私は今日も主席行政官としての職務に追われている。書類は机に積み上がり、会議が一つ終わればまた次の仕事が現れる、その連鎖だ。
眠っていないわけではないののだが、前にも増して十分に休めていない。
精神に異常をきたす生徒の発生。
精神的負荷が原因かと思われているが断定はできず、再現性もない現状。
治療のために決定的な要素が見つからない。
「……状況は改善していないという理解でよろしいですね」
各学園の生徒会と行った合同会議。
その場で交わされた報告は、どこも似たり寄ったりだった。
珍しく、全学園が協力的な姿勢を取っていたのは誰の目にも非常に稀有な光景に映る。
責任の押し付け合いも形式的な牽制もそこでは起きなかった。
それが意味するところは一つ、どこも等しく余裕がないという事実であろう。
彼女たちの表情は疲弊し切ってていた。
判断力の低下、処理速度の遅れ、本来なら起きないはずの行き違い。
……先生という存在は、やはり大きかったのだろうか。
精神的支柱。
その言葉を私はこれまで過小評価していたのかもしれない。
“居るのが当たり前”だった存在が消えた途端、それまで問題なく回っていたはずの歯車が、少しずつ噛み合わなくなり始めている。
これは、どこかで経験した感覚だ。
連邦生徒会長が失踪した、あの時と似ている。
連邦生徒会長。先生。
次は誰でしょうか。
そんな、ろくでもない考えが一瞬だけ頭をよぎり、私は即座にそれを振り払った。
考えても意味がない。今は考えてはいけない事だ。
慣れていたはずのメディア対応も最近は妙に堪える。
質問の一つ一つが鋭くなり、その裏にある不安や猜疑心が直接こちらに向けられているように感じられる。いつもの事ではあるのだが。
「現在、連邦生徒会としても最善を尽くしております」
定型文。
何度も口にした言葉。
それでも声質が少しだけ乾いているのを、自分で自覚してしまう。
生徒たちのみに発生する精神異常。
その調査を担当させていた人物がいた。
ある報告を受け取った直後。
未知の膨大なエネルギーをアビドス周辺から観測したという旨の報告が入った後だ。
そのタイミングで行き先も告げず、彼は連邦生徒会の拠点を飛び出していった。
それ以来、一切の連絡もない。
帰還の報告も捜索結果も、何一つとして残さず意図も図りかねていた。
「……」
監視カメラのログを私は何度も確認させてみたが、ここ最近の記録に彼の姿は映っていない。
失踪。
そう表現する以外に、適切な言葉が見当たらなかった。
また一人居なくなった、ということだ。
先生ほどの大きな存在ではなかったにしろ、動ける人材が消えたことに変わりはない。同時に監視対象でもあったために手元から離れたのもリスクだ。
彼の身に何が起きたのか、考えるべきなのは分かっている。
しかし、今の私には考える余裕がない。
業務は減らず事態は好転しない。現状維持は停滞を招く。
失われていくものだけが確実に増えているのだ。
「……まだ、止まってはいけません」
誰に向けた言葉でもなく、私は小さくそう呟いた。
生徒会が機能している限り、私はここに立ち続けなければならない。責任は放棄できないものだ。
そう思った直後だった。
地下収容区担当の職員が顔色を悪くして駆け込んでくる。
報告は要領を得ない。それでも異常事態だということだけは嫌というほど伝わった。
あえて私の同行が求められるということは相当深刻な事態になっている段階なのだろう。溜息が無意識に漏れないようにし、私は地下へ向かう。
扉が開いた瞬間、奥の空間を視認したそばから空気が澱む。
収容されていた生徒たちが誰一人として身動き一つ取っていなかったのだ。
そして頭上にあるはずのものが、どこにもない。
ヘイローが消えている。眠っているわけでもなければ、既に呼吸はなく脈もない事がその場で確認された。
理由を考えようとして……それを中断した。
考えれば考えるほど、その答えはどこにも行き着かず中途半端な無数の憶測の合間を漂う。
職員たちに対応を任せ、部屋の奥へ進む。
そこで視界の端に“それ”が映った。
隅の机に置かれた、一枚のメモ用紙。
不自然なほど、視界に止まる。確認しろと言わんばかりの位置に目立つように配置されているのだから。
私はそれを手に取る。
一瞬躊躇したが、息をついてから目を通した。
……そして、理解してしまった。
意味を。状況を。
そして、この先に待つものを。
張り巡らされた思考が完全に止められた。
これは止めるべき問題なのか?
それとも“使う”べきなのか?
合理性。倫理。責任。
先生ならどうするか、という問い。
すべてが同時に押し寄せて、どれ一つとして選べない。故にただ悪寒を覚える。
失踪。死亡。
そして、“次”。
私はメモを握ったまま動けずにいるのだった。
————-
夢を見た。
音もなく砕け散って消えていく光。
赫く染まった空の下で歪んだヘイローがひび割れて、崩れていく瞬間。
眩しすぎて、何も見えなかったはずなのに。
見ていないと、思い込んでいたはずなのに。
「……っ」
頭を押さえて、私は目を覚ます。
うるさく心臓が脈動していた。鬱陶しいと思うぐらいには。
あの瞬間を私は見ていた。
分かっている。けれど、それを無意識に見なかったことにした。
私は何も見ていない。目が覚めたら、ホシノ先輩が“そうなっていた”。
だから夢の中でだけ、あの光景が現れる。
悪夢のような光景を見せられては、起きた直後に思い出せそうで思い出せなくなり、こびりつくような頭痛だけが私の意識に残される。その繰り返しだった。
……あれから、もう数日が経っていたみたい。
病室を見舞いに訪れるたびに鋭いガラス片のような厳しい現実が突きつけられる。
セリカは、まだ目を覚まさない。
意識はあると聞いているけれど、起き上がることもできず、ベッドに縛り付けられたまま。
アヤネはもっとひどい。
生命維持装置がなければ、生きていられない状態だと医師に淡々と告げられた。
ノノミは身体の傷より、心のほうが深かった。
誰もいないところで小さく何度も謝っている。
そして私は。
……。
皮肉なことに、私だけが動けた。傷はあるし、痛みも消えずに残っている。
それでも私だけが歩けて、銃を持ててしまう。
……ホシノ先輩は、もういない。
でもそれを悲しむ時間すら私たちには許されないみたいだ。
アビドスは残っている。
守らなければならない場所がまだここにある。
満身創痍のまま。
欠けたまま。誰一人として元には戻らなくなったとしても。
「……頑張らなきゃ」
声に出すと、少しだけ現実に戻れた気がする。最近は前がぼやけてよく見えないから。胸に穴がぽっかり空いてしまったような、そんな感覚が消えない。でもそれを抑え込んだ。この穴が広がらないように心を強く保っていればいい話なんだ。
だから私は決意を固める。
これからも戦う。これからも守る。ホシノ先輩がいなくなった、その後のアビドスを。私は挫けない。諦めない。止まらない。それを胸に拳を握る。
でも。
誰もいない暗い教室の片隅で。
カーテンの向こうに背を向けたまま。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
———————
アリウス分校は相変わらず荒れている。
机は歪み、壁には過去の憎悪が染み付いたような汚れが落ちない。空気は依然として重く澱んでいるのだが、以前とは決定的に違う点があった。
誰かが話に耳を傾けようとしてくれている。
誰かが少し興味を持ち、そこから意欲が芽生えて学ぼうとしている。
勉強の必要性、数式の意味、外の学園で生きるために最低限必要な知識。
私たちは教師ではない。
それでも、かつて先生がやっていたように、“選択肢”と“可能性”を示すことはできるのだ。
もちろん向けられる反感の視線はは消えない。
疑いの目も敵意も、今なお向けられた状態だ。だが武器を向けられる回数は確実に減っており、露骨な妨害も減った。
前に進んでいる。少なくともそう信じられるだけの手応えを感じていた。。
トリニティ編入試験のための勉強も、順調とは言えないが進んでいた。私たちもまだ未熟だが、共に取り組めば進歩も早い。
「……今日はここまでだ」
そう告げると、生徒たちは散っていく。視線の端で、ノートを抱えたまま立ち尽くす背中がいくつか見えた。彼女たちは集まって今日学んだことの復讐を行っているらしい。
悪くない。そう思って端末を取り出す。
先生への報告。
進捗、問題点、相変わらずの反発。特別なことは書かない。ただの最近の進歩だ。
送信。
……まだ返事は来ない。
最初のうちは忙しいのだろう、通信状況が悪いのだろうと気にしなかったのだが、あれから同じように報告をするも既読はつかない。何日経とうとも。
違和感が生じるには十分であった。
「リーダー、見て」
その後、ミサキによって追い打ちをかけるように別の事実が判明した。アリウス自治区の外に出られない。出入り口が強行的な手段で封鎖されている。
とにかく何者も入れず出ないように細工されていたのだ。
「……隔離、か」
誰が。何のために。一瞬トリニティ内の一部に派閥による行為かとも勘繰った。
当然だが、こんなことは偶然起きるはずがない。
意図的な遮断と見ていいだろう。
何か確実に起きているのだろうが、先生は来なければ連絡もない現状。
とにかく外に出られない。
アリウススクワッドを集めた。行動を取る必要がある。
「先生と連絡が取れない」
「それだけじゃない。自治区の外に出られなくなっている」
「……嫌な予感がするな」
その言葉に誰も否定しなかった。同じように違和感を覚えていたのだろう。
私ははっきりと言う。
「これは異常事態だ」
「このまま待つ理由はないと思わないか。対処するなら早いほうが良いだろう。」
この状況下でアリウスを離れることの意味は全員が心得ている。
あらぬ疑念を抱かせ、混乱、反発を深めてしまう可能性を孕んでいる。それでも。
「先生に会いに行く」
「直接、だ」
少しの沈黙の後に頷きが返ってくる。考えは同じだった。
あの人が、理由もなく連絡を断つなんてするはずがない。少なくとも前は日の終わりには必ずメッセージに返信をしてくれていたから。
私たちは決めた。一時的にアリウスを離れる。
閉ざされた境界を越え、事態を探らなければ。
まだ何も知らない。深刻な問題が起きている可能性は大いにあるのだろう。何かが確実に起こっている、それは間違いないと見ていい。
再び決意を胸に抱く。いつだって前に進む意思を抱き続ければ、必ず進展はあるはずだから。
——————
見慣れた施設の廊下を歩いている。白く無機質な内装で、同時に病的なほど静かだ。
キヴォトスではなく生徒も、銃声も、神秘も存在しない都市。
キヴォトスに来る前。私が先生になる前の“僕がいた”場所だった。
足音だけが虚しく響く。誰一人として見当たらない。
この通路の先に何があるのか、身体が覚えている。
慣れた手つきで、寂れた一室の扉を開ける。
個人用の部屋。
最低限の家具、色のない壁、息苦しいほど狭い空間。ここは、逃げ場であり、檻でもあった自室。
壁に立てかけられた鏡。
そこに若い少年が映る。
痩せて目に光がなく、感情が希薄な顔。
ただ孤独だった。
人間関係と呼べるものは、たった一人。
僕の先生であった“彼女”だけ。
夢も将来もなく、何かになりたいという衝動すらとうに摩耗していた。
青春亡き灰の記憶。そんな虚しい“無”の毎日。私が、僕だったころ。
僕は目を閉じ、短く息を吐く。
感情の入り混じらない空虚な溜息だった。
そして再び目を開ける。
シャーレのオフィス。
見慣れた机、書類、端末。いつも作業しているデスクに私は突っ伏していた。
また誰もいない。
静寂は同じなのに、空気はまるで違う。
透き通った青の記憶。先生としての日々。悩み、走り、足掻き、生徒のために手を伸ばし続けた短くも長く感じられる時間を思い浮かべて立ち上がる。
すると目の前には少年が同じ姿勢で立っていた。
私は問いかける。
“私は、僕が欲しかったものを手に入れられたのかな“
“僕が、なりたかったものになれたのかな”
少年はしばらく何も言わない。
やがて、曇った目のまま、口を開いた。
『違う』
その声に感情は含まれない。
ただ知ることのないはずの事実を告げた。
『まだ足りない』
—————
『ーー次のニュースです』
『キヴォトス各地で生徒の行方不明が相次いでいます』
『確認されているだけでも、ここ数日で失踪した生徒の数は増加傾向にあり、所属学園・学年・交友関係に明確な共通点は見られていません』
『また、失踪前の行動についても調査が進められていますが、特定の場所や活動に集中していた形跡はなく、関連性は現在のところ不明とされています』
『連邦生徒会は本件を異例の事態として受け止め、各学園生徒会および治安組織と連携し、情報収集と警戒態勢を強化すると発表しました』
『原因は依然として分かっておらず、専門家の間では“極めて奇妙な事件”として注視されています』
『各学園の生徒の方々には、不要不急の単独行動を控え、不審な点があった場合は速やかに所属学園へ報告するよう呼びかけられています』
『続いて、天候の情報ですーー』
逃げられない