ミレニアムに咲く一輪の高嶺の花を自称した超天才美少女と、学園を影から支配するビッグシスターと呼ばれた少女がいた。
今、二人の間に通う空気はこの色のない世界の霧よりも冷たく重い。
剥き出しになった瓦礫を背もたれにし、彼女たちは互いの顔を見合わせることなく座り込んでいる。かつてミレニアムの頭脳として並び立った面影はここでは無意味に等しい。
ヒマリの温度の低い、鋭い刃のような言葉が静寂を切り裂く。
「……本当に救いようのない陰気な女ですね。リオ、貴女のその下水道のように淀んだ性根にはこの寛容な私ですら吐き気を催します」
遠い場所で囁かれる陰口をあえて本人の耳に届けているような、酷く残酷なニュアンスを含んでいる。
ヒマリが糾弾しているのは、リオが積み上げた”合理”という名の罪過だ。
トキから一切の人間的な交流を奪い、孤独な兵器として作り替えたこと。己の命令にのみ従順な駒へと調教し、あまつさえ殺人の片棒を担がせようとしたこと。そして何より、アリスという無垢な命をその出自のみを理由に”滅ぼすべき概念”として扱い、冷徹に排除しようとしたこと。
「全てが終わった後、貴女は何と言いましたか? 『自由に暮らして』……? トキをそうやって無責任に放り出し、孤独の中に放置した貴女のどこに人の心が宿っているというのです」
ヒマリの追求は止まらない。言葉を重ねるたびにリオの背中はより小さく、より硬く強張っていく。
リオは唇を噛み締め、ただ灰色の地面を見つめていた。
「……返す言葉もないわ」
微かに震える声が、リオの口から漏れ出す。
彼女に悪意があったわけではない。それは誰もが理解している。リオはただ、来るべき世界の終焉を、たった一人で防ごうとしたに過ぎない。”孤独”な王として玉座に座り、己の心を殺し、誰からも理解されないまま地獄のような策を講じていた。
結果はあまりにも皮肉だった。
アリスを破壊せずとも終焉は回避された。
結局、彼女たちのいたキヴォトスはアリスとは全く別の要因で終わりを迎えたのだが、その事実はリオの罪を洗ってなどはくれない。むしろ、彼女が背負った後悔を、より根深く、より逃れられない”鎖”として固定してしまったのだ。
少し離れた場所、折れた柱の残骸に背を預けている影がある。
ミレニアム最強の掃除屋、ネルだ。
彼女は二人の諍いに介入する様子も見せず、ただ無言で空を睨んでいる。
ヒマリの苛烈な言葉も、リオの押し殺した懴悔も、すべてはネルの耳に届いていた。
「ハァ……」
ネルの口から、深い、深い溜め息がこぼれ落ちる。
二人の間にある溝は、もはや言葉を尽くしたところで埋まるものではない。正論で友を殴り続ける全知も、その痛みすら甘んじて受けることしかできない孤独な少女も、ネルからすれば見ていられないほどに不器用で、そして……あまりにもミレニアムらしい連中に見えていた。
色のない風が、三人の間を通り抜けていく。
かつて同じ空の下でそれぞれが信じる『最善』のために戦った彼女たちは今、死後の静寂の中で解けることのない呪縛を抱えたまま、ただ過ぎ去った日々を反芻し続けている。
「……ん?」
ネルが喉を鳴らし、低く唸る。視界の端、灰色の霧を割りながら、こちらに向かってくる奇妙な集団を捉えたからだ。
「なんだあの大所帯……」
目を細めて確認すれば、そこにはネルの知らない制服を纏った少女たちが三人。そして、その横には場違いさを感じさせ、決定的に何かが狂っている大人が二人。
だが、ネルの視線が釘付けになったのは、その間を取り持つように歩く一人の存在だった。
「あぁ? あれは……」
記憶の奥底に刻まれた、不吉な黒。
「……っ! おい! お前はッ!」
ネルは即座に柱から背を離し、声を上げた。
忘れるはずがない。かつてミレニアムを、キヴォトスを”異変”が襲ったあの日。理性を失い正気でなくなった生徒たちを、情け容赦なく、機械的な手際で次々と屠っていったあの黒い影。
だが、目の前の存在はあの時とは決定的に違う。
全身にいびつな包帯を巻き、裂けた皮膚から臓器を覗かせていたあの悍ましい姿ではない。今はどこにでもいるような”人”の姿をしている。
ネルの怒号に気づいたヒマリとリオも顔を上げた。
険悪な沈黙を保っていた二人の視線が、ネルの指し示す先。近づいてくる一行へと向く。
名無しの存在をその網膜に映した瞬間、ヒマリは劇的なほどに深く重い溜息をつきながら細い指で自らの額を押さえた。
「はぁ……。」
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空白な上空の下、静寂を切り裂くのはヒマリの苛烈な、それでいてどこか慈愛の混じった説教が延々と響く。
「全く……貴方たちは、揃いも揃ってどうしてこうもコミュニケーション能力と社会性が欠如しているのですか?」
ヒマリの口調はもはや超天才美少女のそれというより道を踏み外した孫を厳しく、だが見捨て切れずに叱り飛ばす祖母の如き域に達している。その目の前ではミレニアムの元最高権力者であるリオと、かつて死神のように荒れた都市に潜伏していた名前のない存在が並んで地面に正座していた。
二人の心に共通してあるのは、重く沈んだ負い目と後悔だ。
リオは世界の終焉を防ぐため、名無しはキヴォトス全土に広がった”異変”という絶望を食い止めるため。二人とも、合理的にならざるを得ない極限状態で、何かを救うためにその他を切り捨てる選択をしてきた。
だが、ヒマリは分かっている。
目の前の名もなき存在が奪った生命の数は、リオのそれとは比較にならないほど圧倒的であることを。あまりに多くを殺しすぎている。
同時に狂気に呑まれた生徒たちに回復の見込みはなく、放置すれば彼女たちは愛する者や無実の他者をその手で殺め、更には取り返しのつかない災害の引き金になる運命にあったこと。
彼は”殺すしかない”と判断した。その手が汚されたことで、本来なら第二、第三の人殺しになっていたはずの生徒たちは、最悪の汚名を着る前にその生を終えることができた。それは一種の、あまりにも残酷で救いのない慈悲でもあったのだ。
リオの時とは前提条件が違う。
だからこそ、ヒマリはそうなった経緯については責めなかった。なにより”彼”という存在の凄惨な生い立ちと喪失に対するトラウマは知っているからだ。不安定さを知っていたからこそ、未然に防げたかもしれない事を見落としてしまったとでも考えたのだろうか。
自分という全知を以てしても解決策を導き出せなかったという、彼女自身の責任感もそこには含まれている。
「私が言っているのは、手段の是非ではありません! なぜ、その重荷をすべて一人で背負い、誰の手も借りようとしなかったのかと言っているのです!」
ヒマリの指先が、正座する二人の鼻先を交互に指す。
「一人は地下の秘密要塞に引きこもり、もう一人は汚泥に塗れて暗闇を這い回る……。貴方たちの共通点は、他者を信じるコストを惜しんで、自分一人を天秤の支柱に据えた傲慢さです。いいですか? その『独りよがりの覚悟』が、どれほど周囲を、そして貴方たち自身を傷つけたか、理解できていますか!?」
リオは深く首を垂れ、その視線は膝の上に置かれた拳から動かない。
名もなき存在もまた、その叱咤を受け入れ、反論の一言も口にしなかった。
かつて孤独な王として君臨した女と、孤独な修羅として手を汚し続けた愚者。
二人が抱える合理という名の孤独を、ヒマリは言葉という手段の熱で無意識に溶かそうとしているようでもある。
少し離れた場所で、ネルはそんな光景を見ながら鼻を鳴らす。
「……ったく。当分は解放されねぇぞ、ありゃ」
束の間の静寂の中、名もなき存在が口を開く。
言い訳ではなく長い年月を経てようやく自分自身の輪郭をなぞるように紡がれた独白を。
「ああ、分かってる」
彼は正座したまま、視線を上げることはない。ただ己の内側にある空洞を見つめるように言葉を続ける。
「後悔しなかった日はない。たとえ終わりが決まっていても……せめて全員を巻き込んで足掻くべきだった。そうすれば少なくとも結末は今よりマシだったはずだ」
ヒマリの叱咤は彼の負い目を正確に射抜いていた。彼が孤独を選んだのは、強さゆえではない。その逆だ。
「俺は……臆病だったんだ。また誰かが死ぬのが恐かった。”輪っか付き”たちが、俺の仲間を殺した連中と同じ”化け物”に変わっていく姿をこれ以上見るのが耐えられなかった」
脳裏に去来するのは、かつての戦友たちの最期。燃える故郷に屍の山。先生が大事にしていた生徒たちが、徐々に自分の最も嫌った”仇”と同じになっていく光景。
守りたいという願いが変質し、いつしか彼は救うことよりも”最悪を見ること”から逃げるために、”最善を尽くす”道を選んでしまった。
「『恐怖』との向き合い方を間違えたんだ」
世界が彼を下した判断の正しさをどう評価しようと、彼にとってそれはもはや重要ではなかったのだろう。
彼が向き合っているのは歴史の正誤ではない。生涯においての、己に対する取り返しのつかない不誠実さである。
誰かを信じる勇気を持てなかったこと。
共に泥を啜る覚悟を持てなかったこと。
その代償として手に入れたのは、ただひたすらに続く罪悪感の苦悩という罰。
彼は理解している。己が犯した罪を。その罰を。
「だが……。いや、これは俺の我儘なんだが」
名もなき男は、天を仰ぐようにして言葉を継いだ。
「死んだ生徒たちと、キヴォトスを元に戻そうとしてるんだ」
そのあまりに突拍子もない言葉に先ほどまで饒舌だったヒマリが「はい?」と呆けたような声を漏らす。全知を自称する彼女の計算機にも、これほど非論理的な飛躍はインプットされていなかったのだろう。
「俺はあの後一度生き返って、他人を生き返らせるための手段を確保した。もちろん、全てが完全に元通りになるわけじゃない。死んだという事実は消えないし、刻まれた傷が消えるわけでもない。だが……」
彼はゆっくりと、地に付いていた膝を伸ばして立ち上がった。その背中は依然としてどこか寂寥感を漂わせているが同時に岩のような固い意志が宿っている。
「やっぱり、みんな生きたいはずなんだ。俺はもう、正しさに固執することはやめた。自分のやりたいようにやる。だから、あんたら生徒を蘇らせるつもりだ。別にこれが正しいとも思ってない」
彼は自分を見下ろす少女たちの瞳をまっすぐに見据えた。
「生き返った後で、いくらでも俺を責めればいい。だがな……もしほんの少しでも、もう一度生きたいと思っているのなら。これから続く苦難に遭う覚悟を持てるなら。共に来てくれねえか」
その言葉を聞き、ヒマリは目を細める。
超天才の頭脳は即座に彼の真意をこう解釈した。
「(ああ、成程。貴方は本当に、どこまでも自分に厳しい。)」
死者に「蘇れ」と説くのは、ある種、最も無粋な土足の踏み込みだ。安らかな眠りを妨げ、再び傷つくことが確定している現世へ引きずり戻そうというのだから。
彼はそれを”償い”などという高尚な、赦しを乞うための言葉で飾り立てることを潔しとしなかった。
これは自分の我儘であり、自己中心的なエゴである。
そう定義することで、彼は生徒たちに”自分を責める権利”を真っ先に与えたのだ。
自らを生者の怨嗟を受け止める”悪”の側に置く。謝罪という免罪符を使わず、全ての責任を背負ったまま傲岸不遜に振る舞うこと。それが彼なりの、命を奪った者たちへの誠実な責任の取り方なのだ。
同時にそれは彼自身が正しさという呪縛を捨て去り、一人の人間として『悔いなく』望み通りに在ることを選んだ証でもあった。そう、これは自己犠牲ではない。彼は望んで自己中心的な存在になろうとしている。
要するに、彼はとびきりの規模で”開き直った”のである。
ヒマリは、本日何度目になるか分からない深い溜息を吐いた。
「……全く。どこまでも合理的で、どこまでも非合理的。どうしようもありませんね」
彼女はふっと呆れたような、だがどこか晴れやかな微笑を浮かべた。少なくとも、人を素直に頼れるぐらいにはなっていそうだったから。
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行列はさらにその長さを増していく。出自も立場も生前の関係さえもまばらな灰色の隊列。
その中で、二人の黒が言葉を交わす。
「なぁ、あんた。リオだったか。少しいいか?」
「ええ、構わないけれど……。私に何か?」
リオは足を止めず、隣を歩く彼に視線を向ける。
「実は、少し調べさせてもらった。あんた、アリスを破壊しようとしたんだって?」
その問いはあまりにも唐突で少しの躊躇いもないため、リオは困惑する。その話題は彼女にとって今なお胸を刺す棘のような、消えない悔恨そのものだから仕方がない。
「……別に、あんたを責めようとしてるわけじゃねえよ」
名無しは前を見据えたまま、淡々と事実を積み上げるように言葉を紡ぐ。
「ところで、俺たちの元いた世界のアリスの話なんだが……。実は、『王女の従者』の要請で、俺が彼女を休眠状態にさせたんだ。シャットダウン、という表現が近いだろうか。そして、もう一つ重要な話だ。あんた、この死後の世界がどうなっているか、まだ詳しくは知らないよな?」
立て続けに投げかけられる確認にリオは当惑しながらも「え、ええ」と短く返す。
この存在の意図がどこにあるのか論理的な予測が立てられない。
「この世界はゴミ箱ファイルみてえな場所なんだ。色んな死んだものが削除されたデータみたいに吹き溜まっていく。そしてな、この中には俺たちが以前いた『世界そのもの』の残骸も含まれている可能性があるんだ」
「……? それはどういうことかしら。世界が削除されたというの?」
「ええと……まぁ、ぶっちゃけその辺の理屈はどうでもいい。要するにだ。俺が眠らせたアリスが、この世界のどこかに転がっている可能性がある」
「……!」
リオの目が大きく見開かれる。
「だから、それを探してもう一度起こしてやるのに力を貸してくれねえか?」
リオはその瞬間に理解した。
彼は、私がアリスに対して抱き続けている罪悪感を知り、それを直接的に否定するのではなく”挽回するための
これが償いと呼べるほど清廉なものかは分からない。けれど、少なくともリオ自身が次へ進むための、唯一無二の道標であった。
「分かったわ。……協力させて。それが今の私にできる最も合理的な選択だから」
リオは力強く肯定の言葉を述べる。
その時、突如としてネルの切羽詰まった声が響く。
「お、おい。お前ら見ろ、なんだアレはッ!」
全員の視線がネルの指さす一点に集中する。そこには、色を奪われたこの死後の世界において、およそ存在するはずのない異様な色が浮かんでいた。それはまるで空に穿たれた黒い太陽。
「あれは……『色彩』!? なぜここに!」
黒スーツが驚愕に声を震わせ、ヒマリの表情もかつてないほど険しくなる。その『色彩』から染み出すように、異常なほど淡く、それでいて毒々しい色を放つ歪んだ人型が這い出してきた。
「……来たか。無名の司祭どもが妨害工作してきやがったな」
名無しは吐き捨てるように言い、両手を構える。その一言を合図に、ネルが前線へ、ヒマリとリオが後方支援へと瞬時に散った。同時にアリウスの面々も同じように陣形を取る。両者に関わりはあまりないが、全員は生を取り戻すためという目的で結ばれている。
ここへ至るまでもどこかの死人である亡者との交戦は幾度となくあったが、今目の前にいるのは、それらとは一線を画す”異質”な強敵。
だが、アツコが不意に気付く。
「なんだか……その『色彩』……段々、こっちに近づいてきてない?」
その直後、ヒヨリが「えっ」と短く声を漏らした瞬間だった。
黒い太陽が物理法則を無視した速度でヒヨリに向かって急接近する。
「避けろっ」
ほとんどの者が反応すらできなかった刹那、偶然近くにいた名無しが反射的にヒヨリを突き飛ばした。
「ひあっ」
地面に転がったヒヨリの傍らで重い衝撃音に名無しの「ぐあっ」という呻き声が重なる。
”接触”された。
「大丈夫ですかぁ!? す、すみません今すぐに……!」
ヒヨリは咄嗟に駆け寄り、彼を助け起こそうとその体を抱きかかえる。だが掴んだ手応えがあまりにも軽い。というか
「あう」
「あ、あれぇ〜!?!?!?!?!?」
ヒヨリの腕の中にいたのはふかふかの真っ白な髪をした、あどけない瞳の小さな小さな幼子であった。
ヒマリはその光景を網膜に焼き付けた瞬間、全てを察して、引きつった笑みを浮かべながら息を呑む。
「あ、貴方は……アベルさん……。お……お久し、ぶり、ですね……。」
ヒマリは“理解してしまった”。何が起きてしまったかを。
直後。
「は ハははハは)
[分裂 理解 対処}
いつか聞いた生理的嫌悪感を掻き立てるような、壊れた合成音声の如き悍ましい哄笑が灰色の世界に醜く響いた。それはぞわりと神経を逆撫でる。
「またかよ」
ネルは最悪すぎる再々度のトラブルに、ただ大いに嘆き二丁のサブマシンガンの引き金に指をかける。
悪夢、再び
[補足]
-名無しとリオ
合理的選択を取らざるを得なかったという意味では共通しているのかもしれない。
-”接触”
分かたれた。