変わらず色亡き荒野にて。
ある位置にかつて学び舎であったものの残骸とも言うべき、たった一つの教室が墓標のようにぽつんと取り残されていた。
窓ガラスはすべて割れ、吹き込む風は砂混じりに肌をなでる。その教室の隅、埃の積もった床に一人の少女が膝を抱えてうずくまっているのだった。
かつてその微笑みと明るい態度でアビドス対策委員会の空気を温めていたはずの少女の面影は、悲しいことに今の彼女には微塵もない。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
掠れた声が無人の教室に力なく響く。
彼女が謝り続けている相手はここにはいない。一体誰に向けたものなのだろうか?
彼女の心を苛んでいたのは、逃れようのない出自による自責の呪いだったようだ。
自分の身内、ネフティス・グループがアビドスに強いた苦難。負債と借金、そして終わりのない衰退。自分がどれだけ仲間を愛そうとも、自分の身内が、大好きなアビドスを蝕もうとしていたという事実は変わらない。彼女は如何に無実であろうと自意識から生じる負い目を消すのは簡単ではない。
「私が……私がもっと、何とかできていれば……」
あの日。先輩が、一人で事態を収束させるために生徒会の谷へと向かった背中を彼女は思い出す。
止めるべきだった。泣き喚いてでも、縋り付いてでも。
当然動いた。彼女を助けたかったから。
結果、帰ってきた彼女は、もう彼女の知る“先輩”ではなかった。出会いたての余所余所しかった頃、段々と受け入れられて態度や言動が軟化してきた頃、そのどれでもない、言葉の通じない黒い瘴気を纏った“何か”。
「……うぅ、ひっ……あぁぁ……」
「……どうして、一人で行っちゃったんですか」
空虚な独白。
もはや自分というものがこの灰色の静寂の中では毒でしかなかった。
彼女は、自分を罰するようにさらに体を小さく丸める。
この残骸の世界で永遠に自責の海に溺れ続けることが自分に許された唯一の贖罪であると信じ込むように。理不尽は人を容赦なく壊す。後悔で壊れた人間は残念ながらそう少なくはない。彼女もそうした末路を辿りそうになっていた。
虚しき静寂が支配する教室の中で、うずくまる少女の姿はいつしか、アビドスに進学した時期よりも幼い、無垢で脆弱な子供の姿へと巻き戻っていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
届くはずのない謝罪を彼女は繰り返す。自意識はとっくに崩れ、自分が誰なのか、ここがどこなのかも定かではなくなり始めていた。
視界は霞み、感覚は薄れゆく。
だがその虚しさの中で彼女は聞いた。
自分の細い謝罪の声に重なるようにして響く、もう一つの震える声を。
「……ごめんね……。本当に……ごめん……」
気づかぬうちに重なる声。懐かしい、陽だまりのような匂いがした。錯覚だったのかもしれないが、確かに感じたのだ。
かつて隣で微睡んでいたあの安らぎの記憶。もう二度と聞こえるはずのなかった声が、自分と同じように謝罪を口にしている。
「……お私、勝手だったよね……。独りで全部、片付くと思って……」
その声はかつての暴走した際の呻き声ではなく、紛れもないあの優しき先輩のものであった。
一人で列車砲へ向かい、取り返しのつかない決別を選んでしまったこと。残される者の恐怖を誰よりも知っていたはずなのに、自分もまた彼女たちを置いていってしまったこと。それを再開できた今だからこそ詫びる。
「……不安にさせちゃったよね。ごめん、ごめんね。」
気づけば幼い少女の身体は、温かな腕によって優しく抱きしめられていた。
壊れかけた少女、十六夜ノノミはおぼつかない意識の中でようやく顔を上げた。
そこに在ったのは自身が愛し、自分を導き、そして何より先に消えてしまったはずの“ホシノ先輩”だった。
「……せ……んぱ……?」
ノノミの瞳は虚ろで、まるで痴呆に陥ったかのように焦点が合わない。今、自分たちが生きているのか、それとも死後の中にいるのかさえ、彼女の壊れかけの認知能力では判断できなかった。
だが自分を包むその腕の熱だけは、あまりに鮮明で。
涙は出ない、存在しないためだ。だが彼女の内部では、行き場を失った激情が音もなく溢れ出し、枯れ果てたはずの魂を濡らしていく。
「……でももう置いて行ったりしない。約束する。」
ホシノはノノミの幼い頭を、かつて自分がそうしてもらった時のように、ゆっくりと、愛おしそうに撫でた。
ホシノ自身の瞳からも流れるはずのない涙が、雫となって零れ落ちそうに揺れる。
二人の少女は、灰色の荒野に取り残されたたった一つの教室で、互いの“罪”と“後悔”を分かち合うように、ただ静かに深く抱き合っていた。
気づけばノノミは“今”の姿に戻っていた。彼女の精神が回復の兆しを見せている事を意味しているのだろう。虚ろだった瞳に、かつての理知的で慈愛に満ちた光がわずかに灯る。
「……はい。……はい、ホシノ先輩……!」
まだ掠れているが、先程よりも明確にしっかりとした声。ノノミは、自分を支えるホシノの腕をそっと握り返した。
「うん、いい返事だ~。……じゃあ、行こっか。みんなのところへ」
ホシノはそう言って、ノノミの手を引いて立ち上がった。
かつてのように軽口を叩く余裕は、まだ完全には戻っていないかもしれないがその足取りに迷いは微塵も見えない。
二人が歩み出した先には道なんてどこにもない。ただ果てしない灰色の荒野と破損した記憶の具現化が並ぶ不確かな地平が広がっているだけだ。
「……まっさらですね」
ノノミが小さく呟く。どこに向かって行けばいいのか?という疑問も孕んでいるように聞こえた。するとホシノは、ふっと優しく微笑み、言葉を返す。
「そうだね。でも、大丈夫。……私たちが歩けば、そこが道になるんだから」
ホシノが一歩を踏み出す。その足跡が色のない地面に確かな轍を刻んでいく。
かつて一人で走っていた時、彼女は後ろを振り返ることを恐れていた。けれど今は、隣に自分を信じてくれる後輩がいる。
進めば、道はできる。
どこにだって行けるし、どこにだって進む先はある。
それは当たり前だが誰もが忘れがちな尊い事実だ。
「……はい。前進、前進ですね……!」
ノノミはようやく明るい表情を見せた。
二人が並んで歩く背後には、荒野を貫く一本の筋が伸びていく。それは後から来る者たちを導く標となり、やがてアビドスの、そしてキヴォトスの未来へと繋がる再建の道標となる。
二人の少女はいずれ見つける仲間たちの姿とその笑顔を思い浮かべながら、灰色の霧の向こうへと足を進めていく。
ふとノノミが足を止め、背後を振り返った。元いた、消えかけの校舎がある場所を眺める。
砂に埋もれかけながらも、辛うじて形を留めた鉄製の校門が残っていた。錆びつき、色を失いながらも、本当に辛うじてそれが何だったかわかる程度でしかない。
「そういえば……ここ。私たちが初めて出会った場所ですね」
ノノミの言葉に、ホシノも足を止めた。
視線の先にあるのは、死後の世界において数多あるアビドスの校舎の記憶の中でも、特にある時期を示すものだ。ノノミが進学する前、運命的な出会いがあった憧憬の景色なのだろう。
あの時、校門の前で所在なげに立っていた少女。そしてそれを見つけ、後で少し脅かしすぎたかなと思うような接し方をした、たった一人のアビドス生。
一つの大きな喪失の後、新たな出会いによって再生に向かっていったかつての日々の断片がこの死界に不意に浮かび上がるようだ。
「……うん、そうだったね。よ~く覚えてるよ。」
ホシノは照れ隠しのように笑い、それから愛おしそうに周囲の景色を見渡した。
「でも、悪くないね。これから進むたびに色んな出会いの記憶を拾って、取り返して……そうやって、全部思い出していくんだろうね」
失われたはずの時間は完全に消失したわけではない。この荒野のどこかに、灰に埋もれたまま彼女たちが掘り起こしてくれるのを待っているのだ。
小さな積み重ねはこれからも続いていく。
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「……それで、今に至って私のことを見つけた……ということですか?」
アヤネは眼鏡を指先で押し上げながら、信じられないものを見るような、それでいて深い安堵の混じった溜息をついた。
灰色の荒野の真ん中で、いつの間にか合流していた三人。アヤネは今しがたホシノから語られたこれまでの経緯を聞き終え、少しだけ不服そうに頬を膨らませる。
「あの……ホシノ先輩。さらっと仰いましたけど、やっぱり一人で行ってしまうなんて、いくらなんでも独断が過ぎます!」
「相変わらず手厳しいなぁアヤネちゃんは。……でも本当にごめん。謝っても足りないだろうし、反省もしてる。」
ホシノは真面目に反省の意を表する。その隣では、ノノミが以前のような明るい雰囲気を纏って頷いている。
「うんうん! でも、こうしてまた三人で集まれたんですから、結果オーライですよ~☆ ねえ、アヤネちゃん?」
「ノノミ先輩まで……。」
アヤネは苦笑いしながらも、その瞳には熱いものがこみ上げていた。
彼女の記憶はホシノが生徒会の谷へ向かい、自分たちがそれを止めようとして……圧倒的な黒い暴力の前に意識を失ったところで途切れている。その後のアビドスの崩壊も、ホシノが死んだ事実も彼女は知らない。
だがそれでも再開は素直に喜べるものだろう。
「……本当にもう。……本当によかった。ホシノ先輩が無事で、本当に……」
アヤネの声が僅かに震える。理知的な彼女が言葉を詰まらせ、眼鏡の奥で目元を潤ませているのを見て、ホシノは一瞬だけ心臓あたりの位置に痛みを覚えた。
だが、それはすぐに優しい先輩の顔へと上書きされる。
「ごめんね、アヤネちゃん。……心配かけて。でも、もう大丈夫だよ」
ホシノはアヤネの肩にそっと手を置いた。
「でも後方支援担当の出番、これからもばっちり残ってるみたいだしさ。アヤネちゃんの力、貸してくれるかな?」
「……! はいっ! もちろんです、先輩。スケジュール管理から戦況分析まで、何でも私にお任せください!」
アヤネはいつものようにテキパキと答え、胸を張った。
死後の世界という終着点、アビドス生徒会の絆は色のない荒野に確かな希望を再び宿す。
ここでホシノはある程度のことを話しておく。今全員が生き返るための計画が進んでいるという事実を。それを実行しているうちの一人がシロコで、彼女はほかの場所で活動し続けている現状。かつてのキヴォトスで命を落とした生徒たちと先生、その全員を見つけることを目的としていることを話す。
「……そんなことが、本当に……」
ホシノから語られた信じがたい計画の内容に、アヤネは驚愕で目を丸くし、ノノミもまた真剣な面持ちで聞き入っていた。
かつてのキヴォトスで命を落としたすべての生徒、そして先生を救い出し、この吹き溜まりから引きずり戻す。あまりに壮大なスケール感を匂わせる途方もない話だ。
「そう。シロコちゃんもね、今は別の場所でそのために走り回ってるみたいなんだ。あの子が頑張ってるから、おじさんもこうして前を向けてるんだよ」
ホシノは遠く、灰色の霧が渦巻く地平を見据えた。
シロコ。あの子が今もどこかで、かつての仲間を、そして先生を救うために戦っている。ならば自分たちも怠けているわけにはいかないだろう。
「全員……。そうですね。先生やシロコ先輩、みんなとまた会えるなら……。それにセリカちゃんも絶対に見つけないと!」
アヤネは声を上げた。
アビドス生徒会のもう一人の大切な仲間。文句を言いながらも誰より学校を愛し、怪しい誘いに度々そそのかされていながらも努力していた彼女を。
「そうですね~☆ セリカちゃん、きっとどこかで怒ってますよ。『なんでいつも私が一人になるのよー!』って。ふふ、目に浮かぶようです」
ノノミがクスクスと笑いながら同意する。その明るい笑い声に、重苦しかった荒野の空気がわずかに和らぐ。
「うへ~間違いないね。おじさん、見つけた瞬間にひっぱたかれちゃうかも」
ホシノは苦笑しながら、名もなき彼から渡された鯨のキーホルダーをそっと握りしめた。
この広い、色のない荒野。シロコと先に合流できるのか、それともセリカを見つけるのが先か。あるいは、まだ見ぬ他校の生徒たちや、あの懐かしい先生と再会するのか。
どこに誰がいるのかも分からない。だから前を見よう。そして進もう。この先もまだ長い。前向きな心持ちは大事だ。
「よし、行こうか。……アヤネちゃん、索敵は任せたよ」
「はい! 状況を把握しました。……前方、視界は不良ですが、かすかに反応を感じます……といっても勘ですけどね……。行きましょう、先輩!」
ホシノはシールドを構え、その最前列に立った。
「……待っててね、みんな。今、私たちが迎えに行くからさ」
再生の時は近い。