1話『漂白』
「どこだ」
「どこにもない」
「そこか」
鈍い目覚めだった。時計を見るまでもなく、もう仕事に行く時間だと体が理解している。
妙に寝覚めが悪い。確かに、何か嫌な夢を見ていたはずなのに、肝心の内容が思い出せない。記憶の輪郭だけが残り、そこに触れようとすると霧散してしまう。
「“ふわあぁぁ”」
大きな欠伸が、無意識のうちにこぼれた。
おかしい。昨夜は珍しく早めに帰宅できたし、睡眠時間も十分に取れている。それなのに、体の奥底に沈殿した疲労感が、どうしても拭いきれない。
重たい頭を抱えたまま、昨夜の出来事を反芻する。
『近いうちに、『アビドス砂漠』で何かが起きる可能性があります。具体的な内容まではお答えできませんが』
『率直に申し上げますと、その“何か”には、外から来る存在が関わっている恐れがあります』
思い出すだけで、胸の内に鉛のような重みが沈んでいく。
「(”……どうしよう”)」
この情報は、誰かに伝えるべきなのだろうか。
しかし、確証はない。下手に話せば、ただ不安を煽るだけに終わる可能性もある。
かといって、何もしないわけにもいかないだろう。
「ん?」
思考に沈み込んでいたところで、端末が小さく震えた。静まり返った室内に、控えめな通知音が響く。
『おはようございます、先生』
リンちゃんからのメッセージだった。
『少しお伝えしたいことがございます。朝早くに恐れ入りますが、お時間をいただけますでしょうか?』
『詳しい内容は、先生が到着されてからご説明いたします』
画面を見つめたまま、しばらく指が動かなかった。
……嫌な予感がする。
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「おはようございます、先生。」
「“おはよう、リンちゃん。”」
「誰がリンちゃんですか。」
即座に返される訂正。慣れ親しんだやり取りだ。
「“それで、伝えたいことを聞かせてもらえないかな?”」
「はい。そのつもりです。」
「その件についてですが……まずは、こちらをご覧ください。」
操作に合わせて、複数の画面が空中に展開される。
表示された情報を見て、思わず目を細めた。
これは……キヴォトス全域のデータ?
「これらは、過去二週間にわたるキヴォトス全域の気圧配置図です。」
日付ごとに切り替わりながら、二週間分の気圧配置図が順に映し出されていく。
「“なるほど……で、これがどうかしたの?”」
「ご覧の通り、過去二週間は特筆すべき異常もなく、安定した状態が続いていました。」
そう前置きした直後、画面が切り替わる。
「“……っ!? これは……!?”」
等圧線が、D.U.を中心に引き寄せられるように歪んでいた。
単純な円ではない。花弁が重なり合うような、複雑で不自然な形状。
どこか、銀河の中心を連想させる。
「こちらは、数時間前に検出されたデータです。このように、“歪み《ひづみ》”が発生しています。」
リンの声は冷静だが、内容は明らかに平常ではない。
「それだけではありません。同時刻、D.U.内部に“超低濃度”のエネルギー体が観測されました……」
「“超低濃度って、どういうこと?”」
「そうですね……前例が少なく、正確な説明は難しいのですが……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、彼女は続ける。
「簡潔に申し上げるならば……莫大な負のエネルギー、と表現するのが適切かと……」
「“……なんだか、危険そうだね?”」
言葉の響きだけでも、やはり嫌な予感が背筋を撫でる。
だが、今朝ここに来るまで、何か異変を感じた覚えはなかった。
「私も同様の懸念を抱きました。しかし、現状ではデータ以外に目立った異常は観測されていません。何が起きるのか、そもそも何かが起きるのかどうかすら、断定できないのが実情です。」
「“そうなんだ……”」
「ですが、何もせずに様子を見るわけにもいきません。そこで、ヴァルキューレの生徒を配置し、エネルギー体が観測された周辺区域を一時的に封鎖、警戒態勢を敷いています。」
そして、まっすぐこちらを見る。
「今回、先生にはその支援をお願いしたいのです。」
「“それが、今日伝えたかったことなんだね?”」
「はい。先生……お引き受けいただけますでしょうか?」
「“もちろん! 困っている生徒を助けるのが、私の役目だからね!”」
「ありがとうございます、先生。」
短く頭を下げるリンに、こちらも頷き返す。
「“あ、その前に一つ聞いてもいいかな?”」
「……? はい、何でしょうか。」
「“『アビドス砂漠』に、何か変化はなかった?”」
「『アビドス砂漠』……ですか? いえ、特定の異常は確認されていませんが……」
「“そうなんだ……教えてくれてありがとう。それじゃ、行ってくるね。”」
彼女に別れを告げ、指定された場所へと向かう。
しかし、もしアビドス砂漠に何の変化もないのだとしたら……。
『黒服』の忠告は、一体何を指していたというのだろうか。
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「……ご覧いただけてますでしょうか?」
「こんな昼下がりの時間帯に、ヴァルキューレがなぜか◯△交差点を封鎖し、その周辺を中心にあちこちを闊歩しています!」
「一体、何を警戒しているのでしょうか? 何か事件があったのでしょうか? それとも新手の犯罪予告が―――」
「ああもう、うるさい! 誰の許可で撮影してる! この地区は封鎖だ! さっさとカメラを止めて出ていけ!」
「おっと、マズいですね!」
「怒られる前に距離を取るとしましょう!」
「邪魔をするな! 早く出ていけ!」
「くそっ、またクロノスか……毎度毎度、相変わらずうるさい……!」
「“……今回も、なかなかの騒ぎだね……”」
「何だ貴様は、今何をしているか――……って、これは先生! 大変失礼いたしました……」
ヴァルキューレ警察学校・公安局長、尾刃カンナと合流した。
「“思っていたよりも、大掛かりだね”」
「はい……前代未聞の事態とはいえ、一見すると何も起きていないように見えますし……なぜ、この規模での警戒が必要なのか尋ねたのですが、“正確な事情は答えかねる”としか……」
「“ごめん、カンナ……私も正確なことは分かってないんだ……”」
「いえ……そんな……ですが、先生ですら把握されていないとは……」
カンナは一瞬だけ言葉を切り、周囲を見回す。
「……ともかく、今は住民がこの区域に立ち入らないよう封鎖を維持するのが、我々の役目です。先生、本日はよろしくお願いします」
「“任せて。まず、私は何をすればいい?”」
「それでは――……」
カンナに指示された持ち場を手伝っているうちに、一時間と少しが経過した頃だった。
“それ”は、唐突に現れた。
「局長! 先生! 来てください! あれを!」
切迫した様子の生徒に導かれ、視線の先を見る。
「何だ……? あれは……?」
交差点のど真ん中。
そこに、ぽつりと――“黒い球”が浮かんでいた。
周囲の塵や小さなゴミが、ゆっくりと引き寄せられているように見える。
「巡回中、突然あれが発生しまして……」
「“あれが、今回の警戒の理由……?”」
あまりにも小さい。
だが、黒いというより、そこだけ光が反射していない――そんな違和感がある。
よく見ると、塵を引き寄せる速度が、徐々に増している。
「…………?」
「……っ!!」
「先生! あれはマズい気がする!」
「総員! ここから離れろ!」
カンナが、何かを察したかのように叫んだ。
〈ゴオオオオオオ〉
次の瞬間、黒い球が膨張し、強烈な圧力で周囲の物を吸い込み始めた。
「“あっ”」
咄嗟に距離を取ろうとする。しかし、球に近すぎた。
足が地面からふわりと浮き、心臓と内臓を掴まれるような感覚が走る。
「先生! 手を!」
「“カンナ!”」
近くにいたカンナに引き寄せられ、どうにか体勢を立て直し、建物の陰へと逃げ込む。
〈ゴオオオオオオオオオオオオ〉
「“ぐううううぅぅぅ”」
柱に必死でしがみつく。
体のすべてが、あの球へと引き寄せられていく。
「なにこれぇぇぇ!?」
「ぎゃああああ!?」
他の生徒たちも、圧力に耐えながら踏みとどまっているのが見える。
光すら吸い込まれているのか、視界そのものが歪み始めた。
「“ぐういいうういういいいいい!?”」
〈コオオォォォォ……〉
やがて、風圧も轟音も、嘘のように収まっていく。
「“ゔっ”」
胃の中を掻き回されたような感覚に、思わず膝をつく。
気持ちが悪い……。
「先生……! ご無事ですか!?」
「“うん……なんとかね……それにしても、カンナ。よく分かったね……”」
彼女の判断がなければ、どうなっていたか分からない。
「いえ……“勘”でしょうか……」
周囲を見渡す。
幸い、誰も巻き込まれてはいないようだ。
「それよりも、先生……あれを見てください……」
「“あれ……?”」
吐き気が落ち着き、立ち上がる。
「“……っ!?”」
球があった場所は、綺麗な球状のクレーターとなって地面に刻まれていた。
「“あれは……?”」
「先生! 近づきすぎないでください!」
警告を受けつつ、縁から中を覗き込む。
「“……っ!”」
「“カンナ! あれを見て!”」
「……? 何だ……? あれは……?」
クレーターの底には、“黒いボロ切れ”のようなものが横たわっていた。
黒い球から生まれたのか……それとも、どこかから来たのか……。
「“調べてみよう”」
「先生、危険です。せめて他の人員に――」
好奇心が、わずかに先走ってしまった。
カンナが生徒たちに指示を出し、クレーターの底からその“黒いもの”を引き上げさせる。
「うぅ……何この匂い……鉄臭い……」
「何か手についた……うぅ……」
生徒たちは顔をしかめながら、それを運び上げてきた。
「“これは……まさか……人……?”」
黒いそれは、人型をしていた。
穴だらけで赤黒く汚れた、コートのようなものを身にまとい、割れたゴーグルと、丈夫そうなボロ布が頭に巻き付けられている。
腕や脚と思しき部分は、褐色に汚れた包帯のようなもので幾重にも覆われ、中身はまったく見えない。
補強を重ねた板状の何かが腕と脛に固定され、大きなブーツを履いている。
腰には粗末な銃のようなもの、背中には長い鉄塊のような物体。
鉄と血が混ざったような、鼻を刺す強烈な臭気が漂っていた。
「何だ……これは……」
〈プルルル〉
不意に、着信音が鳴る。
「“リンちゃん?”」
『先生! ご無事ですか!?』
「“私は大丈夫だけど……”」
『そうですか……それは良かった……』
「“どうしたの?”」
『突然、キヴォトス全域の気圧が傾くほどのエネルギー歪曲が検出されまして……それで安否確認を……先生、何が起きたのでしょうか……?』
「“そうだね……”」
私は、事の一部始終を説明した。
結果として、この区域は引き続き封鎖。
そして私とカンナは、この“得体の知れない黒い何か”を回収し、調査に回すことになった。
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「先生、こちらへ」
生徒に促されるまま、指定された部屋へと足を踏み入れる。
「来ましたか。」
「“カンナ、あれはどうなったの?”」
「ひとまず、身に纏っていたものは衣服の類で間違いなさそうです。ただ……匂いがあまりにも酷く、付着物の調査に時間を要しましたが……」
言葉を区切り、彼女は視線を横へ向ける。
「汚れの正体は、血液や吐瀉物など、複数の物質が長い年月をかけて堆積したものと判明しました。そのため、一部を洗浄したものがこちらになります。」
「“おお……”」
視界に入ったのは、黒いオーバーコートだった。
穴のように抉れた箇所、切り裂かれた痕、そしてそれらを幾度も修復した痕跡。
無理やり繕われた縫い目が重なり、使い古されていることが一目で分かる。
不思議と、そこには持ち主の執着……あるいは、手放せなかった理由のようなものすら感じ取れてしまった。
「“んん……?”」
「どうされました?」
「“これは……”」
視線を凝らすと、布地の一角に、文字のようなものが描かれている。
装飾というには簡素で、ロゴのようにも見えるそれに刻まれていたのは……。
「“『Abel』……?”」
「……? 何でしょうか。それは……?」
「“名前……かな?”」
呟いた途端、胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれる。
他にも、いくつかの物品を見せてもらった。
「“この鉄の塊は……?”」
「外見から判断するに、持ち手があり、刃こぼれは激しいものの片側の端部は刃状になっています。用途としては鉈に近い道具だと結論づけました。」
一拍置いて、付け加える。
「もっとも、鉈にしては重すぎますし、大きさも規格外ですが……」
「さらに、こちらの金属製パイプですが、簡素な構造ながら銃として機能することが確認されました。」
手元の台に置かれたそれは、どこかリボルバーを思わせる形状をしている。
雑だが、確かに修理と補強の痕跡が見て取れた。
「また、他にもこのような物を所持していました。」
「“これは……?”」
見た目は注射器に近い。
針の部分にはキャップが装着され、内部は完全に密閉されている。中には、透明とも濁っているとも言い難い液体が満たされていた。
「解析の結果、神経の感覚を一時的に麻痺させると同時に、極度の興奮状態を引き起こす薬物であることが判明しました。非常に危険です。」
淡々とした口調とは裏腹に、その内容は物騒だ。
「キヴォトスでは、これほどの危険性を持つ薬物は、見ることはおろか、記録上でもほとんど確認されていません……」
「“ははは……なんだか、すごいね……”」
乾いた笑いが漏れる。
それにしても、なぜこんな物を持っていたのだろう。
“所持していた”という言い回しが、妙に引っかかる。まるで、それらを持っていた存在が人だったかのように感じられて。
「“ねえ、カンナ?”」
「何でしょうか。」
「“さっきから、これらを人が持っていたみたいな言い方をしてるよね?”」
「“やっぱり、あの黒いものの中身は……”」
「カンナ局長。解析が完了しました。安全性の確認も取れていますが……」
報告の声に、言葉が遮られる。
「だそうですよ、先生。」
カンナは視線をこちらに向け、静かに言った。
「今、その答えを確かめに行きましょうか。」
「“分かった。”」
なんだかドキドキする。
もし、人だったとしたらどこから来たんだろう。
並べられた品々は、どれもキヴォトスでは見たことのないものばかりだ。
だとすれば……『キヴォトスの外から』?
私の故郷でも、見慣れない服装だ。
となると、『ゲマトリア』の連中のように、“別の領域”から来た存在なのかもしれない。
「(”少し……怖いなぁ……”)」
思考を振り払う間もなく、生徒たちに促されて、さらに奥の部屋へと案内される。
「ここです」
「感染症や放射能汚染などの危険性は確認されていません。どうぞ、ご安心してお入りください」
「先生、行きましょうか」
「“うん”」
重々しい音を立てて、扉が開かれる。
「……っ!!」
「“これは……”」
視界に飛び込んできたのは、集中治療室を思わせる無機質な空間だった。
そして、その中央に据えられた台座。
その上に、何かが横たえられている。
「子ども……?」
「“綺麗な顔と肌だね……”」
そこに寝かされていたのは、一人の子どもだった。
傷一つない、透き通るように白い肌。あまりにも細い身体つき。左目の下には泣きぼくろがあり、唇の右下にも小さなほくろが見える。
背丈は、おそらく百センチ前後。
そして何より目を引くのが、手入れされていないように無造作に伸びた、異様なほど長い“白髪”だった。
だがどうにも……おかしい。
あのオーバーコートは、どう見てもサイズが合わない。
この子が着ていたものとは考えにくい。
「先生、驚くべきことは、そこではありませんよ。」
「毛布をめくって、確認してください。」
「“布って……この……?”」
子どもの下半身には、丁寧に毛布が掛けられていた。
躊躇いながら、その端に手を掛ける。
そして、静かにめくった。
「“……っ!!”」
「そんな……!?」
人間であれば、誰しもが一目で判断できるはずだ。
そこにあるべき“どちらか”が、存在するかどうかを。
だが。
「“性器が……”」
「……ない?」
そこには、何もなかった。
欠損ではない。ただ、最初から存在しなかったかのように。
そして、この日。
私は、この世界の理から外れた、不思議な存在と出会った。
[補足]
-白髪の子ども
突然現れた謎の存在。まるで漂白されたように白い。冷たく、息をしていない。体には傷一つないようだ。
自身の大きさに不釣り合いなものを見に纏っていた。
この小さな存在は何者なんだろう?
第1章から読む人は、先生が黒服から忠告を受けた事、百合園セイアが奇妙な夢を見た事を把握しておけば大丈夫だと思います。
時系列はVol2.「時計じかけの花のパヴァーヌ』2章の後です。
私にとって既存のキャラクターや舞台を描くのはとても困難を極めるものなので、違和感があれば指摘してほしいです....
口調や一人称には気をつけているつもりですが、間違っていたら申し訳ない……
オリキャラ周りがかなりダークな雰囲気になる可能性があるのですが、参考にしたいのでできれば......
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暗い。陰鬱な雰囲気は好き
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別にいいと思う
-
あまり好きでは無い