色のない荒野は、どこまで行っても終わりがなく、永遠に続いているようだった。
乾いた風すら吹かないその場所で、灰色の存在の引きずる鎖の音が、心臓の鼓動の代わりに規則正しく響いている。
「ねぇねぇ、見て! これ、すごく不思議な形をした石だよ。……なんだか、ひっくり返ったクジラさんみたいじゃない?」
緑色のふよふよとした彼女が、瓦礫の中から拾い上げた歪な塊を差し出す。だが、灰色の存在は視線すら向けない。ただ、泥濘の中を歩むような重い足取りで、足元ばかり見つめていた。
「……そうか。」
返る言葉は、吐息よりも短い。
その存在の心は、とうに砕け散っていた。かつて無理に背負おうとした責任、守れなかった約束、そして積み上げた後悔。それらが致死量を超えて、魂の器を内側から食い破っている。今ここで歩みを止めて、砂となって崩れ去ったとしたら、それが『救済』になりそうな程に。
もちろんそんなことは起きてくれないのだが。
「もう、つれないなぁ……。でも、いいよ。君が返事をしなくても、私が君の分までお喋りするからね!」
彼女はめげることなく、彼の周りを波打つように漂う。
この消えゆく非実在の世界において、あらゆる行動は虚無に吸い込まれる運命にある。彼女の励ましも、灰色の存在を蝕む鎖の重さも、何の意味も持たない。ただ消えゆくまでの退屈な過程に過ぎない。
だが、それでも彼女は笑う。灰色の存在が、完全に無色透明に溶けてしまわないように。
「ほら、あっちに何かあるよ……? えっ、あれって……」
不意に彼女の動きが止まった。
視線の先、不毛の地の果てに、この風景にはあまりに不釣り合いな『異物』が鎮座していた。
それは、電車だった。
錆びついた鉄の肌、ひび割れた窓ガラス。線路もない地面の上に、まるで天から振り落とされたかのように、ただ停車している。どこへ行く当てもなく、誰を待つでもなく。脱線したようにすら見える。
「……電車? こんなところに?」
彼女が困惑した声を漏らす。
「……。」
灰色の存在もまた、その足を止めた。
二つの存在は、互いの顔を見合わせる。一方は緑色の揺らめく煙、一方は傷を負った無機質な面。
「ねぇ。行ってみる? もしかしたら、どこかに連れて行ってくれるかもしれないよ!」
「……どうだか。」
色のない存在は自嘲気味に呟いたが、その足は無意識のうちに、鉄の箱の方へと向けられていた。
外れかかった扉をくぐり、鉄の箱の内部へと足を踏み入れる。
そこは、死に絶えた荒野とは決定的に異なる空気が滞留していた。外の世界にはない『色』が、澱みのようにそこに留まっている。
車内の座席に腰を下ろしていたのは、二つの影だった。
一人は、淡い水色の髪に鮮やかなピンクのインナーカラーが混じる若い女性。白く清廉な制服を纏っているが、その一部はどす黒い血に汚れ、彼女がくぐり抜けてきた凄惨な過去を無言で物語っている。
もう一人は、褐色肌の大人びた女性だ。身体を包むのは薄い患者衣であり、その四肢は病に侵されたように細く、命の灯火が消え入りそうなほどに痩せこけている。
彼女たちは、新しく入ってきた異形な二体には目もくれず、ただ自分たちの絶望と向き合っていた。
「……また、ダメでした。なぜでしょう。あんなに考え、あんなに備えたはずなのに。」
水色の存在が、震える声で呟く。その言葉は誰に向けられたものでもなく、自分という存在を裁くための刃のように響いた。
「……どうして。全てを投げ打って、望みうる限りの手を尽くしたはずです。なのに、どうして結末だけが変わらないのでしょう……。」
絞り出される懺悔。彼女の瞳には、積み上げられた努力が無価値へと転じた虚脱感だけが宿っている。
隣に座る褐色肌の女性は、その様子をどこか呆れたような、それでいて深い慈愛の入り混じった眼差しで見つめ、力なく寄り添っていた。
「……また、私のせいで。うまくいかなかった。何も守れなかった。……結局、私は何一つ、変えることができないままなのでしょうか。」
項垂れる水色の彼女の背中は、あまりに小さく、脆い。
色のない荒野を彷徨ってきた灰色の存在は、その光景を黙って見つめる。その胸中に去来するのは、共感か、あるいは同族嫌悪か。
「あのぉ、……大丈夫……ですか?」
沈黙を破ったのは、やはり緑色の彼女だった。
おどおどしながらも、彼女は『色』を持つ二人のもとへ歩み寄ろうとする。その無邪気なまでの善性が、重苦しく停滞した車内の空気をわずかに震わせた。
「……おっと、お客さんだ。ほら、しっかり。いつまでも泣いてる場合じゃないよ」
静寂を破ったのは、褐色肌の女性の乾いた、けれどどこか温かみのある声だった。彼女は細い手で水色の存在の肩を軽く叩き、強引にその意識を外界へと向けさせる。
弾かれたように顔を上げた水色の存在は、入口に立つ二つの影を認めるなり、息を呑んだ。
「ひっ……」
彼女の瞳に、明らかな恐怖の色が走る。
視線の先にいるのは、鎖を引きずり、顔に傷を負った『灰色の存在』。その姿を、彼女は知っているようだった。あるいは、その姿が象徴する『最悪の結末』を、幾度となく幻視してきたのかもしれない。
彼女は固まったように動かなくなり、まるで天敵を前にした小動物のように、情けない、掠れた声を漏らした。
そんな緊迫した空気を、灰色の存在は、酷く無頓着に踏みにじる。
「……。」
彼は怯える水色の存在を気にする素振りも見せず、ただ重い足取りで車内の端へと向かった。
金属の床を擦る鎖の音が、場違いなほど虚しく響く。彼は隅の座席に崩れ落ちるように腰を下ろすと、膝に肘をつき、深く首を垂れた。
「……疲れた。……寝る。」
短く、拒絶に近い言葉。
そのぶっきらぼうな一言に、隣でオドオドしていた緑色の彼女が、慌てて「え、えぇっ?」と声を上げる。
「ちょっと、こんなところで!? 寝るなんて、せっかくお友達になれそうな人がいるのに……!」
「……どうでもいいだろ、ほっとけ。」
灰色の存在はそれきり、頑なに口を閉ざした。
その様子を見ていた褐色肌の女性は、一つ、長く溜息を吐いてから、苦笑を浮かべる。
「あいにくだけど。この世界には『夜』もなければ『睡眠』もありゃしないよ。まどろむことはできるだろうが、意識は嫌でもハッキリしたままさ。」
「……。」
灰色の存在は答えず、ただ肺の底にある淀みをすべて吐き出すような、重い溜息を返した。眠ることさえ許されない場所。その残酷な事実に、彼はただただ、くたびれたように項垂れる。
「やれやれ。ここはカウンセリングルームじゃないのだけれど……」
褐色肌の女性は、項垂れる灰色の存在と、未だに震えの止まらない水色の少女を交互に見やり、首を振った。
「悪いけど、こっちはこの子一人を宥めるだけで手一杯なんだ。一度に二人も見きれないよ。……ま、勝手にする分には構わないけどさ」
彼女はそう言って、自らの痩せた身体を座席に預け直した。
行き先のない電車。終わりを迎えた者たちが、ただ互いの重荷を沈黙の中に晒し続ける。
緑色の彼女だけが、その重苦しい空気の中で、どうにか場を明るくしようと「えっと、えっとぉ……」と、キョロキョロと視線を彷徨わせていた。
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「ね、ねぇ。そんなに泣かないで……。えっと、よしよし、だよ!」
緑色の彼女は、震える水色の存在の隣にそっと腰を下ろした。
人ですらない、ふよふよとした奇妙な姿。けれど、彼女から溢れ出す温かな空気は、氷のように固まっていた水色の存在の心を、驚くほど容易に解かしていった。
「……ッ、うぅ……あぁ……」
拒絶されると思っていた。あるいは、失敗をなじられると思っていた。
だが、向けられたのは無垢なまでの心配と、ただ寄り添うだけの優しさだった。水色の存在は、堰を切ったように、緑色の彼女の不定形な胸元へと泣き崩れた。
「……また、私のミスでした。……キヴォトスは、また滅びの果てに……辿り着いてしまいました……。」
「き、きぼとす……?」
「ううん、よく分かんないけど、大変だったんだね……」
一瞬、緑色の彼女はキヴォトスという言葉に反応した。
「『先生』という変数を招き入れれば、今度こそはと……そう、信じていたんです……。なのに、“新たな変数”……私の計算にも、全く想定していなかった『それ』が乱入して……っ。すべてが、また狂ってしまって……っ」
水色の存在は、絶望を吐き出すように言葉を垂れ流す。
因果、変数、演算。
語られる言葉はどれも難解で、この世界の理に関わる重苦しいものばかりだった。だが、それを聞く緑色の彼女の反応は、一貫して変わらない。
「う〜ん……、難しくて半分も分かんないや!」
緑色の彼女は、困ったようにえへへと笑った。
そして、自分の名前も立場も思い出せないその腕で、泣きじゃくる少女を優しく、力強く抱きしめた。
「でもね、それだけ一生懸命お話ししてくれるってことは……君が、すっごく、すっごく頑張ったってことだけは分かるよ」
「あぁ……」
「誰にも言えないくらい、一人で重たいものを背負って……最後まで諦めなかったんでしょ? だったら、君はとっても偉い子だよ。……そんなに自分を責めないで? ね?」
緑色の煙のような体は、不思議な陽だまりの香りがした。
水色の存在は、彼女の温もりに包まれながら、子供のように声を上げて泣き続けた。
「……暑苦しいものだね。この場所には不釣り合いなほどに。」
褐色肌の女性が、皮肉っぽく、けれどどこか嬉しそうに目を細めて呟いた。
車内の片隅で、対照的な二つの空気が流れていた。
緑色の彼女に抱かれ、慟哭を吐き出す水色の少女。向かい合う大人と死体。
だが、褐色肌の女性は、その壁を容赦なく突き崩しにかかった。
「……ねぇ、君。疲れているところ悪いけど、少しは暇つぶしに付き合いなよ。名前は? 出身はどこだい?」
灰色の存在は答えない。視線さえ動かさず、ただ死んだように項垂れている。
だが、女性は怯まない。むしろ楽しむように、さらに踏み込んだ問いを重ねる。
「どこまで記憶が残ってるのかい? 自分が何をして、どうやってここへ来たか。それとも、もう中身は空っぽなのかい?」
「……。」
「おや、口の利き方も忘れてしまったのかい? それとも、私みたいな不治の病人如きと喋るのが怖いとでも?」
しつこく、粘り強く、皮肉を混ぜた質問攻め。その執拗さに、ついに灰色の存在の忍耐が限界を迎えた。
「……名前は、無えよ。」
「ない? 忘れたんじゃなくて、最初からかい? はは、そりゃ面白いね。名前のない人間なんて、ここへ来るまで見たこともなかったよ。」
褐色肌の女性は可笑しそうに肩を揺らした。だが、その瞳の奥には、獲物を逃さない観察者のような鋭さが宿っている。
「じゃあ、出身地は? どこで生まれて、どこで死んだ。せめてそれくらいは教えなよ。」
「……。」
灰色の存在は一瞬の沈黙を置いた後、吐き捨てるように答えた。
「……地球だ。死んだ場所は、キヴォトスだがな。」
その瞬間、車内の空気が凍りついた。
それまで余裕を崩さず、どこか超然としていた褐色肌の女性の表情が、劇的に変貌する。
「地球……? 本当に、今そう言ったのかい?」
褐色肌の女性の身乗り出すような勢いに、灰色の存在は僅かに顔を顰めた。彼女の瞳は、先ほどまでの諦念を孕んだ色とは打って変わり、熱を帯びた光が灯っている。
「……そうだが、それがどうした。」
面倒そうに、吐き捨てるような返答。だが、彼女はそれを遮るように、子供のような無邪気さで問いを畳み掛けた。
「驚いたよ、まさかこんなところでその名を耳にするなんてね! ねぇ、あそこではどんな暮らしをしていたんだい? 空は? 海は? 何があった? 自由だったかい?」
矢継ぎ早に降る言葉の雨。その熱量に、灰色の存在は逃れるように再び俯いた。
彼は沈黙し、自身の内側。もはや形を留めていない、記憶の残骸へ思いを馳せる。しかし、触れられるのは、神経を貫かれるような痛みと、焦げ付いた臭いだけ。
「……もう、ほとんど思い出せない。」
長い沈黙の果てに漏れ出たのは、呻き声に近い言葉だった。
「あるのは、嫌な思い出だけになっちまった。」
刻まれた瞼の裏。そこに映るのは、きっと自由に満ちた美しい世界などではない。瓦礫の山、断末魔、紅い戦火のみ。
彼の声には、自らの過去を呪うような、どす黒い重みが宿っていた。
その言葉を聞いた瞬間、身を乗り出していた褐色肌の女性は、打たれたように動きを止めた。
彼女の瞳に宿っていた熱が、急速に引いていく。憧れという名の毒から醒めたような、哀愁を帯びた静寂が彼女を包み込んだ。
「……そうかい。」
短く、力のない相槌が響く。
車内の片隅で交わされた過去への追憶が、冷たい沈黙に沈む。その静寂を、反対側から響く緑色の彼女の、場違いなほど明るい声が打ち消した。
「えっと……つまり、この電車を動かせればいいんだね?」
「……はい。ですが、私にはもう代償として捧げられるものが何も残っていません。この世界に干渉する力も、運命を動かす力も……。けれど、もし、もしもこの電車を動かせるほどの『エネルギー』と『権限』があれば、またやり直せるはずなんです……!」
水色の彼女の言葉には、縋るような切実さが混じっていた。
緑色の彼女は、その複雑な理論や代償の意味を理解できたわけではない。けれど、目の前の少女が「やり直したい」と願っている。彼女にとっては、それだけで十分だった。
「よく分からないけど、分かった! とりあえず、私達がなんとかするよ!」
根拠のない自信と共に、彼女はふよふよと灰色の存在の元へと滑り寄った。
「ねぇ、行こう! 電車を動かせるようにするために、何かヒントがないか探しに行くよ!」
彼女は透き通った緑の手を伸ばし、灰色の存在を外へ連れ出そうとする。だが、彼はその誘いを一瞥だにせず、凍てつくような声で突き放した。
「嫌だ。……何もしたくねえ。」
「ひ、ひぃん……。そんなこと言わないでよぉ……」
「大体、そいつを助けて何になる。」
灰色の存在は、重い枷を鳴らしながら、くたびれ果てた様子で悪態をつく。一欠片の希望も残らなかった末路がこれだ。
「もう死んでんだ。……死んだ後で何をしようが、何の意味もねえだろ。全部、終わってんだよ。」
「違うよ。それは違う。」
不意に、緑色の存在の纏う空気が一変した。
先ほどまでのおどおどした様子は消え、そこには静かで、どこか神聖さすら感じさせる教えを説くような響きがあった。
「無意味だとか、無価値だとか、やっても意味がないって決めつけるとか、そんな事ばかり考えるようになったら……。」
「私たちはきっと、本当の意味で自分を失っちゃうと思うの。」
「……なんだと。」
灰色の存在が、僅かに毒気を抜かれたように声を漏らす。彼女は真っ直ぐに、男の開かない瞼の奥を見つめるように言葉を続ける。
「困っている人がいたら、手を差し伸べるの。お腹を空かせてたり、寒さに凍えてる人がいたら助けてあげるの。」
「ね? そう思わない? だから、行こう?」
彼女には、記憶がない。かつて何を成し、何を守ろうとしたのか、その記録はすべて消えている。だが、その魂に刻まれた本質だけは、この虚無の世界にあっても摩耗していなかった。
「……ダメかな?」
覗き込むような、無垢で、けれど逃げ場のないほどに真っ直ぐな意志。
その暴力的なまでの善性に、灰色の存在は耐えきれなくなった。だからこの存在は自分の罪悪感を掻き消すため、“自分のため”に動いた。
「だああっ……! クソッ、わーった、分かったからそんな顔するな。」
毒を吐くことすら諦め、灰色の存在は乱暴に髪を掻き毟りながら立ち上がった。引きずられる鎖が、観念したように重い音を立てる。
「……で、具体的にどうすんだ。何か算段はあるのか?」
「えっと……分かんないや!」
「打算的だな、おい。」
灰色の存在は深く、長く、本日何度目か分からない溜息を吐き出した。だが、その足取りは先ほどまでの彷徨いとは違い、明確に「誰かのため」に動き出していた。
ふよふよと先導する緑色の彼女と、その後ろを億劫そうについていく灰色の影。
二人が電車の扉を出ていく背中を見送りながら、褐色肌の女性が、膝の上で指を組み、面白そうに独り言を漏らした。
「……へぇ。あれに言うこと聞かせるなんて。彼女、とんだ大物らしいね。」
隣でようやく涙を拭った水色の少女もまた、その光景を呆然と見つめていた。
進めばどうあれ、“変化”が起きる。
目的は、電車を動かすこと。
それが何を意味するか分かったものじゃないが、再び“目的”ができた。
今度こそは、果たせる事を願うばかりだ。
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[補足]
-水色の存在
透き通ったような色、それに似合わない血の汚れ。彼女はなぜかとても色鮮やかな姿と、ヘイローを持っている。単に死人、と言うわけではないのだろうか。
-褐色肌の大人
誰かの恩師。死んでもなお好奇心は健在。
間接的に青春の物語を作る上で必須だった存在。
-カイン
登場短かったし補足程度の情報しか出せなかったので、分かりづらかったけど、実は別の世界線のキヴォトスを数十個潰している。現在の行方は不明。カイン、アベル、Null周りの設定はめちゃくちゃややこしい事になってるので、出来るなら丸ごとなかったことにするか書き直したい。
この章は過去に登場したオリキャラとかもちらほら出てくると思います。