された、あの静かな言葉を思い出していた。
『……いいか、この言葉を覚えておいてくれ。悪循環を断つための正しい終わりは必要だ』
『俺は、あんたに殺されることで結果的に救われた。『死』は、時に救いになる』
「……ん。あれは、こういうことだったんだね」
シロコは迷うことなく、黒いアサルトライフルの銃口をその最後の瞳へと真っ直ぐに向けた。
在るのは敵意でも憎しみでもなく、ただ生と死の境界を司る者としての静かな祈り。
「……もう、休んでいいんだよ」
引き金にかけた指に、優しく力が込められる。
「おやすみなさい」
一発の銃声が汚泥に濡れた戦場に響き渡った。
放たれた一弾は、孤独な“偽りの王”の最後の手向けとして、その瞳を真っ直ぐに貫いた。
光を失った瞳がすっと消え去ると同時に残されていた茨の冠は音を立てて割れ、紅い火に包まれながら静かに静かに燃えて、ただの灰へと変わっていく。
直後、静寂を破るように戦術端末の向こうからオペレーターたちの安堵と歓喜の混じった声が響いた。
『個体名“Agony”、バイタル及びエネルギー反応、完全に消失しました!』
そのアナウンスと同時に空を覆っていた極彩色と無数の黒い太陽が、嘘のように綺麗に晴れていく。
精神汚染の影響も消え去ったのだろうか。ホシノ、セリカ、ノノミ、アヤネ、そして共に戦い抜いたキヴォトスの外の生存者たちが、それぞれのヘイローを正常に輝かせながら、次々とシロコとサオリの元へ駆け寄ってきた。
「シロコちゃん……! 無事かい……!?」
「先輩っ……! よかった、本当によかった……!」
駆け寄ってくる仲間の温かい声を聞きながら、シロコはふと、足元の黒い地面に目を落とした。
小さく積もった灰に、小さな薔薇が咲く。
負の連鎖は絶たれた
[補足]
-『Agony』
苦痛の脅威。壊れた救世主と偽りの王という二つの存在から成り立つ。救世主になろうとしたまがいものたち。共通する点として常にすべての感情を持っている。狂気に陥っているため意図も行動指針もないようなもの。理解しようとするだけ無駄。
-『偽りの王』
案山子、偶像などと呼ばれた死体。その正体は無数の意識の集合体。第3章で『狂気』を受け入れた世界線の名無しのなれの果て。といっても既に名無しではない。狂気を受け入れたことによって発狂した名無しの人格が分裂と増殖を繰り返し、無数の同時に混在する意識になった。
この中には先生やゲマトリアの面々、デカグラマトンのような存在など本当に様々な意識が混じっている。これはそれぞれが吸収されたということなのか、分裂した無数の意識が模倣しているだけなのかは定かではない。おそらくどちらでもある。
何者でもある。だから目的も望みも同時に混在しているため、行動に一貫性がない。全員の自我が強い。
救世主(もしくは先生の役割)を簒奪した何か、としてキリストの歪んだモチーフもいくつか含まれている。下記の茨の冠もキリストから着想を得たもの。
名無しは人間でなかった方が自分の能力を扱えるという話が初期にあったのだが、人間でなくなればこういうことになるケースがほとんど。
-『茨の冠』
サオリなど様々な生徒の割れたヘイローが積み重なって茨のようになった円環。『偽りの王』のヘイローとなっている。これはこの存在が上位存在へ昇華したことを示す。
負の連鎖と罪悪感の象徴。名無しの罪悪感が大きな元になっており、彼の逃避と盲目の意味を持って目隠しのようになっていた。辛いものから目を背けたいという願望が辛いものを見ることで生を実感するという歪みになってしまった。元となった名無し本人はもう既にいない。
『“苦痛を感じることができる。これが何よりも生きている証だよ”』
狂気に陥ったその瞬間、この言葉が名無しの脳裏によぎった。彼は狂い、彼の中で苦しみが生を実感させることから、自分が元来望んでいた生を実感するには苦痛を味わい続ければいいという意味の反転が起きてしまった。苦痛を感じながらそれを喜び、罪悪感もしっかりと感じる歪な状態は余計に人格の崩壊を加速させてしまったのだろう。
-『壊れた救世主』
白い翼の女神。正体は狂気の神、アーテー。高落アテナだった存在。普遍的で平等な愛をすべてに対して持っており。すべてに対して平等な憎しみを持っている。偽りの王を傀儡としていたわけではなく、愛して共に寄り添っていた。狂った少女は自分が救世主になる誇大妄想に取りつかれた。彼女も被害者であることを忘れてはいけない。こちらの世界線で名無し(ニル)がアテナを殺していなかったら更にひどいことになっていた。
-名無しとアテナ、自分と他者のテーマ性
名無しは利己的で自己愛が根本にあるキャラクターです。アテナは思いやりが深く他者愛が根本にあるキャラクターです。
アテナは地球でひどい目にあい、名無しによって自己愛が混じったことで狂ってしまった。一方で名無しはキヴォトスで不相応な他者愛に振り回され苦悩していった。二人とも自分の世界じゃない場所で自分の本質でない愛が混じってしまうことで苦悩した側面があります。名無しは基本的に作中の誰に対しても対比構造を持つようなキャラクター構造になっているのでこの二人も象徴的な対になっています。
この苦しみから逃れるためなのか、はたまた苦しみを味わい続けるためなのか、自分と他者の概念を壊す狂気をもたらしたのかもしれません。
ブルアカ本編でも他者についてのテーマがありますよね。それから着想を得ています。