From outside Kivotos   作:ケトゥ毛

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傷と向き合う


48.5 + 0.5i 話『灰たち』

 色のない砂漠を歩む二人の景色は、次第に変容を見せていた。

 そこは、緑色の彼女の記憶にある瑞々しい感触は乏しく、代わりに灰色の存在を苛む”終わり”の気配が色濃く漂っている。砂に半ば埋もれた荒廃したビル群、焼け焦げた鉄筋。それは、かつて彼が受けた理不尽の記憶が形を成したかのような、醜悪な憧憬だった。

 

 十字架の立つ荒野を一周し、再びこの凄惨な場所へと戻ってきたのだろうか。足元には、火災の熱で変色した瓦礫と、数え切れないほどの遺骨が、層を成して積み重なっている。

 

 灰色の存在は、その中から一つ、ヤギのような角が生えた大きな頭骨を無造作に拾い上げた。

 

「……いつもこうだった。」

 

 真っ黒な右目が、空っぽの眼窩を見つめる。

 

「俺の周りにいる奴は、みんな死んでいく。戦って、殺されて、最後には俺だけが残される。……もしここが本当に死後の世界なら、死んでいった奴らもいるんだろうか。」

 

 その嘆きは、救いを求める声ではなく、むしろ自らを罰する者の響きを帯びていた。隣を漂う緑色の彼女は、彼の横顔をじっと見つめ、静かに問いかける。

 

「……会いたい人が、いるの?」

 

「……。会うのは、恐いさ。」

 

 灰色の存在は、吐き捨てるように答えた。

 

「俺は、多くを殺してきた。この手にかけた奴も、俺がいたせいで死なせた奴も……山ほどいる。俺はいろんな奴から恨まれてるだろうな。」

 

「……大事な人は、いなかったの?」

 

 重なる問いに、灰色の存在は動きを止めた。握りしめた頭骨から、カチリと乾いた音が鳴る。

 

「……キヴォトスより前の記憶は、もうあやふやだ。俺が大事だと思っていた奴がいたとしても、それが誰だったのか……今の俺には分からねえんだ。」

 

 彼は周囲の焼けた憧憬を、憎しみを込めて見渡した。

 

「覚えているのは、嫌いな奴らばかり。そういう意味で、嫌なことしか残らなかったんだよ。……大事な記憶は全部灰になっちまった。」

 

 引きずる鎖の音が、埋もれた大量の頭蓋にあたり、音が響く。

 誰一人としていないこの死後の世界で、彼は数多の死者を背負い、それでもなお何が価値だったかすら思い出せないという煉獄の中にいた。

 

 緑色の彼女は、何も言わずに彼の傍らに寄り添う。

 言葉は無力だったが、彼女の放つかすかな光だけが、焼けた瓦礫の影をわずかに和らげていた。

 

 焼けた瓦礫の山を越えながら、灰色の存在は、自分でも驚くほど淀みなく言葉を紡いでいた。

 かつて誇りや虚栄心として積み上げていたプライドは、度重なる絶望に削り取られ、今や剥き出しの心がそこにある。彼にとって、隣を歩む緑色の彼女は、もはや警戒すべき他者ではなく、壊れかけた魂を預けられる唯一の拠り所となっていた。

 

「……なぁ。一つ、聞いていいか。」

 

 彼は足を止めず、虚空を見つめたまま問いを投げかける。

 

「もし、どうしようもない最悪な未来が確定しているとして……。なるべく他人を巻き込まないように、自分一人で全部やり切ろうとするのは、正解だと思うか。より多くの奴らに、無駄に足掻かせて、無駄に苦しませたりしないためにも。」

 

 それは、彼の胸を焦がし続けている後悔の根源だった。

 誰かに救われた経験が乏しく、常に自分一人の力で地獄を切り抜けてこなければならなかった“彼”が、その臆病さと愚かさゆえに犯してしまった過ち。

 

「どう思う。」

 

 緑色の彼女は、ふよふよと浮遊しながら、彼の問いを一度ゆっくりと飲み込んだ。そして、静かに、けれど芯の通った声で答える。

 

「誰も苦しませたくないって一人で背負い込もうとするのは、きっと……すっごく優しい決断だと思うよ。それは、間違いなんかじゃない。」

 

「……。」

 

「でもね。何も知らされずに、ただ何もできないままっていうのは……実は、一番寂しいことなんじゃないかな。私は、そう思うの。」

 

 彼女の言葉が、灰色の存在の心に波紋を広げる。かつて彼が「守った」つもりでいた者たちが、その裏でどのような孤独を抱えていたのか。その視点は、彼には欠落していたものだった。

 

「それにね、それにだよ? もし、どれだけひどい未来が決まっていたとしても……みんなで協力すれば、万が一かもしれないけど、なんとかなったかもしれないしね! 一人じゃ無理なことでも、誰かがいれば、新しい可能性が生まれたかもしれないでしょ?」

 

「……可能性、か。」

 

 彼は自嘲気味に呟いた。

 

「そうだよ。だから……もし君がまた何かに立ち向かうことがあったら、その時は、誰かを頼ってもいいんだよ? たとえば……えへへ、私とかね!」

 

 緑色の彼女は、いたずらっぽく、けれどどこまでも真剣な眼差しで笑った。

 

 無邪気に笑う緑色の彼女の声を背中に受けながら、灰色の存在は、喉の奥で苦い塊を飲み込んだ。

 脳裏に去来したのは、船での『アリウス』の件の記憶だ。

 

 あの時、共に歩んでいたはずの『同僚』は、自分を巻き込むまいとしたのか、あるいは自分たちの責任だと割り切ったのか、助けを求めようとはしなかった。

 背中を預けているつもりだった相手に、一線を引かれた感覚。あの時に感じた、言葉にし難い寂しさ。

 

「(……ああ。そうか。俺も、同じことをしていたのか)」

 

 仲間だと思っていた相手に頼りにされないことによるその不和を知っていたはずなのに、自分もまた優しさという身勝手な盾で、周りの奴らを拒絶し、遠ざけていた。

 

「……。」

 

 歩みを止めることはない。だが、引きずる鎖の音は一層重く響く。

 結局、自分をここまでの孤独に追いやったのは、敵でも、運命でも、怪物でもなかった。すべては自分の臆病さと、独善が招いた自業自得なのだ。

 

「(もっと、他人を存分に頼っていれば。不格好に、大掛かりに、すべてを巻き込んで足掻いていれば……)」

 

 あるいは、何かが変わっていたのかもしれない。

 もしそれでも救えない結末だったとしても、一人で無様に泣き言を言いながら消えていくような最期よりは、きっとマシな終わり方ができたはずだ。誰かの熱を感じ、誰かの嘆きを聞きながら、手を取り合って滅びたほうが。

 

 ……大事な相手に憎まれ、殺さざるを得なくなるよりはるかに良かった。

 

「ねぇ、どうかしたの? 急に黙り込んじゃって。」

 

 隣を漂う緑色の彼女が、覗き込むように顔を寄せてくる。

 

「……何でもねえさ。」

 

 灰色の存在は、溢れそうになる悔恨を無理やり表情の裏に押し込み、震える声を整えた。

 

 

 

 

 

---------------

 

 

 

 

 

 静寂を切り裂いたのは、この世のものとは思えない絶叫だった。

 猛獣が喉を掻き毟るような、あるいは呪詛を吐き出すような咆哮。それが一つ、また一つと連鎖し、焼けた荒野に幾重にも重なって響き渡る。

 

「ひぃん……。 また、あの声……。」

 

 緑色の彼女が、震える体で灰色の存在の背後に隠れる。

 瓦礫の影から姿を現したのは、人の形を歪に崩した”大人たち”の群れだった。理性を完全に喪失し、飢えだけを瞳に宿した、剥き出しの狂気。

 

「逃げるぞ!」

 

 灰色の判断は迅速だった。

 彼には分かっていた。あの怪物たちの正体が、かつての同郷……同じ地獄を生き、互いを食らい尽くそうと殺し合った、野蛮で飢えた獣人たちであることを。死してなお、彼らは満たされることのない渇きに突き動かされ、この非実在の世界を彷徨っているのだ。

 

 二人は物陰に身を潜め、息を殺して群れが通り過ぎるのを待った。

 ドロドロとした足音と、獲物を探す鼻息が去っていく。だが、狂乱の音は止まない。それどころか、遠くから知らない女性の悲鳴が聞こえてきた。

 

「……ッ、誰か、襲われてるんじゃ……!」

 

「好機だ。連中がそっちに気を取られてるうちに、この場を離れるぞ。早くしろ。」

 

 灰色の存在は、冷徹に告げた。

 今の自分たちには、他者を救う余力などない。ましてや相手は、かつて自分を裏切り、食らおうとした「同類」かもしれないのだ。情けをかける理由など、どこにもなかった。

 

 だが、彼が歩き出そうとしたとき、背後に続くはずの気配がなかった。

 

「……おい、何をしてる。逃げるぞ。」

 

 振り返ると、緑色の彼女は、悲鳴のした方向をじっと見つめたまま立ち尽くしていた。その不安定な揺らめきは、今にも消えてしまいそうなほど小さく、けれど固い決意を秘めて震えている。

 

「ダメだよ……。見捨てられないよ、だってあんな声が……!」

 

「……馬鹿を言うな。俺たちに何ができる。」

 

 灰色の存在の声に、苛立ちが混じる。

 せっかく手に入れた”進む意思”。それを、こんな無意味な場所で散らすわけにはいかない。この死後の世界でさらに殺されても、おそらくまたどこかに湧くだけ。それでもはぐれ、散り散りになるリスクがある。

 

 緑色の彼女はその言葉が終わるのを待たず、悲鳴の上がる方角へと吸い込まれるように駆け出していた。

 

「あ、おい 待てっ」

 

 ここで彼女を見捨てて逃げれば、少なくとも面倒ごとは避けられる。だが、灰色の存在の足は、思考とは裏腹に彼女の背中を追っていた。

 

 瓦礫の影を飛び出した先では、数体のアウトラインすら曖昧な「人型」の死者たちが、飢えた獣人たちに囲まれ、蹂躙されていた。

 

「やめて! 離してあげて!」

 

 緑色の彼女は、なんの策も、武器も、力もないままに、狂乱の渦中へと飛び込んでいく。あまりに無謀で、あまりに愚かな、純粋さゆえの突撃。

 

「この……!」

 

 灰色の存在は毒づきながら、染み付いた動作で背中へと手を伸ばした。得物を引き抜き、頭蓋を叩き割る。イメージは鮮明。

 

 だが、指先が掴んだのは、ただの冷たい虚無だった。

 

「……あ?」

 

 そこに、使い古された鉈はない。敵を砕き、自らを守り抜いてきた鋼の重みは、死と共にどこかへ置いてきてしまったのだ。その喪失感を突きつけられた瞬間、獣人の一人が彼に気づき、濁った瞳を向けて跳躍する。

 

「……ステゴロかよ、クソッタレッ」

 

 嘆いている暇はなかった。彼は剥き出しの拳を固め、迎え撃つように一歩踏み出す。

 死してなお、再び泥沼の生存競争に身を投じる屈辱。理性を捨てて襲い来るかつての同郷を相手に、彼は丸腰で、最も野蛮な殺し合いを再開せざるを得なかった。

 

 武器がないなら、そこにあるものすべてを武器にするだけだ。

 灰色の存在は、襲い来る獣人の顔面へ向けて、地面の砂利と鋭利な瓦礫の破片を掬い上げ、即座に投擲。

 

「が、アッ!?」

 

 視界を奪われ、怯んだ獣人の懐へ滑り込む。そのまま相手の背中を駆け上がり、全体重をかけてその頸椎を無慈悲に捻り上げた。

 グシャリ、と嫌な音が荒野に響く。

 

 首を折られた獣人の体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、動かなくなった。

 

「……変だが死んだ後でも、殺せはするらしいな」

 

 どうせしばらくすれば、この不条理な世界のどこかで再び湧いて出るのだろう。だが、今の脅威を排除するには十分だった。彼は休む間もなく、次の”道具”を探して視線を走らせる。

 

 瓦礫の中に、鋭く尖った強化ガラスの破片を見つけた。殺傷性は十分だ。

 次に向かってきた獣人が掴みかかろうとしてくる。灰色の存在はそれを極めて低い姿勢で回避し、すれ違いざま、ガラスの破片を相手の足の腱へと突き立て、一気に引き裂いた。

 

 崩れ落ちる獣人。止めを刺すべく、流れるような動作でその頸動脈の位置を深く斬り裂く。

 血は出ない。が、死ぬ。現実の身体構造をなぞった法則が、この死後の世界にも適応されているらしい。

 

 どんな生物であれ、背後は死角であり、対処は困難だ。その絶対的な法則を熟知している彼は、今度は角の立った重いレンガを拾い上げた。

 混乱に乗じて一人の背後へ音もなく忍び寄り、背中にしがみつく。自由を奪ったまま、後頭部へレンガで殴打しグシャグシャにする。

 

 一対多の乱戦。本来なら無謀極まりないはずの戦場。

 灰色の存在はそれを理解している。だが、想定よりも戦えている自分に驚いていた。

 

「お、思ったより、できるもんだな……。」

 

 驚くほど、体が動く。

 鎖を引きずっているはずの足取りは淀みなく、標的の弱点を突く判断力は研ぎ澄まされていた。技術と経験は生死を超えてもなお魂に刻み込まれている。

 

 自嘲気味に吐き捨てた声は、拍子抜けしたように軽い

 

 蓋を開けてみれば、襲われていた人型の死者たちは意外にも数が多く、必死の抵抗を続けていた。そこに灰色の存在の冷徹な「処刑」が加わったことで、戦況はあっさりと決した。

 瓦礫の山に横たわる動かなくなった獣人たちを見下ろし、灰色の存在は、自身の拳にこびりついた灰のかすを払い落とした。

 

「……なんだ。案外、脆いもんだな」

 

 その呟きは、先ほどまでの死闘を嘲笑うかのように拍子抜けしていた。

 

 一方、無謀に突っ込んだものの、なすすべなく地面に伏せていた緑色の彼女のもとへ、一人の影が歩み寄った。

 

「……大丈夫?」

 

 差し出された細い手。緑色の彼女は、その手を取ってふらふらと立ち上がる。目の前にいたのは、自分よりもずっと背の高い、一人の女性だった。

 季節外れの厚着の隙間から、汚れを吸った古い制服のようなものが見える。かつてはどこかの学園に通う生徒だったのかもしれない。だが、その頭上にはキヴォトスの象徴であるヘイローはなく、瞳もまた、生気を失った死者特有の濁りを帯びていた。

 

「あっ……ありがとうございます! あの、助けようとしたのに、結局助けられちゃって……えへへ」

 

 緑色の彼女は、いつものように屈託なく感謝を述べ、後方に立つ仲間に向けて明るく振り返った。

 

「ねぇ、君も来て! この人たちが助けてくれたんだよ!」

 

 だが、呼応するはずの声は返ってこなかった。

 代わりに、緑色の彼女は自分の背筋に冷たい氷が押し当てられたような錯覚を覚えた。

 

 灰色の存在は、動かずにいた。

 一歩も動かず、ただ、開かれた真っ黒な右目で、目の前の高身長な女性を真っ向から射抜いていた。

 

 それは単なる観察ではない。驚愕と、困惑と、そして隠しきれない激しい嫌悪、あるいは警戒が入り混じったような強烈な眼差し。

 

「……あれ?」

 

 彼女の声が届かないほど、灰色の存在の意識は眼前の女性に釘付けになっていた。拳は未だ固く握られたままで、引きずる鎖がチリ、と小さく鳴る。

 

 高身長の女性は、その殺気にも等しい視線を受けながら、表情一つ変えない。ただ、ゆっくりと、灰色の存在を凝視した返した。

 二人の間に流れる不穏な沈黙が、先ほどの乱闘よりもはるかに重く、荒野の空気を歪ませていく。

 

 一瞬の静寂は、暴風のような暴力によって塗り潰された。

 灰色の存在がずかずかと、地を裂くような足取りで間合いを詰め、高身長の女性の胸ぐらを掴み上げた。そのまま、躊躇なくその顔面を拳で殴り飛ばす。

 

「ちょっと、何するの!? やめてっ!」

 

 緑色の彼女が悲鳴を上げる。周囲にいた他の人型たちも、「テメェ! 姉貴になにしやがる!」と怒声を上げて駆け寄ろうとした。だが、彼らは灰色の存在の横顔を見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのように息を呑み、硬直した。

 

 そこにあるのは、もはや疲れ切った顔ではなかった。

 灰色の存在は、倒れ込んだ女性の頭をさらに蹴り飛ばそうと足を振り上げる。その直前、緑色の彼女が身を挺して彼の正面からしがみつき、必死にその動きを止めた。

 

「どうしたの!? 止まって、落ち着いてよ!」

 

 焦燥に満ちた彼女の叫びが響く中、殴られた女性は地面に伏したまま、俯いて冷や汗を流していた。言い返すことも、抵抗することもしない。ただ、自分の罪を知る者のように震えている。

 

「……そいつは。」

 

 灰色の存在の口から漏れたのは、煮えたぎる泥のような、低く重い声だった。

 

「そいつが、俺の人生を台無しにした。……“俺たち”を殺した、救いようのないクソ野郎だ。」

 

 その瞬間、彼の身体に異変が起きた。

 灰色の四肢に、かつて刃で断たれたような、あるいは無残に引き裂かれたような、深く凄惨な傷跡が鮮明に浮かび上がる。そして、そこから死者の世界には存在し得ない、生々しい紅い血が噴き出し、砂漠を汚していった。

 

 彼女たちは、かつての地球で大虐殺を働いた『テラー』と化した生徒たち。

 “彼”という人間を、数えきれない月日にわたって灼き、蝕み、心を殺し続けた憎悪の発端なのだ。

 

 灰色の存在の声は、激しい怒りと、抑えきれない嫌悪で震えていた。泣きそうなほどに。

 かつてのように理性を失い、獣となって暴れ狂うほどの熱量は、長い絶望の果てにとうに枯れ果てている。だが、それでも。目の前の存在を許すことだけは、自分の魂を否定するのと同義だった。

 

「……生きてる時だけじゃ飽き足らず、死んでからも俺の前に現れるのか。どこまで、俺を追い詰めれば気が済むんだ……っ。」

 

 紅い血を流しながら、彼は真っ黒な右目で、かつての仇敵を睨み据えた。

 

 最悪の形で、記憶の鍵は回された。

 灰色の存在は、脳裏に焼き付いた凄惨な光景を、焼けつくような痛みと共に引きずり出した。

 

「カプラエ、マルム それだけじゃない、俺の全部を、お前らが殺したんだよ」

 

「覚えてるか。なぁ。おい。」

 

「聞こえてんのか、なぁっ」

 

 叫びと共に、彼の左目を覆っていたX印の傷が、消えゆく。

 右の漆黒とは対照的に、そこから現れたのは、光を一切通さない白内障のような白い瞳だった。何も見えず、何も映さない、ただ失われた光景だけを内側に封じ込めたような虚無の白。色のない色。

 

 その両の瞳に見据えられ、高身長の女性と、彼女を慕う者たちは、石化したように動けなかった。

 彼女たちもまた、目の前の存在を痛いほどに知っていた。

 

 彼女らはみな、復讐に燃える彼によって殺され、この吹き溜まりへと堕ちてきたのだ。

 高身長の女性は、かつて自分たちの居場所を守るため、そして愛する”妹”の未来のために、血塗られた虐殺に手を染めた。それがどれほどの罪か、どれほど多くの”大切なもの”を奪う行為か、彼女は当時から痛いほどに理解していた。

 

「……。」

 

 地面に這いつくばったまま、彼女は殴り返すことも、言い返すこともしない。

 冷や汗は底知れない後悔と恐怖からくるものだった。

 

 振り上げた拳は、力なく空を斬った。

 灰色の存在は、その場に力なく膝をつく。四肢の傷口からは未だに紅い血が溢れ、頭を抱えてうずくまる。瞑った両目からは血涙が流れていた。

 

「……殺しても、消えてくれねえのかよ、クソッ」

 

 その声は、もはや怒鳴る力すら残っていないほどに弱々しく、掠れていた。

 

「どうやったらお前らは死ぬんだ……。なんでまた俺の前に出てくるんだよ……っ」

 

 彼を突き動かしていた凄まじい怒りは、長い年月をかけて自身の魂を焼き尽くし、冷え切った灰へと変わっていた。憎悪の炎が枯れ果てた後に残ったのは、ただ、これ以上傷つきたくないという悲痛な叫びと、耐え難いほどの虚脱感だけ。

 

 眼前の女性を殴り飛ばしても、かつての友は帰ってこない。どれだけ彼女らを呪っても、失われた世界が再生することはない。

 彼が今、傷ついた心の底から求めていたのは、更なる復讐によるカタルシスなどではなかった。

 

「……もう、こりごりなんだよ……消えてくれ。俺の前から。俺の、中から……。」

 

「頼むからっ……」

 

 それは、憎悪との離別を願う、悲しき祈りだった。

 復讐に燃えていたかつての自分からも、それを強いた仇敵からも、すべてから解放されて、ただ静かな忘却に身を沈めたい。彼の流す血涙は、そのあまりに永すぎた苦役の終焉を求めていた。

 

「……。」

 

 緑色の彼女は、彼に寄り添うことすら躊躇われるような、あまりに深い悲しみのオーラに圧倒されていた。だが、彼女はゆっくりと手を伸ばし、血を流し続ける彼の震える肩に、そっと触れた。

 

 高身長の女性は、自分を殺そうとした男の、その崩れ落ちるような姿を直視することができず、ただ俯く。

 彼女には、かけるべき言葉がない。自分が殺そうとし、逆に殺された。それも仲間もろとも。そんな相手を彼女ははなから逆恨みすらする気もなかった。彼女は彼に殺されるとき、その運命を受け入れた。なぜなら彼女もとっくに疲れていたから。

 

 全員が憎悪に疲れている。憎悪から脱却したがっているのだ。

 

 焼けた瓦礫の山で罪人たちが、共に行き場を失いただ黙り込む。

 

 憎悪の行き着く先など、虚無でしかない。

 

 なぜなら全てを犠牲にした憎み合いの果てに、何も残るわけがないのだから。

 

 

 




[補足]
-高身長の女性
 彼女の後輩や、高落アテナが姉さんと呼んで慕っていた生徒が死んで神秘を失った状態。
 色彩の接触でテラー化した後、無名の司祭から名もなき彼含む地球の全生物殺したらキヴォトスに帰れるだろうと言われて、それを信じてしまった。虐殺を彼女自身の決断で実行したものの一番罪悪感を感じていた人物でもあった。後輩たちもそれに続いたが、高落アテナという血のつながらない、けれど最も大事な家族だけは巻き込みたくなかった。結果、アテナとその姉の間で軋轢が生じてしまい、狂気の神が顕現してしまう原因となった。

 仲間思いで、中途半端ながらに責任感がある。だが問題を抱え込みがち。それが招いた悲劇だった。
 みんなどこかで似ているんだろう。



[解説]
-二者の構造
 第0章にて。彼女らは地球で仕方なく無実な人達を虐殺しましたよね。名無しから見れば、突然外の世界から現れた化け物が理不尽に友人を皆殺しにして行ったわけです。しかし第3章では、名無しが(理由ありきで仕方なくですが)無実な生徒を殺していきました。これを何も知らない生徒側から見ればどうなりますか? そうです。突然外の世界から現れた化け物が理不尽に自分たちを殺しに来てるように見えるはずです。
 彼がかつて憎み、最も忌み嫌った行為を彼自身がやる展開になっているんですよ。自分が憎んだ存在そのものになってしまっているんです。更に言えば、サオリもかつての彼のように復讐する存在になることで連鎖が続いていますし。本作は憎悪だけでなく、こうした負の連鎖の法則があるんですよね。ルーチンとも言えるのかも。

 三人の探究者は全員悲惨な末路を迎えるというのも負の連鎖になります。(名無し、カプラエ、マルムは悲惨な末路を迎え、名無し、先生、サオリの組み合わせでも悲惨な末路を辿った。)
 名無しが悲惨な末路を迎える度に何かしらの形で終われない、苦難から逃れられないのもそうです。私が意図した描いた連続性はいくつかありますが、意図せず連鎖しているものもあるかも。




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