通話が終わり、受話器を戻す。
岐阜市内のホテルの一室、男は一人含み笑いを漏らした。今しがた話していた相手、権藤平之助の狼狽ぶりが面白かったのだ。
湯上がりの浴衣姿にて窓から夜景を見下ろし、大ダンジョン時代の町並みをその目に焼き付ける。
「……良き町並みだ。美しく、誇らしい中部地方。よくぞ能力者大戦から25年で、こうまで持ち直してくれた」
独り言つ。平之助は一方的に毛嫌いしている光景だが、男はむしろ誇りを抱いていた。
世界全土を巻き込んだあの能力者大戦にて、日本もそれなりに被害を受けた。敵国の能力者が海を越えて乗り込んできて、一時は中部地方にも大きな破壊が撒き散らされたのだ。
それをどうにか、彼は追い返した。事実上一人で、誰にも至れぬほどの力と強さをもってこの地とそこに住む民を守ってみせたのだ。
そこから四半世紀。すっかり英雄視されるようになった彼──権藤武虎は、悪の道をひた走っていた。
「人生ままならんものだ……偉大なる父の背中を追いかけては、遮二無二走り抜けた末に英雄などと呼ばれ。そして天狗になって良い気になっては、しかして愛する妻と娘を得て。だが年老いるにつれ増上慢に苛まれては、妻を失い、そして今また娘さえ──」
静かに目を瞑る。決して短くない人生、ひたすらに走り抜いてきた日々。良いことも悪いこともあった末に辿り着いた今を思う。
父、平之助の野心と野望。それそのものはどうでも良かったが、協力するしかない状況に置かれてしまった。
権藤が手にした"至宝"にまつわる者。それこそが武虎が大ダンジョン時代社会に対して反抗する理由であり生きる意味そのものだ。
絶対に、そこだけは譲れなかった。たとえ後世に汚名を残そうと、慕ってくれている人々を裏切ろうとも。かつて偉大だった父の穢れきった俗心に使い潰されようとしても、それでも護り通さなければならないものがある。
この世の何よりも大切なもの。たった一つ武虎に残された愛。平之助のいうソレとは意味合いの異なる、彼の"至宝"。
すぐ近くにて読書に勤しむ愛し子の、名を厳かに武虎は呼んだ。
「華」
「はい、お父様。どうなさいましたか?」
「光太郎少年とは、どうだ。ずいぶん打ち解けたようだが」
「えっ……!?」
その子、権藤華は父からの突然の質問に顔を林檎のように赤く染め、俯き手で顔を覆った。あまりに分かりやすい本心に、武虎は優しく微笑む。
これもまた、ままならぬことだ。予想外にもほどがあった。あろうことか華が、WSOが見出し鍛え上げている現地の少年と懇意になろうとは。
早瀬光太郎。思い返すだに一点の曇りもない晴れ渡る空のような少年の姿を、武虎は想起する。
まっすぐで、正直で素直で。優しくて、強くて、そして朗らかに笑う──それはとっくの昔に自分や父から失われたもの、そのすべてが詰め込まれたかのような姿だ。
気づけばあらゆるしがらみに囚われ雁字搦め。何より護りたいもの一つさえ、悪意に翻弄されなければ為すことも為せなくなった無力な中年にはなんとまばゆい少年だろう。
そんな彼と知り合えたこと。そして華と思いがけず交流を深めていっていることさえ踏まえて、武虎は運命というものを考えずにはいられないでいる。
「こ、光太郎さんとはその。す、素敵な友人関係と言いますかなんと言いますか! そ、そのう……ええと、あの」
「わかった。よくわかったとも。光太郎少年はたしかに素晴らしい少年だ。華がそうなるのもうなずけよう。私も、彼にならお前を任せるに足るのではないかと期待しているところがある」
「そ、そんなこと! こ、光太郎さんにも光太郎さんの都合というものがあると思います、し」
「ふ……」
「な、何笑ってるんですかぁ、お父様……!」
しどろもどろになりながらも光太郎を語る、声から伝わる想い、慕い。この子が幼い頃に死んだ妻もこんなだったと、武虎は目を細めた。
それを見てさらにうろたえる愛娘を目に、彼は内心にて考える。
光太郎ならば。あの、自分をも超える大器になるかもしれない男ならば。あるいは。
あるいは……華を救ってくれるかもしれない。華を任せられるかもしれない。自分はもう、どうあれそう長くはこの子の近くにいてやれないだろうから。
彼のような男が自分がいなくなった後、華を守ってくれるならばそれが至上だろうと。そう、思えるのだ。
(華。我が愛し子。親父殿の薄汚れた野心から、お前だけはきっと守り抜かねばならない。そのためならば私はなんでもしよう。だがそこから先は私もきっといないのだ……だから光太郎少年のような人と、歩めるのであればともに歩め。古き権藤は、私で終わりにしてみせる)
人知れぬ決心、覚悟。武虎は自らの置かれた状況を、せめて華のために利用し尽くすと決めている。
そのために平之助に服従し、WSOを欺き、ソフィアやヴァールを調べ、そして明日からは山梨にいるという謎の女を殺しに行くのだ。
すべては愛する娘のために。
"自らが何に利用されているのかすら知らぬまま"、最悪の加害者に仕立てられた被害者である娘。
あまりにも哀れな愛し子をただ祈るように見つめ、武虎は密やかに決意を固めていた。