ならせめて共に迷おう
目の前に聳え立つのは、かつて誰かが生活していた痕跡を砂に埋もれさせた廃マンションだった。
プラナが指し示した干渉波の発生源は、この建物の奥深くにあるという。私はホシノと共に、錆びついた鉄扉を押し開けて足を踏み入れた。
「”……すごい古いね。空気が重い。”」
「うへぇ、本当だねぇ。建物自体が悲鳴を上げてるみたい。先生、足元気をつけないと、ここ、結構ガタが来てるよ」
剥がれ落ちた塗装が床に散らばり、むき出しになった配管が血管のように這っている。私はホシノの言葉通り、慎重に足を運んだ。けれど、老朽化した建物の容赦はなかった。階段の一部が崩落し、渡れそうにない隙間ができていたのだ。
「”うっ……。”」
私が足を止めると、ホシノが慣れた様子で私の前に立ち、手を差し伸べた。
「おじさんに任せて。……はい、掴まって」
彼女の手に導かれ、私は崩れた足場を越える。彼女の力強い支えがなければ、この先へ進むことすらままならない。私という存在の非力さを、改めて思い知らされる。
何度か階層を登り、ようやく目的の一室へとたどり着いた。
そこは、何の変哲もない住居の一室であったはずの場所だった。ひび割れた鏡が壁に張り付き、朽ちた家具が埃を被っている。けれど、その退廃した風景の中に、一つの異物が存在した。
「”……これは。”」
私は床に視線を落とす。そこには、赤黒い染みがあった。
まだ乾ききっていない、新しい血の跡だ。誰かがここで傷を負ったのか、あるいは……。
『……先生、解析が完了しました。この部屋には、先ほどまでの干渉エネルギーと酷似した残留エネルギーが漂っています。高密度です』
プラナの声が、私の耳元で小さく響く。それに続いて、アロナが明るい声で補足した。
『先生! 私も感知しました! このエネルギーの波長……さっきの戦闘の痕跡を辿った波長と、完全に一致します! この先です、この先なら確実に追いつけます!』
アロナの言葉に、私は深く息を吸い込んだ。
誰かが、つい最近までここにいた。そして、またどこかへ向かったのだ。
「”……ありがとう、アロナ。よし、ホシノ。どこか別の場所にいるみたいだ。戻って移動しよう。”」
「うへへ、了解だよ先生。逃げ足の速いお相手さんだねぇ。……おじさんが、ちゃんと追いかけてあげるから」
ホシノは頼もしげに銃を抱え直すと、先ほどよりも少しだけ鋭い眼差しで周囲を警戒した。
私は最後に部屋の血痕を一瞥し、この場所を後にした。
逃げているのか、それとも引き返しているのか。
その答えを知るために、私たちは再び砂塵の舞う荒野へと飛び出した。
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D.U.を出た彼は荒涼とした道を再び行く。かつてこの地に根付いていた生活の跡を砂が呑み込み、ただ熱い風だけが通り過ぎていく。
彼は無駄のない足取りで砂地を踏み締めていた。
ふと、彼は立ち止まることもなく、口を開いた。
「ようやく、この力をまともに扱えるようになった。」
「だから、いろいろ試してみようと思う。」
脳内に響く彼女の声が、わずかに緊張を孕んで問い返す。
『……何をするつもりなの?』
彼はガスマスクの奥で、どこか悪戯を企む子供のように口元を歪めた。どこか楽しげに。
「運動エネルギーの付与……。それをもう少し、面白いやり方で使ってみようと思ってな」
その言葉の響きに、彼女は心の中で固唾をのんだ。
彼は迷いのない足取りで、砂に削られた断崖の高台へと駆け上がった。眼下に広がるのは、どこまでも続く廃墟の海だ。
彼は背負っていたバリスティックシールドを無造作に引き抜くと、地平線に向けて水平に放り投げた。鉄塊が重力に引かれるよりも速く、彼はその表面に飛び乗る。
瞬時、彼が持つ性質によって、足元の盾に強烈な水平方向の運動エネルギーが継続的に与えられた。
『ひぃぃぃぃんっ!?』
内なる彼女が脳内で悲鳴を上げる。本来なら真っ逆さまに落ちるはずの盾が、物理法則をねじ伏せるように空中で制止し、猛烈な速度で前方へと滑り出した。
「どうだ見ろ、21世紀もビックリなホバーボードだ。1989年に映画で未来に夢見てた奴らが股を濡らしそうだぜ。」
彼は風を切る轟音の中で、愉快そうに笑った。雑多な記憶の中にある、かつての時代に描かれた空飛ぶスケートボードを彼はキヴォトスの防弾盾と性質の力で強引に再現してみせたのだ。
器用に重心を移動させ、不安定な浮遊物体を乗りこなす。眼下を高速で通り過ぎる瓦礫や砂の渦。彼女には彼が口にした映画のジョークなど理解する余裕もなかった。ただ、空を切り裂き、高所を矢のように突き進む視界の暴力に、必死で意識を保つのが精一杯だった。
高度を滑走……いや、滑空する防弾盾の上で、彼女の震えは徐々に収まりつつあった。
吹き付ける風の音にも慣れ、視界がぶれなくなる。彼はその変化を感じ取り、前を向いたまま語り掛けた。
「どうだ、何か思い出せそうか?」
彼女は困ったようにうなる。
『う~ん……この辺りじゃまだもやもやするの……。』
もどかしげな声が脳内に響く。彼はそれを責めようとは思わなかった。まだ記憶を取り戻すための道のりは長い。
だがその時、ふと彼女が横に広がるアビドス砂漠の彼方に視線を固定した。空気が揺れるような、かすかな既視感を彼女が覚えたのが、彼にも伝わってくる。
『あっち側のほうが、何か思い出せそうかも……。』
彼女の指差した先は、先ほどまで進んでいたルートとは大きく異なる、砂漠の最奥部だった。
彼は迷わなかった。
「そうか、じゃああっちに行くぞ」
彼は即座に盾へ、さらに高出力の運動エネルギーを流し込んだ。
空中で盾を支点にし、強引に制御する。物理法則を無視したピボットドリフトを敢行し、空中で腰を真横にひねった。風を切り裂き、物理的な慣性さえも運動エネルギーで相殺する。強烈な横Gが二人を襲ったが、彼はそれを愉しむように加速した。
空に描いた急角度の弧。盾の下面から蹴りあげられるような衝撃波が押し寄せる。彼らは進路を真横に変えて、日に焼かれるアビドスの砂漠へと一気に突き進んでいった。
そして進む中、砂漠の真上で彼女の様子がおかしくなっていった。
視界を共有している彼に、彼女の意識から零れ落ちる断片的な思考がノイズのように混じり始める。
『……方角がわからない』
『のどが渇く……』
『それは私は、何か忘れものをしたから……』
それは、今この瞬間に感じていることではない。もっと古く、深く、彼女の魂に刻み込まれた”記憶の再演”である。
「……少し、下に降りてほしいの。」
その消え入りそうな声に従い、彼は盾に付与した推進力を緩めた。徐々に高度を落とし、舞い上がる砂塵と共に砂地へと着地する。
そこは、見渡す限りの砂が波打つ、何の特徴もない広大な砂漠の真ん中だった。
じりじりと日が照りつけ、フライパンのように熱された地面。蜃気楼が揺れるその中心で、彼女の声が脳内に響き渡った。
『私は……。そうだ、ここで死んだ。……コンパスを忘れて、方角がわからなくなって。……それで……』
最期の瞬間の記憶。絶望的な渇きと方向を見失った孤独。彼女はこの過酷な砂の海で一度、命を落としていたのだ。彼は何も言わず、ただ黙ってその独白を受け止めた。
沈黙が流れる。やがて、彼女は困惑したように新たな疑問を口にした。
『でも、なんで死んじゃったのかが分からない……。私が誰で、何をしていたかも、まだ分からないの……。』
死んだ状況は思い出せても、その”理由”と”自分自身”が欠落している。
パズルのピースはまだ揃わない。けれど、彼はガスマスクの奥で力強く頷いた。
「そうか。……なら、これで一歩前進だ。死んだ場所がわかったんなら、次は死ぬ前にいたどこかを探していけばいい。また移動して、一つずつ思い出していこうぜ。」
突き放すのではなく、共に歩む相棒として彼は穏やかに励ます。だが、彼女は視界の端から端まで広がる砂の地平線を見渡し、途方に暮れたように呻いた。
『……次はどこへ行けばいいんだろう。ここから先どうすれば良いかわからないよ……。』
道標のない砂漠。彼女の記憶の糸は、ここで一度途切れてしまっていた。
灼熱の砂漠の真ん中、彼はガスマスクの奥で深く息を吐き出した。逃げ場のない熱気の中で彼は静かに、けれど確かな意志を込めて彼女に語りかける。
「誰であろうといつだって先の見えない暗闇の中で迷ってるもんだ。……その点じゃ、俺だって何度も道を見失ってきた。出口のない袋小路で何が正しいのか分からず立ち尽くしたことなら誰よりも知ってるつもりだ。」
それは彼自身の、痛みを伴う記憶からの言葉だった。彼は少しだけ視線を下げ、自嘲気味に続ける。
「あの色のない世界で完全に虚ろだった俺を突き動かしたのは、他でもないお前だった。……お前が方角を見失っているのなら、俺がしばらく共に迷ってやるよ。それで道を少しずつ見つけてやるさ。まぁ……俺じゃコンパスほど頼りにはならねえだろうがな。」
彼は自虐的なジョークを交えながらも、その表情には揺るぎない自信が満ちていた。迷うことすら楽しもうとするような、不敵な笑み。彼は空を見上げ、野心に溢れた瞳で言葉を継ぐ。
「……だが、言っておくぞ。再び生きる以上は多少の苦難も覚悟しておけよ? 俺たちは生き返ったんだ。生きるってのは、そういうことだ。……へこたれてられねえぞ。気張って行けよ。」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせる誓いのようでもあった。彼の中にあった冷え切った焦燥は、どこか前向きな”飢え”へと変わっている。そんな彼の姿に、脳内での不安を払拭したのか、彼女はいつもの明るい雰囲気に戻って笑った。
『……ふふっ、君はポジティブだね!』
「……お互い様だ。ぶっちゃけ前はお前のポジティブさにビビってた。」
彼は軽く肩をすくめ、再び進みだす。
砂漠の熱風が二人の間を吹き抜けた。
ここから先がどんな運命に繋がっているのか、今はまだ分からない。けれど、彼らが失ったものを拾い集めるための旅路は、確実に続いていく。
”彼ら”は盾を手に取り、また一歩を踏み出す。