太陽を運ぶ
地平線の端がわずかに白み始めたこの時間、ただでさえ少ない住民が起きて出歩いているはずもない。風が砂を運ぶ乾いた音だけが支配する路上で、せっせと動物の糞を転がしているフンコロガシが一人の少女の足元を横切っていった。
ユメは、一歩一歩の感触を確かめるようにアビドス高校の校舎へと向かって歩いていた。
ヘイローを灯し、素顔を晒した今の彼女は、もはや夜の亡霊ではない。けれど、その胸の内には朝露のように冷たい不安と緊張が凝り固まっていた。
「……ねぇ。やっぱり、怖がらせちゃうかな。……もし、私がユメだって信じてもらえなかったら、どうしよう。」
消え入りそうな声で彼女が嘆く。
無理もない。自分は一度死んだはずの存在だ。それが何の予兆もなく、変わり果てた姿……自分とは別の誰かを宿した状態で現れる。残された者にとってそれが救いではなく、耐え難い恐怖や冒涜として映る可能性を彼女は本能的に察していた。
そんな彼女の震える意思に、内側から彼が言葉を投げかける。
『……そうだな。怖がられる可能性も偽物だと罵られる可能性も、否定はできない。』
突き放すような、けれど事実を直視した冷徹な声。彼は一度言葉を区切り、一呼吸置いてから続けた。
『だがなアホ毛。……お前は、もう少し自己中に考えてもいいんだ。』
「……えっ?」
『もし怖がられたら、そりゃあショックだ。俺だって見知った仲のやつにそんな反応されたらキツイ。……だが、それでもだ。相手がどんな顔をしようが、生きてもう一度会える。それだけで、十分うれしいことなんじゃないのか。』
それは、どこか視点のズレた言葉であった。
道徳的でもなければ、情緒的な慰めでもない。かつて数多の命を奪い、恐れられ、蛇蝎のごとく憎まれてきた異物。そんな彼が地獄の先、色のない世界でただ一つ巡り合った温もり……ユメという存在に送る激励。極めて個人的で、本質的な生の肯定だった。
『嫌われるのが怖いから会わない、なんてのは贅沢な悩みだ。俺に言わせりゃ、生きてその姿が見られるなんてで……それはもう、奇跡の勝ち越しなんだよ。』
うわべだけの励ましではない。泥を啜り、暗闇を這いずってきた彼なりの無骨なエール。
その言葉を聞いたユメは一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……あはは。君は本当に、たまに凄くかっこいいことを言うね。……そうだね。ちょっと怖いけど、会いたいんだもん。我慢できないもんね。」
彼女は自分の両頬をパチンと叩き、気合を入れ直す。
迷いは、夜明けの風に吹かれて月が落ちた方向へと消えていった。
「よし。行こう! ……ホシノちゃんに、おはようって言わなきゃ。」
朝焼けの光が、校舎の屋根をオレンジ色に染め始める。
アビドス高等学校の正門前。
かつて毎日のように通り、見慣れていたはずのその門は今や朝日を浴びてどこか神聖な境界線のように屹立していた。
ユメにとっては、ここは奇跡の跡そのものだった。一度は砂に呑まれ永遠に失われたはずの日常を、もう一度だけ続けられる。その可能性が、今、手の届く距離にある。
「(……奇跡って、いつか終わっちゃうものなんだよね)」
かつての彼女は砂漠化が進む絶望の中で、今日という一日が続くこと自体を奇跡だと思って過ごしてきた。そしてその奇跡は一度、残酷なほどあっけなく終わりを迎えたはずだった。
けれど、終わりの後で”彼”と巡り合い、生き返るというさらなる奇跡に、今の自分は生かされている。
「(私、こんなに恵まれていいのかな……。本当に、この門を通ってもいいのかな)」
ふと沸き上がった臆病な自問。自分は、この神聖な学び舎を再び踏み荒らす資格があるのだろうか。
だが、その迷いは身体を共有している彼には完全に筒抜けだった。
『いいんだ。お前には、それが許される。』
脳内に響く彼の声。それは、いつもの毒気や荒々しさが削ぎ落とされた、ひどく穏やかで、だがどこか儚い響きを帯びていた。
『いいか、ユメ。お前は今から、”自分の望み”だけを考えろ。ただここを真っ直ぐ歩いて、お前が信じる場所に行くだけでいいんだ。』
諭すようなその言葉は、まるで自分を犠牲にしてでも彼女を光の中へ押し戻そうとする遺言のようにも聞こえた。
『さあ、行ってこい。』
背後から、声と同時に強い衝撃を感じた。
それは幻覚だったのかもしれない。横にいた黒く長い髪の美しい顔をした存在が、力強くその背中を押してくれたような。
当然、背後には誰もいない。だが、ユメの背中には確かな感覚が残る。
「うん。わかってるよ……!」
彼女は振り返らなかった。
一歩。砂を踏み締める。
二歩。門を潜り、校庭へと足を踏み入れる。
もはや迷いはない。他ならぬ、”自分の望み”を叶えるために。
ヘイローを輝かせ、緑色の髪を朝風になびかせながら梔子ユメはしっかりした
黒い残滓が彼女の背を見送る中で。
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朝の光が斜めに差し込む廊下を、ユメは静かに歩む。
かつての喧騒はそこにはなく、ただ懐かしいワックスと砂の混じった匂いが鼻腔をくすぐった。足音が響くたび、記憶の頁がパラパラと捲られていく。
「(……あれから、どのくらいの時間が経ったのかな)」
自分にとっての時間はあの砂漠で一度止まってしまったけれど、世界は、そして彼女の愛した人は止まることなく時を刻み続けてきたはずだ。
「(もしかしたらホシノちゃん、もう一年生じゃなくなってるかも。後輩ができて、立派に『先輩』をやってくれていたら……私、すごく嬉しいな。)」
想像するだけで、胸の奥が温かな期待で満たされる。あんなに尖っていたあの子が、誰かを導く背中を見せている。それはユメにとって、何よりも見たい光景だった。
迷いはなかった。身体が、魂が覚えている場所へ。
ユメはある教室の扉にそっと手をかけ、ゆっくりと引き開ける。
そこには鮮やかなピンク色の髪をした小さな少女がいた。
机をいくつか並べてベッド代わりにし、丸くなるようにして眠っている。
「ふにゃ……くぅ……」
と、無防備で穏やかな寝息。朝日がその頬を優しく撫でる。
ユメは息を呑み、そして、とろけるような慈愛を込めて目を細めた。
最後に見たときよりもずっと長く伸びた髪。かつての鋭利な雰囲気は影を潜め、どこか柔らかな雰囲気を纏っている。
「……少し、大人になったみたいだね。」
ユメは小さく、けれど確かな喜びを込めて微笑む。
数えきれないほどの夜を越え、ようやく辿り着いた。
ユメは並べられた机の端に、羽毛のような軽やかさで腰を下ろす。
指先を伸ばし、かつて何度もそうしたようにホシノの柔らかい頬にやさしく触れる。指先から伝わる確かな体温が自分たちが今、同じ現世の空気を吸っていることを教えてくれた。
「……ただいま。そして、おはよう、ホシノちゃん」
ユメが慈愛に満ちた声で囁くと、ホシノの長いまつ毛が震えた。
懐かしく、温かく、砂漠の冷えた夜さえ溶かしてしまうようなあの独特の雰囲気。それを無意識に感じ取ったホシノは、拒絶することなくゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
「……ん、ぅ……。ユメ先輩、居たんですか……。遅いですよぉ……。」
ホシノはまだ夢と現の境界にいた。寝ぼけ眼をこすりながらまるで吸い寄せられるように、目の前にいるユメのお腹にぎゅっと抱き着く。そのまま再び、安堵しきった顔で目を瞑ってしまった。
「ごめんね、遅くなっちゃった。」
ユメは愛おしそうに、小さな後輩を抱きしめ返す。
しかし、その温もりと腕の感触が、あまりにも現実的でホシノの脳を叩いた。嗅ぎ慣れた、けれどずっと嗅ぐことの叶わなかった先輩の匂い。
「えっ……えっ!?」
唐突に脳が覚醒し、ホシノは爆発的な勢いで飛び起きた。
勢い余って起き上がらせたホシノの頭が、至近距離にいたユメのおでこに激しく衝突する。
「あいたっ!」
「あいたたた……。うへぇ、びっくりしたよぉ……。」
ユメはおでこをさすりながら少しだけ涙目になりつつも、にへっと屈託なく笑った。
「でも元気そうでよかった、ホシノちゃん。」
「ユメ先輩……? ユメ先輩……!?」
ホシノは、まるで零れ落ちそうなほどに目を見開いた。
弾かれたようにユメのもとへ駆け寄ると、その体に再びしがみつく。指先に伝わる肉の弾力、体温、そして自分を受け止めてくれる確かな重み。
「ほ、本物? 偽物じゃないですよね? ユメ先輩なんですよね……っ!?」
必死に縋り、それが事実かどうかを何度も確かめる。
そんな後輩の勢いに、ユメは堪えきれず「あはは、くすぐったいよぉ」と声を立てて笑った。その屈託のない笑い声こそが、何よりの証明だった。
「というか、な、なんなんですかその格好は!?」
我に返ったホシノが、ユメの着ているワイルドな姿を指摘する。
お腹の見える、かつての清楚な制服姿からは想像もつかない装い。ユメは「ごめんね、制服なかったから……」と、恥ずかしそうに露出したお腹を腕で隠した。
「びっくりしたってこっちのセリフですよ! 本当に……本当に、ユメ先輩なんですよね!?」
現実を確定しきれないホシノの叫びに、ユメは何度も、優しく、慈しみを込めて頷いた。
「うん、久しぶりだね。ホシノちゃん」
「ユメ先輩……ユメせんぱぁい……っ!」
堰を切ったように、ホシノの瞳から涙が溢れ出した。彼女はユメをより強く、もう二度と離さないと言わんばかりの力で抱きしめる。ユメもまた、その小さな肩を包み込むように抱きしめ返した。
小鳥遊ホシノは、梔子ユメという人物の死を乗り越えたはずだった。
死を、喪失を受け入れることで、彼女は地獄のような孤独から這い上がり、対策委員会と共に前へと進んできた。
その葛藤と成長を『否定』するかのような、死者の蘇りという禁忌。
これは、誰かが用意した小鳥遊ホシノへの安易な報酬ではない。
死後、冷たい虚無に沈んでいた彼を再び立ち上がらせた、緑色の存在。
梔子ユメと彼が交わした約束が形を成したもの。
あり得ない奇跡のような、けれど二人が歩んできた執念が手繰り寄せた”必然”が成した定めの歪曲である。
「ユメ先輩……本当に、ずっと、ずっと会いたかった……っ!」
しゃくりあげ、子供のように泣きじゃくるホシノの声が教室に響く。
「よしよし。本当に遅くなってごめんね。……でも、私も会いたかったよ。ずっと、ずっとね。」
ユメの目元にも、真珠のような涙が浮かんでいた。
昇りゆく朝の光が窓から降り注ぎ、抱き合う二人の影はゆっくりと縮んでゆく。
「あっ、そういえば紹介したい人がいるんだ!」
ユメは思い出したようにパッと表情を明るくすると、ホシノから一旦手を放し、自分のこめかみにそっと指を当てた。
「ねえ、代わってくれる? ホシノちゃんにいろいろ説明しないといけないし……」
ユメは自分の内側、もう一人へと語り掛ける。ホシノへの説明、これまでの旅路、そして何より、自分をここまで連れてきてくれた存在を誇らしく紹介したかったのだ。
だが、返事はない。
「あれっ? ねぇ、もしもし? なんで答えてくれないのぉ……?」
一人で虚空を見つめ、何かに問いかけ続けるユメ。その異様な様子に、ホシノの顔から血の気が引いていく。
「ユ、ユメ先輩!? どうしたんですか……!? まさか、さっき私と頭をぶつけたせいで……頭に異常が……っ!?」
「いや、違うよぉ! 私を生き返らせてくれた”友達”がいるんだよぉ……。ねぇ、どうして何も言ってくれないのぉ……!?」
ユメもあわあわと慌てふためきながら、必死に自分の奥底へ語り掛け続ける。だがどれだけ叫んでも、どれだけ意識を集中させても、あの低く冷徹で、死後誰よりも自分と共に在った声が響くことはなかった。
もう、彼女は一人だった。
一つの器に、一つの魂。
もう融合する危険も自我が消える恐怖もない。今の彼女はただの『梔子ユメ』だ。
「ユメ先輩に……イマジナリーフレンドが……。私のせい……? 私が強くぶつかったせい……? 私のせいで……私のせいで私のせいで……っ!」
ただでさえ限界だったホシノの情緒は一気に崩壊し、ぶつぶつと自責の念を呟きながら不安定になり始めた。
「あわわ、大丈夫だから! ごめんね! ぶつかったのは関係ないから! よしよ~し……」
ユメは慌ててホシノを再びその豊かな胸に抱き寄せ、優しく頭を撫でる。
かつてのように。いや、失われた時間を取り戻すかのように、何度も、何度も。
窓の外を見上げれば、そこには混じり気のない快晴が広がっていた。
夜明けを果たした光はどこまでも透き通り、再会を果たした二人を祝福するように照らし出す。また慌ただしくも愛おしい日々を歩んでゆくのだろう。
見るといい、空は透き通っている。
そこにもう雲は一つもない。
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まだ朝日の届かぬ冷え切った路地裏。
湿った空気とゴミの臭いが漂うその場所で打ち捨てられていたガラクタが、不気味な金属音を立てて身を震わせた。
寄せ集めのジャンクパーツがまるで意志を持った筋肉のように繋がり、形を成して起き上がる。
「……ロボット工学を専攻してたわけじゃねえが、地味にマルムの体を組み立てた時の経験が活きたな。」
ぎこちなく動く機械の腕。その奥から響くのはユメの体から消えたはずの、あの低く冷徹な彼の声だった。
最近で組み立てられたばかりのような、粗削りな機械の肉体。彼は重い金属の四肢を動かし、感触を確かめる。
「読み通りだな。機械の体でも、一時的に意識さえ飛ばせれば依り代にできる……。」
彼は無機質な自らの手を強く握りしめた。元からこうする予定だったようだ。ユメの記憶が戻った後、自ら体を抜け、離れるつもりで機械のパーツを集めていたらしい。
彼が再び歩き出そうとした、その時だった。
背後の空間が、ガラスを割るような音を立てて歪んだ。
夜の闇よりもなお深い”黒”が溢れ出し、そこから一人の少女が姿を現す。
黒ずんだヘイローを浮かべ、黒いドレスを纏った銀髪の存在。
「そんな……どうやって……? ありえない……。あなたは、あの時、私の手で……!」
信じられないものを見るかのように、シロコ*テラーは声を震わせた。
彼女は知っている。自分がいた世界線において、彼に”死”をもたらし、その幕を引いたのは自分自身であったはずだと。
「よぉ、久しぶりだな。」
彼は首の関節を金属特有の音を立てて傾かせ、ゆっくりと背後の彼女を振り返った。
「多分、あんたは”俺が知ってる”シロコだな」
機械の身体から発せられる合成音声はかつて彼女が聞いたものと同じ、乾いた響きを帯びていた。
シロコ*テラーは、その無機質なセンサーの光を、恐怖と警戒が混ざり合った瞳で見つめ返す。彼女にとって、目の前の存在は理解不能そのものだ。一度、自らの手で確実に命を絶ったはずの男。世界を越え、理をねじ曲げ、ガラクタの身体を引きずってでも再びこの現世に這い出してきた怪物を超えた怪物。その未知こそが、死線を越えてきた彼女にさえ冷たい汗を流させる。
だが、彼はそんな彼女の緊張をあざ笑うかのように、継ぎ接ぎの機械の両手をぶらぶらと挙げて見せた。
「ああ、別に勘違いするなよ。俺は別に、自分を殺した相手に復讐しようなんて思ってねえからな。」
シロコ*テラーの身体が、さらに強張る。彼のような男が”復讐”を捨てたというのなら一体何が彼をここまで突き動かしているのか。その内情が読めない。
「むしろ、感謝してるぐらいだ。あの時、あんたがちゃんと殺してくれたから、今の俺がある。……おかげで、巡り合えた”出会い”もあったわけだしな」
無機質な金属の声帯が、どこか遠くを懐かしむような余韻を響かせる。その言葉には、嘘も虚飾も感じられなかった。
「……じゃあ、どうして。どうしてあなたは……」
シロコ*テラーは、絞り出すように疑問を口にした。
彼女は知っている。彼が歩んできた、あまりにも凄惨で救われない人生を。裏切り、絶望、そして終わりなき戦い。生きることが嫌になって当然の、むしろその存在ごと無かったことにしたほうが幸福ですらあるはずの泥濘のような日々を。
彼は、独り言を呟くように、虚無の先にあったものを語る。
「死ぬことを望んで生まれてくるやつなんて、どこにもいねえんだよ。……そりゃあ、嫌になるほど悲惨な目に遭うことはあるさ。投げ出したくなる日もあるだろう。……それでもな。本当は、誰だって生きたいはずなんだ。」
それは、自分自身に言い聞かせているようでもあり、あるいは真理を、ようやく得た者の言葉のようでもあった。
「俺が死んでもそうだったってだけだ。別に深い理由なんてねえさ。そういうものなんだ。」
自身の『本質』を、彼はもはや悟りの境地にさえ似た静謐さで肯定した。
悲劇を背負ったから蘇ったのではない。宿命に選ばれたからでもない。ただ、生きたいという根源的な、誰にでも許されるはずの傲慢な願い。それを取り戻し、最後まで手放さなかっただけなのだと。
路地裏に差し込むわずかな曙光が、錆びついた機械の身体を淡く照らし出す。それはまだ太陽の光ではない。
シロコ*テラーは銃を構える手から少しだけ力が抜けるのを感じていた。目の前にいるのは、敵でも、怨霊でもない。
ただ、あまりにも生に貪欲な一人の愚か者だ。
「ユメって分かるか。」
彼は唐突に、けれど確認するように短く問うた。
シロコ*テラーは困惑しながらも、小さく頷き「う、うん……」と返す。彼女は最近、キヴォトス全域で観測されている異常事態。その中心に『梔子ユメ』の姿をした異質が存在していることを、影の中から把握していた。
「彼女には夜明けが来た。」
彼は意味ありげにそう告げる。単なる日の出のことを表しているわけではない。
「だが、”俺たち”はまだだ。」
シロコ*テラーの耳が、何かを察したようにぴくりと動く。
”俺たち”。彼と、自分。
そして終焉という終止符を打たれたはずの者たち。その言葉の真意に触れ、彼女は震える声で呟いた。
「そんなことが……許されるの……?」
何を行おうとしているのか、彼は明言しない。だがそれが世界の理を、喪失という名の歴史を真っ向から否定する禁忌であることを彼女は本能で理解していた。
「知るか。俺がやりたいからやる。もう、目的は定まった。」
機械の体では笑みを浮かべることなどできない。だが、その声色は間違いなく野心に満ちた愉悦を含んでいた。
「俺はいろいろ準備をしなきゃならん。だが多分、”あんたの力”が必要になる。」
彼は錆びついた指先を、シロコ*テラーへと向ける。
「”朝”が欲しいか?」
差し向けた指先を、彼はそのまま広げた。掴み取れと言わんばかりの、力強い手のひらの形に。
シロコ*テラーはその手を取るべきか、決めかねていた。かつてすべてを失い、色彩の影に身を投じた彼女にとって、”朝”という響きはあまりにも眩しく、残酷だ。
しかし、悩む間もなく彼は手を引き戻す。
「答えはまた今度聞きに戻る。それまでに決めといてくれ。」
それだけ言い残すと彼はガラクタの身体とは思えぬ跳躍を見せ、ビル影へと消えていった。
一人残されたシロコ*テラーは、かつて自分が砂漠に捨ててきた仲間たちの形見のことを思い出していた。
進むために、仲間の死という重すぎる喪失と無理やり向き合ったはずの過去。
「そんなこと……本当に、いいの……?」
彼女は力なく呟く。自分の葛藤、そして決断すらも『否定』することになる。
だが、本来ならあり得なかったはずの可能性。存在しない太陽の光を内に見出していた。
その陰で小さな虫がせっせと小さな屑を集め、積み重ねて転がし、運びゆく。
[補足]
-シロコ*テラー
一応外部からの干渉があったことは理解していたが、正確に何が現れたかまでは理解していなかった。
-梔子ユメ
実はちゃんと蘇れたわけではない。まだ一部の記憶は飛んだまままだし、手帳の内容も行方もおそらく忘れている。それでもホシノや、生徒会としての日々を思い出しているので、彼女が彼女たる条件を満たせている。不完全なまま生き返るという矛盾。それを彼が可能にした。神話のオシリスとは違う顛末をたどった。
ホシノの一人称を修正。混乱してふと自分のことを“おじさん”って言っちゃった感じにしてたつもりだけど読み返したらやっぱり変に感じたので普通に私で統一。
これで第5章は終わり。
多分次で最終章ですね。