カタカタと乾いたキーボードの音だけが室内に響く。本来なら集中すべき書類の山が目の前にあるが、どうにも指先が重い。
終焉の危機を乗り越えてからというもの、この街を巡る問題は絶え間なく押し寄せてきた。SRTを巡る騒動、百花繚乱の継承、アビドスの生徒会の結末、そして今なお深い傷跡を残すアリウス分校の問題。
それら一つひとつに向き合うたび、私は自分の”限界”を突きつけられてきた。
かつてのように、ただ理想だけを掲げて突き進むことが難しくなっている。生徒たちを信じ、背中を押すことが大人の役割だと自負していたはずなのに、最近ではその一歩が、どうしようもなく重く感じられるのだ。
「”……ふぅ。”」
私は一度作業を中断し、背もたれに深く体を預けた。
無意識のうちに手が伸びたのは、デスクの奥にある鍵付きの引き出しだった。中から取り出したのは、一枚のカード。
プレナパテス。
別の世界線で、最後までシロコを思い、ボロボロになりながらも私にすべてを託した”私自身”が残したもの。
そのカードを、指先でそっとなぞる。冷たい質感のはずなのに、そこには消えることのない熱が宿っているような気がした。
「”もう一人の『私』なら、どうしたかな。”」
部屋の中で、私はそのカードをただ見つめる。
鋼鉄大陸で起きたあの出来事。守れなかったもの、失われた可能性。それらが澱のように心に溜まり、視界を曇らせる。
「”私はまだ、『先生』をやれているんだろうか。”」
独り言は虚空に消え、答えは返ってこない。
窓の外から差し込む昼時の強い陽光が、デスクに積まれた書類を白く飛ばしている。
かつての喧騒が嘘のように静かな午後。私は、手の中にあるひび割れたカードをそっと引き出しの奥へ戻した。
その時、デスクの上で『シッテムの箱』が小刻みに震え、アロナの声が響いた。
「先生! お仕事中に失礼します! プラナちゃんが、先生にどうしても伝えたいことがあるみたいなんです!」
私はすぐさま端末を手に取り、シッテムの箱の内部へとアクセスした。画面の向こう、透き通った青い教室に立つプラナが、いつも以上に真剣な表情で私を見つめている。
「……接続確認。先生、お忙しいところ申し訳ありません。ですが、無視できない予兆を感知しました。」
プラナの報告は、私の心に冷たいさざ波を立てた。
先日、キヴォトスの外縁部……次元の境界付近で、かつての『色彩』による干渉に酷似した”何か”を感知したという。
「……正確には、色彩ではありません。ですが、本質的に限りなく近い、”外側”からの未知の干渉です。既にその個体、あるいは現象は、この世界へと流入した可能性があります。」
「わ、私にはプラナちゃんのような感知機能はないのですが……でも、先生! 私も全力でプラナちゃんのバックアップをします! 何かあったら、すぐアロナに言ってくださいね!」
アロナが勇気づけるように拳を握る。けれど、私の胸中にある不安は拭えなかった。
『色彩』ではないが、それに近い存在。鋼鉄大陸での光景がフラッシュバックする。
あの時、私は自分の限界を知った。拾い上げようとしたものがどんどん零れ落ちていく感覚。
「”……また、何かが起きるんだ。”」
私は、消え入りそうな声で呟いた。
かつての私なら、もっと前向きに、根拠のない希望を語れたのかもしれない。けれど、積み重なった経験と後悔が、どうしても最悪の事態を想定させてしまう。
「”プラナ。その干渉があった場所、特定はできそうかな?”」
椅子から立ち上がり、私は端末の画面を覗き込んだ。
「……現在、解析を進行中です。複数の観測データから、座標を絞り込んでいます。先生、少々お時間をください。」
プラナは淡々と、けれど確実な足取りでデータの海を渡っていく。その隣で、アロナもサポートしていた。
「プラナちゃん、私もサポートします!うわぁ……ものすごい量のデータですね……。でも、問題はありません!」
そんな彼女たちの献身的な姿を見て、私は少しだけ自分の弱さを恥じた。
「”願わくば、今度は何も失わずに済むといいな……。”」
独白のような私の言葉に、プラナはこちらを見つめた。
「……理解しました。先生は今、とても不安なのですね。安心してください。私が隣で手伝います。」
その落ち着いた声に、わずかに強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。
しばらくして、シッテムの箱のメインモニターに荒野を指し示す赤いマーカーが点灯した。
「……地点を特定しました。アビドス自治区の外縁、人の往来が途絶えた廃墟地帯です。」
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吹き抜ける熱い風が、緑色の髪を乱暴にさらっていく。
名もなき存在は、錆びついた廃ビルの屋上の縁に立ち、陽炎の向こうに広がる廃墟の海が成す凸凹な地平線を眺めていた。かつては巨大な都市の一部だったであろうその場所は、今や崩れたコンクリートと砂に埋もれ、静まり返っている。
「場所がだいたい分かった。この辺、アビドス近くだろうな。」
視覚を共有している内なる彼女が、脳内で寂しげに呟きを返した。
『寂しい場所だね……。誰もいないし、風の音しか聞こえないよ』
空はどこまでも透き通った快晴だが、それがかえって地上の静寂を際立たせている。じりじりと熱を帯びた太陽が、彼の……今は”彼ら”の肌を容赦なく照りつけた。
「ここじゃ今のキヴォトスの状況はわからん。人のいる場所まで移動するか。」
こうして一つの体を共有し、絶え間なく意思の疎通を行っている彼らだが、客観的に見ればその姿は異様だった。物騒な装備に身を包み、さらしで胸を締め上げた童顔の女が、ヘイローも浮かべず、虚空に向かってぶつぶつと独り言を漏らしているのだ。
『どこに行くの? どこか心当たりがあるの?』
「そうだな……とりあえずD.U.のあたりに向かうか。あそこなら嫌でも情報が入ってくるだろ」
彼は迷いのない動きで屋上を蹴ると、壁面に露出した錆びだらけのパイプ管を掴んだ。前とは違う体であっても、その身のこなしは健在だ。
金属同士が擦れる高い音を立てながら、彼はスムーズに垂直の壁を降りていった。
砂に足を取られながら、沈黙する街の残骸を歩く。かつての繁栄を誇ったアスファルトは砂に飲み込まれ、風が吹くたびに砂塵が舞い上がった。
不意に、背後から緊張感のない、けれど攻撃的な声が響いた。
「ちょっと待ちな。」
振り返ると、そこには象徴的なヘルメットを被り、武装した少女たちがいた。キヴォトスのどこにでも湧き出るトラブルメーカー、ヘルメット団だ。
「マジか」
思わず顔をしかめて呟く。再生したばかりの女の喉から出る声は低く掠れていたが、それでも聞き慣れぬ己の声音に苛立ちを覚えた。
「そこの嬢ちゃん、怪しいな。……もしかして、アタシたちを追ってきたクチか?」
リーダー格と思われる少女が銃口を向けてくる。どうやら彼女たちは何者かに追われている最中らしく、周囲を異常なほど警戒していた。
『あわわ……何か、誤解されているのかも!? ちゃんと説明すれば……』
内なる彼女が脳内で慌てふためくが、相手の様子を見るに交渉の余地はない。
「待て、相手はたった一人だ! しかも、あのアビドスの”やべえやつ”でもない! おい、こいつを締め上げろ!」
一人が叫ぶと同時に、ヘルメット団の連中が一斉にこちらへと襲いかかってきた。
『ひぃん……』
「ほんと半グレみてえなやつ多いよなキヴォトスは……!」
彼は内心で忌々しげに吐き捨てた。
しぶしぶ戦闘体勢を彼はとる。いつもの得物である鉈はないので素手の構えで。
放たれる銃弾を、彼は紙一重の動きで回避する。
「あいつ、速っ……!?」
驚愕した一人に対し、彼は低姿勢で急接近した。懐に飛び込み、打撃で一瞬にして意識を散らす。流れるような動作でその手から銃を奪い取ると、気絶した相手の腕を背後にひねり上げ、肉の盾として固定した。
「動くなよ。まぁ動けねえだろうが。」
仲間の銃弾を浴びた肉壁がガクガクと震え、そのまま事切れるように脱力する。その一瞬の遮蔽を利用し、彼は奪った銃を乱射しながら次の標的へ接近した。
二人目の膝裏を鋭い横なぎの蹴りでかくんと曲げさせると、崩れ落ちた相手の後頭部に至近距離から銃撃を見舞い、瞬時にノックダウン。弾倉が空になるや否や、彼はその鉄塊を三枚目のヘルメットめがけて投擲した。
ガンッと硬質な衝撃音が響き、敵がのけぞる。その隙を逃さず、彼は地面に片手をつき、コンパスのように体を回転させた。遠心力を乗せた脚が美しい弧を描き、かかとが相手の脳天に炸裂する。
「あ、あれは漫画で見た灘神影流活殺術の蹴り技、『斧旋脚』だぁっ!」
後方でマネキンのように棒立ちしていたモブの如き雑兵が、場違いな驚嘆の声を上げた。
だが、彼は止まらない。降り注ぐ弾幕を影のようにすり抜け、敵に潜り込む。逆立ちの体勢から両脚を突き上げるように放たれた一撃が、ヘルメットの顎下を捉えた。
ガツンッと首が跳ね上がり、ヘルメット団の体は放り投げられたボロ雑巾のように宙を舞う。
「なにっ、今度は『地雷殺』かぁっ!」
外野でさっきのマネキンのようなモブが一人熱狂している。
『すごぉい……! けど、あの子、さっきから何を言ってるのかな?』
「さあな。……この体意外と動けるな。さらしで胸を固めて正解だった。この質量が揺れてたら、今の回転で軸がブレてたはずだからな。」
彼は倒した一人が手放した散弾銃を引ったくるように拾い上げ、即座に残党のうちの一人へ銃口を向けた。
轟音と共に放たれた散弾は、しかし火花を散らして弾かれる。
「へえ、バリスティックシールドか。面倒なモン持ってるな。」
防弾盾を構えた生徒に対し、彼は迷うことなく足元に転がっていた肉塊……ではなく気絶させたばかりの一人を無造作に担ぎ上げ、シールド持ちへ向かって全力で放り投げた。
「うわぁ!?」
飛んできた仲間の体に押し潰され、盾持ちの生徒がバランスを崩して倒れ込む。彼はその隙を逃さずゼロ距離まで肉薄し、顔面の横に散弾をお見舞いして衝撃で意識を刈り取った。
背後から別の銃弾が飛来し、彼の二の腕をかすめる。チッと舌打ちを一つ。彼は倒れた敵からシールドを強奪し、即座に身を隠した。
弾丸を盾で受け流しながら、彼は低空飛行のような勢いで突進した。盾の角で相手の顔面を一突きして殴打し、怯んだところへ散弾を叩き込む。
「結構いいなァ、これ!」
キヴォトス製装備の驚異的な防御性能と利便性に、彼は素直な感心を漏らした。
残るは、さっきから実況を続けていたマネキンのような一人のみ。彼はシールドを盾に距離を詰め、跳躍した。
空中でその体は尊き鷹の如くしなり、鋭い回し蹴りがヘルメットを捉える。
「そ、それは尊鷹の必殺技、灘神影流……”
叫びながらもその一人は、聖地巡礼でも終えたかのような満足げな顔で砂の上に沈んだ。
着地した彼の足元には、蹴りの風圧によってミステリーサークルのような綺麗な円が砂地に描かれていた。
「盾ってのも結構悪くないもんだな。……もらっていくか」
彼は奪ったバリスティックシールドを背中の装備に引っ掛け、無造作に歩き出した。どんな銃弾でも弾けたあの鉈とは少々用法が異なるが無いよりかはいいだろう。
「まぁちょっと予想外な妨害もあったが……行くか、D.U.に。」
『……ねえ、今の技の名前、本当にそうなの?』
「知るか。……んじゃ、長居は無用だ。」
彼らがその場を去ってから、数分後。
砂塵の舞う戦場に、一人の生徒がのんびりとした足取りで現れた。
「うへぇ~、おじさんがやる前に誰かがやっつけちゃってるよぉ~。……わざわざ来るまでもなかったかなぁ。」
眠たげな目をこすり、桃色の髪を揺らした彼女は、地面に描かれた異様な円と、完膚なきまでに叩きのめされたヘルメット団を見て、わずかに片目を細めた。
[補足]
-名無し
結局防弾ベストは着なかった。さらしの巻いた胸の上にそのまま上着を羽織っている。サイズがきつすぎたらしい。今はかなりワイルドな格好になっている。
-盾
防弾盾、バリスティックシールドともいう。どこにでも売られている何の変哲もないもの。鉈とは使い方が大きく異なるが、打撃も防御もできるので問題ナシ。