簡単な授業を終え、生徒たちを見送る。
アリウスに残された生徒、その全員が私たちの考えに納得したわけではない。だが、同時に拒絶だけというわけでもない。
それで十分だ。
スクワッドだけの空間に戻る。先生は一度シャーレに戻ったため、今はアリウスにいない。
口数は皆少ない。疲労というより、考え込んでいる。
私は端末を取り出した。
報告を入れるべきだと思ったからだ。
今日あったこと。私たちが変わらず取っている行動。
それが正しかったかどうかは分からないが……少なくとも、前には進んだ。
短くまとめる。
「今日、また簡単な授業を行った。全体の空気は、以前よりは落ち着いている」
送信。
簡潔にまとめた報告のみだ。
余計な言葉は必要ない。
しばらく待つ。
返信は来ない。
端末を伏せ、また確認する。
変化はない。
……何かあったのか。
一瞬、そんな根拠のない考えがよぎる。
だが、すぐに打ち消して頭の外へと追いやった。
先生はそう簡単に倒れる人ではないだろう。
連絡が遅れることも、今までに何度もあった。
次に会った時に話せばいい。
その時に、改めて話ができればいいのだ。
私は端末をしまい、立ち上がる。
止まっている時間はない。
私たちにはやるべきことをやる。
先生がいない間に、進められるところまで進もう。できる限りの事を精一杯やる。それが、私の贖罪において重要な心構えと思っているのだから。
次に会う時までには今より進展させておきたい。私たちはこれからある種のスタートラインに到達しようとしている。そして、それにはアリウスの生徒たちも含めたい。
不思議と、決意が漲った。
——————
結局、その日は何もできなかった。
情報は既に出尽くしたのか、これ以上待っても進展はなかった。それ以上シャーレの前に居続けても意味がない。
そう判断して、私たちは一度アビドスへ戻った。というより、戻らざるを得なかった、と言う方が正しかったのかもしれない。
……悔しいけど、現実ってそういうものだ。
今この瞬間にできることなんて限られている。
そして次の日。
朝早く、アヤネちゃんから連絡が入った。
いつもより声が硬くて、要点だけを短く伝えてくる。
先生が運ばれた医療施設の場所を突き止めたらしい。
当然、報道では伏せられている。
ニュースを見ただけの人には、辿り着けない場所。
「……行こう、みんな」
私がそう言うとシロコちゃんは無言で頷き、ノノミちゃんは胸の前で手を組んで息を整え、セリカちゃんは唇を噛みしめたまま何も言わずについてきた。
誰も軽口を叩かない。それもそのはずだ。明るく振舞おうとするのは厳しい。もう十分に状況は深刻なんだ。
いざ施設に着いて、すぐにある事実が分かる。
……当然私たちだけじゃなかった。
建物の前には、すでに何人もの生徒が集まっている。私服の子もいれば、制服姿のままの子も。
学園も所属する部活もばらばらなんだろう。
他学園の生徒会の人たち。
どこかで顔を見たことのある生徒。会ったことがある生徒。
会議や報告書で名前だけ知っていた存在。
……みんな、先生と深い関わりがあったんだろう。
騒ぐ人は誰一人としておらず、そこに泣き叫ぶ声もなかった。
ただ全員が同じ不安と憂い、祈りのような微かな可能性への懇願を抱えたまま同じ場所に立っている。
「……入ろっか」
そう言って歩き出したのは私だった。
みんなを不安にさせないように、できるだけいつも通りの声で。
受付を済ませ、案内された先。ひどく白くて、ひどく静かな廊下。
足音がカウントダウンのように一歩一歩が騒がしく聞こえた。
病室の前で自然と足が止まる。
ドア一枚向こうに先生がいるんだ。
……いる、はず。
シロコちゃんが無言で端末を握りしめているのが視界に入る。セリカちゃんは、今にも何か言いたそうなのに、結局何も言わない。アヤネちゃんは、表情を崩さないまま、私の一歩後ろに立っていた。
私は一度だけ、深く息を吸って。
「……行くよ、みんな」
恐る恐る、病室に入る。
扉が開いた瞬間、強烈な消毒薬の匂いが鼻腔に突き刺さった。
それと同時に一定の間隔で続く、低い電子音。
脳に響く機械の音。
中に入った瞬間からなぜか視界がうまく定まらない。
白い。
眩しい。
モノが多すぎる。
ベッド。機械。管。コード。輸血液。包帯。
それらが絡み合って、
その中心に『誰か』がいることだけは、分かった。
先生。
そう認識した瞬間、心臓が掴まれたような感覚に見舞われる。
直視できなかった。
無意識に視線を逸らそうとしてしまう。
……見れば嫌でも分かってしまう。現実を理解してしまう。
だから、見たくなかった。
ただ“無事ではない”という情報を嫌というほど突き付けられる。生きているかどうかをあの音に委ねられている、そんな状態。
もう何度目になるだろう。また息を吸うのを忘れていた。それに心臓の音がドクン、ドクンと耳の内側で響いてきた。
視界の端がぐらっと歪む。
……あ。
似ている。
この感じ。
力が指先から感覚が抜けていくこの感覚。
あの時もこんなふうに、現実を認識する前に体だけが拒絶して……。
……だめだ。思考が勝手に“そこ”へと引きずり込まれそうにになる。
目の前に一瞬、別の色に見えてしまった。
砂の色。空模様。動かない体。
誰のせい?
違う。
違う、違う。
ドクン。
心臓の音が脳に近づいてくる。
息が浅く早く……あれ、整わない。
うまく呼吸ができない。
「ホシノ先輩……?」
誰かの声がした気がする。
ノノミちゃんだったか、アヤネちゃんだったか。ぼんやりとしているせいでもう誰が話しかけてきているのか曖昧だ。
うまく返事ができない。
今、ここで、
もし“それ”を受け入れてしまったらもう二度と戻れなくなる。
病室を出たあと、廊下の温度が一層に寒く感じられた。
鼻の奥に残る消毒薬の匂い。耳の奥にこびりついた、一定の電子音。
ドクンと心臓が強く打つ。
その音が、どんどん大きくなる前に私はようやく意識して呼吸を整えた。
落ち着け。
落ち着かないといけない。
今ここで崩れ去ってしまえば何も判断できなくなる。冷静に。冷静になれ。
「……」
シロコちゃんも、セリカちゃんも、ノノミちゃんも、アヤネちゃんも。
誰も口を開かない。
それが逆に助かった、と心の中で呟いてしまった。今は誰かに何かを言われてもうまく取り繕える自信がない。
〈ピロン〉
静かな廊下に端末の通知音が響いた。
アヤネちゃんが画面を見る。
ほんの一瞬だったが、彼女の表情が明らかに固まった。
「……ホシノ先輩」
嫌な予感が絶えない。
「……アビドス生徒会宛てに連絡が入ったみたいです」
「“新たな債権者”が、動いてるようで……もう、現地に向かってると……」
アビドスを取り巻く問題にまた進展があったみたいだ。しかもこのタイミングで。胸の当たりがさらに痛む。でも、顔には出せない。表情を……保たないと……。
「……分かった」
絞り出せた声は自分でも落ち着いて聞こえて、逆に少し怖くなった。
「今はアビドス生徒会として動く」
ここで止まっていてもアビドスがまた大人たちの手によって危機に晒されるばかりだ。それだけは絶対に許されない。
「みんな、戻ろう」
まるで、何もなかったみたいに。
何も見なかったように。
振り返らない。振り返るな。
後で考えればいい。後で事実とちゃんと向き合えばいい。
今はまだ、“生徒会長”でいなきゃいけない。
時間はこちらの都合なんて、一切聞いてくれないんだから。
だから私は、私たちは冷静でいなければならなかった。
どれだけ、精神が音を立てて軋んでいても。
————-
数日が経過していた。
七神リンは連邦生徒会本部の執務室で、ほとんど休みなく書類と報告に目を通し続けている。
机の上に積まれた端末と紙束は減るどころか増え続けており、終わりが見えない日々が続く。
想定していた事態ではあった。だが、現実はいつも予測を上回る。
先生の不在。
それは単なる人員欠如ではなく、キヴォトス全体の均衡点の喪失とも言えるだろう。
各学園や企業を交えた小競り合い。
治安指数の微細な悪化。
調停の場に現れるはずの存在がいないことによる、判断の遅延。
それらが連鎖し、都市は静かに崩壊の一端を辿っているようだった。
かつて先生が来る以前の、連邦生徒会長が失踪した直後の空気感に近い。
「……」
リンは端末を操作し、次の報告を開く。
治安部からの速報。
犯罪や事故に巻き込まれた生徒の一部にある異常が見られたという。
落ち着きがない
会話の齟齬
意味不明な独り言
極端な情緒不安定
いずれも重症ではない。
だが共通してその症状の原理に“説明がつかない”。
リンの視線が、自然とある単語に留まる。
事故。
そして彼女の脳裏に例の地下の独房が浮かんだ。
あの生徒。
爆発に巻き込まれ、軽傷で済んだはずの少女。
理性が揺らぎ、意味の分からない言葉を口にし、“女神”という単語を発した生徒。
「(……一致している)」
声には出さず、リンはそう判断した。
被害の規模も学園も背景も、それぞれが異なっているはずだ。
だが症状があまりにも共通しており、似すぎている。
単なる心的外傷ではない。
偶発的な精神不調にしては、傾向が揃いすぎているのだ。
リンは端末を閉じ、深く息を吐いた。
表情は変えない。
声と態度は普段通りに見えるよう心掛けている。。
だが、内心では警鐘が鳴っていた。
これは、先生の事故とは無関係ではない。
少なくとも同じ現象の延長線上にあるのだろう。そう彼女は推測していた。
そして。
あの時、調査を一時中断した判断。
名無しの存在との接触を止めたあの決断について。
あれは正しかったのか。そう疑問を覚える。
リンは立ち上がり、新たな指示を端末に打ち込んだ。
追加調査。
事例の洗い出し。
症状発現の時系列の照合。
多忙さは加速するように増していくのだろう。
だが、止まるわけにはいかない。
先生が目を覚ますまで……。
いや、目を覚まさなかったとしても。
連邦生徒会はこの異変を見過ごすことはできない。
リンは窓の外、広がるキヴォトスを一瞬だけ見下ろした。
静かだ。少なくとも今は。
だがその静けさの下で、確実に何かが歪み始めている。そう彼女は確信を抱いた。危機への対応はどれだけ早くても構わない。取り返しのない事態を未然に防げるのなら。
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さらに数日後。
ヴァルキューレ公安局から一本の報告が連邦生徒会へと送られてきた。
D.U.南区、路地裏。
数日間にわたって同じ場所にうずくまり続けていた生徒が発見されたという。
飲まず、食わずで呼びかけにもほとんど反応せず。
時折、意味を成さない言葉を呟くのみ。
抵抗はなく、暴れる様子もない。
ただひどく怯えた目をしていたと、簡潔な所感が添えられていた。
「……やはり、来ましたか」
七神リンは報告を読み終え、静かに結論を出す。
偶然ではないのは明らか。間違いなくこれらの事象には相関がある。
そしてもはやこれより優先すべきことがあるとして切り捨てることはできない段階に入っているのだ。
リンは即座に判断する。
その生徒をヴァルキューレ預かりのままにはしない。
連邦生徒会で引き取り、保護下に置く。
そして。
以前、地下で隔離している発狂状態の生徒と同時に調べる。
調査担当は、あの名もなき存在に任せるしかないだろう。現状他に最適な人物がおらず、生徒に接触させた場合のリスクもある。
リンは端末を操作し、呼び出しをかけるのだった。
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その頃。未だ名もなきその人の子は、その時D.U.の一角にいた。
当然表立った場所にはいない。
彼は常に目立たず、だが確実に火種になりそうな場所を巡回している。
小さな抗争。違法な取引。
感情の爆発から始まる、些細な暴力。
ここ数日、彼は自発的にそれらへ介入していた。
連邦生徒会が大枠を抑える裏で、零れ落ちたものを拾い集めるように。本来なら、消極的になってしまっていた彼はこんな事に積極的に取り組んでいたはずもない。だが、何かを刺激されたの、不安に襲われたのか行動せざるを得ない精神状態だったのだろう。
そしてリンからの要請内容を聞いたとき、彼は疲れたようにため息を吐いた。
理屈では理解できる。
自分以外に適任がいないという背景も読み取れた。
それでも、彼に拒否感ははっきりとあったのだ。
「……正直、気の進む話じゃないな」
思わず零れた本音に、リンは何も言わない。
同時に説得なども試みない。
ただ、事実だけを告げる。
症例が増えていること。関連性が濃くなっていること。そして、放置すれば取り返しがつかなくなる可能性。
名無しの存在は短く息を吐いた。誰もがやるしかない状況に迫られつつあることは理解していたから、なおさら心労に思えたのだろう。
「……分かった」
声にはわずかな躊躇と、それ以上の諦観が混じっていた。
連邦生徒会が表の混乱を抑え、秩序を保ち都市を機能させ続ける。
そしてその裏で。
水面下で蠢き始めた、まだ実際に起きているかも分からない名もなき異変を追う役目を負うのが……。
その名もなき彼だった。
誰にも知られず、誰からも評価されない。それでも目を逸らせないものに向き合うために。
調査を進める中で、名無しの彼から一つの推測が提出された。
七神リンは、端末に表示された報告書へと視線を落とす。
内容は断定には程遠い推測のみ。
それでも無視できない共通項がいくつも並んでいた。
強い感情の揺れ。
そして極度の精神的負荷。
それらを契機として、生徒たちはまるで“何か”と接触したかのような言動を示し始める。
女神。
白い翼。
微笑み。
意味は分からない。
神話的で、抽象的な単語の羅列だ。脈絡のない記号であり、解釈のしようがない。
だがそうであっても、複数の生徒が発する言葉のニュアンスには明確な重なりがあったのだ。
まるで同じものを見たか、同じ体験をなぞったかのように。
何故そうなるのか?
その因果関係は依然として不明。
精神的負荷が限界を超えた結果、異常が発現するのか。
それとも、何らかの外的要因が精神へ干渉し、負荷を増幅させているのか。
卵が先か、鶏が先か。
報告書にはそこまで踏み込めなかったと記されている。
だが、ここまではそう重要ではなかった。
より深刻なのは……その先だ。
調査日数を重ねるごとに症例の生徒たちは徐々に変質していく。
感情の起伏が激しくなり、攻撃性が増し、会話による意思疎通が次第に成立しなくなっていく事が明らかとなる。
理性と正気が削り取られていくような変化が起きていると診断された。
このまま経過を見守るだけでは、いずれ暴力行為に発展する危険性が高い。彼はそう結論づけていた。
リンは端末を伏せ、深く息を吸う。
少なくとも表向きでは今現在のキヴォトスの秩序は保たれている。
だからこそ表に露呈しない内に裏側で進む歪みに対処しなければならない。
先生を失った空白。
説明のつかない異変。
そして、生徒たちの精神を侵食する“何か”。
「……時間がないですね」
時間だけでなく余裕もない。誰に向けるでもなく、リンはそう呟いた。
この問題は、いずれ表に噴き出す。
その前に手を打たなければならない。
そうした義務感を前に、彼女はあの人がいればどれだけよかっただろうと二人の人物を思い浮かべていた。
再び時間が経過してからというもの、同様の症例はすでにここだけの問題ではなくなっていた。
各地の医療機関から、断片的な報告が上がってくる。
理由もなく苛立ち、些細な刺激に過剰反応を示し、次第に攻撃性を帯びていく生徒たち。数はそう多くはなかったが、無視できるほど少なくもなかった。
連邦生徒会は判断を下す。
地下収容区画の拡張。
対象となる生徒たちを一箇所に集め、外部の目から切り離した上で経過観察と調査を行う。
表向きは“保護”と“治療”。
実際には混乱が市街に波及する前に抑え込むための隔離措置だった。
だが治療は思うように進まない。
精神科医たちは首を横に振る。
症状は精神疾患の枠に収まらず、薬理的なアプローチも効果が薄い。原因の特定には至らず、対症療法で時間を稼ぐのが精一杯だった。
焦燥が蓄積していく。
そんな中で、リンは再び名無しの彼と顔を合わせた。
彼は明らかに消耗したような状態になっていた。
肉体的な疲労以上に精神が摩耗している。視線は定まらず、言葉を選ぶ間が不自然に長い。
苦悩する者の顔だった。同時に現実を直視しようとし続ける眼でもあるのだが。
それも、できれば直視したくないものを。
「このままだと……」
彼は低く、かすれた声で言った。
「あいつら“化け物”になっちまう」
化け物。怪物。人ではないもの。ある種の侮辱とも言える言葉である。患者に対しこうした言葉で表すのはあまり気分の良いものではないだろう。
だが、リンは言葉を返せなかった。
あの人がいたならどうしただろう。彼女は何度もそう悩む。
彼女だけでなく誰もが、その問いを心のどこかで抱えていた。
その答えなど何処にも無いのだが。
そしてその翌日。
連邦生徒会庁舎の地下深く。
鈍く、脳髄に響くような衝撃音が拠点全体に走った。
続いて、何かが破壊される金属音。
警報が鳴るよりも早く職員たちが異変を察知し、現場へ急行する。
そこで確認された。この世界においてあまりにも稀有で異常な光景が。
血溜まりの上に無惨な姿で倒れ伏す名もなき彼の身体。爆発のような異様な跡。そして、内側から叩き壊された収容室の扉。
壁には爪痕のような傷。
床には何かが引きずられた痕跡。
最初の生徒がいない。
脱走した
[補足]
-どういう状況?
この世界線では、過ぎ去りし刻のオラトリオと対策委員会編第3章での出来事が並行して進行中、かつ、先生がそのどちらにも介入できなくなる事件が発生、という感じ。更には何かそれらとは別で何か“異変”が起きている模様。三重苦。
…と....だとどっちがいいだろう。ーーの使い方もまだよく分からなくて難しいですね...。新たな文体に挑戦してみるとやっぱり違和感が...