From outside Kivotos   作:ケトゥ毛

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落とし物は忘れずに


72話『マフラー』

 

 地盤の崩落に巻き込まれた名無しは、肺の空気をすべて吐き出しながらも呻き声を漏らして立ち上がった。

 

「くっ……」

 

 折れかけた足が悲鳴を上げているようだ。だが、痛みに浸っている余裕はない。背後には、同じく奈落へと放り出されたアリウスの三人がいた。キヴォトスの神秘から切り離されたこの世界では、ヘイローの加護はない。故にこの高さから叩きつけられれば、ただの骨折では済まないだろう。

 

 今の彼女たちをこの戦いに巻き込むわけにはいかない。

 視線を前に戻すと、紅く燻る炎の向こうで、カインが瓦礫の山に無造作に手を突っ込んでいた。

 

 引き抜かれたのは凶悪な刃が並んだノコギリ。

 その刃はカインの憎悪が延焼し、紅い火を帯びている。

 

 素手で立ち向かうのは自殺行為だろう。触れれば腕が焼かれる。

 彼は咄嗟に足元の瓦礫から、無造作に重さを感じたものを掴み取った。

 

 バールだ。厚みも質量も足りず心もとない。

 

 近接武器を構え、じりじりと間合いを詰める二人。

 銃火器が飛び交うキヴォトスの流儀とはあまりにかけ離れた光景だ。だが、それもそのはず。ここは青春の物語が語られるキヴォトスではない。その外側、廃棄物が吹き溜まるゴミ捨て場だ。

 

 そう、ここはそもそも『キヴォトスの外側』なのだ。そこで“その外側”を由来とする本来なら青春の物語に全く関わり合いのない二つの存在が相対している。

 “世界に相応しくない者達”が異物であるにも関わらず青春の世界へ戻るため、もしくは己の生存のために争うのだ。もはや詩的ですらあるのだろう。

 

 二人の足が、示し合わせたように同時に地面を蹴った。

 

 間合いを詰めれば、カインの身から溢れ出す紅い憎悪の火に身を焼かれる。名無しの得意とする蹴り技は、不用意に触れれば足そのものを失いかねないため、事実上の封印を余儀なくされていた。あまりに不平等な条件。文句の一つも垂れたくなる。

 

 バールと肉断ちのノコギリが、甲高い金属音を立てて激突する。

 互いに死力を尽くして武器を振るい、同時に牽制し、相殺し合う。その苛烈な攻防の中で、名無しは嫌悪感を伴う既視感に襲われた。

 移動の合間に、殺傷能力の高い瓦礫の欠片を掴み、正確に急所を狙って投擲する。その隙のない動作まで、二人は酷似していた。文字通り、己の負の側面を映し出した鏡との戦いなのだろう。といっても内面的ではなくだいぶ直接的ではあるが。

 

 名無しが手にするバールは細く、放射状に広がる瓦礫の礫をすべて防ぎ切るには心もとない。飛来する破片が頬を切り、肩を叩く。肉体の損傷以上に、一瞬の油断も許されない極限状態が彼の精神の余裕を確実に削り取っていった。

 

 刹那、火花が散る至近距離での読み合いの末、名無しは相手の懐へ飛び込む。バールを横一閃。鈍い衝撃と共に、カインの片腕を骨ごとへし折る。

 

 だが常に大きく出た行動には隙が付き纏うもの。

 肉を切らせて骨を断つ。彼の利き腕ではない方の腕が、紅い火の粉と共に宙を舞い、刎ね飛ばされた。相手にも同じように隙を許してしまったということだ。

 

「……ッ!」

 

 声にならない叫びを飲み込み、名無しは大きく後方へ跳んで距離を取った。

 欠落した部位から熱い衝撃が走る。彼は名もなき神々の知識を総動員し、己の性質を変質させてカインの存在そのものへ干渉を試みた。内部から崩壊させる、あるいは概念的に消去する。だが、その見えざる手ともうべき干渉はカインを包む憎悪の炎に触れた瞬間に焼き消された。

 

 腐っても双子。同格の存在。

 この死に体同士の戦いにおいて、小細工やズルは一切通用しない。

 

 死後の世界という、自他の境界が曖昧な虚無の底。ここは精神の澱が容易に漏洩し、互いの内面を侵食し合う不安定な場だ。つまり内面と外面の境界線がないようなもの。

 

 名無しは己のトラウマという恐怖の側面と向き合っている状態でもある。気づけば焦点がだんだんと定まらなくなっていた。彼は依然と同じように幻覚に見舞われ始めているのだ。

 

「(まずい……また、これか……)」

 

 殺された仲間たち、殺した敵たち。色んなもの死体が呪詛を吐き恨みつらみを呻く。それらが彼の足首を掴み、深い奈落へと引きずり込もうと群がっていた。

 

 一方、後方で横たわっていた三人のうち、アツコが最も早く意識を取り戻した。落下の衝撃で朦朧とする意識の中、彼女は重い瞼を持ち上げる。

 

「あれは……何……?」

 

 アツコの瞳に映ったのは、もはやカイン一人との戦いではなかった。

 地面から這い出た、紅い火に燻る無数の死体の山。それらが、まるで実体を持った怪物のように名無しの彼を包囲し、その身を食らわんと迫っている。

 

 本来ならそれは名無しが見ている凄惨な幻覚に過ぎないのだが、自他の境が消失したこの死後の世界において精神の病理はより直接的な脅威となるのだ。

 

 アツコは、焼けつくような焦燥感に苛まれていた。

 このままでは、名無しの精神は己の呪詛に飲み込まれ、カインという憎悪の化身に食い尽くされてしまう。だが、自分もヒヨリもミサキも、落下のダメージで身体が鉛のように重い。

 

「(誰か、助けを……!)」

 

 這いずるようにして、他の誰かを探そうとした、その時だった。

 

「えーい!」

 

 はつらつとした、場にそぐわないほど力強い掛け声が響き渡った。

 直後、巨大な岩塊が砲弾のごとく飛来し、群がっていた死体の山を文字通り粉砕し、蹴散らした。その余波に巻き込まれ、名無しが「ぐあああッ!?」と悲鳴を上げながら派手に吹き飛んだが、それによって彼の意識を蝕んでいた幻覚に亀裂が入る。

 

 驚愕に目を見開くアツコの視界に、翼を広げた少女の背中が映り込んだ。

 

「あなたは……!」

 

「もー、ひどい場所だね、ここ! でも見つけたよ☆」

 

 聖園ミカが、不敵な笑みを浮かべてそこに立っていた。

 

 間髪入れず、鋭い銃声の音が空間を切り裂く。

 カインの腐肉を穿ち、正確に風穴を開けていく弾丸の雨。

 

「ミカ。三人を安全な場所へ頼めるか」

 

 低く、落ち着いた声。アツコたちが心の底から待ち望んでいた家族の声だ。

 

「サっちゃん……!」

 

 現れたのは白いドレスを纏い、片目の瞳が脱色した状態の錠前サオリだった。

 

「おっけー! まかせて!」

 

 ミカは軽々とヒヨリとミサキ、そしてアツコの三人を受け止め、戦場から一気に離脱する。

 これで、戦場に残されたのはサオリ、名無し、そして怪物の三者となった。

 

 名無しはバールを支えに立ち上がり、信じられないものを見るかのようにサオリを注視した。

 

「サオリ……?」

 

「ああ、久しぶりだな」

 

「お、俺は……」

 

 過去、彼と彼女の間には、語り尽くせぬほどの凄惨な出来事があった。名無しの胸に、押し殺していた罪悪感が疼く。だが、サオリは彼の言葉を遮るように、短く告げた。

 

「細かい話は後回しだ。今は“アレ”をどうにかするのが先なのだろう?」

 

「……。」

 

 名無しは一瞬沈黙し、それからただ頷いた。

 

「……ああ。そうだな」

 

 二人は、かつてそうしていたように、自然と互いの背中を預け合った。

 いつぶりだろうか。こうして共に戦うのは。

 

 正面に立つのは、二人の人生を狂わせた『憎悪』という概念の化身。

 だが、今のサオリは既にそれを乗り越え、名無しもまた、そのために絶対の『名』を得た。

 

 探究者は乗り越え続けなければならない。

 生きるために試練を避けては通れないのだから。

 

 互いに欠落した部分を埋め合わせるように、二人の影が戦場を縦横無尽に駆け抜ける。

 

 前線を細かく入れ替え、一方が攻めれば一方が退路を断つ。その連携は、言葉を交わさずとも血肉に刻まれた記憶が呼び覚まされるように、戦いの中でみるみる精錬されていった。相手は同情の余地すら残っていない純粋な悪意の結晶だ。遠慮も、慈悲も必要ない。二人はただ、持てる純粋な技術のすべてを叩きつけた。

 

 サオリの動きにはかつての悲愴な決死の覚悟とは異なる、静かなる確信が宿っていた。彼女は深淵での再会と決別を経て、憎悪に対する特殊な『神秘』をその身に宿している。カインが放つ紅い呪詛の火も、今の彼女の魂を侵食することはできない。

 

 その背中を追いながら、彼は必死に食らいついた。

 サオリのように恐怖を完全に克服したわけではない。自分はこれからも永遠にこの鏡合わせの怪物に、そしてあらゆる『恐怖』に怯え続けるだろう。だが、それでいい。

 

 生きることを望む以上、苦難は雨のように降り注ぐ。ならば、その原因をすべて消し去ることなど不可能だ。必要なのは敵を絶滅させることではなく、何度叩きのめされても立ち上がり、乗り越えていけるだけの『強さ』を己の中に打ち立てること。

 

 蓄積した傷はもはや数えきれない。だが、その痛みこそが自分が今ここに在る証明となるのだ。

 

「サオリッ!」

 

「ああ!」

 

 完璧なコンビネーションの果てに、一瞬の隙が生まれた。

 名無しは渾身の力で地を蹴り、宙を舞う。カインの頭部を目掛け、強烈な回し蹴りを叩き込んだ。

 

「ぐ、あああああッ!!」

 

 肉が焼ける感覚。骨にまで響くような熱と恐怖。

 当然痛くて、辛くて、苦しい。だがそれで良いのだ。

 

 耐えて、耐えて、耐え抜いてやる。

 たとえ勝てずとも、もう負けることはないのだから。

 

 殺人者の頭部は半分砕け、瓦礫の山へと叩きつけられた。ようやく訪れた静寂の中、名無しは荒い息を吐きながら立ち尽くす。

 

「やったのか……?」

 

「……いや、まだだ」

 

 サオリの低い呟きに呼応するように、怪物の体が痙攣を始めた。砕けた頭部から火の粉を撒き散らし、なおも這いずり、もがき続けている。

 

”何故だ“

 

”何故拒む“

 

”ただ生きたいと望んだ“

 

”何が足りない“

 

 肉体を持たぬ双子の血を吐くような呻き。

 サオリはその姿を凝視し、本質を見抜いた。この存在は罪も悪も知らないのだ。なぜ自身が生きようとすることが拒絶されるのか、なぜ他者から奪うことがいけないのか。その理を、それはこれっぽっちも理解していない。純粋無垢な悪。

 

 ただ息を吸うように、本能のままに命を刈り取る。中途半端に人間的な願望だけを得てしまった殺戮兵器の悲しき成れの果て。それが、目の前の怪物であった。

 

 不意にサオリは這いずる殺人者へと一歩踏み出し、静かに語りかけた。

 

「もし、本当にお前が『生きたい』と願うのなら……」

 

「何が『悪』なのか。何をもって『罪』と呼ぶのかを理解しろ」

 

「それができてから、再び考えればいい。自分が、これからどうすべきなのかを」

 

 彼女は、決して殺すことのできない怪物に、一つの『導き』を与えた。

 かつて自分がすべてを諦めかけた地獄の中で、先生に手を差し伸べてもらった時のように。

 

「おい……危ないぞ、離れた方がいい」

 

 名無しが反射的に声を上げるが、サオリは「いや、見ていてくれ」と制し、差し出した手を引かなかった。

 

 怪物は言葉を発しなかった。

 だが、周囲で燻っていた紅い火が、一箇所へと急速に収束し始める。それは螺旋を描きながらサオリの差し伸べた腕へと伸び、彼女の体内に吸い込まれていった。

 

「……ッ!」

 

 サオリの体が微かに震える。

 やがて火が収まったとき、彼女の色を失っていた片目には、あの禍々しかったはずの紅い火が、静かな灯火となって宿っていた。

 

「おい……大丈夫なのか……?」

 

 名無しが純粋な心配を口にする。

 しかし、サオリは凛とした表情を崩さず、その瞳に宿る熱を噛みしめるように力強く笑った。

 

「ああ。問題ない。」

 

「今の私なら、『憎悪』だって御しきってみせるさ」

 

 

 

 

 

--------------

 

 

 

 

 

「ん……?」

 

 怪物が霧散した後の焼け焦げた地面。そこにポツリと、場にそぐわないものが落ちていた。

 名無しはそれを拾い上げる。水色を基調とし、紺色の十字線が入ったようなデザイン。

 

「マフラー……?」

 

 どこかで見覚えがあった。

 ふと、彼の脳裏にある少女の姿が想起される。

 

「ああ、そういうことか」

 

 彼は何かに得心したように意味深な呟きを漏らし、そのマフラーを丁寧に回収した。この遺失物がなぜここにあるのか、それが何を意味するのか。その答えはない。別にいいだろう。もう答えなんてなくとも自由にやっていけばいい。

 

 彼は顔を上げ、遥か上方を見上げた。

 崩落した地盤の切れ目が見える。凄まじい高さだ。また地割れが起きて、同じように落とされる可能性もまだ残っているが、どちらにせよまずは地上へと戻らねばならない。

 

「……とりあえず三人と合流するか。あいつら、ずっとお前に会いたがってたぞ。きっと喜ぶ」

 

 名無しの言葉に、サオリは一瞬だけ表情を和らげた。

 

「ああ……。そうだな」

 

 二人は“仲間たち”の元へ向かうのであった。

 

 




[補足]
-マフラー
 かつてある少女に与えられたもの。おさがりらしい。喪失の果てに無くしてしまった大事なもの。殺人者はこれを誰かの記憶で見つけて拾った。何かを意味を見出したのだろうか。

-紅い火
 何かを焼くためにある。どんな道具も力も使いよう。忌々しいものだって活かしようがあるはずだ。
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