相も変わらず、乾いた灰の降り積もる道を歩き続ける。
彼は『ニル』という名を得た。だが、長い年月を名もなき存在として生きてきた彼にとって、“名無し”という記号はもはや重要な意味を持ったアイデンティティでもあった。結局のところ、周囲も彼をそう呼び続けるだろうし、彼自身もあえて名乗ることはそうないだろう。
「……なぁ、気づいたか」
不意に彼が後方を歩くミサキへと声をかけた。
「……なに」
ミサキは視線を逸らしたままそっけなく返す。
その直後。足元から胃の腑を揺さぶるような地鳴りが響き、またしても地面が巨大な大口を開けた。
「この短期間に五回もか。……作為的なものを感じるな」
地割れを飛び越え、彼は忌々しげに吐き捨てる。この頃、短いスパンで似た事象が立て続けに起きていた。まるで自分たちの行動を阻害し、徹底的に進路妨害を目論む意志すら感じさせる。
「体感ではもう一年以上は歩き続けてるが……さすがに効率が悪すぎるな。……そろそろ”もう一方”と合流するか」
独り言のように呟かれた言葉に、アツコが反応する。
「もう一方……前に言っていた協力者の人のこと?」
「ああ」
この世界の時間の流れは曖昧で滅茶苦茶だ。現実のキヴォトスでは一秒も経っていないが、この虚無の中を彷徨う彼らにとっては精神を摩耗させるに十分な年月が既に経過していた。
「進行方向を変えるぞ。あっちの方が合流には都合がいい。……運が良ければ、向こうが既に『先生』を見つけてくれているかもしれないしな」
彼はそう言うとこれまでとは違う方角へと舵を切った。
先生。その単語が出た瞬間、一行の間に微かな緊張と期待が走る。
この死後の世界において、彼の『性質』が捉えられるものは極めて限定されている。
この領域を漂う生徒たちは、厳密にはかつての存在が剥落したテクスチャの残骸に過ぎず、その身に『神秘』を宿してはいない。ゆえに、彼女たちを頼りに索敵を行うことは不可能だった。
彼にとっての目印は、二つ。
そもそも死亡していないので強固な神秘を保持し続けるシロコ*テラー。そして半ば己の一部と化したものである、ホシノへと託したあのキーホルダー。現状、遠距離でも感知可能なものはこれに限られる。神秘を宿すものか己に連なる者なら見つけられるというわけだ。一応アリスなども探知できるのだが現在は共に同行しているため除外。
彼の感知能力は深海を進む潜水艇のソナーに近い。方角は大まかに分かるが正確な距離は測りかねる。
「ん。……反応があった」
足を止めた彼の言葉に、一行が緊張に包まれる。
彼の探知網には、強弱の差がある二つの光点。一つは、己の欠片が放つ馴染み深い波長……ホシノだろう。そしてもう一つ、荒れ狂う嵐のような、それでいてひどく静謐な神秘の波動。シロコのそれだ。
「近い。……正確な距離までは断定できねえが、思っていたよりずっと近くだ」
だが、そこへ至る道は平坦ではない。
誰かの記憶が泥のように堆積し、具現化した景色を掻き分けて進むこの旅路は単なる大移動とは少し異なる。それは通り過ぎる記憶の断片を強制的に見せつけられ、己の内面を削り取りながら歩む、瞑想や啓蒙に近い精神的苦行だ。
数時間後、一行はこれまでとは雰囲気の異なるエリアへと足を踏み入れた。
そこには、風化し、砕け散った校舎の残骸が無数に立ち並んでいた。見覚えのある校章の破片、砂に埋もれた校門。それはアビドス高等学校の校舎だったのだが……。
「……何かの校舎? でも、数が多すぎる」
ミサキが呟く通り、そこには本来あるはずのない数の校舎が、まるで墓標のように列をなしていた。中には、つい先ほど形成されたかのように生々しい質感を持つものもある。ここを通り過ぎたホシノの記憶が周囲のテクスチャに強く干渉した結果なのだろうか。
「ホシノの足跡を辿ってるのは間違いねえな……。だが、気を引き締めろ」
彼が警告を発した直後、またしても不気味な地鳴りが響き、足元に亀裂が走る。落ちればどうなるか分かったものではない。
歩を進めるにつれ、奇妙な違和感が一行を襲う。
最初は、同じ形をした校舎が延々と続くことへの疑念だった。まるで日を追うかのように順を追って規則正しく配置された校舎群。
だが、それ以上にある点から建造物に生じていた異変が目立つ。
「……ねえ、あれ。焦げてる?」
アツコが指差した先、校舎の壁面や窓枠に“黒く”焼け焦げたような跡が見られ始めた。
それは単なる火災の跡とは異なり、どこか歪さが際立つ。熱線によってアスファルトが溶け、鉄骨が飴細工のように歪んだかのような凄惨な痕跡である。
この記憶の憧憬にこれほどまでの変容をもたらしたのは、一体何なのか。ホシノの穏やかな記憶だけではないのだろうか。もっと別の何かが混じっている?
彼は気の反応が一段と強まったのを感じた。
おかしい。なぜ“3つ目”の反応がある?
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後方ではある意味でこの煉獄に最も馴染まない、知的でどこか浮世離れした会話が延々と続いていた。
「なーんかさ、ここ……見てるだけで頭がムズムズしてこない? 同じ校舎がずっと続いてるし」
モモイの素朴な疑問に、待ってましたと言わんばかりにヒマリが車椅子の上で指を立てる。
「おや、モモイ。鋭いですね。この規則的に並び、境界が曖昧でどこか不気味さを際立てている光景……一時期流行った『リミナルスペース』を想起させます。そこから派生したクリーピーパスタ、バックルームといった都市伝説の構造に近い。いわば、世界のテクスチャがバグで裏返った空間……。今の私たちの状況を定義するなら、これほど相応しい言葉もありませんね」
「リミナルスペース……? バックルーム……? 聞いたことあるような……」
モモイが目を回していると、すぐ横からリオが割って入った。
「いいえ、ヒマリ。それは少し違うわ。バックルームはあくまで非ユークリッド的な空間の連続性を前提としているけれど、今のこの現象は他人の記憶という明確な『指向性』がある。都市伝説のような無機質なランダム性と一緒にすべきではないわ。それに……」
「おやおや、マジレスですかリオ。私のロマン溢れる比喩を、その徹底的な合理主義で塗りつぶそうというのですか? 全知の美少女たる私に講釈を垂れるとは、五百億年早いですよ」
「事実を述べているだけよ。貴女の比喩は時として装飾が過ぎるわ」
ああ言えばこう言う。リオの表情からもかつての刺々しさは消え、今は純粋な学問的議論、あるいは意地の張り合いに没頭している。かつてのミレニアムにおける実力社会のツートップが、死後の世界でこれほどまで楽しそうに噛み合っている姿は皮肉を通り越してどこか微笑ましくさえあった。
「……ま、なんだ。あの二人がやり合ってる間は、余計な心配しなくて済むってことか」
ネルはゲーム開発部もといチビ共が不意の地割れに落ちないよう視線を配りつつ、背後の喧騒を鼻で笑った。
「相性がいい、なんて言ったらあの車椅子の天才は顔を真っ赤にして怒るんだろうけどよ……。傍から見りゃ、お似合いの凸凹コンビだぜ」
「ところで……少し話が変わりますが……」
不意にヒマリが談笑の温度をすっと下げ、真剣な声音で話題を変えた。
「もし、名もなき神々の王女……その前任が存在したとすれば、それはどのようなものになると考えますか?」
リオは一瞬、足を止めた。名もなき神々の王女。それは彼女にとって、かつて犯した過ちの根源にある単語。少し発言に躊躇が見られた。
「突然ね……。そうね、情報が足りないわ。この時点で想像を巡らせても、正確な答えを導き出すのは困難よ」
「あくまで大まかな予想を聞いたつもりでしたが……確かにそうですね。では、私の推論を。結論から言えば、その存在はアリス……王女のように機械の軍勢を呼び起こし、組織的な現実に干渉するようなタイプではなかったでしょう」
「どうしてそう言えるのかしら?」
「貴女もおそらく、エリドゥの深部に残された記録をどうせ盗み見ているでしょうから知っているはずです。彼の記憶には、私たちがいたキヴォトスとは似て非なる世界と思しき断片がありました。そこには、私たちと同じ姿をした人々、同じ学園が存在していた。平行世界。あるいは、棄却された別の可能性。そして……そこで何が起きていたか」
ヒマリの言葉に、リオの脳裏にかつて解析した断片的なデータがフラッシュバックする。
「……まさか。あの記憶に刻まれていた、口にするのもおぞましい……紅い虐殺の光景。あれを引き起こした“主”が、前任者だと言うの?」
その問いに、ヒマリは答えなかった。
いや、答える必要がなかった。
進む先の、規則的に立ち並んでいた校舎群。
その一角にて不自然なほど激しく揺らめく。
火だ。
死後世界において、それは異質極まりなかった。
煤けた闇を焼き切るような、悍ましいほど鮮やかな“紅”。
暴力的なまでの色彩を伴った火炎が、校舎の残骸を飲み込み、ドロドロに溶かしている。
火災が起きている。この色のないはずの世界で、“紅い”火が。紅い紅い、目を焼く火が。
「お出ましですね」
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立ち並ぶ校舎の残骸が、紅い火に包まれてドロドロと溶け落ちる。その火災の中心、焦熱の檻の中に“それ”はいた。
人型を保ってはいるが、その挙動は獣に近い。
地べたに転がった干からびた亡者の屍を、犬のように貪り食らっている。忌まわしい咀嚼音が静寂を汚していた。一瞬、彼の眼には“それ”が何か手に持っているように見えたのだがこの時は余裕がなくすぐに意識から抜け落ちてしまった。
やがて、異変に気づいた“それ”が、ギチギチと歪な関節音を鳴らしながら立ち上がる。
焼け焦げ、皮膚が剥げ落ちたその顔。だが、その輪郭、骨格、そして立ち姿それは紛れもなく目の前に立つ名無しと鏡合わせの姿だった。
”肉親“
喉の奥から、焼けた鉄を通したような掠れ声が漏れる。
”肉親よ 愚かな死に損ないよ“
その体躯の内側からは、絶えず紅い炎が燻ぶり、一歩踏み出すたびに呪いのような火の粉が周囲に撒き散らされる。“山羊の呪詛”によって付いた火。理性を焼き尽くし、ただ『憎悪』という燃料だけで動く永久機関。
「ひぃぃぃいいっ! ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃっ!」
ヒヨリが恐怖のあまり悲鳴を上げ、その場に尻餅をついた。ミサキが咄嗟に彼女を庇うように前に出るがその手も微かに震えている。
名無しは一歩前へ出た。額を冷や汗が伝う。
彼は苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか自嘲的な苦笑を浮かべ、目の前の最悪を睨みつけた。
「よう、兄弟……会いたかったぜ」
そう洒落た事をぼやいて己の忌避感を掻き消そうとする。かつて、地獄のような時の果てに垣間見た、己の成れの果て。
彼の心に復讐の炎を絶やさぬよう薪をくべ続け、トラウマを抉り、人であることを辞めさせようと囁き続けた悪意の象徴。
人類最初の殺人者の名を冠する、長子の従者。
カイン
名無しのアイデンティティの一部となってしまい、最も切り離したかった鏡の向こう側の怪物がいま現実となって牙を剥いた。
その紅い火は、単なる火ではない。
それは人を焼く。文字通りの意味だ。だが人とは人格を意味する。
憎悪が人格を破壊するのだ。この火は魂を殺す。死後の世界において、それは消失という更なる絶対的な死を意味している。
名無しは、全身の感覚が悲鳴を上げるのを感じていた。
かつて同じ肉体を共有し、精神を蝕み続けた最悪の寄生体。今、分かたれたことでカインは制御不能な外敵へと変貌を遂げていた。
”お前は拒んだ 己が本質を 何故だ?“
”我は理解した お前こそが出来損ないだったのだ“
”殺意を、憎悪を捨てたお前に何が残る?“
カインが一歩踏み出すたびにアスファルトがドロドロと溶け出し、そこから恨めしげな人型の煙が立ち昇る。
”天を見上げていた 地の底で。“
”よこせ その器を“
”よこせ よこせッ“
カインは生きとし生ける者全てを憎んでいた。そう創られたからだ。同時に生けるものを妬んでいた。この怪物は一度も自分の肉体を持てなかった。故に正しく生まれたいのだ。だがそれを許してよいはずもない。
一度も自分の肉体を持てず、ただ憎悪を燃料に駆動するよう設計された怪物。その渇望はあまりにも深く、悍ましい。
「逃げるぞ! 全員走れッ! そいつには触れるな!」
名無しの怒声が響く。だが、逃走を図ろうとしたその刹那、再び“最悪のアクシデント”が訪れる……!
「なっ……!?」
地響きだ。この最悪のタイミングで。
「待って、この揺れ……さっきより大きい!」
ミサキの叫びと同時に、大地が真っ二つに裂けた。これまでの地割れとは次元が違う。大地が限界を迎えたかのように、巨大な深淵が足元から急速に広がり、獲物を求めて顎を開くかのように亀裂がこちらへ伸びてくるのだ。
「クソッ! なんでこうツイてねぇんだーーーーーッ!」
「うわぁぁぁああん!」
「足が、うわっ!」
断末魔のような叫び声が、奈落へと吸い込まれていく。
激しい振動と土煙の中、名無しとミサキ、ヒヨリ、アツコが、カインと共に暗黒の裂け目へと飲み込まれていった。
残されたのは、亀裂の向こう側に踏みとどまったミレニアム組のみ。
「あぁぁ! 名無しのひとぉーー!」
モモイが叫ぶが、返ってくるのは不気味な風鳴りの音のみだ。圧倒的な絶望感が場を支配しようとしたその時、アリスが不意に一点を見つめて足を止めた。
「アリス、感じます……不思議な“気配”を……。これはいったい何でしょうか?」
ヒマリとリオはそれが名もなき彼と似た特性によるものではないかと瞬時に推測し……二人同時に口を開く。
「私に考えがあるわ。アリス、その感覚を維持して」
「ふふ……。私の全能の策に耳を貸してはいただけませんか? 逆転の一手は、既に盤上にあります」
[補足]
-カイン
C4-1N。忘れられた神々含む神秘由来のものを根絶やしにするためだけに生み出された人格。名無しが一度死亡したことで肉体に閉じ込められた状態だったものが分離した。いまこの存在は正しく生まれることを望んでいる。同時に自分以外の殺害も。
アリスにとってのケイのように、名無しにとっての従者や兄弟のような存在に当たる。もっともケイのように良心の欠片もない害悪の塊ではあるが。長子の出自は呪われ尽くしている。
-憎悪の紅い火
視覚的にも紅い色。文字通り人格を焼き溶かす。危険。かつての名無しもこのせいで記憶が融解したりしていた。精神病の悪化にも関わってはいたが、こっちは主に環境のストレスとトラウマ、PTSDのせいで直接的ではない。
-あれっ黒スーツは?
ごめーん脱走しちゃった