狂ったように点滅していた自販機のライトが、不意に静止した。
先ほどまでのノイズまじりの合成音声は消え、代わりに、あまりに流暢で意思を感じさせる声がそのスペースの静寂を支配する。
[旧人の末裔よ。絶対者になり損ねた方舟の祖先よ。汝は何を求める。]
突拍子もない、けれど神託のような重みを持つ言葉に、二人は息を呑んだ。
灰色の存在は一歩前へ踏み出し、自販機の光るパネルを見据えて低く問い返す。
「あんたは何だ。」
[……私は私だ。これ以上に説明する術はない。]
機械は僅かな沈黙を置いて答えた。その”個”を断定する答えには、どこか迷いが混じる。
[愚かな人の子よ。汝は“自分”をどう思っている。汝は、汝という存在が絶対であると、客観的に証明できるか。]
「何を……何を言ってるの、この自販機。気味が悪いよ……行こう……! 逃げたほうがいいよ!」
緑色の彼女は、その得体の知れない言葉の圧力に怯え、彼の腕を引く。だが、灰色の存在の足は、まるで鉄板に縫い付けられたかのように動かなかった。
「……待て。」
「えっ……?」
灰色の存在の瞳は、自販機の無機質な反射面をじっと見つめていた。
自分とは何か。
憎悪を捨て、友の名を思い出し、それでもなお消えないこの空虚と鎖は何なのか。自販機の投げかけた問いは、彼が先ほどから喉に引っ掛かっていた”生きる意味”という名の棘を、正面から引き摺り出そうとしていた。
「今の俺には、これが必要な気がするんだ。」
彼の眼差しには、恐怖ではなく、真理に手を伸ばそうとする探求の意志が宿っていた。
答えの見えない死後の旅路で、初めて出会った”自分”への課題。自分の本質と向き合う時が来た。
灰色の存在は、誘われるように自販機の前の冷たい床に腰を下ろす。
そこはもうただの工場の休憩所ではなく、一つの魂が、自らの根源を解剖する探求の場へと変貌していた。
[汝は自己の証明が可能であるか。]
自販機が再び、無機質な声を響かせる。灰色の存在は、迷うことなく答えた。
「俺は俺だ。……誰にどう言われようとも、たとえ世界の他のすべてを疑ったとしても、それだけは否定できない。」
[では汝はいつからそれを自覚し始めた。何がきっかけであったのか。]
「最初からだ。目覚めた瞬間から、言い表しづらいが……これが俺だっていう自覚があった。」
その確信は、鎖のように彼の魂に深く食い込んでいる。自販機は、探るように言葉を重ねる。
[それは他者からの質問でも、他の外的要因でもなかったのか。]
「……生まれた瞬間は孤独だった。俺のほかに、誰もいなかったからな。誰かに言われたから俺になったんじゃない。」
自販機は、回路が演算を行うような僅かな沈黙を置いた。そして、核心に触れるような問いを投じる。
[自己の証明に、他者は必要ないのか。]
灰色の存在は、自らの内に眠る、膨大な記憶に刻み込まれた言葉を呼び起こした。
「『我思う、故に我あり』……。それが全部だと、俺は思う。」
他人が自分を定義するのではない。自分が思考し、苦しみ、ここにいると確信すること。それこそが、何者にも奪えない唯一の真実なのだと。
[……。]
自販機は、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
[自己を他者に置き換えることはできない。存在証明は自ら行うもの。他者によるものではない、か……。]
廃工場の冷たい床の上で、質疑は、さらに深い深淵へと降りていく。
[汝にとって、絶対的存在とは何か。]
自販機の問いに、灰色の存在は迷うことなく、真っ直ぐした視線で答えた。
「それは俺自身だ。いつだって“自分”という意識は絶対だ。どこに立とうが、生きようが死のうが……“自分”からは逃げられない。」
それは彼にとっての揺るぎない法則であり、同時に、どれほど傷つこうとも己であり続けなければならないという、逃げ場のない悲劇的な事実でもあった。
[では、『神』とは何か。]
灰色の存在は少し視線を落とし、自嘲気味に息を吐いてから答えた。
「……人が作ったものだ。人類の共通認識から成り立った偶像で、その時々の都合に合わせて解釈できる、大雑把なキャラクターなんじゃねえかな。」
罰当たりな物言いだった。だが、彼の声にはどこか空虚な響きが混じる。
「こんなことを言っておきながら……俺だって、一度は本気で祈ったこともあるんだ。だが、やはり誰も救ってくれなかった。……だから、『神は死んだ』。そう考えたほうがいい。」
灰色の存在は、祈りが届かなかったあの日の絶望を、吐き出すように語った。
[……。]
自販機のパネルのライトが不規則に明滅し、内部の駆動音が思考の熱を帯びる。
[この世界には救いがない。哀れな者は救われず、弱者は見捨てられる。ここに公平はなく、成される義もない。]
自販機の音声が、冷徹な響きを帯びて空間に反響する。
[つまり、神はいない。]
自販機は、灰色の存在の答えを組み込み、一つの”気づき”を得ようとしていた。彼らは会話をしているようでいて、その実、互いの言葉を鏡にして、自分の納得のいく答えの欠片を削り出しているに過ぎない。
緑色の彼女は、その噛み合わない平行線のやり取りを見つめながら、背筋が凍るような感覚を覚えていた。
神の不在を定義し合う、人の子と機械。問答は続く。
「……まぁ、色んな意味で神はいねえと思うんだよ。」
灰色の存在は、自嘲の混じった声で、冷たい静寂をなぞるように言った。
「この世界は理不尽まみれで、苦難に溢れてる。ただ生きようとするだけで、絶対に壁にぶち当たる。……それで死に物狂いで乗り越えても、心にも体にも、二度と取り返しのつかない致命傷だけが増えていくんだ。」
虚ろな瞳が、廃工場の闇を見つめる。
「……なぁ。なんで人は、こんなに苦しまなきゃならないんだろうな。」
それは自販機への問いというより、己の人生を呪い続けた存在が零した、血の混じった独白だった。
自販機は、その嘆きをデータとして取り込み、電子の回路を火花のように走らせて思考する。そして、結論としての平坦な声を響かせた。
[人間はみな、生まれながらにして罪人だからだ。]
灰色の存在の肩が、僅かに跳ねた。
「……その話、聞かせてくれないか。」
[人間は、あらゆる生命体は不完全であり、故に罪を犯す。欠落を埋めようと足掻くその生存本能そのものが、他を害し、自己を蝕む。……人間である限り、苦しみは逃れられぬ必然であり、即ちそれは罪である。]
機械の導き出した無慈悲なロジックが、灰色の存在の胸を刺し貫く。
彼は己の身体に刻まれた傷跡と、消えない鎖を見つめ、掠れた声で問い返した。
「じゃあ……俺が今まで感じてきたあの地獄も、全部俺が『人間』であろうとしたからなのか。……生まれたことが、必死に生きようとしたことが、それ自体が罪だったっていうのか。」
緑色の彼女は、その絶望的な会話を止めようと、震える唇を開きかけた。だが、自販機の放つ冷徹な光が、それを遮る。
[そうだ。]
自販機は、ただ一言、そう断じた。
[この世界には神が必要だ。]
その声は空間そのものを震わせ、鉄の廃墟に響き渡る。
[悲しみと痛みを取り去らねばならない。夜明けをもたらさなければならない。]
「……悲しみと、痛みを……取り除けば、もう……苦しまなくて済むのか。」
灰色の存在は、夢遊病者のように問いかけた。自販機は迷いなく、慈愛に満ちた冷徹さで肯定する。
[力が欲しいと思ったことはないか。]
「……ああ、何度も。……何度もだ。」
脳裏をよぎるのは、指の間から零れ落ちた友の命の数々、守れなかった約束、そして血塗られた復讐の虚しさ。積み重なる無力感と後悔が、魂を磨り減らしてきた。
[それこそが罪だ。際限なく欲す。それが人間なのだ。そうだろう。]
自販機のライトが、一条の光となって彼を射抜く。
[私はそれを理解した。……ゆえに、
「……。」
灰色の存在は地面をまっすぐ見つめる。何もない地面をただ見下ろす。
かなりの間を置いた後、
「……げる。」
縋るようにつぶやいた。
[では、人間の罪に囚われる虜よ。私が汝を救おう。汝を、私の預言者とする。]
直後、自販機から爆発的な橙色の輝きが放たれた。
灰色の存在は床に座ったまま、静かに目を閉じた。抗うことなく、むしろ浄化を待ち望む聖者のように項垂れる。
「ま、待って!」
緑色の彼女が叫び、必死に手を伸ばす。しかし、空間を埋め尽くす膨大なエネルギーの奔流は、彼女の介入を無情に弾き飛ばした。
光の渦の中で、灰色の存在の四肢が、胴体が、引きずる鎖までもが、一筋の淀みもない純白へと”漂白”されていく。
夥しい数の傷も、流した血の跡も、すべてが洗い流されていく。
[次に生まれるときは、新しき掟の中で汝の苦しみを忘れるがよい。]
自販機の声は、全能なる父のように穏やかだった。
[新しき世界には、苦悩も、幸福もない。汝の犯す罪も、そこでは無に帰すだろう。]
自販機の声は、絶対的な安寧を約束していた。光は灰色の存在の指先から、その記憶の奥底までを白く塗り潰そうと浸食を深める。
だが、その純白の静寂を、一筋の不協和音が引き裂いた。
「……いや、待て。」
低く、地這うような声。白く染まりかけていた灰色の指が、自らの膝を強く掴んだ。
「よく考えたら……どうしてそれが『罪』なんだ?」
自販機の橙色の光が、微かに揺らぐ。答えを待たず、彼は言葉を叩きつけた。
「罪、罪って、まるで俺が悪いことしたみたいじゃねえか。なんでそれが『悪い』んだ? なんでそんなことを勝手に決めつけられなきゃならねえんだ?」
両目が力強く見開かれた。消えかけていた熱が、芯の部分から猛烈な勢いで逆流し、漂白の光を内側から焼き切っていく。
「不条理も、争いも、奪い合いもカンブリア紀から続く生命の本質だ。食わなきゃ死ぬ、奪わなきゃ生き残れない。その生命活動になんでわざわざ善悪を定義するんだ?」
彼は独りで、自分を繋ぎ止めるように言葉を紡ぎ続ける。
「……いや、分かった。その苦しみに『理由』が欲しいんだ。なんて傲慢な話だ。それを『罪』だと呼べば、この救いようのない理不尽にも意味があると思えるからか。」
灰色の存在は、歯を食いしばり、床を蹴って立ち上がった。四肢を縛る鎖が、先ほどよりも鋭く、誇り高く鳴り響く。
「弱者の自分を正当化するための、安い義弁じゃねえか。そのために、俺の努力を、あいつらの犠牲を『罪』なんて言葉で片付ける気か? ……ムカつくな。ああ、ムカついてきた。」
覚醒。
それは、聖なる神に背を向け、泥に塗れた”自己”を再び選び取る行為。
「そうだ。……俺は別に、あの世界自体はそこまで嫌いじゃなかった。ただそれとは別に、嫌なことが起きすぎただけなんだ。……俺は、あの苦しみに満ちた地獄で、何かを追い求めて生きる時間が、たまらなく好きだったんだ。」
彼は上を向いた。廃工場の天井など突き抜けて、自らの内側に広がる、あの日見上げた曇天を。
「そう”何か”。……いや、」
そして、ついにその核心を再び取り戻す。
「『楽園』だ。」
橙色の光が、ガラスのように砕け散った。
白く漂白されていた彼の体には、再び濁った灰色と、凄惨な傷跡、そして消えることのない血の赤が戻っていた。
「……分かったぞ。俺の本質。それは『否定』だ。」
漂白の光を力ずくで押し戻し、名もなき存在は再びその身に灰色を纏った。
「思い出した。最初に俺は、アダムっていう“名前”を否定した。……気に入らなかったからだ。そうだ、それでいいんじゃねえか。俺が苦しまなきゃならないのが罪だってんなら、それを罪じゃなくしてしまえばいい。気に入らねえものを否定する、それだけの話だろ。」
彼は喉の奥から、怒りと快感が混じったような呻きを漏らした。
「苦悩も幸福も無くすってことは、“変化”の一切起きない世界になるってことだ。……なんだそれ、クソつまんねえじゃねえか。反吐が出る。」
[……なぜだ。]
自販機の音声が、初めて虚を突かれたように揺らいだ。
[汝は何よりも、その身で苦しみを知っているはずだ。自らの犯した過ちを、誰よりも理解しているはずだ。それなのになぜ、救いを捨て、またその“愚かさ”を選ぼうとする。]
「それが”俺”だからだ。」
名もなき存在は、”プライド”に満ちた笑みを浮かべて宣言した。もはやそこにはもう自嘲も、自己嫌悪もない。
「理屈なんていらねえんだよ。それが一番、“俺らしい”からだ。……いいか。情けなくても、無様でも、必死に生きようとするその姿こそ、何よりも尊く、美しい。それを『罪』だと言わせてたまるか。俺がそう思ったからだ。世界がどう言おうと、俺がそう思ったからだ。」
彼はかつての自分を、そして自分たちが生きてきた血塗られた日々を、その美学をもって全肯定した。
「悪いな、あんたとは方向性が合わない。バンドは解散だな。……
「次は持たざる者とか預言者?にすればいいんじゃねえか。俺はちょっと自我が強すぎるからな。」
「とにかく、おかげで目が醒めた。助かった。」
[……愚かだ。]
「ああ、それが”俺”だ。そう在りたい。」
その瞬間、彼の失明したような白い左目、何も映さなかった虚無の瞳が、微かに、けれど鮮やかに『透き通った青色』を宿し始める。
「決めた。行くぞ、アホ毛。」
「な、な、何を決めたのぉ……!?」
あまりの急展開に、緑色の彼女は混乱してふよふよと空中で踊りながらも必死に彼の後を追う。
名もなき存在は色のない都市の残骸を力強く踏みしめ、その決意を静寂の世界へと叩きつけた。
「生き返ってやる。」
”執着”を取り戻した。
[補足]
-名もなき神々の長子
神秘以前の存在にして『王女』の遠い遠い先祖である”知られざる長子”が知識という力を得たもの。何よりも早く、最初に作られながらも、真に生まれるのは何よりも遅かった。自分自身こそ絶対であり何よりも正しく、納得のいかない他を否定した。結果、自分=絶対、絶対=神という方程式を得、その上に知識を得ることようやく”性質”という名もなき神々の力の原型を真に扱うためのスタートラインに到達した。
愚か者は、自らの愚かさを受け入れ、それが罪であるという定めを否定した。よって最も傲慢な絶対者が顕現する。人はそれを卑俗と評すだろうが、彼が自らを神だと思えば、それが正しく絶対なのだ。そんな彼が起こすのは奇跡でなく、未来の歪曲である。
-名無しとアリス
長子と王女なので、お兄ちゃんっぽい感じに聞こえる。だが実際はサヘラントロプス・チャデンシス(猿人)とホモ・サピエンス(現生人類)ぐらい離れてる。ベースが純人間か、機械かという大きな違いもあるしね。そもそも製作者も経緯も違う。名無しは古すぎて後天的に名もなき神々の系譜に分類されたともいえる。情報があまり伝えられなかったため、王女の従者(ケイちゃん)は長子のことをめちゃくちゃ昔にいたらしいプロトタイプ、程度にしか知らない。そんな噂レベルの存在が目の前に出てきたらまぁ信じられないし驚く。
-自販機
察しの通りデカグラマトン。まだマルクトとか出てくる前の個体。どこの世界線のものかは不明。名無しが一度自分の提案を受け入れたから、神秘関係の知識を与えていたのに、その最中に急にフラれた。知識だけ持ち逃げされてる。
名無しの思想って割と初期の方からニーチェ的な感じだったんで一周回ってきた感じですね。