貴方は何をすべきかを思い出す
職員たちと共に、七神リンは地下へと駆けつけた。
本来ならば一時的であれ業務を中断するなど許容できる判断ではない。だが今回は、それ以上に放置できない事態だったのだろう。
エレベーターが下降を始める。
密閉された箱の中では誰も口を開かなず、張り詰めた緊張感の中で固唾や息をのむ音が点々と続く。
リンは背筋を伸ばしたまま、呼吸を整える。
もちろん彼女にも動揺は生じている。だが、それを外面に出すわけにはいかないのは相変わらずだろう。首席行政官である以上、ここで戸惑いを見せることは許されなかった。これは彼女が自分自身に課した決まりである。
地下階に到着し、扉が開く。
室内の空調機器によって冷えた空気と共に似つかわしくない異臭が流れ込んできた。
そしてその光景を目にする。
「……何が、あったのですか」
思わず、たどたどしい言い方で言葉が漏れた。
そこに出自の分からない爆発の痕跡。
原因は火災ではないはずだ。焼け焦げた壁面は黒く歪み、熱で溶けたようでもあるが類を見ない損傷を起こしている。爆薬による破壊とは決定的に質が違うようだ。
部屋の一角。
壁際には赤黒い液体を滴らせる“何か”が、叩きつけられるように倒れていた。
かろうじて人の形を保っている。
だが、それをそうと即座に認識するには、一瞬の躊躇が必要だった。
衣服は裂け、肉体は無残に損壊している。
床に広がる血痕はただ流れ出たというよりも、吹き飛ばされたように散乱していた。
「……っ」
リンは視線を逸らさなかった。一瞬では認識ができず、凝視せざるを得なかったのだ。
「……ゲホッ……ゲホッ……」
濡れた黒い塊が、音を立ててえずいては咳き込む。
そして床に吐き出されたのは粘ついた濃い色の液体。その中に白い粒がいくつも混じって散乱した。
故障した機械にも似た雑音が部屋に響く。喘息を患っているような雑音交じりの空気が抜ける音がぜぇぜぇと。
内部で何かが軋むたび身体全体が震える。だがその肉体はゆっくりと、しかし確かに立ち上がっていった。
職員の一人が、短く悲鳴を漏らして腰を抜かす。
七神リンはただ息を呑んだ。
目の前でおきるありのままの否定などできそうにないだろう。
視界に映るものを、事実を受け入れる覚悟をした。
床に広がる液体は血。
白い粒は、折れ、砕けた歯や骨。
そして黒い塊は名もなき、彼だった。
「ぁ゛ァ゛……」
喉の奥を引き裂くような、声とも息ともつかない音が漏れ出した。
次の瞬間。
損壊した皮膚と裂けた衣服の隙間から、細い“紐”のようなものが無数に伸び出す。血に濡れ、蠢きながら絡み合い、失われた輪郭をなぞるように。元の形を、無理やり思い出すかのように結びついていった。
回復、と呼ぶにはあまりに歪で、あまりに冒涜的である。
「……無事、なのですか……?」
七神リンの口から、思考よりも先に言葉が発せらえる。少し声に震えが混じってしまったようだ。
彼は答えない。
ひしゃげた足を引き摺りながら、名もなき彼は歩き出す。損傷によってまだ再生仕切っていない空洞な片方の眼孔には暗い炎が宿る。
そう見えた。
ほんの一瞬の錯覚だったのかもしれない。それでも、リンの背筋に悪寒が走るには十分だった。
「ま、待ってください……!」
リンは一歩、踏み出す。
「どこへ行くつもりですか……!? 何が……一体、何があったのですか……!?」
行政官としての何が起きたか把握せねばならない。
状況を把握し、原因を特定し、対処へと繋げるための正しい問い。
……のはずだがどちらかといえば困惑でとっさに出てしまった反射反応に近い。
「殺、される」
しゃがれた声が、床を這うように伝わってくる。
「みン、な、殺される、化け物に」
「
折れた手で、鉄板のような鈍器を引き摺りながら彼は足を進める。
その歩みは覚束ないが、止まる気配はない。
憎悪に燃やし尽くされ、恐怖に溺れたような声色だった。
たどたどしく、明らかにまともではない。
七神リンは意志を振り絞り、一歩踏み出した。そして彼の前に立つ。
次の瞬間。
バチン。
と、乾いた音が地下に響く。
「しっかり……して下さいっ!」
躊躇はなく打たれる。
血が跳ね、手のひらを汚すがそれでも止まることはない。
「貴方には、この状況を説明する義務があります!」
もう一度、反対側から。
バチン。
後方で誰かが息を呑む。
「……い、いった」
「行政官……すごい」
囁き声が聞こえたがリンは気に留めなかった。そもそも聞こえなかったのだろう。
彼は、はっとしたように肩が動く。
焦点の合わなかった視線がわずかに揺れ、こちらを捉えたのだった。
「……落ち着きましたか?」
「うゥ……俺は……」
「私が、分かりますね?」
一瞬の沈黙。
「……ああ」
「それでは」
リンは声を低く保った。
「ここで、何が起きたのか。教えて頂けませんか?」
「……“化け物”だ」
「……はい?」
「突然……目の前が真っ黒になって.……“化け物”が、いた」
「……化け物、ですか……?」
リンはその言葉を脳内で反芻する。
地下で収容していた生徒。
精神異常。
“女神”、“白い翼”。
繋がっている?
「……なあ」
彼はリンを見ているようで、どこか別のものを見ていた。
「急がないと……不味い……一刻も早く、止めに行かねえと」
「……誰を、ですか?」
「みんな殺される」
言葉は支離滅裂だ。彼ですら会話が成り立たなくなったようだ。順序が破綻している。
だがその声に宿る切迫感に異様なほどに真実味めいたものを感じさせられたのだった。
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通信が割り込んでくる。
D.U.内の通りでヴァルキューレが交戦中。
対象は正体不明。黒い、負のエネルギーを纏った“何か”。
七神リンは即座に判断を下す。
職員に指示を飛ばし、自らも再びエレベーターへと乗り込んだ。
上昇。
数字が跳ね上がるのと同時に、胸の奥に焦燥は膨らんでいく。
地上階に到達し外の様子が視界に入った瞬間。
その場にいた全員がは言葉を失った。
空が、赫く染まり始めている。
夕焼けではない。
光の加減でもああはならないだろう。気象現象とも言い難い。
都市全体を覆うように、じわじわと、しかし確実に色が侵食していく。
明らかに“異変”が始まっていた。
「……全体に通達を」
リンは声を張る。
「不要な外出の制限。ヴァルキューレ部隊はD.U.各所へ展開。医療班は即応体制を混乱を絶対に拡大させないで下さい」
先生の不在。
それによって生じた“隙”をこれ以上広げるわけにはいかなかった。
一方で。
名もなき彼は、地上へと駆け出している。
足は自然と動く。
恐怖と嫌悪、そして強迫観念に突き動かされるように。
だが、その奥底にほんの一欠片の冷静さが残っていた。
何時間かけてでも殺して対処する。
それが最も確実だ。
あの“気配”。
これ以上ないほど忌避感を煽る存在。
排除しなければ、自分の精神すら持たない。
“アレ”はそういう存在だ。在ってはならないはずなのだから。
だが。
面倒な事に化け物になった者は生徒だ。
先生が気にかけ手を差し伸べてきた大事な一員なのだ。
それを殺す?
思考がそこで引っかかる。
殺せない。
殺してはならない。守られるべき存在なのだ。
ならどうすればいい?
止める方法はあるのか。
“化け物”になってしまった存在を。生徒のままでいさせる手段は。
答えは出ない。そうだ。いつだって答えはなく最適解も提示されない。
そんな事を考えてはいても足は止まらなかった。
忌むべき赫い空の下で、彼は選択を迫られる。
先生がいたならどうしただろうか?
彼は止める手段を脳内で模索していた。
正確には殺さずに、殺すのと同等の効果をもたらす手段を。
完全な排除は最も確実だ。
だが、それが今選べない。
彼には、先生のような思考はなかった。
何があっても救う、誰一人として切り捨てない。そういう発想自体を彼は持ち合わせていないのだ。
救いを知らない。
救うという行為も救われるという経験も、彼の行動選択の範疇には存在しない。
それは信念ではなく、欠落に近しいだろう
彼は愚かで哀れな存在だ。いついかなる時も。
だがそれは、彼自身が自覚している自己嫌悪には含まれない。
ただそういう存在なのだ。
故に彼は迷う。
殺せない。
そして救えない。
ならば残るのは壊さずに止めるという、最も不完全で不確定な選択の模索だけ。これが今とれる“最善”なのだろうか?
化け物であろうと、生徒であろうと。
両者に共通する弱点が一つだけ存在する。
彼が“輪っか”と認識するもの。つまりヘイローの破壊だ。
本来、触れることすら許されない領域。
だが彼は自身の帯びる性質ゆえにそれへ干渉できる。触れ、壊すことすら可能だ。
もっとも、それは単純な話ではないというのも事実だ。
触れた瞬間に砕けるわけではないのだから。
絶え間のない攻撃で動きを奪い、抵抗を削ぎ、非人道的とも言える手段で行動不能に追い込んだ末、時間と激しい苦痛と引き換えにようやく破壊に至る。
ヘイローを失った者は、必ず死ぬ。
それが彼がかつて“化け物”に打ち勝つために選び続けてきた方法だった。
過去に仇と呼ぶべき存在へ向けて振るわれた復讐の手段。
そこに慈悲はなく、道徳心も含まれてはいない。
こんな手段には相手を慮る意味など最初から存在しないのだ。
ただ痛めつけ、苦しませ、死を与える。
それだけの意味しか持たない行為である。
たとえ“最終的に殺さない”ための手段として用いたとしても、結果として相手を待つのは殺すことと何ら変わらない惨い結末だろう。
これでは駄目だ。
彼は理解している。
それが“止める”ではなく、“壊す”行為であることを。
だから彼は持てるものを全て絞り出すようにして、なおも手段を探し続ける。
その最中、ふと考えた。
もし相手が純粋な悪意に満ちた敵だったなら。
どれほど話が楽だっただろうか。
躊躇も、葛藤も、選択の重さも存在せず、ただ排除すれば良い。
だが、今回はそうではない。
誰への思いやりなのか。
それは優しさなのか、それとも単なる弱さなのか。
彼自身にも分からない。
ただ、その“誰か”のおかげで……あるいは、そのせいで。
彼は立ち止まり、迷い、苦悩し続ける。
救えない存在が、それでも殺さずに済む方法を探し続けるという最も不合理な選択を前にして。
走り続ける。
憎むべき気配を辿って救うべき対象を追い続けていた。
キヴォトスで目覚めて以降、彼から憎悪が完全に消え去ったわけではない。
ただ、その大半はもはや燃え盛る炎ではなく、消え残った火種に近かった。
代わりに強くなっているのはトラウマに根差した恐怖と不安だ。
思考を支配し、呼吸を乱し、判断を鈍らせる。
彼はもう殺意に呑まれて暴走することはないだろう。
だが、殺意そのものが消えたわけでもない。
残っている。
確かに、微かに。
要するに、頭の中は“ぐちゃぐちゃ”だった。
憎悪、恐怖、不安、理性、躊躇。
それぞれが絡み合い、引き裂き合い、しかし完全には混ざらない。
整理されないまま、矛盾した感情が同時に存在し続ける。
それが葛藤であり、彼の抱く深い苦悩だった。
彼は強い精神を持っている。
壊れない。逃げない。耐え続ける。
だからこそ。
彼はより長く、苦しみ続けなければならない。なぜならそれが生きるということだから。
音が徐々に近づいてくる。
視界の先。
ヴァルキューレと交戦する黒い瘴気を纏った“何か”が見えた。
周囲にはすでに倒れ伏した市民や生徒たちの姿が散見される。
負傷して動けない者、気を失ったまま横たわる者。ヴァルキューレの生徒たちも例外ではない。
彼は武器を握る。
だが理解していた。あの状態になった生徒は恐ろしく強い事を。そして異常なほどしぶという事も。この先はきっと痛みで満ちることになる。
ヴァルキューレが張る弾幕。その中に彼は身を投げ込む。
銃声と神秘の奔流を前提にただ突っ込んだ。
もはや考えはなく、策もない。自殺に等しい無謀な選択だ。
ただ、“化け物”へ向けて攻撃を続ける。
自分のやり方が通用していなくとも。どれだけ傷付こうとも。
自暴自棄に近かかろうとも。
依然として止める手段は思いつかず、戦略を練る余裕はとうに無かった。
焦燥感と義務感が身体を前へ押し出しているだけなのだ。
そして当然のように身が持たなくなる。
銃弾の雨。
暴発した神秘の衝撃。
肉体は引き裂かれ、砕かれ、細切れにされる。それでも。ほんのわずかに時間を稼ぐことはできた。
その間に、ヴァルキューレが動く。負傷し、取り残された市民や生徒たちが次々と安全圏へと運び出されていく。
当然、誰も彼を助けない。得体のしれない血濡れの肉塊など誰が触れたいと思うのか。
だが、それでよかった。そこは気にしなかった。そんな扱い今に知ったものではないのだから。
依然として焦燥は残っている。
このままでは止められないだろう。
“化け物”は進む速度を上げていた。
無差別に暴れるわけでも周囲を見境なく襲うわけでもない。どこかを目指している。一直線に、突き進んでいる。それが不気味で気がかりであった。
ヴァルキューレの前線を突破し、目の前に進路を遮る生徒がいなければそのまま先へ向かっていった。
そこで彼は気づく。
自分は思い込んでいた。
化け物と化した生徒は虐殺そのものを目的としているのだと。
違う。
あれは、ただ暴れているのではない。何かを目指している。そこには“目的”があると思わせられたのだ。
進路上、この通りの先。
思い当たる場所が一つ、すぐに思い浮かんだ。
先生があの後に移された病院だ。
まさか。
不味い。
不味い不味い不味い不味い。
彼の脳内で思考がぐちゃぐちゃに回り始める。
狙いは先生か。
そう理解した瞬間、彼は無理やり自身を奮い立たせた。出血など構っていられない。骨の再生が遅いなら、近くに落ちている鉄筋でも何でも突き刺して代わりにする。義足の関節の機能が壊れ始めていようとも足をただ前に。
とにかく、追う。
先生が殺されてしまう。
また殺される。
まただ。
その言葉だけが頭の中で何度も反響する。爆発事故に巻き込まれたが少なくとも市には至らなかった。そんな今を更に“最悪”にされてたまるか。
瓦礫を越え、バリケードを蹴散らし、横倒しになった戦車の影を抜ける。
視界に入るあらゆる障壁を無視して、ただ走る。
止める術? 具体的な策?
思いついているはずがないだろう、そんなもの。
それでも彼は追うしかないのだ。
距離は、縮まらない。
追いつけない。
それでもただ追い続ける。それしか能がなく、こうすることしかできないから。
もう視界のどこにも“化け物”の姿はなかった。見失ってしまい冷静さをも失う。彼は走り続け、ようやく病院へと辿り着く。
エントランスは破壊され、扉は無理矢理こじ開けられていた。瓦礫と割れたガラスを踏み越え、彼は気配だけを頼りに奥へ進む。
ここだ。
辿り着いた病室の扉は、半ば歪んだまま開いていた。
その内にいたのは、“化け物”。
寝かされたままの先生の病床、その目の前に怪物は跪いていた。彼は考えるよりも早く駆け出し、手を伸ばす。
そう、手を伸ばしたのだった。もはや殺してはいけないだの、どう止めるだの、そんな思考はとうになく、ただ咄嗟に彼はヘイロー破壊しようとした。なぜならその人物にこれ以上何かがあってはいけないから。すると
「ごめんなさい でも これで償えます」
怪物が、掠れた声でそう呟いたのだ。
次の瞬間。
黒く染まったヘイローは、彼の指が触れるよりも先にひび割れ、砕け散った。
音はなく、ただ瘴気が霧のように消え失せていく。
後に残ったのは、呼吸の止まった少女の身体だけ。
耐えることは辛い。なら、いっそのこと壊れてしまえばいい。きっと楽になる。