やったのが誰かは知らない。どんな人物か、その意図など知る気にもならなかった。
娘が壊された。いや、殺されたのだ。目を離した隙だったのか、気づけば居なくなっていた。不覚だった。“不安”と“恐れ”へと変わる中ただ彼女を取り戻そうと追い求めた。当然だ、あれが当時の自身の全てだったのだから。
行く手は阻まれ自分の力では、膨大な数の兵器には叶わず、無様に打ち負かされた。そんなものに時間を取られている間に、時は既に遅く、全てを殺し尽くした先に在ったものは既に事切れたただのガラクタだった。
自分はその時泣いただろうか? 憤っただろうか?
否。
何日もの間、そこでただ何もしなかった。何もできなくなっていた。残骸を前に跪いたまま、ただ息を漏らすのみで。
思い出したのだ。己が何で在ったかを、“俺”自身を。
苦痛の半生、喪失の連続、友の名。
発作のように喉から呻き声が上がったのを覚えている。そうか、“また”か。という文言が脳裏に浮かんでは無力感と虚しさに沈んだ。
もはや震えすら消え失せた腕で思い立ったように少女の残骸を抱き寄せた。冷たくも暖かくもない。何も感じやしない。何も残ってくれやしない。何もないんだ。こんな世界。無意味だ。虚しい。また生き足掻けばどうにかなるとでも思ったのか? 努力を重ねれば少しは報われると思ったのか? 愚かな話だ。なんて馬鹿なんだろうか。
報われるはずがないだろう。この自分が。
世界中のあらゆるものが、運命として自分に死を望んでいるのだ。何を高望みしていたんだ?
ああ、虚しい。
空っぽになってしまった。
だからだろう。簡単に“その話”を受け入れたのは。
残骸の中から微かな反応を覚えた。その時に『従者』を名乗る存在と邂逅を果たした。
その日だ。雨が降っていたのを覚えている。
彼女と、それに通じる“無名の司祭”なる存在の目的に乗じてこの世の『恐怖』全てに復讐をすると決めたのは。名もない彼女の敵を全て殺すと決意したのは。
もはや固執することはない。目的のための機械になればいい。
脳に少女の残骸をねじ込んだ。それから二人で復讐を始めた。
失うのは恐い。苦痛は嫌だ。誰だってそうだろう。
だから元を全て消し去ってしまえば、もう不安を、『恐怖』を感じなくて済む。自分自身が『恐怖』になってしまえばよい。
どうせ無意味な世界なのだ。これが今の自分の願望なのだろうか。本当にそれを望んでいるのだろうか。この行動に意味はない。だが、意図があるとするなら、あの娘のためなのか? 自分のためなのか? 共に復讐を行う『従者』のためなのか?
いや、気づきたくなかったのだろう。
本当は
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虚しさの果て、空白の更地にて二つの存在が火花と血を散らしながら互いを傷つけあう。それも全て互いの道を『否定』するため。
双方の脳裏に浮かぶは数々の傷の記憶、苦痛のフラッシュバック、喪失のトラウマ。恐怖に支配された臆病者たちの生はあまりにも長く、同時に無意味であった。
名もなき“彼”という人物を突き動かしていたものは常に『恐怖』だった。それがすべての原動力であった。死ぬことへの恐れ、負傷への恐れ、別れへの恐れ。彼本来の望みや好奇心が原動力であった時期は非常に短く、もはや『恐怖』すること事態が本質と化していたのだろう。
名無しが鉈を振るった。もう一方がそれを同じく鉈で受け止めた。間髪入れずに入れられる蹴り。防いでは時に命中し、血を吐きながらも争いは止めない。もはやこの時点では彼らを区別する意味などない。どちらの“名無し”が鉈を振るったかなんてどうでもよいだろう。
どちらも名前のない存在で、取るに足らないどうでもよい存在なのだ。そしてこの世界にとっては有害で排除されるべき毒なのだ。
極限の環境下、凶暴な生物共を相手に生存競争を続けなければならない濁り切った地獄のような世界で、かつて彼は『楽園』を見出していた。それがこの可憐な少女たちが織り成す、透き通るような学園と青春の世界で、彼は『地獄』を味わった。
綺麗な世界で幸せになれるような単純な人間にはなり得なかったのだ。
世界の本質とは真逆で、相反する自分自身。苦痛と苦悩。もはや何のために生きているのか分からない。
だからこそ不思議でもあった。ではどうして彼はそれで死を望まなかったのか? 本当の限界が来るまで生き続けようとしたのは何故だったのだろうか?
『本質』は一つではない。きっと彼にだけではなく、人の持つテーマには複数あることも珍しくはない。多面体のように、あるいは球のように。様々な異なる“色”の側面を持っている。
『純粋』を体現した白。
『憎悪』を体現した紅。
『喪失』を体現した灰。
……そして揺るがぬ『恐怖』を意味する黒。
全て混ぜても、結局は黒になる。恐怖心はそれほどまでに大きく、影響力が強い。
立ち向かい続けた。何度も何度も。失敗続きだった。ほとんどはうまくいかなかっただろう。
だからこそ、何故生きようとし続けたのだろう。
「……ッ」
戦いの合間に挟まれる言葉もなく、無我夢中に相手を、己を削り続ける。互いに不死身であることを熟知している。いくら痛みを感じようともそれを理由に引くことがないことも知っている。
根性勝負だ。相手よりもほんの少し、僅かな欠片でも優れていればよい。
悲観的に見えるだろうか? 救いがないように見えるだろうか?
……否。
少なくとも“一方”にとっては違う。この戦いは彼自身の可能性を証明する戦いだ。己の往く道を貫き通すための戦いだ。
彼はこの世界で、キヴォトスで足掻いて足掻いた末に得たものは確かに絶望と虚無感だけだったかもしれない。
……それでも、彼は気づけたのだ。ごく単純な理論に。
失ったものは取り戻せば良いだけだというごく単純な解法に。
この世界で生き続けることは無意味だろうか?
それは何度も続く喪失のせい?
ならば喪失を無意味なものにしてしまえばよい。取り戻せればいいだけの話ではないか。
多くの場合、それができれば苦労はしない。
つまり、苦労すればよいということ。思い返せば、自分は今まで散々苦労を被ってきたじゃないか。とそう感じたのだろう。
自分にはそれができる、成し遂げられると“信じればいい”。これは理論ではない。それこそ彼の道を往くために必要な要素なのだ。
彼が一度正しい死を迎え、虚無の世界であの
彼の中に答えが定まりつつある中、その『本質』が開花する。
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俺自身との戦いだ、キリがない。いくら技術を極めようとも結局はただどちらかが折れるまで殴り合うだけ。
まるで瞑想でもしているような気分だ。のんきに聞こえるだろうが実際はかなり余裕がない。持てる全てを出し切って全力をぶつけている。
蹴りが来る。腕でガード。『性質』で砂を弾丸の速度で飛ばして来やがった。鉈で弾く。機械のように延々と続けられる攻防。
だが俺は機械じゃない。人間だ。
焦りだって覚えるし、今だって依然として恐怖の感情はある。
……なぜだろう。今は全く焦りを感じない。
己自身との対峙を重ねていくうちに自然と脳が研ぎ澄まされているような感覚を覚えたんだ。
まるで機械の如く無感情となったような相手だが、俺にはわかる。“俺”はいつだって“俺”だ。自分であることから逃れられない。それはお前もそうなんだろう?
分かるさ。いかに無感情になった思い込もうとも、何らかの目的に徹しようとも、『恐怖』からは逃げられない。漠然とした不安が常に付きまとうんだ。
『……この世の全てから『恐怖』を消す。ただそれだけだ』
奴は確かにそういっていた。それは裏を返せば、もう『恐怖』を感じたくない。だから全て消し去ってしまおうという話なんだ。確かにそれなら虚しいだろうな。どこまで行っても、虚しいままだ。
奴は苦痛から逃げる選択を取ったんだ。俺らしいな。臆病者の選択だ。分かる。分かるさ。俺だって恐ろしい。更なる苦難を恐れる気持ちはいつだって同じだ。
だが、俺は選んだ。
苦難に立ち向かい続ける道をだ。
地球で生きて、キヴォトスで生きて、一回死んで、生き返って……。
色んな立場の生徒を見て、俺は理解した。
誰もが苦難に見舞われること、それでも救われる権利があること。
そしてその救われる権利を俺は持っていないこと。
救われる権利を持っていようとも更なる苦難に押しつぶされてしまうこと。
この世界は確かに絶望で満ちている。全ての行動が無意味であるといえるかもしれない。どんな行動を取ろうとも、どんなに崇高な目的があろうとも全ては虚しい。
そして結局最後にはすべてを失って何も残らない。
事実だ。全てどうしようもない現実で、全て知っている。なにせそうなってきたのだから。
ああ、そうだ。無意味だ。こんな世界。虚しいだけなんだ。
今更どんな言葉を吐こうとも無意味な雑音に過ぎない。お前はそう言いたいんだろう。分かっている。分かっているさ。
「……」
「…………」
「……だからどうした?」
あえて声に出した。自問自答への返答を。
そう。だからどうした? 無意味だからなんだ? 虚しいからなんだ?
知ったことか。
それは今俺が止まる理由になるのか?
いや、ならない。
行動に意味を求めたがるのは心が弱っている証だ。意味なんてあろうがなかろうが関係ない。いずれ失うことになるかもしれない? 知るか。じゃあ何もせずうずくまっていろと? 退屈な話だな。
俺は人間だ。人間として生を受けた。恐怖心? 罪悪感? ああ、覚えている。その上でそれらを背負って己が道を進み続けてやる。
諦めるのを諦めた。もう何一つ捨ててやるものか。俺が望んだものは全て手に入れてやる。俺が取り戻したいと願ったものは何千年立とうとも執着は捨てない。
「俺は今、“答え”を得たぞ。」
声に出した。相手は何も言わず攻撃の手を緩めない。構わないさ、どうせ自己満足だ。大した意味はない。それでいいんだ。
やはりどんな物語もハッピーエンドが欲しくなる。そうであってくれと願うのはなんら不思議な話ではない。
だが現実は残酷だ。ハッピーエンドを迎えられないことが多い。大抵はビターエンドかバッドエンドだろう。
つまり大事なのは……。
「バッドエンドをバッドエンドのまま終わらせない意志だったんだ。」
そうだ。二度もバッドエンドを迎えてきた。それでも生きようとしたのは、心の底ではこの先も進み続ければきっと何かあると“信じて”いたからなんだ。
事実として、進み続ければハッピーエンドに修正されるわけでもなければバッドエンドを迎えた過去が消えるわけでもない。
知ったことか。それでも進み続けるんだ。苦難に立ち向かい続けるんだ。耐え続けて、タフに生きればいい。いつかは必ず自分の望むものが手に入る。大事なのはいつだってこの貪欲で傲慢で『卑俗』とすらいえるしつこさだったんだ。
これが答えだ。
脳にぴったりと合致する感覚を覚えた。直後、自身の『性質』が急激に変容した。いや、俺自身に合った力に“適応”したとも言うべきか。
悟りの境地へと達した。
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同時に、彼の髪が瞬く間に光を纏い、純白の輝きを放つ色へと変わっていく。それはどこか、かつての幼子の髪色を思わせる無垢な白であった。
そして頭上には、異様な頭光ヘイローが形成される。内側から溢れ出す白い光が、黒く割れた幾重もの瓦礫の隙間から微かに漏れ出すような、異形で歪な光輪。
相反する性質。幾多の異なる側面が今まさに一枚のコインの表と裏のように同時に存在していた。
そう、かつてある研究者が予測したように。
あらゆる苦難と屈辱を泥を啜るように生き抜いた『卑俗』が、ついに『崇高』へと至った瞬間であった。
それは無名の司祭らが騙る『
かといって、キヴォトスの少女たちが宿す『
数々の喪失を受け入れ、苦難に立ち向かうと決めた者の悟りが成した『
「……いい気分だ」
「ポジティブなやつとネガティブなやつ、どっちが強いか分かるか?」
己を縛り付けていた一切の迷いや諦愴は消え去っていた。自信とプライドに満ち溢れ、完全に元に戻った彼の自尊心。
「今は俺が最強ってことだよッ!」
空の曇天は晴れない。だが微かな光柱が差し始めた。
それは、どこまでも深い暗闇の中に見えた、泥臭くも消えることのない微かな希望を示すかのように。
名無しは一言も発しない。ただ目の前の敵を抹殺するためだけに、その虚ろな瞳で
だが、今の
それを初動すら許さぬほどの亜光速の域へと達した極限の機動。
それはかつての荒々しさが残る自己流の格闘術ではない。極限まで洗練され、無駄をぎりぎりまで削ぎ落とした殺陣の技術。
「サオリ直伝のアリウス流CQCだ! どうだ、見えねえだろ!」
かつて錠前サオリから教わったゲリラ部隊の技術体系。それを覚醒した自身の『性質』によって限界まで速度を昇華させた一撃一撃が、名無しの顎を正確に穿ち、骨を粉砕する。
追撃。肘、膝、掌底。
骨を砕き、全身の肉を内側から破壊しつくすような打撃の暴風雨。
だが、それほどの致命傷を浴びせられてなお、名無しは倒れない。
膝を折りかけるたびに己の呪詛のような執念で肉体を無理やり繋ぎ止め、折れた鉈を振り下ろしてくる。
互いに死ぬことすら許されない、延々と続く血と肉の破壊工作。
ならばせめて前向きに、この滑稽で壮絶な殺し合いを楽しんでやろうじゃないか。彼は笑う、ポジティブパワーの偉大さはユメから教わった。
腐っても自分自身。どれほど全身を打ち砕かれようと、ただやられっぱなしで果てるようなタマではない。
対峙する名無しもまた、幾千もの殺戮を重ね、さらには“何か”からの知識の伝授を受けることによって、その身に宿る『性質』の精度を極限まで高めていた。
名もなき神々の権能に酷似した物質の再構成。名無しは寸分の予兆もなくその能力を行使すると、空間の歪みから無数の銃器を瞬時に生成し、
「なら次はこれだな!」
さらには防ぎ切るだけに留まらず、
だが、名無しもまた一瞬の隙すら見せはしなかった。
散り去る銃器の破片の合間を縫い、名無しは即座に次なる殺戮兵器を再構成する。
出現したのはアビ・エシュフNEXTを破砕しかけたあの禍々しい狂気の武器、6枚の刃を重ね合わせた巨大な破砕機、グラインドブレード。
耳を刺すような駆動の予兆とともに、名無しは再構成されたその凶刃を構え、
禍々しい鋸刃が音もなく噛み合い、
だが、その破砕の直後、名無しの真後ろから平然とした声が響いた。
「何でもできるんだぜ? 分身を作るぐらい容易だろ」
名無しが振り向いた視線の先、
「俺も“これ”、一回やってみたかったんだ」
再構成されたのはアリスの武器、光の剣:スーパーノヴァ。
それも一つではない。巨大なレールガン型、高出力のレーザーライフル型、さらには未だ見ぬバリエーションを含めた無数の光の巨砲が、
「光よ!!」
アリスの例のセリフをどこか楽しげに真似た
天地を眩ますほどの純白の閃光が押し寄せ、名無しの肉体を、グラインドブレードごと瞬く間に原子レベルで跡形もなく消し飛ばした。
しかし爆炎の余波が去り、風に舞う微細な塵の粒子から、黒い泥のような歪みが凝縮し始める。
呼吸をする間もなく名無しの肉体は完全再生を果たし、何事もなかったかのように即座に戦線へと復帰してきた。
イタチごっこ。あるいは、どんぐりの背比べ。
互いに無限のエネルギーと再生能力を宿した今、もはや肉体をどれほど破壊しようが、この戦いに決着がつくことはない。
これは、肉体ではなく精神力の戦い。
己の信じた『答え』を叩きつけ、相手の心を折って諦めさせるための、泥臭く苛烈な根性勝負に過ぎないのだ。
互いに再生を繰り返しながらも、満身創痍。
どれほど内に秘めたエネルギーが無限であろうとも、それを排出し、行使する肉体と精神という出力側には確実に負荷が蓄積されていく。次第に
「やってみたものの……やっぱり俺に光は似合わないかもな。イメージが合わなすぎる」
「そろそろ終わりにしようか」
彼は足元に転がっていた、どこにでもある小さな一粒の小石を静かに拾い上げた。
「なぁ、知ってるか」
至近距離で折れた鉈を構える名無しを見据え、彼は静かに語りかける。
「質量を本来存在しない値であるマイナスにすると、どうなると思う?」
言い終えると同時に、
そして彼は小さく指を鳴らす。
「オーバーフローするんだ」
直後、宙を舞っていた小石を中心に、物理法則の狂った莫大な質量が爆発的に膨れ上がった。
歪みとともに、空間が崩壊し、疑似的なブラックホールが瞬時に形成されていく。まるであの幼子と怪物が現れた時のよう。
光すらも逃げ出せない圧倒的な重力の奔流。あらゆる物質、あらゆるエネルギー、そして光そのものが飲み込まれていくことで、視界のすべてが異常に歪み、塗りつぶされていった。敵も、自分も、この広大な更地すらも、すべてが漆黒の渦へと引きずり込まれていく。
光ではなく、闇。
暗闇とは、誰もが怯え、退けようとする『恐怖』の象徴。
そしてそれこそが、彼がこれまで生きてきた中で最も恐れ、怯え続けてきた要素であった。
やがて、すべてを飲み込んでいた疑似ブラックホールが急速に収縮し、跡形もなく空間から消え去った。
苦難と共に生きる。
それは、『恐怖』を己の支配下に置き、我が物にできるという意味ではない。あるいは、恐れという感情が綺麗さっぱり消えてなくなるわけでもない。
ただ、その暗闇の中、恐怖と共にどこまでも歩み続けることなのだろう。
静寂が戻った世界に、
「やったか……?」
そしてその呟きに応じるかのようにブラックホールのあったその場所から、名無しが泥に塗れた満身創痍の状態で、地面を這いずりながら姿を現した。
肉体はズタズタに引き裂かれ、再生のスピードも明らかに落ちている。それでもなお、その折れた鉈を握りしめる手だけは、決して緩むことがなかった。
「……まだやるか」
薄々、こうなることは理解していた。どれほど圧倒的な攻撃を叩き込もうが、どれほど消し飛ばそうが、相手が立ち上がり続けてくることを。
だが、今の
「なぁ……何がそこまで、お前をそうさせるんだ」
「多分……もう、憎悪なんて理由じゃないだろう」
戦いを重ねる中で、
目の前の男は、確かに復讐を捨てきれずに落ちぶれてしまった『自分自身』の果てだ。
だが、今のこの男の内に宿っているのは、世界や『輪っか付き』に対する燃え盛るような憎悪などではない。
復讐の衝動すらとうの昔に擦り切れ、残り火すら消え失せたあとに残された、もっと惨めで、哀しく、逃げ場のない“何か”によって突き動かされているのだと。
「本当に、復讐が目的なのか?」
「……」
名無しは答えない。ただ泥を噛み、折れた鉈を支えに身体を起こそうと足掻くだけだった。
「……さあ、どうだろうな」
だが、沈黙の果てに、名無しは掠れた声でようやくその口を開いた。
言葉など既に意味を成さないと吐き捨てていた男が、その無意味な音を垂れ流し始める。
「……本当はもう、全部どうでもいいのだろう」
もはや、目の前にいる存在はどうしようもなく壊れてしまっていたのだ。
狂気に奔ったのとは違う。炎が完全に燃え尽き、摩耗しきったデータコードのように文字が飛び飛びで、元のプログラムすら読み取れなくなっている状態。
最初から“復讐”などというのは、ただの建前に過ぎなかったのだ。
『恐怖』の元をすべて消し去ってしまえば、胸を苛むこの痛みや不快な感情も消えるかもしれないと、多少は期待していたのかもしれない。
だが、本当のところはもう、この世界のすべてがどうでも良くなっていたのだ。
それでも彼は、復讐と呼ぶべきかも怪しい惨めな破壊行為を、義務のように機械的に繰り返していた。己を冷徹な“機械”になったのだと思い込もうとしながら。
名無しの深く抉れた頭部から、金属質の機械パーツが覗いていた。だが、脳の一部を機械にすり替えたところで、人間が本当に無感情な機械になれるはずもなかった。
もはや、その頭脳はとうの昔にどうしようもなく壊れ、一言で言うなら“ダメ”になってしまっていたのだ。
だからこそ彼は、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように、形式的な復讐という動作をただただ繰り返すことしかできなくなった。あまりにも哀れで、惨めな残骸でしかない。
壊れてしまった存在を、元通りに治すことなどできない。直したところでこの存在のための未来はない。
名無しはゆらりと立ち上がり、折れた鉈を再び低く構える。
胸中に意志や情熱があるからではない。ただ、頭脳の中に残された壊れたプログラムが、彼に死ぬまでそうしろと命じ続けているからだ。
彼はためらいを捨て、最後の手段へと意識を向ける。
己にとって最も深く根付いたルーツ。いまなお抱く、決して忘れることのない最初の憧憬を。
直後、
純白だった髪はかつての黒髪へと戻り、開眼していた左目の蒼い瞳は再び光を失って消失する。
だが、その代わりに。
彼の左右の両翼に、決して忘れてはならない、懐かしい二つの影が静かに浮かび上がっていた。
一方は、白い羊にも山羊にも見える、暴威に満ちた獣人のごとき巨体。
もう一方は、どこか不穏さと無骨さを残した、ブリキ缶のような粗雑なアンドロイドの姿。
半透明の幻影として現れたその二つの存在を目にした瞬間、これまで一切の感情を剥ぎ取られていた名無しの瞳が、初めて大きく見開かれた。
「それは……まさか……」
「ああ」
「“俺達”は無敵だ」
両脇に佇むかつての友の幻影が、
「行くぞ! 正真正銘、最後の戦いだ!」
かつて荒野を歩み、ただひたすらに『楽園』を目指した三人の探究者。
そして、過去に囚われ、壊れたまま殺戮を繰り返す名もなき復讐者。
両者が激突する。
圧倒的な連携。言葉を交わさずとも互いの意図を理解し合う、あの日々の呼吸。特別な力や派手な『性質』に頼るのではない。自身が最も幸せで、胸を高鳴らせていたあの頃の自分に重ね合わせ、ただ純粋な身体技術と長年培った格闘術で名無しを追い詰めていく。
対する名無しは、頭部の破損と精神の摩耗により、着実にその能力を衰えさせていた。
振るわれる折れた鉈の軌道は鈍り、攻撃を受け止める脚は不気味に震え、一歩、また一歩と確実に死角へと追い詰められていくのだった。
苛烈を極める攻防。
己の原点に立ち返ることができた者と、帰ることができずに壊れてしまった者。あまりにも残酷で、必然的な淘汰の争い。
二人の友の面影と共に打撃を叩き込みながら、
名もなき存在たちの間に同じ思念が生じては過ぎ去っていった。最後の瞬間の痛みを覚えている。そういえば彼らは安らかに逝けたのだろうか。あの
互いに深淵であり、覗き込めば相手もこちらを覗く。相手の姿は自身のあり得た未来、ありし日の友と自分の姿か、壊れ果てた姿か。間違いなく存在した過去、もしくはあり得た未来に『恐怖』を覚える。
友の最後の瞬間に立ち会った時の胸の痛みを忘れることはない。まだ痛むだろうか? ああ、まだ痛んでいるだろう。永遠と痛む。なんと恐ろしいことか。
気づけば相手を攻撃して傷つくのは己自身だった。だが止まらない。名無したちは止まれない。そうやって削りあって最後の一人になるまで痛みに立ち向かい続けるのだ。恐れは消えない。むしろ増すばかり。
分かっている。彼は理解している。こんなもの本当の友ではない。全ては孤独を紛らわすための幻に過ぎないのだ。ああ、恐ろしい。
恐ろしい。恐い。どれだけ虚勢を張ろうとも、結局は恐いのだ。
そしてだからこそ、立ち向かい続けなければならない。
進め。進み続ければいいのだ。
そして、決着の時は唐突に訪れる。
限界を迎えた名無しのわずかな隙を逃さず、
「……」
切断され、地面へと転がった名無しの頭部。その露わになった機械の脳から、パチパチと悲鳴のようなノイズが激しく鳴り響く。
「……“俺”と、お前で……何が違った……」
名無しは、久しく口にしていなかった“俺”という一人称を発した。
かつての自分のように。
名無しは苦しげに呻き、首の切断面から火花を散らしながら
「……その、カプラエとマルムは……“本物”じゃないだろう……」
名無しは、
「ああ」
分かっている。これは己の『性質』と記憶が作り出した、既に死んだ友の幻影に過ぎないことなど。
「……虚しい技だ。……とっくに、死んでいるものを……」
名無しは、あえて嘲笑うような蔑みの色を声に込めた。壊れてなお残る、惨めな嫉妬と諦愴を隠すように。
「いや」
「陳腐なセリフだがな」
「
「……ハハ。……くだらない」
名無しは自嘲気味に、力なく苦笑した。そして短い間を置き、彼は最後の“問い”を投げかける。
「俺も……お前も……同じ“喪失”を、経験したはずだ……。……何故だ……」
同じ苦難を味わい、同じ暗闇に叩き落とされたはずなのに、なぜお前だけが『人間』のまま立ち上がれたのか、と。
「俺のほうが、諦めが悪かった。それだけだ」
何があろうと、どれほど惨めにぶちのめされようと。
諦めることを諦めた。ただそれだけだ、と。
「……いや。出会いに、恵まれたところもあるな」
「……」
「逝ったか」
「……」
「じゃあな、『名無し』」
「……じゃあ、戻るか。“あいつら”のところへ」
彼が振り返ると、傍らに佇んでいたカプラエとマルムの幻影は、まるで役目を終えたかのように風へと溶け、静かに消えていった。
濁り切った曇天の下、どこまでも吹き去る冷たい突風。何も残らなかった空っぽな場所。何もない、少なくとも今この場所では。
風の吹き去る荒野を、彼はひとり歩く。
そんな彼を微かな光が照していた。
[補足]
-名無し*ニルヴァーナ
『涅槃』の属性を持ち、『崇高』へと至った名無しの究極形態。特別何か優れているわけでもなければ、能力を扱う才能があったわけでもない。ただ耐え続け、問い続けた者だったからこそ得た力。初期にあった『模倣』とかのテーマも能力として内包している。
-名無し(Nihilism)
別世界線の名無し。ただし単純な分岐でなく前提条件がいろいろ違う。まず地球での出来事は同じだが、名無しの身に分裂が起きないまま転送された。そしてこの世界線のキヴォトスには先生がいない。またゲーム開発部がアリスと出会わなかった世界線でもある。
アリスというよりAL-1Sを名無しが見つけて彼女を育てたのだが、名もなき神々の王女を脅威とする例の方に見つかってしまい……。破壊されたAL-1Sの残骸から名無しがこの世界線のケイと接触し、そこから無名の司祭の目的にも応じていったという形。あまり描写していないがケイとは脳内で通じ合っており、協力関係にあった。脳や身体の内部は改造を受けて機械化している。結局のところ人間を辞めたと思い込みたかっただけでそんな肉体的な変化だけでは変われないことも薄々は理解していたと思われる。
この世界線のAL-1Sは普通に名もなき神々の王女としての人格が強くてほったらかしてたら間違いなくキヴォトスが滅ぼされるので例の方の行動は間違っていない。
本当に生徒に対して悪印象しか抱けない環境にあった名無し。もしかしたら、こうなるように“誰か”から仕組まれていた可能性もある。