再生への足取りを刻んでいた賑やかな大所帯を、突如としてある事態が襲った。
遊牧民のごとく失われた記憶と仲間を求めて進む彼女たちの足並みは、本来なら完璧なはずだった。先生という絶対的な道標が方向を示し、各学園の精鋭たちが効率的に隊列を制御する。その統率力は伊達じゃない。
しかし、この世界はあまりにも脆弱で不安定。
「"わわっ、何!?"」
先生の裏返った叫びが響く。
足元から伝わってきたのは、胃の奥を揺さぶるような不吉な振動だった。長い沈黙を保っていた死後の大地が、まるで巨大な獣が身悶えするように大きく波打ち始める。
「全員、回避! 地面が崩れるわ!」
「陣形を維持して! 離れるんじゃないっす!」
咄嗟の判断で生徒たちが互いに腕を取り合い、崩落の予兆から逃れようとする。だが、不安定な概念の集積体でしかないこの世界に、絶対的な安定など存在しない。蜘蛛の巣のように走った亀裂は瞬く間に広がり、轟音と共に大地が底の抜けた闇へと崩落していく。
「あ……」
その混乱の渦中で、一際脆い場所に立っていたのは、あの『灰色の人型』だった。
意志があるのかも分からないまま、ただ一行の後をずりずりと付いてきていた、ひび割れた粘土細工のような体。崩れゆく地面の縁に足を取られ、その無機質な姿が吸い込まれるように闇へと傾く。
「"危ない!"」
最も近くにいた先生が、反射的にその手を伸ばした。
だが、その二頭身の体躯はあまりにも無力。必死に虚空を掻いた短い腕は、灰色の人型の指先にすら届かない。
人型は抵抗する素振りも見せず、ただ重力に身を任せるように静かに奈落へと堕ちていく。
「先生、下がって! そこも崩れる!」
シロコが叫び、背負った大きな鉈をバランサーにしながら、崩落の際まで身を乗り出した先生の襟首を掴んで引き戻した。
眼前で広大な大地が消失し後に残ったのは、底の見えない真っ暗な大穴と、そこに吸い込まれていった名もなき誰かの影だけ。
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灰色の霧がたゆたう、長い道のり。
出会いと別れ、そして凄惨な過去の反芻を繰り返しながら、一行は歩みを止めることはない。
名もなき存在。彼を断罪しつつも生への我儘を共にするミレニアムの少女たち。一応関わりがあったアリウススクワッドの三人。そして、その背後を追従する奇妙な大人たち。その一角を占める記憶を失った女性……かつてのベアトリーチェは、旅の当初、驚くほど献身的な姿を見せていた。
行き詰まる歩調を労い、汚れなき聖母のような微笑みで子供を支える。その品性に溢れた善人としての振る舞いは、ある種、この色のない地獄における救いの一片ですらあった。
だが変化は音もなく、確実に忍び寄っていた。
「……少し、歩みが遅いのではありませんか? 私を待たせるとはどういうつもりです」
不意に彼女の口から吐き捨てられた言葉は、氷のように冷たく重い。
周囲の空気が一瞬で凍りつく。その声音には、かつてアリウスを支配した際に見せたような、底知れぬ傲慢さと他者を踏みにじる高圧的な色が混じっていた。
ヒヨリが「ひぃっ」と肩を震わせる。だが、次の瞬間には、女性は何事もなかったかのように柔和な顔に戻っていた。
「あら……? ごめんなさい、私、何か言ったかしら。少し疲れているのかもしれませんね」
忘却したのか、あるいは無自覚なのか。その変貌にはまるで古いレコードが音飛びを起こすような不自然さを感じさせる。
「……さっきから様子、おかしくない?」
ミサキが武器を握る手に力を込め、低く呟く。その視線はもはや無害な同行者を見るものではない。もとより警戒は解いていなかったのだが。
当初は誰もが記憶を失ったことによる一時的な混乱、あるいはガタの来た老人に見られるような情緒の不安定さだと解釈しようとしていた。しかし、その高圧的な人格が表出する頻度は一歩進むごとに増している。
「以前の彼女が……少しずつ、染み出してきているみたい」
アツコの瞳が鋭く細められる。
彼女たちアリウスの少女にとって、あの女性の本来の姿は、魂に刻まれた悪夢そのものだ。目の前の善人が、いつ『マダム』へと完全に反転するか分からない。その疑念は、霧のようにじわじわと彼女たちの心を浸食し始めていた。
ヒヨリは不安げに、先行する名もなき彼の背中を見つめる。
「ねぇ、名無しさん……。あの人、本当に大丈夫なんですよね……? なんだか、たまに目が……昔の、怖い時の目に戻っている気がして……」
震える声での問いかけに対し、名無しは足を止めることなく、ただ重苦しい沈黙を守っていた。
彼もまた気付いているはずだ。記憶という蓋が、内側から溢れ出すどす黒い本性によって押し上げられ、今にも弾け飛ばんとしていることに。
名もない彼は、立ち止まってアリウスの少女たちを振り返ることなく、淡々と言葉を投げた。
「一応、あんたらとは距離を置いておく。あいつは俺がうまく制御するから、黒服のほうの監視は頼んだ」
彼はベアトリーチェの細い手首を掴むでもなく、だが逃がさない距離で先を促す。
「ぶっちゃけ、記憶が飛んで人格が歪んでいるとはいえ、大人は何をしでかすか分かったもんじゃないからな。油断は禁物だ」
そう言い残すと彼は痴呆のように虚空を見つめるベアトリーチェを連れて、一行の最後尾へと下がっていった。
残されたアリウスの生徒たちは、今度は自分たちの目の前に残った"もう一人の大人"に視線を移した。そこにはサラリーマン風の身なりをしながら、中身のない営業トークを延々と垂れ流している狂った男、通称『黒スーツ』がいた。
「いやはや、実に素晴らしい。この死後の世界の非ユークリッド的な空間構成、そして皆様という稀代のサンプル……! 弊社の新規事業として契約を結べるのであれば、これ以上の喜びはありません。まずはこのパンフレット(実際は何もない)をご覧ください」
「……何、こいつ。気持ち悪い」
ミサキが心底嫌そうな顔を隠そうともせず吐き捨てる。ヒヨリとアツコも、示し合わせたかのように同時にしかめっ面を浮かべる。
先行していたリオとヒマリ、そしてネルの三人もしばらくは相手をしていたようだが、すでに限界は近かった。
「……リオ、彼の言動から何らかの規則性を見出せませんか? さすがの全知の私も、この無意味な情報の羅列には脳のメモリを無駄遣いさせられている気分です」
「無理よ、ヒマリ。彼の言葉は論理ではなく、純粋なパラノイアで構成されているわ。ネル、もう少し彼を静かにさせることはできない?」
話題を振られたネルはサブマシンガンの銃身で肩を叩きながら、苛立ちを露わにする。
「あぁ? あんな得体の知れねぇ野郎、ぶっ飛ばしていいなら今すぐにでもやってやるよ。さっきから『福利厚生』だの『インセンティブ』だの、わけの分からねぇ呪文をぶつぶつとよ……!」
最強の機動力を見せた先ほどの昂揚感はどこへやら、ネルの堪忍袋の緒は今にも千切れそうだ。一行は、前方の狂ったセールストークと、後方のいつ爆発するか分からない爆弾という、二つの厄介な大人の火種を抱えたまま、重苦しい歩みを続けていた。
「……時折、自分が二人いるように感じるのです」
大人の女は、霧の向こうを見つめながら独り言のように零した。その横顔は、慈愛に満ちた聖女のようでもあり、同時に空虚な仮面のようでもある。
「子供たちを見ると、どういうわけか二つの感情が同時に湧き上がるの。抱きしめて守ってあげたいという、胸が締め付けられるような温かい気持ち……。それと、対照的に」
彼女はそこで一度言葉を切り、震える指先で自分の胸元を押さえた。
「すべてを等しくすり潰し、その絶望を貪り尽くしてやりたいという、悍ましいまでの渇き」
名もなき存在はその告白を無言で聞き流しながら、思慮にふけっていた。
自身もかつて、生前も死後も、幾度となく記憶を失った経験がある。だが、それらは常に外的な刺激や痛みや、誰かの呼びかけによって無理やり引きずり戻されてきた。記憶とは、望むと望まざるとに関わらず"そこ"に在り続ける呪いのようなものにもなり得る。
「(この女の記憶は取り戻してもいいものなのか? それともこのまま永遠に封じ込めておくべきなのか)」
答えは出ない。仮に封じ込めるべきだとして、人格の変容を押し留める具体的な術などまだ知らない。
最悪のケース。元の怪物に戻り、牙を剥くのであれば、その時はただ『処理』すればいい。名無しにとって、それは極めて単純な行為に過ぎないだろう。
人格が戻る際に問題なのは、彼女を地獄の象徴として刻まれているアリウスの少女たちの精神衛生面だ。ただでさえ趣味の悪い状況に突き合わせているのにこれ以上トラウマを刺激させたくない。
「……面倒な話だな」
彼は低く吐き捨てた。
情に流されて連れているわけではない。むしろ、これほど予測不能で有害な因子は視界から外れることの方が遥かに恐ろしい。不安要素を見失った際のリスクを考えれば、手の届く範囲で監視し続けることこそが皮肉にも唯一の安全策なのだ。
そのとき、こちらでも巨大な地鳴りが静寂を引き裂いた。
立っていられないほどの激しい揺れに、リオやヒマリが悲鳴を上げ、ネルが舌打ちをして身構える。足元の地面は、まるで巨大な獣が口を開けるように無慈悲に裂け始めた。
その亀裂は、不幸にもアツコの真下へと伸びる。
回避が遅れたアツコの身体が宙に浮き、暗い深淵へと吸い込まれそうになったその瞬間。
「危ない……っ!」
鋭い叫びとともに、隣を歩いていたベアトリーチェが飛び出した。
彼女は驚くべき速さでアツコの華奢な身体を抱え、渾身の力で亀裂の外へと突き飛ばした。代わりに均衡を失った彼女の身体が崖際へと滑り落ち、辛うじて片手で岩の突起にぶら下がる。
「……!」
アツコは咄嗟に振り返った。自分を虐げ、利用し尽くそうとしたはずの女が、今、自分を救った。その矛盾を飲み込む暇もなく、アツコは彼女の手を掴もうと崖際へと這い寄る。
しかし、伸ばしたアツコの指先が触れる直前。
見上げたベアトリーチェの瞳に、激しい感情の火花が散るのをアツコは見逃さなかった。
それは先ほどまでの聖女のような表情ではない。
かつて相対した時に見せていた、あの苛烈な表情。自分に救いの手を差し伸べるアツコに対し、「お前ごときに手を差し伸べられるなどと」という、煮えたぎるような屈辱と侮蔑がその双眸に宿ったのだ。
「……っ」
ベアトリーチェは、アツコの手を拒絶するように自ら指を離した。
何一つ言葉を発さず、彼女の身体は奈落の底へと、真っ逆さまに落ちていく。
「アツコ、離れてッ!!」
背後から駆け寄ったミサキが、崩れゆく崖際からアツコの身体を強引に引き剥がす。
連れ去られる最中、アツコは遠ざかる深淵を見つめたまま、言葉にできない戦慄を覚えていた。
あの瞬間の彼女の表情。
記憶という泥沼から這い出したかつての人格が、あろうことかかつて自分が搾取の対象としていた出来損ないの生徒に命を救われ、さらに情けをかけられるという現実に直面した。
その事実を、彼女の傲慢な自尊心は耐え難い汚辱として認識したのではないか。
自分を犠牲にして生徒を救ってしまったという善行さえも、彼女にとっては耐えがたい自己への裏切りだったのではないか。
暗闇に消えていった彼女の最期の目は、死への恐怖よりも、救われることへの猛烈な拒絶に満ちていた。
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長く、長く彷徨った。
見覚えのある人々を見つけた。聞き覚えのある言葉を聞いた。
それでもまだ、分からない。私が、一体何者であったのか。
差し出された手。語りかけられる言葉。そのすべてが、私のひび割れた体表を虚しく滑り落ちていく。自分の輪郭は未だ朧げなままだ。
地響きが起き、崩れた地面とともに落ちてしまった。
視界が激しく反転し、重力が私を奈落へと引きずり込む。その瞬間、あの小さな、落書きのような存在が必死に私へと手を伸ばそうとしたのが見えた。
何故私を救おうとしたのだろう。私に、それほどの価値があるというのか? 私を信じているのか……?
思考は闇に呑まれ、やがて衝撃とともに途絶えた。
ここは。
どれほどの時間が経過したのかは定かではない。私は、堆積した厚い灰のクッションに半ば埋もれるようにして横たわっていた。
落ちてしまったが、痛みはない。喉の奥に熱いものが込み上げる感覚も、焼かれるような苦痛も、今の私には訪れない。
……なるほど。もう、壊れるものは残っていないということなのだろうか。
緩慢な動きで上体を起こす。頭上には、崩落した大地が蓋のように視界を遮り、僅かな隙間から光が漏れている。
崩れた地面の下にも、壊れた記憶と瓦礫の世界が広がっているようだ。見上げれば、幾層にも重なった土砂の断層に、誰かのものだった靴や、ひしゃげたドラム缶、半分に割れた看板などが覗いている。
何段もこうして、誰かの記憶が積み重なって、堆肥していくのだろうか。
忘れ去られた想いが腐り、層をなし、世界を底上げしていく。ならば、今この最下層に辿り着いた私は、その中でも最も古い、あるいは最も無価値な記憶の一部だというのか。
「……」
立ち上がる。ひび割れた足元で、乾いた石が音を立てて転がった。
虚しい。全てはただ、虚しいだけだ。
上へ戻る手段など、今の私には見当たらない。
だが。
もしも、あの小さな存在がまだ私を『生徒』として探しているのだとしたら。
能力が向上したわけでも、強さを得たわけでもない今の私にできることなど、一つしかない。
せめて、その分の働きはしよう。
私は、重い足を引きずり、誰もいない記憶の墓場の奥へと歩き出した。
暗い記憶の洞窟。誰の目に触れることもなく、ただ風化を待つだけの情報の残骸が堆積したこの場所で人影を見つけた。それはどこか異質だった。
白いドレスを纏う、気品あふれる大人の女性。
しかし、その姿は一定ではない。透き通るような肌を持つ人間の姿かと思えば、次の瞬間には、身の毛もよだつような赤い肌を剥き出しにした異形の姿へと、不規則に、そして不安定に変容を繰り返している。
理解ができないはずなのに、胸の奥がひどく騒がしい。
あれは……。とてもよく、覚えているような気がする。私の過去、私の罪、私の絶望。そのすべての分岐点に彼女の影が落ちていたような、そんな既視感が全身を駆け巡る。
彼女は私の存在に気づくなり、苦悶に歪んでいた表情を変えぬまま声をこちらに向けた。
「ああ、貴女でしたか……。」
私のことが、わかるのか。
このひび割れた、声も出せない粘土細工の正体を、彼女は知っているというのか。
問いかけようとして、私は自分の喉が沈黙に塗り潰されていることを思い出す。音にならない吐息が虚しく洞窟の壁に吸い込まれていった。
「……っ」
彼女は私を直視するのを避けるように、不意に頭を抱え、蹲った。
支離滅裂な独白が、高慢な口調の端々から漏れ出す。気品に満ちていたはずのその背中は、今は何かに怯え、静かに、そして激しく無言で悩み抜いているように見えた。
なるほど。これは、そういうことなのか。
彼女の不安定な揺らぎが、私の失われた記憶を刺激する。
今の私の根幹。私が何故こうなり、何故死なねばならなかったのか。その真実の鍵を、この狂った貴婦人が握っている。
彼女は、私のことを知っているのだろう?
その口から、私の真実を、あるいは私が果たすべき最善を教えてはくれないか。
私は一歩、また一歩と、変容し続ける白い影へと近づく。
ひび割れた右手を伸ばす。
強さが無ければ、何も守れない。
今の私に、彼女の悩みを取り払う力などない。それでも、私はこの絶望の先にある解釈を求めていた。
彼女は……どうしてそんな顔をしている?
「……」
私は音のない問いを抱えたまま、彼女の傍らに立ち尽くした。
「私は……どちらが本当の私なのでしょうか?」
白いドレスの裾を震わせ、彼女は絞り出すようにそう漏らした。
気品ある声音は、今やひび割れた鏡のように鋭く、そして脆い。
「子供を導き、救うのが私だったのでしょうか? ……それとも、子供を導き、搾取するのが私だったのでしょうか?」
大人は、その手に残った重みに耐えかねるように激しく嘆く。
赤い肌の異形と、清廉な貴婦人の姿が瞬きのたびに激しく入れ替わる。その境界線は既に崩壊し、彼女という存在そのものが、内側から食い破られていくような自己崩壊の渦中にあった。
……理解ができる。
元の自分がどれなのか、分からなくなってしまっているのだな。
己の振る舞いが、理想であったのか、あるいはただの独りよがりの強欲であったのか。その答えを出すための『鏡』を、彼女は既に失ってしまったのだろう。
直後、彼女の視線が、色のない私の姿を真っ直ぐに射抜いた。
「貴女のことを……私は覚えています。貴女には、酷いことをした。今なら、そう思えるのです。ですが……それが正しく、私のために成すべきことだったと思う自分もいるのです。……私は……"どれ"なのでしょうか……っ」
歪んだ人格が正しい己を求めて叫んでいる。
その悲痛な問いかけが私のひび割れた表面を震わせ、凍りついていた記憶の深層を無理やり抉り出した。
……ああ。
覚えている。思い出してしまった。
その高慢な立ち振る舞い。目的のために手段を選ばず、幼い魂を盤上の駒として弄び、搾取したあの冷酷な支配者の顔を。
そこに居たのですね、『マダム』。
私は、彼女に何を求めていたのだろうか。
かつての私を支配し、その精神を、肉体を、そして未来さえも意のままに操っていた彼女。私にとっての彼女は、ただ単に憎むべき、打ち倒すべき仇敵だったのだろうか。
否、彼女はもっと恐ろしく強大で、逆らうことなど考えもしない絶対的な上位存在だった。幸福を望むことさえ許されず、少しでも自分という個を持とうとすれば、容赦のない罰が下された。
そんな狂った関係の中で、私は何を求めていたのだろう。
目の前の『大人』、ベアトリーチェは、自己崩壊の淵で震えながら言葉を継いだ。
「貴女は……私に忠義を尽くしてくれました。……しかし私は、貴女たちをただの駒としか見ておらず、使い捨てようとした……」
……理解ができない。
何故、今更そのようなことを口にする。
私は、彼女に何を求めていた?
忠義を尽くすべき絶対的な存在。それ以外の解釈など、持ち合わせているはずもなかった。そもそも、それを考えること自体が禁忌であったから。
「……ごめんなさい」
歪んでしまった自己、赤黒い異形の側に意識を呑まれかけながら、彼女は半ば自暴自棄に、謝罪を口にする。
……私は、謝罪してほしいのだろうか?
これまでの行いを、私の尊厳を奪った日々を、今更詫びてほしいのだろうか?
いや、違う。そんなものは、今の私の燃え尽きた心を何一つ満たしてはくれない。
虚しい。ただ、虚しいだけだ。そんな謝罪を聞くために、私は死を越えて歩んできたわけではない。
マダム。
声を出そうとした。だが、やはり何も出ない。喉の奥にこびりついた沈黙は、叫びたい衝動さえも黒い煤に変えてしまう。
大人は最後の力を振り絞るようにして私を見た。その瞳に宿っていたのは、支配者の傲慢でも、加害者の負い目でもなかった。
「……今なら、理解できます……貴女が……誰よりも、その虚無に耐えていたことを。……どんなに理不尽な命令でも、貴女は……最善を尽くそうとしてくれました……」
掠れた声が、洞窟の静寂に響く。
「……よく……頑張ってくれましたね。……貴女のその……苦しみも、努力も……過程も。……誰が否定しようとも……立派でしたよ、貴女は……」
それは、彼女から"本来なら"放たれるはずのない剥き出しの肯定。
直後、彼女の細い腕が、ひび割れた私の体を強く引き寄せた。
「……っ」
体温が伝わる。
私は、石像のように硬直した。
抱きしめられている。かつて、恐怖と服従の象徴であったその腕に。
理解ができない。……理解したくない。
私が欲していたのは、無意識に精神が、魂が叫び続けていたものは。
奪われたすべてに対する復讐でも、形ばかりの謝罪でもなかったというのか。
保護者からの、無条件の肯定。
努力の肯定と、親からの承認。
どれほど虐げられようとも、どれほど道具として扱われようとも、心の底の底、最深層に隠していた……子供じみた愛への渇望。
「……っ」
ゆっくりと彼女はふらつきながら、私から離れていく。もう限界のようだ。
「……あ、ああ……ア、ァァァァッ!!」
耳を裂くような、醜悪な断末魔。
私を先程まで抱きしめていたその腕から、温もりが急速に消えていくように見えた。剥き出しの花弁と無数の眼が清廉な貴婦人の顔を無慈悲に侵食し、塗り潰す。
「ああ忌々しい! こんな、こんな惨めな姿が私であるはずがない! 塵芥の如きガラクタに慈悲を乞うなど、この私が!許してなるものですかッ!!」
狂乱。絶叫。
かつての支配者は、自己崩壊の果てに『悪意』という名の自己を強制的に繋ぎ止めたらしい。
……理解した。
完全に記憶を取り戻してかつての、そして本来の『ベアトリーチェ』に戻ったのだな。
足元に視線を落とすと、堆積した灰の中から見慣れた黒い金属の光沢が覗いていた。
それは、かつての私が愛用し、数多の命と虚無を撃ち抜いてきた、私の半身とも呼べる得物。
なるほど。ここで真に決別をしろ……ということか。
今の私は声も出せず、姿も醜くひび割れている。だが、銃を握る指先だけは、かつてないほどに静かに、そして冴え渡っていた。
「……」
私は重厚な銃身を引き抜き、無機質な動作で装填を確認する。
狂い、叫び、私を呪いながら異形へと回帰していくかつての『母』へ、私は銃口を向けた。
これでお別れだ、マダム。そしてベアトリーチェ。
お前を許すことはない。お前のしたことを忘れることもない。
だが……最後に抱きしめたその腕が、かつて私が求めていた、決して手に入るのはずのない保護者の『愛』の残滓であったのだとしたら。
その大事なものを、死の淵で思い出させてくれたことには感謝しよう。
お前の言う通り、全ては虚無に行き着いた。
ならば、その虚無の先へ、私は進ませてもらう。
「……」
迷いはない。
引き金にかかった指に、僅かな力がこもる。
ーVanitas vanitatum,ergo perge.
「……グハッ!?」
脳のモヤが、光に焼き払われるような感覚。
それでいてどこか耳の奥が痛むような、懐かしくも痛快な銃声が洞窟内に響き渡った。
私の放った一撃は、狂乱する異形の心臓部を正確に穿つ。
赤い飛沫が灰色の世界に飛び散り、彼女の絶叫は一瞬にして静寂へと置き換えられた。悪意に満ちた叫びは消え、赤い肉体も、風に解ける砂のように儚く霧散する。
塵となって消えた彼女の痕跡の中で、ただ一つ、汚れのない白いドレスだけがその場に脱ぎ捨てられたように残されていた。
これが彼女が、最期の瞬間に残してくれたものだというのか。
支配、搾取、そして一瞬の肯定。それらすべてを包み込んでいた白い幕。
私は重い足取りで歩み寄り、その布地を拾い上げた。
あらゆる傷も絶望も経験だ。様々な苦痛を乗り越え、微かな幸福と大きな希望。それらを全てまとめたのが『私』なんだ。
ひび割れた指先に触れる生地は、驚くほど軽く、そしてまだ微かな温もりを宿しているような気がした。これを携えて行こう。それが、私がこの深淵で得た唯一の『解釈』なのだから。
戻ろう。先生の元へ。
そして探して、見つけるんだ。
この灰の迷宮のどこかで私と同じように凍えているはずの私の家族。
ミサキ、ヒヨリ、そしてアツコを。
何度だって、やり直すチャンスは訪れる。
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「ふぅ……ふぅ……。」
「想像していたよりも、ずっと深くまで崩れちゃってるみたい。」
聖園ミカは、灰色の粉塵が舞う斜面を慎重に、時に大胆に飛び降りながら下っていた。
先生と勘違いして、恥ずかしい独白まで聞かせてしまったあの正体不明の灰の人型。正直に言えば、思い出すだけで顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。だが、あんな風に力なく奈落へ落ちていくのを見て、見捨てておけるほど彼女の心は冷え切っていなかった。
「先生があんなに必死に手を伸ばしてたんだもん。ここで放っておいたら、かわいそうじゃんね☆」
自分に言い訳をするように独り言ちながら、ミカは崩落の最下層へと辿り着く。
そこは、幾重にも重なった過去の記憶が瓦礫となって堆積する、静まり返った墓場のような場所だった。
「おーい! どこにいるのー? 生きてるー? ……あ、生きてるっていうのも変かな」
声を張り上げながら、朧げな視界の先を凝視する。
すると、灰色の霧の向こうから、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる人影が見えた。
「あっ、いた! おーい!」
ミカは安堵して手を振る。しかし、その距離が縮まるにつれ、彼女の表情は驚愕へと塗り替えられていった。
近づくたびに、あのひび割れた粘土細工のような人型の輪郭が、陽炎が晴れるように鮮明になっていく。崩壊寸前だったはずの表面は、今や滑らかな肌の質感を取り戻し、確か"少女の姿"と再構築されていた。
おまけにその体には場違いなほど清廉な、一着の白いドレスが纏わされている。
「……っ!?」
ミカは息を呑んだ。
人型が元の姿を取り戻したことへの驚きではない。その歩き方、その佇まい、そして何よりその顔に見覚えがあったからだ。
「すまない、待たせてしまった」
低く、落ち着いた、それでいて重い。
先程までの沈黙が嘘のように、その少女は明瞭な言葉を口にした。
ミカは呆然と立ち尽くした。
かつて因縁のあった彼女の人生においてとても大きな意味を持つ人物を前に。
「あ、あなたは……!」
「ああ」
少女は短く応え、ミカのすぐ目の前で足を止めた。
白いドレスの裾を灰に汚しながら、彼女は自らの『名』を名乗った。
「……錠前サオリだ」
[補足]
-サオリ*テラー
厳密には本来のテラー化とは違い、いろいろ余計なものも混じっている。白いドレスのほかに、白い翼のような花弁を想起させる装飾品を頭につけている。右目の瞳は失明したように白く色を失っているが視力はある。
外部からの精神的な悪影響に対して耐性を得た。
特に憎悪や狂気に対して。