「よしっ、あれだっ! 飛び込めぇっ!」
誰の叫びだったか、緊迫した号令が響き渡ると同時に彼らは躊躇うことなく虚空に開いた真っ黒な穴へと身を投じた。
激しい浮遊感の後に抜けた先は、底知れぬ漆黒の広がる空間。そこには上下も左右もなく、ただ足元にだけまっ平らで目に見えない硬質な地面が広がっている。まるで3Dモデルのテクスチャが設定されていないかのような記号的な虚無を感じさせる。
そこは実在と非実在の境界が曖昧に混ざり合う空間であり、彼らが死後の世界と現世を行き来するために経由した座標、『ナラム・シンの玉座』である。
間一髪で戻ってこられたらしい。名無し以外はここを訪れるのは初めてであろう。
あたりを見渡せば、先にこの空間へと逃げ込んできたであろう生徒たちが暗黒の中にぽつんと浮かぶようにして点在していた。ある者は友達らしき関係の他生徒と立ち尽くし、別の者は安堵からその場に座り込んでいる。
全方位から均等に光が当たっているかのように、彼女たちの足元には影が一切存在しない。輪郭だけがくっきりと浮き上がったその異様な光景は、まるでゲームのデバッグ画面をそのまま覗き込んでいるかのようだった。
不気味な静寂が満ちる中、名無しは自身の体を確かめるように息を吐き、背後の穴を振り返る。先ほどまで彼らを追い詰めていた、あの世界丸ごとを巻き込む地盤の大崩壊の轟音はもうここまでは届かない。
九死に一生を得たのは間違いなかった、ほとんどが既に死んだ身ではあるのだが。少なくとも、今あちら側の領域に戻ることだけはやめておいたほうがいいだろう。
名無し、サオリ、ミサキ、アツコ、ヒヨリ、ミカ、そしてアリス。奈落の地獄から這い上がってきた彼らはあるものを探してこの空間で歩みを進めていた。
虚無の広がりに視線を泳がせていたアリスが、不意に何かに気づいて指を差す。その先、光源のない空間の向こうから、大きくこちらに向かってブンブンと手を振る人影が見えた。
「あ! みんなー! 無事だったんだね!」
元気よく駆けてきたのはモモイだった。あの落盤の際、運命の悪戯で離れ離れになってしまったゲーム開発部の一人だ。
彼女は名無しの姿をまじまじと見つめると、自身の腕を組んで、ニシシと悪戯っぽく笑ってみせた。
「まぁ正直言ってさ、名無しの人が無事だってのはそんな気がしてたんだよね! だって何しても死ななそうだもん!」
「……まぁそうかもな。しぶとさだけならゴキブリにだって負ける気がしない」
からかい半分の言葉に対し、名無しは肩をすくめ、軽口でそれを肯定した。彼は少しだけ視線を鋭くし、最も重要な疑問をモモイへと投げかけた。
「そういえば……戻る途中で聞いたんだが先生と合流したらしいじゃねえか。あいつはどこにいるんだ?」
「あ、先生? 先生ならね、ちょうど……」
モモイが指を差し、その場所を示そうとした、まさにその瞬間だった。
「”やぁ、久しぶりだね“」
背後から、鼓膜を震わせる声が響いた。
ひどく穏やかでどこまでも聞き覚えのある、あの頼りなさそうな、それでいて落ち着かせられる大人の声が。
「……ッ!」
名無しは振り返った。待ち望んだ瞬間。ようやく再会を果たせるらしい。胸に去来する万感の思いを抱え、彼はその姿を目に焼き付けようとした。
しかし、そこにいたのは。
「……なんだこの……なんだ……何?」
名無しの口から漏れ出たのは、感動の言葉ではなく純粋な困惑。
視線の先に佇んでいたのは、およそ人間とはかけ離れた存在だった。二頭身。あまりにも簡素なまるで子供がノートの切れ端に秒で描き殴ったかのような、奇妙な白い落書きのクリーチャー。それがちょこんとに立っていた。
あまりに珍妙で感動の欠片もない光景。だが名無しは徐々に目の前の存在を理解し始める。
「まさか……あんたが『先生』なのか……!?」
愕然とした名無しの叫びが空間に木霊した。
「うわぁぁぁぁああん! 先生が! 先生が謎の変な生き物になっちゃいましたぁああ!」
限界を迎えたヒヨリが、ついに頭を抱えてわんわんと泣き叫び始めた。ミサキは本気で言葉を失って引き、アツコすらも首を傾げて不思議そうにその白い生命体を見つめている。
「落ち着け、ヒヨリ。……それは、本当に先生だ」
重苦しい沈黙を破ったのはサオリだった。彼女がまだ灰色の人型の状態で彷徨っていた時に一度再会を果たしている。彼女は静かに、かつ真剣な声音で事実を述べた。
サオリの確固たる証言のおかげで、一行の間に漂っていた困惑は、徐々に“本当に先生なんだ”という確信へと変わっていく。
「う、うわぁぁああん! 先生ぇぇええっ!」
先生だと理解した瞬間、ヒヨリは今度は嬉し涙をボロボロと流しながら、その二頭身の白い落書きクリーチャーへと猛ダッシュで飛び込み、がっしりと抱きついて再会を喜んだ。
「”うんうん、みんな大変だったね。無事で本当によかった“」
ヒヨリに激しく揺さぶられながらも、白い落書きは相変わらず温もりを伴った声で、愛おしそうに生徒たちを受け止めるのだった。
「……そうか。そんなことがあったんだね。まさかあの『灰色の人型』がサオリで、しかも落ちた先で偶然、名無しやアリウスのみんなも落ちてきていて、それで再会したなんて……すごい『奇跡』だね……」
サオリの言葉にじっと耳を傾けていた先生が、二頭身の体を揺らしながら、しみじみと感慨深げに呟いた。
サオリは、奈落の底からここまで至るすべての経緯を先生に伝えていた。偶然の連続。いや、むしろそれは導かれるべくして導かれた必然だったのだろうか。絶望の深淵で果たされた奇跡の再会、そして過去の象徴たる『マダム』との決別、『カイン』との死闘というそれぞれ胸に抱き、燻らせ続けていた『憎悪』との決着。
この短い時間の間に、あまりにも多くの、そして濃密な出来事が連続して起きていた。
複雑に交錯し、偶然絡み合って形を成しているのは決して彼らの足跡だけではない。それは、この死後の世界に迷い込んだ先生の側でも、そして別の場所を走り回り続けていたシロコの側でも同じことだった。
数え切れないほどの人物たちの間で、様々な出来事が同時多発的に発生し、複雑な網の目のようにして、今この瞬間の結末を形作っているのだ。
先生はサオリとの再会を心の底から喜ぶと同時に、不意にその平らな顔を曇らせ、深く頭を下げた。
「”ごめんね……私があの出来事で意識不明になってしまったせいで、アリウス分校へ行くことも、サオリに連絡することもできなくなってしまった。……本当に、ごめん“」
それは非情な世界の歪みがもたらした、かつての悲劇の記憶。先生はこのプレナパテスという成れの果てになる前、現世のシャーレオフィスで発生した突然の爆発により、余命幾ばくもないほどの重体に陥っていた。
その不可抗力のせいで、救いを求めていたアリウス分校の問題をほったらかしにしてしまったことを、大人の責任として謝罪しているのだ。たとえ、彼自身には何一つとして非がなかったとしても。
謝罪の言葉を受け止めたサオリは、一瞬だけ視線を落とし、自嘲気味に呟いた。
「確かに、アリウス分校はもう無くなってしまった。それどころか、私たちがいた元の世界さえも……」
自身の居たキヴォトスは滅び、帰るべき場所はどこにもない。だが、サオリはそこで言葉を区切ると、すぐに力強く顔を上げた。その片目にはかつて世界を焼いた憎悪の火が、今は彼女を支える静かな灯火となって宿っている。
「だが、まだ“道”は続いている。道が続く限り、何度だって“チャンス”は訪れるんだ。……そうだろう?」
サオリが振り返り、自身の背後に佇む二人の存在へと視線を投げかける。
「ああ、そうだ。」
「うん、そうじゃんね☆」
名無しとミカが同時に言葉を返した。
皮肉なことに壮絶で、凄惨で、あまりにも理不尽だった過去が彼らを止まらなくさせたのだ。悪意の主もいずれ痛い目を見るだろう。
「それで……」
名無しは一歩前へ踏み出し二頭身の白い落書きクリーチャーを上から見下ろした。
「久しぶりだな。より一層にシケた面になったが元気してたか?」
ふっと口角を吊り上げ、ニッと笑う。そうして腕を無造作に先生へと突き出した。
先生はその腕を見つめ、一瞬だけ呆然と間を置いた。だが、次の瞬間、その平らな顔をぱぁっと輝かせるように表情を変えた。
「”うん!“」
弾んだ声と共に、先生はその小さな手を力いっぱいに振り抜いた。
静寂の空間に小気味よい音が響き渡る。野郎同士の少し荒っぽいハイタッチ。
それは先生という大人の立場ではなく、彼の中の『インナーチャイルド』がずっと待ち望んでいた、ごく普通の男の友達同士が交わすような挨拶だった。
二人の間に多くを語る言葉はなかった。否、そんなものは最初から不要だったのだ。
かつて灰色の砂漠で交わした誓い。自身の半生の欠落を知ったあの日の記憶。彼らの間にある暗黙の了解と約束は、言葉を介さずとも、肌と肌が触れ合った瞬間に自然と通じ合っていた。
名無しにとって最後にできた友人であり、“少年”にとって、孤独な半生の中で初めてできた最初の友人。
保護者たる『シャーレの先生』としてではなく、ただの一人の少年として、対等に、不遠慮に笑い合える新たな関係が、今この瞬間に結実していた。
かつては相手を理解できない、もしくは理解したつもりになっていた。確執やコンプレックス、幾多の紆余曲折を経てすれ違い続けた二人。彼らは数え切れないほどの死線を越え、凄惨な運命の嵐を乗り越えて、ようやく歪みなく不自然でない『友達』になれたのだ。
「わーお……」
「わぁぁ……」
ミカがぽかんと口を開け、ヒヨリが涙目のまま、少し不思議そうな珍しい生き物でも見るかのような目で二人を眺めていた。
それは彼女たちにとってどこか衝撃的だったのだろう。今までどんな時も『大人』として、あるいは『導き手』として、どこか超然と、あるいは頼もしく振る舞っていた先生。その彼が見せた、かつてないほどに少年めいた側面。
驚きはそれだけではなかった。視線を移せば、いつもしかめっ面をしているか、機嫌の悪そうな顔をしているか、でなければ諦念の混じった自嘲気味な苦笑しか浮かべなかった名無しの顔が、見たこともないほど純粋そうな表情に変わっている。
この刹那、二人は呆れるほどに馬鹿そうで純粋で、あるいは今まさに悪巧みでも思いついたかのように活き活きとした、ただの『悪ガキ』の如き顔をしていた。
「なんだか……男の子って感じだね……」
ミカがどこか可笑しそうに、同時に少しだけ羨むようにポツリと呟いた。
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ハイタッチを終えた二人は、そのまま並んで他愛もない話を始めた。
先生はまず、純粋にシロコを元気づけてくれたこと、そして何より、自分たちをこうして生き返らせようと奔走してくれていることに、心からの感謝を伝えた。その言葉にはいつもの大人としての義務感ではなく、一人の友人としての素直な歓びが乗っていた。
「”……まぁ、でも。本当を言うと、生き返らせようなんてあんまり良くない考えでもあるから……“」
しかし長年の習性か、あるいは『シャーレの先生』としての責任感からか、先生の口から自然と、少し真面目な説教じみたニュアンスが漏れ出しそうになる。
「おいおい、大人仕草が入ってんぞ」
名無しはすかさず呆れたように肩をすくめ、ニヤニヤと笑いながら横槍を入れた。
「俺らだけの時はもっと気楽に行こうぜ。説教ならあっちの生徒たちだけに防壁張って聞かせとけって」
「”あはは、そうだね……“」
からかわれた先生は照れくさそうに笑い、それから少し悪戯っぽく視線を泳がせると、名無しの悪ノリに乗っかるように声を弾ませた。
「正直、生き返れるなら何回だって生き返りたいよね! 世界のバランスとかどうとか知ったことか! 死ぬの痛いし!」
少年が戻ってきたかのように悪ふざけ交じりで少し自己中心的な本音をぶちまけてみる。
馬鹿になるときか、あるいはこうして悪ふざけをしているときが人生で一番楽しいものだ。聖人君子でも完璧な超人でもない。
先生もまた、今まで『大人の義務』という重圧の奥底にずっと閉ざし続けてきた、己の中の少年性と剥き出しの欲求にようやく素直に向き合うことができていた。
「じゃあ、そろそろ行くよ。先生としての責任を果たしにね。生徒たちのメンタルケアに戻らないと」
少しの間のあと先生はいつもの『大人の顔』へと戻るべく、小さく息を吐いて歩き出そうとした。
その時だった。
「……『すまなかった』」
名無しがよそを向いたまま、ぽつりと独り言のように呟いた。
先生の足が止まる。名無しは先生の方を見ようとはせず、ただ遠い虚空を睨みつけるようにして言葉を続けた。それは先生へ向けられた言葉というより、彼の中にいる『あの日の少年』へと送られるべきものだった。
「『歴史の先生』からお前宛の伝言だ。」
空間が一瞬、しんと静まり返る。
それを聞いた先生はゆっくりと俯いた。長い、長い沈黙。
やがて、先生の肩の力がすっと抜けた。ふっと、すべてを許容するような笑みが浮かぶ。
「”……もう、遅いなぁ。遅すぎるよ。“」
寂しげで、だがどこか晴れやかな声だった。
歴史の先生。それはシャーレの先生にとって、憧れであり、目標であり、同時に裏切られ、決別せざるを得なかった愛憎入り混じったドロドロとした感情を抱く恩師。そして、すでにこの世を去った故人。
ずっと胸の奥に刺さったままだった棘。その答えを他ならぬ友が持ち帰ってくれた。
『すまなかった』
その一言だけで十分だった。本来なら伝えられることのなかったその遺言がすべてを綺麗に洗い流していく。先生の中でも長年引きずってきた過去に対して、すっと綺麗な踏ん切りがついたようだった。
かつての確執も、トラウマも、暗い因縁も。このキヴォトスの外側で綺麗に清算されてゆく。
前を向く先生の背中は、先ほどよりもずっと軽やかになっていた。