From outside Kivotos   作:ケトゥ毛

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弱き者


40話『無能』

 

 耳元で無線から音声が鳴る。

 砂を踏みしめながら、あたしは瓦礫だらけの通路を進んでいた。

 

「……で、反応はどうなんだよ。お前の言う“強いエネルギー”ってやつ」

 

『前方二百。局所的に数値が跳ねてるわ。原因は不明』

 

 不明、ね。

 あいつの言う“不明”。間違いなくろくでもないもんなんだろう。

 

「つまり、当たりってことか」

 

『そう受け取ってくれて構わないわ』

 

 軽く息を吐き、角を一つ曲がる。そこであたしは足を止めた。

 瓦礫の影、崩れた壁の内側にうずくまる生徒の姿が見えたからだ。

 

 特にデカい外傷は見えない。

 だが武器も何も持ってないのは妙だ。

 

 場の空気から不穏な感覚が読み取れた。肌にまとわりつく、嫌な感じ。

 数値云々より先に直感が警鐘を鳴らしてるらしい。

 

「……おい」

 

 声をかける。

 だが返事はない。

 

 ソイツは誰かに話しかけるみたいに、ぽつりぽつりと呟いたままだ。

 そこに誰もいないはずなのに。

 

「オイ……聞こえてるか?」

 

 一歩、距離を詰める。

 同時に無線が割り込んだ。

 

『ネル、近づきすぎないで』

 

「分かってる」

 

 いわれる間もなく足を止める。やっぱりなんか気味が悪ぃ。

 踏んだ砂利が立てた音に反応したのか、ソイツの肩がびくりと震えたのが分かった。

 

「……いるんだ」

 

 小さな声。

 独り言にしては誰かに何かを伝えようとしているかのうような仕草も見て取れる。

 

「……ちゃんと、そこに」

 

 背中に、嫌な汗が浮かび始めた。どうみてもまともじゃないよな。

 

『ネル』

 

 リオの声はいつも通り落ち着いている。

 本当に自分のペースを崩さないままなのだが、それが今回だけは妙に温度差を感じて自分の中で何かがかみ合わない。

 

『その生徒を連れて、指定した地点まで移動して。致命傷を負っていないのなら好都合だわ。』

 

「……は?」

 

 思わず眉をひそめる。あえてこういう言い方をしたってことは一概に救助だけが目的でもねえらしい。

 

「理由は?」

 

『今は説明できないわ』

 

 即答。

 あいつが余計なことを言わない状態だ。悠長に説明している暇はねえってことか。

 

「安全とは言い切れねぇぞ、これ」

 

『分かっているわ』

 

 一拍置いて、続く。

 

『だから、貴女に頼んでいるの』

 

 あたしは舌打ちを噛み殺した。元々急に居場所をくらましたと思えば今になって、また急なタイミングで呼び出してきやがったんだ。とにかく余裕がねえらしい。

 

「……チッ。貸し一つだ」

 

 ゆっくり、その生徒に近づく。

 触れた瞬間、体温が微かに高いのが分かった。

 

 熱、というより……

 内側から何かが噴出してこようとしているような落ち着かない感じ。

 

「なぁ」

 

 できるだけ、小さく早く。

 

「ここは落ち着かねぇ。場所、変えるぞ」

 

 ソイツは一瞬だけ顔を上げた。目の焦点が合っていない。この様子の割にあたしを拒もうとしたり暴れたりはしなかったが。

 

 あたしは腕を取り、ソイツを立たせた。身体が不規則に痙攣しているのが分かる。

 

『ありがとう、ネル』

 

 無線越しの声は相変わらず淡々としていた。。

 

「……なぁ、リオ」

 

『何かしら』

 

「これ、ただの迷子って雰囲気じゃねぇよな……」

 

『……ええ』

 

 少しだけ会話に間が空く。何か言おうとしたのか、だが結局やめたように曖昧な言葉を紡ぐ。

 

『でも、今はそれ以上の情報がないわ』

 

 本音なのだろう。本当にカツカツな状況でやってるって事だ。

 

 あたしは前を向いたまま歩き出す。

 うずくまっていた生徒を支えながら、指定された地点へ。

 

「……嫌な予感しかしねぇな」

 

 無線は返事をしなかった。

 

 

 連れてこられた場所は少し開けた空間だった。

 崩れた建造物が円を描くように配置され、自然と視界が中央に集まる。

 

 包囲したりするのにはうってつけ、蟻地獄のようにもなっているからここから外へは逃げづらそうだ。

 

 あたしは一瞬でそう判断する。

 

「……ここに?」

 

『ええ。その生徒を、中央に』

 

 無線越しのリオの声は依然として淡々としている。

 理由は言わない。聞いても無駄な事はもう分かってるが。

 

「……チッ」

 

 腕を離すと、生徒はふらつきながらも中央へ歩きそのまま、力が抜けたように座り込んだ。

 

 特に暴れる様子はない。

 呻き声も、さっきの独り言も止まっている。

 

 静かだ。自分の呼吸以外の音が鼓膜に入ってこねえ。

 

『ネル』

 

「分かってる」

 

 あたしは距離を取り、銃を構える。

 遮蔽物の位置、射線、退路。頭の中で即座に組み立てる。

 

『戦闘態勢を維持したまま、しばらく待機して』

 

「……あいつの身に何か起きるんじゃねぇのか?」

 

『現時点では、変化は確認されていないわ』

 

 視線を中央に戻す。

 例の生徒はただ座り込んで、虚空を見つめているだけだ。

 

「(……拍子抜けだな)」

 

 正直、身構えすぎたかと思い始めた、その刹那。

 

 ……影。

 

 上から。

 

 風を裂くような音と共に重い“何か”が、真上から叩きつけられるように降ってくる。

 

 ドンッ、という鈍い衝撃。

 

 地面が震え、粉塵が舞った。

 

「……ッ!」

 

 反射的に照準を向ける。

 

 そこにいたのは……

 黒い、何か。

 

 全身が黒ずんでいる。

 だが単に黒いってわけじゃねえ。

 

 腕、腹、腿。

 至るところが紅と茶色に滲んだ包帯でぐちゃぐちゃに巻かれている。黒ってより黒ずんでいる。

 まるで、“溢れそうなもの”を無理やり押さえつけてるみてえだ、なんだアレは。

 

 それがゆっくりと動いた。ぎこちなく首を持ち上げる。

 

 顔を覆うのは、黒いバンダナか?

 赤いレンズのついた奇妙なゴーグルをしてやがる。

 

 ……だが。

 

 割れていたり、破けていたりとどう見てもまともな状態の装備ではない。あんなんでちゃんと機能してんのかよ?

 

 布の隙間から剥き出しの歯が覗き、片側の眼孔は完全に空洞だった。

 

 そこに“目”がねえ。

 それでも、見られている感覚だけがはっきりと感じる。

 

「……なんだよ、アレ」

 

 喉が無意識に鳴り、固唾を飲み込んだ。

 

 人型ではあるが、あたしの知ってる“人間”とは決定的に違う。マジでなんなんだあの気色悪い物体は。

 

『……ネル』

 

 無線越しのリオの声がほんの僅かに低くなる。

 

『視線を切らないで』

 

「言われなくてもな」

 

 中央の生徒はまだ動かない。

 黒い何かは生徒を凝視している。

 

 空間がピリつくのを肌が感じ取った。

 

「(……これ)」

 

 歯を食いしばる。

 

「(リオにとってはやっぱりあの生徒をただ回収とか、そういう目的じゃねぇのは確かだよな)」

 

 “あれ”を誘き寄せるためにここまで連れてこさせたってことらしいな。

 そこまでしなきゃアレの動向がつかめなかったってことでもある。やっぱりろくでもねえ相手だった。

 

『ネル』

 

『あの黒い存在を不意打ちして。その隙に、生徒を回収して頂戴』

 

 一瞬、言葉を噛み締める。

 

「……了解だ」

 

 考える時間はない。強く足を踏み出した。

 正確に身体を狙って引き金を引く。連射音が空気を切り裂き、黒いそれの胴体を撃ち抜いた。

 

 命中だ。だが手応えに妙な違和感を覚える。

 

 確かに弾丸が当たった感触はある。

 なのに何かを撃った感覚がどこか欠けているというか、まるでゴミ袋でも撃ったような腑抜けた後味だ。……言い表しづれぇ。

 

 そして舞い上がったのは血。たったこれだけの攻撃でこの量の出血?

 

 黒く濁ったまだらな色の液体。

 赤とも茶ともつかない、不自然な色合い。本当に血か?

 

「(……なんだ、この血)」

 

 まるで、ちゃんと“生成されきっていない”中途半端な失敗作のような血。

 

 黒い何かは確かに怯んだ。その隙を逃さず、あたしはその生徒の元に飛び込む。もう用済みだ、さっさと離脱させたい。

 

「来い!」

 

 腕を掴み、抱え上げた。

 かなり軽い。

 

 そのまま後方へ飛び退く。着地と同時に距離を取った。

 

 次の瞬間。

 

 黒いそれは撃ち抜かれた箇所に手を突っ込み、その銃創から自ら弾丸を抉り出した。

 

「……!?」

 

 ぐちり、と嫌な音。血がまた落ちる。

 

 そしてゆっくりとこちらへ視線を向けた。何から何まで気味悪ぃ、今まで戦ってきた中でこんな奴他に類を見ねえぞ。

 

 赤いレンズ越し。いや割れた隙間から覗く、空洞の眼孔。

 ソイツは背中に手を伸ばし、何かを無造作に引き抜いた。

 

 金属が擦れ合う重い音が響き渡る。ずしり、と地面に触れる重量を感じさせられた。

 

 ソイツは未だに一言も言葉を発さない。意思があるのかも分かったもんじゃねえな。人間に近い化け物ってとこか?

 

 とにかくあたしを初めて認識したらしい。銃弾ぶっ放してやって、それから目の前に出てからようやく認識する程度か。

 

「(……クソ)」

 

 撃たれても喋らない。

 血を流しても痛みを示さない。

 

 何から何まで異様だ。あたしは生徒を庇うように立ち、銃口を再び向ける。相手はかなり脆い。攻撃を加え続ければ倒せるか?

 

 同時に相手の手に持たれたものを改めて見た。

 

 背中から引き抜かれた鈍器。

 板のように見えたそれはどこか鉈に近い形状だ。あれが得物か?

 あんなただの鉄板に持ち手がついただけの廃材をなんで背負ってやがったんだ?

 

「(……いや、まさか近接武器か?)」

 

 ともかくそれが何であろうと考えるより先に引き金を引く、短く的確に。弾道は揃っている。至って冷静だ、外しはしねえ。

 

 だが鈍い金属音が連続し、弾丸はすべて鉈の腹で弾かれた。なるほどな、そういう使い方をするのか。

 

「チッ……!」

 

 しかも弾いただけじゃない。弾きながら距離を詰めてくる。かなり洗練された動きだ。無駄がねえ。完全な近接を敢えて選んでるようにすら思える。

 

 あたしは即座に追撃に移ろうとするが黒いそれは、身を屈めた。

 

 そして視界から消え、弾道から逃れやがった。

 

「(……伏せた?)」

 

 次の瞬間。下だ。

 

 ソイツは地面を掴む動作をしている。砂利を掬い上げているのか?

 そしてすぐさま投擲。あたしの顔面に向かって。

 

 動作の一つ一つが素早いのだが、その程度で反応できないあたしじゃない。頭をわずかに逸らす。視界の端を砂利が掠める。そこにできた一瞬の隙。

 

「(……来やがるッ!)」

 

 姿勢を低く保ったままの黒いそれがほんの少しできた隙を狙って滑り込んできた。そして即座に足払いを受ける。

 

「ッ……!」

 

 クソッ重心を刈られた。

 体勢が崩れちまう。

 

 だがこのまま倒れるほどあたしも鈍くはねえ。後方へ体を流し、反射的にバク転。

 

 空中で体勢を整え、着地。体勢は立て直した。

 そして再び向かい合う。

 

 距離はまだ近いな。息がほんの少しだけ乱れる。

 

「(……やべぇな)」

 

 超兵器のような派手さはない戦いだ。だがこの短い間で分かったことがある。

 一体なんなのか未だによくわかってねえアイツ、多分かなりの手練れだ。ただ、殺し合いのような生存を賭けた戦いのためだけに最適化された動きが節々に見えている。少なくともキヴォトス(ここ)では見ない戦い方だ。

 

 弾を弾く判断。伏せる判断。目潰しを狙う判断。重心を刈る判断。

 

 全部が“慣れてる”。

 

「(コイツ……桁違いな手数を踏んでやがるな)」

 

 背後の生徒の存在を意識する。守る対象がある。こっちはハンデ付きじゃねえか、緊張が一段階上がった。

 

 鉈がわずかに持ち上がる。あたしは銃口を下げ、腰を落とす。

 

「(接近戦なら……上等だ)」

 

 その道のプロ同士ってとこか。互いに無駄な動きは極力削ぎ落す。

 しくじった方が致命傷をもらうんだ。

 

 場の空気がより一層張り詰め出す。

 互いに睨み合いをしていたところ、無線から呼びかけられた。

 

『ネル。右上、二時方向。ドローンを展開するわ』

 

 返事をする暇はない。あたしの意識が逸れたと見たのか、黒いそれが間髪入れず踏み込んできた。

 

 鉈が横薙ぎに振るわれる。

 あたしは反射的に銃を引き、至近距離で連射。

 

 再びあのイラつく金属音だ。弾丸はすべて鉈で弾かれる。

 

「(クソッ……!)」

 

 だが、それを想定していなかったわけじゃない。

 

「(いつだってプランBは用意してあんだよ!)」

 

 弾かれる瞬間を狙って踏み込んでやった。

 

 そして蹴りを入れてやる。

 相手の腹部を狙った低めの一撃。脇腹への蹴りかなり効くもんだ。

 だが黒いそれは動じないどころか、後退せず蹴り返してきた。

 

 咄嗟に防いだが重ぇな。衝撃が脚を通して響く。

 直後、ハイキックが飛んできやがった。

 

 速度が異常だ。あたしじゃなければ反応すらできねえまま側頭部を蹴り飛ばされるだろう。

 身を沈め、回避。

 そのまま体を回して距離を取る。

 

『後方、投擲物』

 

 リオの声だ。短い単語の意味はすぐに脳内ですぐに解釈され、即座に次の行動へと繋がる

 

 次の瞬間、何かが飛んできた。

 

 金属片だ。破片か瓦礫か、砂利よりもサイズがでけえ。

 横に大きめに跳んで回避し、着地と同時に発砲を加える。

 

 また弾かれた。だが今度は違う。

 

 弾かれた弾丸の一部が鉈の縁を掠って、黒いそれの肩口を掠めた。弾き切れなかったらしい。

 

 血が飛ぶ。濁った、黒ずんだ血。

 

「(……やっぱ普通じゃねぇ)」

 

 ようやく被弾を許させたはずだったがソイツは一瞬も怯まない。むしろ、間合いを詰めてきやがった。

 

 放たれる蹴り。肘打ち。

 そこから連鎖するようにタックルが飛んでくる。

 

 確かに洗練された格闘術だが、どこか荒さを感じるな。

 

 型に嵌ってない。

 決まった動きってよりかは毎秒毎秒でアドリブで動いてやがるな。

 

「(クソッ予測しづれえ)」

 

 武器の都合上、相手にリロードの隙がなく弾切れの概念がない。それは一方的に攻め続けられるってことだ。あたしが一瞬でも撃ち止まれば、その瞬間を確実に詰めてくる。

 

『ネル、左側に誘導するわ。地形データ更新』

 

 視界の端にドローンが滑り込む。

 レーザーが地面に短く走り、回避ルートを示された。

 

「了解」

 

 撃つ。弾かせる。

 踏み込ませる。

 

 黒いそれが距離を詰めた瞬間、横へ。

 

 相手もコッチの立ち回りの変化に即応してきた。

 離れれば追ってくる。キリがねえな。

 

 鉈が振り下ろされる。

 

 それを受けない。避けてはすれ違いざまに銃床で殴る。

 鈍いとうでどこか(やわ)い手応えが腕に走った。

 

 まだ相手は倒れてくれねえ。

 

「……タフすぎだろ」

 

 あの脆い耐久性でここまで戦えるか。

 息がわずかに荒くなる。

 

 あたしはまだ動けるが確実に体力が削られてる。妙だ。普通ならたったこんだけの時間動いただけじゃ疲れもしねえはずなのに。

 

 相手は……

 

 無言のまま立っている。

 血を流しながら、それでも一切ペースを落とさず。

 

「(……こいつ)」

 

 ただの強いってだけじゃない。

 洗練に洗練を重ね、削り研ぎ続けた刃物みてえな野郎だ。だがどこかぶっ壊れてやがる。何から何までまともじゃねえんだ。

 

 再び腕に力を込めて銃口を上げる。

 呼応するように鉈が構えられた。

 

 次の一手でどちらかが大きく持っていかれる。予感だ。確証なんてねえけど戦闘中はこうした勘に救われることも多々ある。

 

 

 同時にあたしは別のことを直感した。

 

 不意にエリドゥで相対した“アビ・エシュフ”を装着したトキを思い出す。だが今回の敵は圧倒的な出力と装甲で正面から叩き潰しに来る理不尽さとは決定的に性質が違ってるんだ。

 

「(……コイツは硬いわけじゃねぇ)」

 

 むしろ逆だ。

 

 この黒いそれの肉体は、脆い。

 段ボール以下と言っていい。

 

 撃てば貫ける。

 殴れば壊れる。

 関節も筋もちゃんと壊せるんだろうな。

 

 実際、攻撃事態は加えられているんだ。骨が軋む音が度々聞こえるし、肉が裂けるような手応えも確かに感じてはいる。

 

 だが止まらねえ。

 

 腕を砕いても、脚を撃ち抜いても、胴体を抉っても相手の動きは鈍らることを知らず動き続けてきやがる。

 

 むしろ“壊れているはずの身体”を無視するように平然と次の動きに繋げてくる。

 

「……死体かよ」

 

 そんな言葉が頭をよぎる。

 

 動き続ける死体。痛覚も、限界も、とっくに置き去りにしたみてえだ。

 鉈が振るわれる。弾く。かわす。撃つ。

 

 また、血が飛ぶ。

 黒く濁った、さっきよりも一層にまともに生成しきれていないみたいな血。

 

 それでも黒いそれは一切怯まない。

 

「ハッ」

 

 思わず、口角が上がった。

 

「おもしれぇ」

 

 こういう相手は嫌いじゃない。理屈が通じない。常識が効かない。だからこそ、全力で潰しにいける。あたしの中で闘志が確かに燃え上がってきていた。

 

 引き金を引く指に生じる迷いはなく、脚を踏み込み距離を詰めては真正面から叩きにいく。

 

 だがその熱の奥でほんのわずか、爪を立てるように消えない感覚があった。

 

 ……おかしい。倒し方が見えない。

 “どこを壊せば終わるか”が、まるで分からない。

 

 今までの戦いでは必ずあったはずの“終点”がこの相手には、感じられない。あたしは戦える。まだ、余裕は残っている。

 

 でも、このまま殴り続けて終わりはあるのか?

 本当に終わるのか?

 

 黒いそれは間を与えてはくれなかった。

 

 蹴り。鉈。

 蹴り、その連撃。

 

 しかも今度は直線的じゃねえ動きばかりだ。

 上下、左右、角度を変えながら隙を削るように叩き込んでくる。段々とフェイントじみてきやがった。

 

 あたしは一歩も引かない。受け、いなし、弾く。

 鉈の軌道を見切り、蹴りの軸を潰す。

 

 金属音と風切り音が至近距離で交錯した刹那。

 凌ぎ切った。

 

 そう判断した次の瞬間、黒いそれの動きが一瞬だけ乱れた。

 

「……?」

 

 痺れを切らした、そんな言葉が浮かぶような動作。

 

 それは自分の手の平に鉈でも刃物でもなく爪を立てるように深く引っ掻き、抉ったんだ。黒い血が噴き出す。

 

「……っ!」

 

 考える暇はない。すぐさまソイツは躊躇なくその血を飛ばしてきた。散弾のような軌道を描く。あたしは咄嗟に腕を交差させ、防いだことで皮膚に血が付着した。

 

 ……防いだ。そのはずだ。

 

 だが。

 

「ッ!?」

 

 異常な感覚が神経に走る。

 

 焼けているわけじゃなければ腐食しているわけでもなく、見ればただ血が付いているだけ。

 

 そのはずだが異様に冷たさを感じる。

 そしてジクジクと、内側から侵食するように腕の表面が痛んできやがった。

 

 刺すような痛みじゃない。鈍く、深く、神経の奥を撫で回されるような不快感。同時にその部分から力が、ゆっくりと抜けていくのも理解する。

 

「(……毒か?)」

 

 そう考えた瞬間黒いそれはもう動いていた。後ろへ跳び、体をひねり、回転を乗せた蹴り……旋風蹴りに近い動作であることがかろうじて分かる速度で。

 

「クッ!」

 

 反射で腕を上げる。防いだ。防いぎ切った。

 ……はずだった。

 

 衝撃が直撃する。骨を通して、全身に衝撃が抜ける。あたしの体はそのまま後方へ吹き飛ばされ、背中から着地し、転がりながら距離が開いていった。

 

 呼吸が大いに乱れる。

 

「……チッ」

 

 ただの殴打じゃねえな。この相手は徐々に追い詰めるようないやらしい“削り方”をちゃんと選んでやがる。更にまだ出していない手段を隠しているようにも思える。

 

 自分の血すら躊躇なく“武器”にする野郎だ。立ち上がりながら血が付着した腕に一瞬だけ視線を落とせば黒い血は、まだ張り付いたままでいる。

 

「(ズルかよ。)」

 

 内心で吐き捨てながら、あたしは歯を食いしばって立ち上がる。

 

 ……が。腕が重い。いや、重いなんて生易しいもんじゃない。

 血を浴びた辺りからまるで体の内側に“根”が伸びていくみたいな感覚がこびりつくように広がり始めている。

 

 皮膚の下。筋肉の奥。

 そして骨に絡みつくように、じわじわと。

 

 力を入れようとすると、どこかで噛み合わず動作が遅れる。

 本来なら即座に感じる触覚がほんの僅か遅れて伝わってきているらしい。

 

「(……マズイ)」

 

 まだだ致命的じゃないがが確実に“鈍って”やがるな。

 

 このまま削られ続ければ、あたしの方が先にダウンしちまう。

 

 そう久々に焦燥感を覚え始めた直後だった。

 

 黒いそれが突然、後方へ飛び退いた。

 

「……なンだぁ?」

 

 反射で銃口を向けかけた、その瞬間。

 さっきまでソイツが立っていた位置に激しい銃撃が叩き込まれる。

 

 豪快な連続音だ。

 空気を裂く弾丸の奔流が絶えず加え続けられる。

 

 地面が抉れ、破片が鍋の上の油のとうに細かく跳ねた。

 

 ……リオのドローンで出せる威力じゃない。

 角度もドローンがあった場所とは大きく違う。

 

 その直後に背後から声が聞こえた。

 無線からではない。生身の距離感。あたしが、確かに“知っている”声。

 

 少し意表を突かれた気分にさせられた。

 

「(……な、なんであいつここに!?)」

 

 そう思った瞬間、黒いそれがゆっくりとこちらへ顔を向ける。

 空洞の眼孔が今度はあたしじゃない“何か”を捉えていた。場の空気ががらりと変わり始める。

 

 パワードスーツ、“アビ・エシュフ” を装着したトキが戦場に降り立った。

 

 装甲の継ぎ目が低く唸り、起動音が重なる。

 その隣、空中に小型ドローンが展開され淡い光のホログラムが立ち上がった。

 

 明星ヒマリだ。

 

「ふふっ……驚きましたか?」

 

 軽く息を整えるような間を挟み、彼女は続ける。

 

「本来、アビ・エシュフはエリドゥの環境と専用演算基盤を前提にした兵装です。ですが今回は……少々、無理をしました」

 

 ホログラムの背後で、幾何学的な数式と不完全な回路図が流れ出した。

 

「空間位相のズレを仮想的に固定し、外部演算を分散同期。簡単に言えば“エリドゥがある前提”を、その場しのぎで捏造した、というところでしょうか」

 

 どこか楽しげに、ヒマリは肩をすくめる。

 

「稼働時間も安定性も最悪。長くは持ちませんが……“今この瞬間”を凌ぎきるには十分です」

 

 そして通信回線を一段深く潜らせるように声色がわずかに転調した。

 

「それにしても……」

 

 ヒマリは、はっきりと名を呼ばない。

 

「“どなたか”がかつて“対・名もなき神々の王女”を想定して設計した兵器が、こんな場所で役に立つとは」

 

 ふふっ、と彼女は小さく笑う。

 

「皮肉ですね。意図はどうあれ、“作られた力”は、結局こうして誰かを守るために使われているのですから」

 

「……ではトキ。完璧な補佐、期待していますよ」

 

 ホログラムが揺らぎ、戦闘用の情報表示へと切り替わる。

 

 トキは一瞬だけ頷き、低く答えた。

 

「了解しました。任務を開始します」

 

 

 

 

 

 

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 満身創痍。

 黒いそれは全身からオイルのように濁った血を滴らせながら、なおも倒れない。

 

 アビ・エシュフ相手では明確に分が悪いのだろうか。

 ネルとトキ、二人がかりの猛攻に押し潰されるようにその動きは明らかに鈍っていった。

 同時にそれでも立っていた。いかなう猛攻を前にしても倒れない。

 

 戦闘がふっと途切れる。ヒマリのホログラムがわずかに手を上げた。

 

「……ここまでです。これ以上の攻撃は不要ですよ」

 

 警戒は解かれない。

 ネルもトキも武器を構えたまま距離だけは保つ。

 

 ヒマリは、黒いそれを真正面から見据えた。

 

 ホログラム越しでもその姿は悍ましく映ったであろう。

 裂けた装甲、抉れた肉体、無数の損傷。

 それでも形を保ち続ける“何か”。

 

 ヒマリはその姿にかつての存在の面影を重ねていた。

 白く、小さく、何も知らなかった幼子の姿を。

 

「……あの幼子が、このような姿になってしまうとは」

 

 一瞬、彼女の声が揺れた。

 

「このキヴォトスのあらゆる情報を観測できるこの天才美少女ハッカーである私でも……想像していませんでしたね……」

 

 沈黙。

 だが次の瞬間、その声音から感傷が削ぎ落とされる。

 

「ですが」

 

 ヒマリは静かに、だが逃げ場を塞ぐように言葉を重ねる。

 

「それで? あなたがやっていることに、何の意味があるのですか?」

 

 黒いそれは答えない。反応は示さない。感情と意思が存在していないかのように。

 

「生徒を殺すことに理由はありますか? それとも……理由などなく殺しているのですか?」

 

 一歩も近づかず言葉だけで踏み込む。

 

「何人、殺しましたか? ……数えていますか? そもそも覚えているのですか? それとも“生徒”という括りでもう数えるのをやめましたか? 羽虫のように軽い命に過ぎないのですか?」

 

 ヒマリはわざと淡々と問い続ける。

 

「そんなに生徒という存在が憎いのですか?」

 

 間。

 

「それとも……」

 

 少しだけ声を落とす。

 

「殺すのが楽しいのでしょうか?」

 

 その言葉は刃だった。肉体ではなく意識を抉るための刃。

 

「ねえ、答えてくれなければ何も変わりませんよ。そもそもあなたは今“自分が何をしているのか”を理解しているのですか?」

 

 ヒマリの瞳は哀れみを宿しながらも、決して逸らされない。

 

「もし理解しているのなら……なおさら、聞かなければなりません」

 

「それともあなたはその行為が正しいとでも思っているのですか?」

 

 空気が冷たく張り詰める。黒いそれの鉈を握る手が僅かに震える。

 

 しかし黒いそれは応じなかった。鉈を握り直し、再び戦闘へ移ろうとする。あえて聞く気がない。そう言わんばかりの動きだった。

 

 ヒマリは、そこで言葉を止めない。

 

「逃げるのですね。……ええ、理解できますよ」

 

 ホログラムの少女はわずかに首を傾ける。

 

「あなたが行ったことは残酷で、最も忌むべき行為です。罪なき人々を殺し、日常を踏み潰し、取り返しのつかない傷を残した」

 

 一つひとつ、丁寧に。

 しかし刃物のように研がれた言葉で。

 

「弁解の余地はありません。理由があろうとなかろうと、あなたは取り除かれるべき最悪の存在です」

 

 断じる。

 

「同情も、理解も、必要ないでしょう。それらは“人であること”を前提に与えられるものですから」

 

 それでも、ヒマリは続けた。罵倒は感情的ではない。

 あくまで冷静に論理的に、逃げ道を塞ぐように重ねられる。

 

「あなたは多くを奪いました。命を、未来を、選択肢を」

 

「それでもなお、戦いをやめない。つまり」

 

 一拍。

 

「あなたはずっと憎くて、殺したくて、たまらなかったのですね」

 

 最後の言葉が残酷に落とされる。

 断定であった。問いではなく結論。

 

 ヒマリの視線は、黒いそれを逃がさない。

 

 そこに込められた意図は明確だった。

 “否定する余地すら与えない”ための追い詰めるような言葉の数々。

 

 黒いそれは鉈を構えたまま、微かに動きを止めた。

 

 直後、鉈を握っていた手が震え出したのだ。

 小刻みではない。抑えようとしても抑えきれない、激しい震えだ。

 

 やがて、金属が地面に落ちる音がした。

 

 鈍い、鈍い金属の音。無機質なはずのそれに何かの感情が滲む。

 

「……違う……ッ」

 

 黒いそれから音が発せられた。人の声とは言い難い。

 声と呼ぶにはあまりにも歪んだ、喉の奥が引き裂かれたような音。

 

「違う、違う……!!」

 

 それは悲鳴の形式を取った否定の絶叫でもあったのだろう。

 

「殺したくてやったんじゃない……ッ」

 

 震えた声。

 しゃがれて、掠れて、ひどく恐ろしい。生きているはずなのにどこか殺されたような声。

 ヒマリは即座に返す。

 

「そうですか?」

 

 淡々と感情を挟まず。

 

「では、殺したくなかったと?」

 

 わずかな間。

 黒いそれは項垂れたまま、喉を鳴らした。

 

「……当たり前だ」

 

 声を絞り出す。

 肺の奥に残った空気を、無理やり言葉に変えるように。

 

「……誰が訳もなく殺したいと思うッ」

 

 聞くに耐えない声だった。

 壊れかけた器具を無理に動かしたような耳障りな音。

 

 それでも言葉ははっきりと否定を意味する。戦場が悲痛な絶叫で満たされては沈黙が挟まれる。不規則に、不安定に。

 

 ネルは無意識に息を止めていた。

 トキもまた銃口を下げないまま、動かない。

 

 そしてヒマリは、その沈黙を逃がさない。

 

「……まるで、殺さないといけなかった理由があったように聞こえますね」

 

 ヒマリの声は静かだった。

 嘲りではない。だが、慈悲もない。

 

「そんな理由、あるはずがないのに」

 

 ホログラム越しの視線が、黒いそれを真っ直ぐ射抜く。

 

「“仕方なかった”などという言葉で済ませられる行為ではないでしょう?」

 

 黒いそれ……。

 いや、名もなき人の子は、しばらく俯いたまま動かなかった。

 

 やがて、喉の奥で何かが擦れる音がする。

 

「……違う」

 

「もう、どうしようも、ねえんだよ」

 

「“兆候”が、出始めた生徒は……」

 

 声は途切れ途切れだった。

 息を吸うたび、肺が痛んでいるのがわかる。

 

「もう、救えねえ 手の施しようが何も……」

 

 ネルは思わず眉をひそめる。

 トキは無言のまま、わずかに姿勢を硬くした。

 

「いずれ 化け物になる」

 

 言葉を選んでいるのではない。どこか抽象的で独り言のようだった。

 

「そいつが大切な誰かを」

 

 一瞬、声が詰まる。

 

「そいつ自身の友人を」

 

 次の言葉は、ほとんど音にならなかった。

 

「いずれ殺すことになる 狂うんだ」

 

 指先が、地面を掴む。

 爪の隙間から黒く濁った血が滲んだ。

 

「それに」

 

 顔を上げないまま、続ける。

 

「そいつ自身が 望まず人殺しになるくらいなら、ならせてしまうのなら」

 

 短い呼吸。

 それだけで、胸が大きく上下する。

 

「殺してやるのが最善だった」

 

 空気は凍てつく。

 

「だから」

 

 震える声で、言い切った。

 

「もう終わらせてやるしか ない」

 

 それは弁明ではなかったのだろう。

 正当化でもない。自分が正しくないと理解している。そのうえで矛盾をはらんだまま葛藤にうめいていた。

 

 ただ、自分が選んだ地獄の説明だった。ヒマリはすぐには言葉を返さなかった。ホログラムの光だけが、静かに揺れている。

 

「“あいつ”が大事にしてた生徒に……」

 

 名もなき人の子は、まだ顔を上げない。

 

「殺しを……させるわけにはいかねえ」

 

 喉の奥から雑音が何度も混じる。がさがさとした奇怪な雑音が。

 

「だったら」

 

 一拍、間が空く。

 

「人殺しの俺がやればいい」

 

 指が絶えず震えている。

 

「これ以上汚れる手なんて無い」

 

 吐き捨てるように、続けた。

 

「それが“最善”だ」

 

 誰かに言い聞かせるように。

 あるいは、自分自身に。

 

「仕方なかった」

 

 そして、最後に。

 

「もう、こうするしか、ないんだよ」

 

 その言葉が、空気に落ちた瞬間。ヒマリは、微かに目を細めた。

 

「……いいえ」

 

 ホログラム越しの視線が鋭くなる。

 

「今、こう言いましたね」

 

 声は相変わらず柔らかい。

 だが、その柔らかさが刃を成す。

 

「“こうするしかなかった”、ではなく……」

 

 一拍置いて、言い直す。

 

「“こうするしかない”と」

 

 名もなき人の子の肩が、僅かに強張る。

 

「……つまり」

 

 ヒマリは淡々と続ける。

 

「これからも、同じ手段を選び続けるおつもりなのですね」

 

 罪悪感があることは、分かっている。

 後悔していることも痛いほど伝わってくる。

 

 それでも。

 

「では、お聞きします」

 

 声色は変わらない。

 言葉は一切逃がさない。

 

「それが、本当に“今のキヴォトスで起きている異変”を解決する手段なのですか?」

 

 間髪入れずに彼女は続ける。

 

「さらに恐怖と殺戮を重ねて」

 

「それで、何が救われるというのでしょう?」

 

 一瞬、間。

 

「それとも……」

 

 わずかに、皮肉が滲む。

 

「そんな残虐な行いこそが、正しいと?」

 

 ホログラムの光が、冷たく瞬いた。

 

「合理的であれば、人を殺しても良い」

 

「未来の可能性を、今、切り捨てても構わない」

 

「……本当に、そう信じているのですか?」

 

 かつての誰かへの問いと似た問い。

 

 この問いは、答えを求めていない。

 逃げ場を塞ぐためのものだったのだろう。

 

「……俺は、もう」

 

 名もなき人の子の声は途中で一度途切れた。

 喉が鳴り、空気を掴むように息を吸う。

 

「何も正しいと思えない」

 

 言葉が、重く落ちる。

 

「それに これは、解決策じゃない」

 

 さっきまで鉈を握っていたはずの指が、力なく垂れ下がる。

 

「……時間稼ぎだ」

 

 肺は軋む。

 

「問題を……先延ばしにしてるだけ、それだけなんだよ」

 

 一瞬、沈黙。

 次に出てきた声は、さらに低く、震えていた。

 

「なんで、こうするしかなかったか?」

 

 自分に問いかけるように、呟く。

 

「……それは俺が」

 

 言葉が詰まり、歯が鳴る。

 

「どうしようもない無能だったからだ」

 

 自嘲でもなく、怒りでもない。

 ただ、事実を並べるような声だった。

 

「俺がもう少し優秀なら」

 

 息が、乱れる。

 

「能力が、あれば」

 

「今より、マシな手段を取れてたのか?」

 

 肩が、小刻みに揺れ、そして脱力したように地面に跪く。

 

「……いや もう考えても石宇」

 

 かすれ切った声で、吐き捨てる。

 

「どっちにしろ 俺は……役立たずの無能なんだ」

 

「どうしようもない低脳が」

 

 喉が、ひくりと歪む。

 

「……殺せる能力だけしか 持てなかった」

 

 そのまま、続ける。

 

「俺が、他の奴らみたいに」

 

 一瞬、言葉が途切れた。

 

「上手くできない無能なせいで、こうするしかできない」

 

 ヒマリはそこで確信した。

 これが正当化ではないことを。同時に開き直りでもない。

 逃げなかった結果、できもしないのに全てを背負い込もうとした結果の末路がこれなのだ。

 

 名もなき人の子は顔を伏せたまま、声を張り上げる。

 

「……もし」

 

 喉のように精神もすでに張り裂けている。

 

「これより良い手段があるなら」

 

「全員救われる方法が、あると言うなら」

 

 震える声が、次第に荒れていく。

 

「教えてくれよ……ッ」

 

「頼むから」

 

 言葉が、ほとんど悍ましい叫びになる。

 

「俺はなんだってする……!」

 

「殺さなくていい手段を」

 

「早く 教えてくれ」

 

 最後はほとんど声になっていなかった。

 

 もう、そこに憎悪はない。

 残っているのは誰も憎みたくないという願いと、もう殺したくないという恐怖だけ。

 

 ヒマリは言葉を失った。

 

 依然として許せる行為ではなかった。

 その事実は微塵も揺らいでいない。

 

 だが同時に。

 ここまでしなければ防げなかった事態が存在しているという可能性が、思考を埋め尽くした。

 

 一瞬で理解してしまったのだ。

 彼が選んだのは安易な逃避でも、歪んだ快楽でもない。決して憎悪で動いていたわけでもない。

 追い詰められ続けた末に辿り着いた最悪の最善なのだ。

 

 ヒマリの脳裏に、かつて垣間見た彼の過去が蘇る。

 

 喪失。裏切り。友人の死。

 憎悪によって壊された楽園。

 

 一つ終われば、また一つ。

 苦難は連鎖し、途切れることなく続いてきた。

 

 これ以上、罰せられる必要があるのか。

 これ以上、苦しめられる必要があるのか。

 

 その問いに、答えは無い。

 

 名もなき人の子は、はっと息を呑んだ。

 何かを感じ取ったのだ。

 遠く、しかし確かな“兆候”。

 

 また別の場所で、生徒が壊れ始めている。

 

 先ほどまで掠れていた声は驚くほど静かだった。

 感情を切り落としたような、冷静で、流暢な声。

 

 そうしなければならなかった。

 取り乱している時間すら、彼には残されていない。合理的であり続けならない。己の私情などそぎ落として。

 

「……まただ」

 

 短く、事実だけを告げる。

 

「兆候が出始めた、近い。」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「もし俺を止めたいなら」

 

「誰も死なせたくないって言うなら」

 

 視線は誰にも向けられないまま。

 

「……あんたらが、早く解決策を見つけてくれ」

 

「その生徒は……今ならまだ使える」

 

 解析でも、観測でも、実験でもなんにでも使えばいい。それで何かが分かるのなら。

 言外に、そう含ませて。

 

「……俺は、もう行く」

 

 声に、焦りはない。

 ただ切迫した現実が残る。残り続けている。

 

「もう、余裕がない」

 

 それだけを言い残し名もなき人の子は、闇の中へと消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




[補足]
-名無しの強さ
性質なしだったらここまで強くない。こいつの性質は格闘試合に武器を持ち込んでいるようなもの。要するにズル。生徒(というか神秘が関わる存在)がどれだけ強くてもコイツが相手だとどうしても相性が悪くなる。一応かなり場数を踏んできたタイプなので戦闘技術は付いているが、性質ありきでしかない。筋力も実はそう強いほうではない。


ヒマリの厳しさと優しさを表現したかったけどできてるのかこれ
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