From outside Kivotos   作:ケトゥ毛

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集まって軍隊がなされて


67話『再結集』

 

 灰色の霧が漂うトリニティの残骸。その一角で、静寂を切り裂くような場違いな活気に満ちた場所があった。

 

 崩落しかけた建築の側壁を、二つの影が這い上がっていく。一人は慣れた手つきで突起を掴む銀髪の少女、シロコ。そしてもう一人は、翼を羽ばたかせながらもどこか楽しげに岩肌を蹴る聖園ミカだった。

 

「ん……っしょ」

 

「えっほえっほ」

 

 シロコは屋根の縁を掴むと、軽やかな身のこなしで頂上へ辿り着く。彼女は背後を振り返り、遅れて登ってきたミカへ迷いなく手を差し出した。

 

「ん、こっち。手を取って」

 

「ありがとう! シロコちゃん!」

 

 二人が辿り着いたのは外部からの侵入を拒むように高くそびえる防壁の頂点。中庭を覗き込めば、そこには灰色の世界に浸食されながらも、辛うじてその形を保っている円卓があった。しかし、正面の重厚な扉は歪んで固く閉ざされている。

 

 シロコがアサルトライフルの銃床で壁の強度を確かめるように軽く叩くと、隣でミカが意気揚々と拳を握りしめた。

 

「それじゃ……いくよぉ!」

 

 ミカが大きく腕を引く。その腕からは想像もつかないような暴力的なまでのパワーが拳に乗り、勢いよく壁へと叩きつけられた。

 

 轟音と共に爆風が巻き起こり、堅牢なはずの壁に直径3mほどの綺麗な風穴がブチ空く。舞い上がる粉塵の向こう側で、優雅にお茶を嗜んでいたはずの影が椅子から転げ落ちんばかりに仰天していた。

 

「な、なんでしょうか……!? 爆辞……いいえ、テロ!?」

 

 狼狽し、手にしていたティーカップを震わせているのはティーパーティーのホスト、桐藤ナギサだ。彼女は不意の事態に、品のある声を裏返らせて困惑の極みにあった。

 

「やった! シロコちゃん、いぇーい!」

 

 瓦礫の山を飛び越え、ミカはシロコとパチンと景気よくハイタッチを交わす。そして、驚きで固まっているナギサの姿を捉えた瞬間、彼女の瞳に一気に光が宿った。

 

「ミ、ミ、ミカさん!?!? 幽霊……? いいえ、これは幻覚ですか!?」

 

「ナギちゃーん!!!」

 

 ミカは弾かれたような勢いで走り出し、叫びながらナギサに飛びついた。衝撃でナギサの椅子がガタガタと音を立て、二人は絡まり合うようにして抱きしめ合う。

 

「うわぁぁん! ナギちゃん、ナギちゃん!! ずっと探してたんだよ!? もうどこに行っちゃったのかと思ったんだから! ああもう、その髪の毛の匂いも、ちょっと困ったような顔も本物だよね!? あはは、良かったぁ……! あのね、聞いてよナギちゃん、私ね、すっごく怖かったんだよ? 急にみんな居なくなっちゃうし、変な影は来るし、一人でずっとお祈りしてて……でもね、先生が、先生が来てくれたんだよ! シロコちゃんも一緒に! それでね……!」

 

 ミカは堰を切ったようにどれほど会いたかったか、どれほど寂しかったかをマシンガンのような早口で捲し立てる。抱きつかれたナギサは、あまりの勢いに言葉を失いながらも、その温もりが本物であることを確かめるように震える手でミカの背中に触れた。暖かいはずだ。物理的な温度は伴っていなくとも、そういうものなのだ。

 

「全く、君という人は……。再会の感慨を粉砕するような登場の仕方は、相変わらず理解の範疇を超えているよ」

 

 呆れたような、けれどどこか慈しむような響きを含んだ声が響く。シロコの後ろからひょっこりと姿を現したのは百合園セイアだった。どうやって壁を上ってきたのかは不明だが、彼女もまたシロコが灰の海を駆けずり回って探し出し、辛うじてこの日常の残影へと連れ戻した一人だ。

 

「もう、セイアちゃん……! せっかくの感動の再会なのに、相変わらず人を怒らせる天才さんは健在なんだから!」

 

 ミカはナギサを抱きしめたまま、頬を膨らませて言い返した。いつもの軽口、いつもの小言。けれど、そのやり取りを交わせるという事実そのものが、ミカの胸を締め付ける。一度は全てが狂い、無残に散っていったはずの”昨日”が、奇跡のように目の前にある。ミカは無意識に溢れ出しそうになる涙を堪え、ただ幸せな笑みを浮かべた。

 

 シロコはその光景を、一歩引いた場所から静かに見つめていた。胸の奥に澱のように溜まっていた”罪”の重みが、ほんの少しだけ、温かな安堵に形を変えたような気がした。彼女たちが笑っている。自分が奪ってしまった笑顔がそこにある。それはシロコが誓った”償い”の、確かな第一歩だった。

 

 シロコはふと、開いた大穴から後ろを振り返る。

 建物の外には、すでに確保された大量の生徒たちが待機していた。灰色の霧の中に整列する彼女たちは、かつての輝きを失いかけてはいるものの、その魂は確かにそこに留まっている。

 

「”この足跡の角度、歩幅……んんっ、間違いない。イオリ……!? 近くにいるのか……!”」

 

 視線の先では、二頭身の落書き姿になった先生が、短い手足を懸命に動かして床を這い回っていた。

 常人には理解不能な執念と、生徒一人ひとりに対する異常なまでの理解度。彼はその独特な知識をフル回転させ、地面に残された微かな痕跡から迷える生徒たちを芋づる式に発見していた。

 

「……その姿で這われると、なんだか別の事案に見える。ん、でも効率的。」

 

 シロコが独りつぶやく。先生は床に顔を擦り付けんばかりの姿勢で、「こっちにはヒナの気配が……!」「あっちには美食研究会の破壊し尽くした飲食店の跡が!」と、まるで優秀な猟犬のように捜索範囲を広げていく。

 

 そのシュールな姿は悲壮感に満ちた死後の世界を、どこか『いつものキヴォトス』のような空気感へと塗り替え始めている。

 

 灰色の霧に包まれ静寂が支配していたはずの廃墟は、いまやキヴォトス全土の喧騒を煮詰め直したような騒ぎに包まれていた。

 

 かつての対立も、学園の壁も、そして”死”という絶対的な境界線すらも、彼女たちの心の強さの前では意味をなさない。瓦礫の山からは、聞き慣れた……しかし、この場所にはあまりにも不釣り合いな声が次々と響き渡る。

 

「この死後の世界には色がない……ということは……“ここ”の色はどうなっているのでしょうか……♡? 私たちが脱いだら、そこだけ鮮やかに見えるのでは……んふふ♡」

 

「もう! エッチなのはダメ! 死刑! ……あわわ、いや、もうみんな死んでるから……えっと、終身刑!? とにかくダメなのっ!」

 

 ハナコがいつもの調子で不敵な微笑みを浮かべればコハルが顔を真っ赤にして、ありもしない規律を叫んで走り回る。その横では、灰に埋まった無残な姿のぬいぐるみを抱え、絶望に打ちひしがれる少女の姿があった。

 

「ぺ、ペロロ様のグッズが……こんな灰まみれに……。ああ、世界が、世界が終わりを告げています……」

 

「元気を出せ、ヒフミ。あ、見ろ。こっちの瓦礫の下にも限定版のグッズが埋まっているぞ……! 救出作戦を開始する」

 

 ヒフミの悲鳴をアズサが真剣な面持ちで受け止め、二人は灰の中に埋もれた”青春の遺物”を掘り起こす作業に没頭し始める。

 

 さらに視線を外へ向ければ、爆炎と笑い声が混ざり合う一角があった。

 

「ハーハッハッハ! そこに温泉があるから我々がいる! いや、たとえ温泉がなくとも、我々が掘ればそこに温泉が湧くのだ! そうだろう? お嬢ちゃん!」

 

「なんでコイツらがいるっすか!?」

 

 カスミとメグが景気よく重機のような残骸を乗り回し、逃げ惑う他校の生徒たちを尻目に温泉開発の野望をぶち上げる。それにイチカが苦虫を嚙み潰したような表情をした。

 

 トリニティもゲヘナも、様々な学園の生徒たちが混じりあっている。

 それぞれの想い出を抱えたまま、彼女たちはこの色のない世界を自分たちの声で、体温で、無理やり塗り替えようとしているようでもあった。

 

 シロコは、二頭身の先生が「”ん……この土の跳ね返り方はスミレか……?”」と熱心に地面を鑑定している背中を見つめ、それからナギサとセイアに挟まれて泣き笑いしているミカへと視線を戻す。

 

 理不尽に奪われた日々。

 けれど、ここにあるのは間違いなく、彼女たちが愛した救いようのないほどに騒がしい日常の続き。

 

 たとえ体が灰に汚れ、空に光がなくても。

 意志さえあれば、道は続けられる。

 

 

 喧騒から離れ、シロコは一人、灰の積もる大通りへと足を進めた。

 

 ナギサやセイア、そして多くの生徒たちが再会を果たす中で彼女の胸を占めていたのは焦燥に近い不安であった。トリニティの面々を見つけられたことは、確かに一歩前進だろう。だが肝心のアビドスの仲間たちの姿は、この広大な死の平原のどこにも見当たらない。

 

「……どこにいるの、みんな」

 

 呟きは霧に溶け、返ってくるのは冷たい風の音だけ。

 気づけば、目の前の景色が歪んでいた。そこはいつか見た大破した都市。自分がその手で粉砕し、蹂躙した絶望の記憶がこびりついた場所。

 

 瓦礫が積み重なる大通りの中心。色のない世界において、そこだけが呪いのようにどす黒く、時折、乾いた返り血のような紅い色が混じった染みが広がっていた。

 

 その染みの中心に、見覚えのある”遺物”が突き立っている。

 

「……これは」

 

 シロコは吸い寄せられるように歩み寄り、その柄に手を触れた。

 ずっしりとくる重厚な手触り。そういえば、ここは”彼”……名前のないあの人を殺した場所だと思い出した。

 そこにあったものは、その彼が補強に補強を重ねた細い腕で振るっていた鉄板のような巨大な鉈であった。

 

 装飾も、鋭利な刃も持たない、ただ叩き斬るためだけの鈍器。銃で戦うことは当たり前のキヴォトスにおいてあまりにも異質、もはや兵装とも呼べぬ武器。

 シロコはそれを力強く地面から引き抜くと、重みを確かめるように一振りし、愛用のアサルトライフルの隣へと背負った。背中に伝わる冷たく硬い感触が、今はなぜか孤独な探索の中での僅かな寄る辺に思えた。こんなに重く分厚い、きっとどんな銃弾でも防げるのだろう。

 

「”シロコー? どこにいるのー?”」

 

 背後から、少し間の抜けている、だがこの上なく温かな先生の声が響いた。

 振り返れば、先生が短い手を一生懸命に振っている。その周りには、賑やかさを取り戻した生徒たちの隊列が、不確かな未来へと進むための列をなしていた。

 

「ん、今行く」

 

 シロコは短く答え、駆け出す。

 背中の大きな鉈が、歩くたびに擦れてガチャリと音を立てる。

 アビドスの仲間はまだ見つからない。だがこの背中の重みと、前を歩く落書きのような先生がいる限り、二度と道を見失うことはないと、彼女は自分に言い聞かせた。

 

 

 

 

-------------

 

 

 

 

「へぇ……ヒヨリちゃんっていうんだぁ……可愛いね……。この、守ってあげなきゃって思わせる空気感……いいなぁ……」

 

「ひぃっ!? こ、この人さっきから妙に距離感が近いです〜! 助けてくださいぃ、言葉から謎のおじさん臭が、いえ、変な圧を感じますぅ!」

 

 隊列は再び進み始めていた。だが、その光景は以前にも増して混沌を極めている。

 正気を取り戻したはずのホシノは、記憶が混濁しているのか、あるいは死後の世界の空気に当てられたのか、酷く気が抜けたあやふやな状態のままヒヨリにべったりとへばりついていた。ねっとりとした囁きを耳元で繰り返すその姿は、かつての面影をどこかに置き忘れてきたかのようである。

 

 さらにそのヒヨリに抱き着くホシノの腰を、後ろから黒スーツが必死の形相で掴んでいた。

 

「『契約』ッ! 『契約』をさせてくださいホシノさん! 貴方のその『神秘』の可能性、私が今一度……ッ!」

 

「あー、うるさいよお。今はヒヨリちゃんを堪能してるんだから邪魔しないで」

 

 ホシノは後ろを振り向きもせず、まとわりつく黒スーツの顔面を無慈悲に足蹴にする。結果として、ヒヨリ、ホシノ、黒スーツが縦一列に繋がったムカデ人間のような奇妙な隊列が出来上がっていた。

 

「なにやってるの……」

 

 ミサキが心底呆れたように吐き捨て、その横でアツコが「ふふ、仲良しさんだね」と楽しげに笑う。

 そんな少女たちの喧騒の隣では、また別の騒動が爆発していた。

 

「なぁ! さっきのやつ超スゲェよ! あたしの体が、こう、内側から爆発するみたいに力が溢れてさ! マジで無敵になった気分だったぜ! なぁ、頼む、もう一回やってくれよ!」

 

「いやだから、何の話なんだそれは! さっきから聞いてりゃ”憑依”だの”合体”だの、俺はこれっぽっちも覚えがねえって言ってんだろ!?」

 

 最強の機動力でハイになった全能感を忘れられないネルが、目を輝かせて詰め寄る。対する名無しは、自分が分裂して幼子になった記憶も、ネルに宿った記憶も完全に欠落しており、必死に詰め寄るネルの勢いに気圧されて、四つん這いから立ち上がったまま顔をひきつらせている。

 

 しばらく隊列が進んだ後、名無しは頃合いを見計らったようにホシノへ問いかけた。

 

「なぁ、今……どうなってる。少しは、はっきりしてきたか」

 

 その真剣な意図を含んだ声に、ホシノは最初こそ「え? うぇ~……何言ってるのさ。おじさんは今、ヒヨリちゃん成分を摂取して……」とふにゃふにゃした反応を返していた。

 

 しかし彼の向けた眼差しがあまりに重く、どこかきまづそうな深刻な色を湛えていることに気づくと、彼女の脳裏に沈んでいた澱が急激に浮上し始める。

 

「えっと……おじさんは……」

 

「私は……あぁ……」

 

 自分の状況を、徐々に、そして確実に思い出し始めたのだ。

 後輩たちの静止を振り切り、列車砲にたどり着こうとして……そのあとの、混濁した意識。黒い太陽。自分がどうなってしまったか。

 

「えっと……列車砲に……それで……」

 

 みるみるうちにホシノの顔から血の気が引き、蒼白になっていく。

 思い出してはいけないこと。自分が”何”になり、その力で”誰”を傷つけたのか。

 

「私は……あっ、あぁっ……」

 

「わ、私が……みんなを……」

 

 ホシノの唇がガタガタと震え始めた。その震えが全身に伝播し、彼女が崩れ落ちそうになった瞬間、名無しが彼女の腕を引き、他の面々から少し離れた場所へと連れ出した。

 

 彼はゆっくりとホシノの正面に立ち、逃げ場のない現実を突きつけるように、だが穏やかに振り返る。

 

「言い訳をするつもりはないんだが、俺は……あの日、あんたを殺した」

 

 ホシノは一瞬、息を止めた。だが、その瞳には憎しみではなく、哀切なまでの理解と後悔が浮かぶ。

 

「……それは、私が正気を失っていたからだね。私があんなことに、なってしまったから……」

 

 ホシノは震える声で言葉を継ごうとした。

 

 「じゃあ……みんなは……アビドスの、後輩たち(みんな)は……」

 

 彼女が最悪の結末を口にする前に、名無しはそれを手で制して言葉を遮った。

 

「悪かった。当時の俺じゃ、ああするしか思い浮かばなかった。……誰一人、助けられなかった」

 

 彼は俯くホシノを見下ろした。その視線には、同じ地獄を通ってきた者だけが共有できる痛烈な共感が混じっている。

 

「……あんたも、同じだったらしいな」

 

 その一言が、ホシノの胸に深く突き刺さる。

 彼女もまた、自分一人で暴走してでもアビドスの仲間たちを救おうとし、彼女たちを巻き込むまいとしていた。けれど、その”独りよがりの覚悟”は皮肉にも最悪の形で反転し、結果として彼女たちに最もひどい思いをさせてしまった。

 

 彼はゆっくりと、言葉を噛みしめるように口を開く。

 

「大事なものを失った喪失感。やることなすこと全てが裏目に出る絶望感。自分の行いで、救いたかったはずの連中を傷つけてしまった後悔……」

 

 その言葉は、ホシノに向けられたものであると同時に彼自身の魂を削り出すような独白でもあった。

 

「色んな致命傷が残って、どうやっても消えない。最悪な気分だよな」

 

 名無しはそこで一度言葉を切り、上の空白を見上げた。そして、今の自分を突き動かしている”我儘”について話し始めた。死んだ生徒たちを、そしてキヴォトスを、この吹き溜まりから引きずり戻そうとしている計画を。

 

「だけどな」

 

「……今なら、取り返しがつく」

 

 彼はホシノの瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「もちろん、起きたことが全て元通りになるわけじゃない。死んだ事実は消えないし、傷跡も残ったまま。だが……もしあんたの中に、消えない”負い目”があるのなら。もう一度あいつらに会って、何らかの償いをしたいと思っているのなら」

 

 彼はそこで、僅かに声を和らげた。

 

「俺はそのきっかけぐらいなら与えられる。……だから協力する気はないか?」

 

 名無しは理解していた。今のホシノを救うのは、甘い慰めの言葉ではない。自分を責め続ける彼女にとって必要なのは、その”負い目”を背負ったまま、もう一度前を向くための具体的な行動なのだと。

 

 彼が示したのは、赦しではなく”機会”だった。

 ホシノが自分の手で、失われたはずの未来をもう一度手繰り寄せるための、泥塗れのチャンス。

 

 ホシノは震える自分の手を見つめた。

 彼女の内に渦巻く罪悪感を名無しは否定しなかった。ただその罪を抱えたまま、共に地獄に飛び込み、越えて行こうと手を差し出したのだ。

 

「今はシロコも同じように頑張ってるしな」

 

 名無しは少しだけ声のトーンを落として補足した。その名を聞いた瞬間ホシノの瞳に微かな光が宿る。

 

「シロコちゃんが……?」

 

「ああ。今は別行動だが、シロコのおかげでこの計画が進んでる。あいつはあいつで、自分の役割を果たそうと必死だ」

 

「そう、シロコちゃんが……」

 

 ホシノは噛み締めるように呟き、足元の灰色の地面を見つめた。しばらくの沈黙が二人の間に流れる。それは重苦しいものではなく、彼女の中で何かが形を成していくための、必要な時間だった。

 やがて、ホシノは顔を上げた。その表情からは先ほどまでの弱気な色は消え、静かな、けれど揺るぎない覚悟が宿っている。

 

「だったら……私、やりたいことがあるんだ。いいかな」

 

「なんだ?」

 

「私、アビドスのみんなを見つけに行きたい。一刻も早く、シロコちゃんとみんなを会わせてあげたいんだ。……でも、他の生徒たちを差し置いて、それを優先させるわけにはいかない。だから、私一人で探しに行く。……ダメかな?」

 

 名無しは一瞬、言葉を詰まらせた。

 一人で背負おうとするその姿に、かつて自分が、そして彼女自身が踏んだ”同じ轍”の予感を感じたからだ。だが、今の彼女の瞳にあるのは逃避ではなく、前を向くための意志。

 彼は少し考え、一つのアイデアを思いつくと、懐に手を入れた。

 

「そうか。じゃあ、これを受け取れ」

 

 投げ渡されたものを、ホシノは慌てて両手で受け止める。

 

「おっと……これは……鯨のキーホルダー……? ああ、あの時の……!」

 

「そうだ。どういうわけか今の俺の体の一部みてえになっちまってるらしい。だがそのおかげで、それを持っていれば離れていても俺やシロコからあんたの場所が分かる」

 

 彼はぶっきらぼうに、だが確かな信頼を込めて続けた。

 

「もう迷うなよ。あと、”悔い”のないようにな。じゃあ、行ってこい」

 

 彼は信じることにした。彼女が抱える”一人で抱え込む”という悪癖を完全には知らずとも、今の彼女にやり遂げさせると、その意思を尊重したのだ。

 

「もちろん、分かってるさ。助かるよ」

 

 ホシノは微笑んだ。気づけばその雰囲気は、いつものおじさんを自称する腑抜けたものではなくなっていた。背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼を見据えるその瞳は、嵐の中でも消えない灯火のように鋭く、強い。

 

 今度こそは、道を踏み外さない。

 言葉にせずとも、その覚悟は伝わったはずだ。

 

「……じゃあ、また会おう」

 

 ホシノは鯨のキーホルダーをぎゅっと握りしめると、灰色の霧の向こう、かつての仲間たちが眠る場所を求めて迷いのない足取りで駆け出していった。

 

 

 

 

 

 




[補足]
-鉈
 無骨な金属の板。厳密には鉈ですらない。
 これ自体には何の特別な効果もないが、ある重大な意味を帯びていた。持ち主と同じくして名はないが、仮に名がついたのなら込められた意味を明らかにするものであろう。

 かのマイスターは道具を大事に扱っていた。
 道具にも、魂は宿るのだろうか




 
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