真夜中のアビドス高等学校。月明かりに照らされた砂塵が舞う中、校門の前に一人の影が佇んでいた。
緑色の髪が夜風に揺れ、その瞳は閉ざされた鉄門の先にある静まり返った校舎を見据えている。
「ここは……。私の記憶の中にある”最初の場所”ではなかったよ。」
彼女の声が静寂を裂いて漏れ出した。
内に宿る彼はその言葉の意味を咀嚼する。彼女にとっての原風景ではない。だが、彼女は慈しむように門の感触を指先で確かめた。
「でも……私にとって、とても大事だったものがここにあった。そんな気がするの。」
彼は無言で頷き、身体の主導権を鋭く引き寄せて校門を軽々と飛び越えた。
侵入者として、影に潜みながら校舎内へと足を踏み入れる。
昼間の喧騒が嘘のように冷え切った廊下。
一歩進むごとに、彼女の意識が波立つ。彼女は暗闇の中に散らばる記憶という名の落穂を、一つ一つ拾い集めていくように足を進めた。
「……ここ、通ったことがある。誰かと、笑いながら。」
「この壁の傷……。私がつけたものかもしれない。」
確証のない、けれど確かな温もりを伴った感覚が、彼の脳内にも流れ込んでくる。
廊下の突き当たり、彼女の歩みが止まった。
ある一室の、古びた扉の前。
「昔、ここに初めて”二人”で来た時……狭いって、言われたんだっけ。」
彼女の声は、懐かしさと寂しさが混ざり合った不思議な響きを帯びていた。
”二人”。その言葉が指すのが誰なのか、彼は薄々気づき始めていた。
彼女の意思が、震える手を扉のノブにかける。その部屋……かつてのアビドス生徒会の拠点に。
静まり返った深夜の校舎。当然ながら、その扉には固く鍵がかけられていた。
「あれっ? えっと……どうしよぉ……。開かないよぉ……。」
彼女が困惑して戸惑うその瞬間、主導権が鋭く彼へと移る。身体の制御を上からなぞるように御し、彼は作業着のポケットを弄った。
「……そのために居るのが俺なんだぜ。」
低い方の声が響く。彼は手慣れた手つきでドライバーとピンセットを引き抜くと鍵穴に差し込み、神経を集中させた。カチリ、という乾いた金属音。抵抗が消え、扉が吸い込まれるように内側へ開く。
部屋の中は現在の対策委員会が拠点にしている賑やかな部室とは対照的な場所である。
当然深夜なので人影はなく、空気は冷たく澄んでいるものだ。備品は比較的きれいに整頓されており、時が止まったかのような静謐さが漂っていた。
一歩、足を踏み入れた瞬間、彼女の感覚が奔流となって溢れ出した。
「覚えてる……覚えてるよ……。」
彼女は、懐かしさに胸を締め付けられるように独り言を漏らした。
視線の先には中央に置かれる机や、古びた椅子。かつて誰かと過ごした時間の断片が埃の舞う暗がりに浮かび上がる。
「ここで、いろんなお話をしたっけ。……何回も叱られたり、あきれられたっけ。あはは、私ってば、本当に手がかかる子だったんだね。」
彼女の声は泣き出しそうなほど優しく、どこか遠い。
内に宿る彼は彼女の視線を通じて流れ込んでくるかつての日常の輪郭を、無言でなぞっていた。叱ってくれた誰か。あきれながらも隣にいてくれた誰か。
静まり返った生徒会室。窓から差し込む淡い月光が主のいない机を青白く照らし出している。
彼女は、まるで吸い寄せられるようにその中央の椅子へと歩み寄った。かつて、誰よりも大きな責任を背負い、誰よりも温かな夢を見ていた場所。
「……思い出した。」
指先が、埃を被った机の縁を愛おしそうになぞる。記憶の濁流が、彼女の脳裏に日常という名の断片を叩きつける。
笑い声、重なる書類の山、窓の外に広がるかつてはもっと青かったアビドスの空。そして、隣で呆れながらも自分を支えてくれていた誰かの体温。
「私は……この、アビドスの生徒会長だったよ。」
その言葉は、誇りよりも深い悲しみに濡れていた。
立場は思い出した。役割も思い出した。けれど、肝心の『自分』が欠落している。
「でも……まだ自分の名前が思い出せないよ……なんでだろう。あんなにみんなに呼んでもらったはずなのに……。」
彼女の嘆きが狭い部屋に虚しく響く。名前を失った生徒会長。それは存在そのものが”矛盾”しているようで、彼女の心に冷たい隙間風を吹かせた。
内に宿る彼は、彼女の胸を締め付ける喪失感をダイレクトに感じ取っていた。
この部屋にある過去だけでは、彼女の魂を繋ぎ止めるには足りない。
「……それじゃあ、違うとこに行くか?」
彼はあえて尋ねた。彼女が次にどこへ向かいたいのか、その震える意思を通じて彼は半ば把握していたが。
「うん……行きたい場所があるの。」
彼女は決然と顔を上げた。
思い出の詰まった生徒会室に背を向け、二つの魂を宿した肉体は再び深夜の廊下へと踏み出す。
そして深夜の砂漠を、二つの魂を宿した肉体が静かに駆ける。
道を切り拓くのはもはや彼の判断ではなく、彼女の内側に眠る根源的な引力だった。一歩一歩、砂に足を取られながらも彼女の意思は迷いなく目的地へと彼を導いていく。
辿り着いたのは、現在の対策委員会が拠点としている校舎から遠く離れた、アビドスの”旧校舎”だった。
かつては巨大学園都市としてその名を轟かせたアビドス。今使われている校舎など、広大なキャンパスのほんの一部。かつての別館の一つに過ぎない。吹き荒れる砂嵐と止まらぬ砂漠化によって、富、権力、そして何万という生徒たちは去っていった。
風に削られ、鉄骨を剥き出しにした巨大な廃墟。
彼女はその崩れかけた正面玄関の前で足を止めた。
「ここ……。まだ、”二人”だけじゃなかった頃。私が、あの子と初めて会った場所……。」
彼女の声が、震える吐息と共に夜空へ溶ける。
内に宿る彼は、彼女の視界を通じて重なり合う幻視を見ていた。
今は音もない廃墟に、かつては無数の生徒たちの喧騒があったこと。そして、その人混みの中で、たった一人鋭い眼差しと孤独を背負ったあの子を見つけた瞬間の高揚感を。
「私が……生徒会長になるって決めた場所。この学園を守るんだって……」
彼女はかつて自分が生徒会長としての生を歩み始めたその原点に立ち、失われた過去を慈しむように壁に触れた。
砂漠化が進み、仲間が一人、また一人と去り、絶望が校舎を侵食していく中で。それでもなお、彼女を動かし続けたのは、この場所で芽生えた無垢な願いだった。
彼は、彼女の心に満ちていく温かな熱量と、それとは対照的なその後の結末への予感を同時に感じ取っていた。
この場所は彼女にとっての聖域であり、同時にすべての悲劇の起点でもある。もっとも、当時の彼女は悲劇だとは微塵も思っていないようだが。
砂に侵食され、月の光さえ届かない旧校舎の奥深く。崩れ落ちた天井の隙間から、冷たい夜風が吹き抜ける。
彼女は、かつて自分が生徒会長に任命された。あるいは、そう祭り上げられた部屋の壇上を見つめていた。
「思い出したよ……。生徒会長なんて、かっこいいものじゃなかったんだね」
彼女の声は悲しみというよりは、どこか自分に呆れたような響きを帯びていた。
当時、砂漠化が進み沈みゆく泥舟だったアビドス。先輩たちは次々と責任を放り出し、面倒な残務処理と膨大な負債を、たった一人やりますと手を挙げた無知で善良な後輩だった彼女に押し付けて去っていったのだ。
それは名誉などではなく、ただの枷であった。
「でもね……私、それが嫌じゃなかったんだ。みんなが困ってるなら、私が頑張ればいいって。えへへ、ちょっとお気楽すぎだよね」
内に宿る彼は、彼女の良く言えば前向きさ、悪く言えば頭お花畑なまでの全能感と楽観に毒気を抜かれたような感覚を覚える。
彼は地獄を見てきた。裏切りと策略、数え切れないほどの死。だからこそ、彼女のような”徹底的な善意”を最初は信じられなかった。だが、死後の色のない世界で対話を重ね、そして今こうして一つの器を分け合う中で、彼は認めざるを得なかった。
自分は意図せず、救われたのかと。
現実を非常なまでに見据える彼の冷徹さが、彼女の危うい足元を支え。
絶望の底でも明日を信じる彼女の前向きさが彼の凍りついた心を、少しずつ、けれど確実に溶かしていったのだ。
キヴォトスという現世に死者として外から侵入した二人。彼に必要なのは、銃火器の扱いでも冷酷な戦術でもなく、彼女が持つその楽観さだったのかもしれない。
「ねぇ。私、ここに来てよかった。……全部は思い出せなくても、私が私でよかったって、ちょっと思えたから」
彼女は、埃の積まった檀上の手すりをそっと撫でる。
静まり返った旧校舎の講堂。崩落した天井から差し込む月光の下で、彼女はゆっくりと、己の深淵に手を伸ばした。
すべての記憶が戻ったわけではない。幼い頃の家族の顔も、初めて自転車に乗った日の記憶も、まだ霧の向こう側だ。けれど、この砂に埋もれかけた学園都市において自分が何を信じ、何を愛し、そして何を背負っていたのか。その決定的な核に触れた。
「……思い出した。私の名前」
彼女の唇が、震えながらも確信に満ちた音を紡ぐ。
「私の名前はユメ。……梔子ユメだったよ」
この”今の”キヴォトスにおいて名前を大きな意味と力を持つ。それは存在の証明であり、失われていた意味の再定義に他ならない。
彼女の頭上何もない暗闇に、音もなく静かに、だが力強く光が現れる。
それは別存在として出の夜空のような色ではない。暖かくも力強い、彼女本来のヘイローの色だった。
暗闇を黄金色の光が塗りつぶしていく。埃の舞う廃校舎が、その瞬間だけは神聖な神殿のように神々しく照らし出された。
内に宿る彼は、その光の眩しさに思わず意識の奥で目を細めた。
梔子ユメという記号から導き出されたテクスト。アビドスという物語において欠落していた最大の一節が、今、不完全ながらも現世へと再編されたのだ。
旧校舎の窓の外、地平線の端が微かに白み始めていた。
結局、コンパスの場所は忘れたままであった。”手帳”だってどこにあるのか分からない。
彼はこれまでにないほど穏やかで優しい声色を投げかけた。まるでパートナーを見守るような、あるいは共に地獄を歩んだ戦友を労うような響き。
『方角は分かったか。』
その問いに彼女、梔子ユメは割れた鏡の破片に映る自分の姿を見つめて、にへっと屈託のない笑顔を浮かべた。無垢な笑顔だ。
「うん、ありがとう。……もう、迷わないよ。」
鏡の中の彼女の瞳には、かつての弱さではなく、一人の「先輩」としての決意が宿っていた。
「私、『ホシノちゃん』に会いたい。」
その一言が放たれた瞬間、彼女の頭上で輝くヘイローが夜明けの光と共鳴するように一層強く発光した。アビドスの朝を告げる、朝色の神秘。
彼はその決意を真っ向から受け止める。
融合の影響か、それとも彼女の純粋な意思に当てられたのか。今だけは彼の荒れた口調は消え、朝露のように透き通った声が一つの肉体から漏れ出した。
『……そうか。じきに夜が明ける。』
二つの魂は、今や一つの明確な座標を目指していた。
失くしたものを無理やりにでももとに戻すために。そして、本来なら決して起こりえなかった禁忌と矛盾を孕む新しい物語へと進むために。
傲慢であってもかまわない。愚かであってもかまわない。
それらによって生じる”自由”がそれを可能にする。
『行こう。』
朝焼けに照らされた砂の海を梔子ユメが力強く蹴り出す。
向かう先は現校舎。
そこには、最愛の後輩が待っている。
[補足]
-肉体
彼らがこの梔子ユメの体に押し込められたのは全くの偶然というわけではなく、最初から持ち主が戻ってきただけのことだった。現在、体の主導権は彼女のほうにある。
-ヘイロー
梔子ユメという名前を思い出したことでやっと整合性が取れた。キヴォトスにおいてユメという人物を形作るための最低限の情報が戻ってきたため、それに準じて元の神秘も戻った。
クチナシって花言葉に「私は幸せ」「幸せを運ぶ」といった意味を持つみたいですよ。