胃の奥から逆流したアルコールは洋便器に音を立てて打ち付けられた。
ナルミは喉に引っかかる胃液をえづくように吐き出すと、トイレの壁にもたれた。天井を眺めると換気扇が唸り声を上げている。
おっやってんじゃないすか、と軽い調子の声がドア越しに響いた。無視して水洗。戸を開けると目の前には前髪をセンターに分けた見るからに軽薄そうな男。
「さすがの飲みっぷりで、俺も見習わないとって思いましたよ……よその店で急性アル中で死んだやつがいたって開店前に言われてたんで、見に来たんすよ」
「お前が飲めばこんなことにならなかったんだけどな」
ナルミは男をろくに見もせずに答えると、戸の隙間を肩で押し広げ、静かに水番台の前で口をゆすぎ始めた。
「姫、喜んでましたよ。卓の酒全部消えるなんて思わなかったとか言ってたっけ。前通ってた店じゃ半分も飲まれなかったって」
ナルミは目を閉じ、つい一時間前のことを思い出す。初回にして紙幣入れから何十人もの福沢諭吉の姿を見せびらかす若い女。ワンピースで隠しきれない下っ腹の膨れ。テーブルの端から端へ一直線に並べられたタンブラーグラスへ、乱雑に注がれていくヘネシー。飛沫がテーブルを濡らす。
『姫』と総称される来場客からの無茶振りを真っ向から受けた結果がこの嘔吐であった。普段なら優先して回されるはずの『飲み要員』は別卓に張り付かされて動けず、トラブルがあったらしくヘルプ要員にも遊びはなかった。
若い女は試すような挑発的な視線を向け、口を開く。
「エンペラーのナンバーならこれくらい飲めるよね」
浅薄そうな男が右端から飲み始めて早々に諦める一方で、ナルミは左端に立つグラスから愚直に空けていき、しばらくコツンとグラスとガラステーブルが接触する音だけが空間に響き続けた。
思い出し終えると同時にうがいを吐き出す。使い切りのマウスウォッシュを掴み口に放り込む。
「次来るときはクリュグくらい入れてもらわないと、割に合わねぇ」
「余裕っすよ。ハートは掴んだんで。今だってほら、ラインが。あいつのラブなスマイルが見えるってね」
「向こうは真顔で打ってるに一万ドル。次にいつ店来るか知らんけど」
前髪の乱れをさっと直すと、返事を待たずに廊下へ出た。スマートフォンを開けばさっきのナメた女からメッセージが。同じ男二人に似たような言葉を投げかけているのに違いない。電源ボタンを軽く押した後、歩きながら腕時計を見やる。二二時前。
歌舞伎町の夜明けは果てしなく遠かった。
新宿駅東口から北上すると行き着く繁華街は、その地名より広い範囲で歌舞伎町と呼称される。幅一キロに満たない街の中にはサラリーマンにOL、客引き、路上生活者、キャバ嬢にスーツケーツ片手の少女。そしてホスト。虚飾と夢幻、過美と嘔吐の街でナルミはホストとして暮らしていた。
マットホワイトとゴールドを基調としたフロアの中、ヒョウ柄のシャツを羽織った青年がマイク片手に声を張り上げる。
『三番卓~ナルミ幹部補佐の素敵な姫様より~情熱的なシャンパンいただきました』
ソファ席には肩まで伸ばした髪を編み込んだ青年と、白いフレアパンツのセットアップを着た女が睦まじい様子で座っていた。
アルコールと興奮で目を潤ませた女が座りながら無線マイクを両手で構え、息を吸った。
「素敵なナルミ君に見〜ってほしい、わたしのことだけ見ーってほしい!」
ナルミは隣にもたれかかる女からマイクを受け取ると、目の前に集まる青年たちを視界に収めながら口を開く。
「アミちゃんの頑張りはおれが一番見てるし、誰よりも傍にいるよ。今月は飛ばしていきまっしょう!」
歓声とともに青年たちによるコールの口上が始まる。もたれかかる女の体温が鬱陶しい。口上をトチった青年がいたことを記憶する。後で指導だ。
数分の空騒ぎを終えてアイスペールを交換させた頃に、ようやく落ち着いた女が、髪を触りながら話し出した。
「でもナルミ君みたいな子がこういう箱にいるってなんか意外だよね」
「それよく言われるんだけど、どう言う意味。浮いてるの俺、ひょっとして」
三〇半ばから四〇歳手前と思しき女がグラス片手に投げた感想にジェスチャーを交えて応える。
「うんっと、悪い意味で思わないでね。ほら、エンペラー・ファーストって結構ホスト側からの客拘束激しめなイメージあったからさ。ナルくんそういうこと全然しないじゃん」
同僚に連れられての初回来店から四回目。証券会社勤務。ロエベのハンドバッグ。テーブルにはヴーヴ・クリコが鎮座し、アイスペールとともに静かに汗をかいていた。
えーっとわざとらしく強引に手を重ねる。
「アミちゃんにだけそんなことしないからかもよ」
ありきたりな返答も、視線と抑揚に気を配って話せばそれなりの効果を持つ。関係性を深めつつある酔客ならば効果は微増。昼職オンリーに違いない目の前の女性の給与サイクルを想像し、八月にはそれなりのシャンパンを更に入れさせられるなと少しずつ確信を深めていく。
でもさ、と紅潮した顔で言葉が続けられる。
「源リキヤ君だっけ、ナンバーワンの。わたしあぁいう王子様系にも締めつけられたいかも。うちの会社ゴリラばっかだし」
「またリキヤさんの話して。今は話すの無理だよ、VIPにいるらしいし」
「VIPルームでしょ、ねぇねぇナルミさ。VIPいけたらヤバイのってマジなの」
すっかりできあがった様子の女に視線を合わせたまま少し顔を近づける。女の目が潤み始める。そうだね、と言葉を返し、続ける。
「おれVIPルームをさ、アミちゃんと埋めるのが夢なんだよね」
女の脳に響け響けと念じながらささやく。喧騒の中で二人だけの空間を想像させるように。特別室を勧めるのは売上の増は勿論、初めてのシャンパンを開けさせた次の目標を与えたかった。
友人と連れだっての初回と二回目。指名させての三度目。四度目の今晩で初めてシャンパンをオーダーさせ、非日常の注目と歓喜を味あわせた。次のステップを提示して深みにハマらせていかないと、まだ不安定にみえた。
「ナルミのそういうとこ、良いと思う。やっぱり引き寄せってあるから夢言っていこう。叶えてこう」
酔っ払いの戯言。相手の会話に語調を合わせていく。今月の締め日まで残り二週間を切った。この客が次に大枚の諭吉を吐き出すのは来月であろうから、それまで忘れさせないように自分の存在というものを擦り付ける必要があった。
「わたし今月だけで外為債を三千万売ったのね。三千万円売ったの…すごい頑張ったの」
重ねていた手。指を絡ませる。一本、一本。軽く握れば、相づちのように握り返される。
肩によりかかる体が熱を帯びていた。
「──それで、抱いたんか」
「バーに寄ってタクシーをぶち込んだんですよ、銀治さん。ねぐらだっていう神楽坂まで付き合う義理はないですし」
タクシーの後部座席に寝かせながらフレンチ・キス一つ落としたことは言わない。酔客ひとり乗せることに難色を示した運転手に先払いの金を握らせ、座席に座ると同時に寝息を立てはじめた女を見送っての帰路だった。
着信音とともにスマートフォンに表示されたのは店のオーナーである銀治からのメッセージだった。呼び出された先はエンペラーグループ系列の美容室。
深夜三時のサロンは灯りが煌々と点き、稼働式の椅子にて我らがオーナーが待っており、おお来たかと挨拶代わりのお言葉が飛んでくる。
「少し鬱陶しゅうて。そこで薄情なナルミくんに切ってもらおう思うてな」
「またですか。深夜稼働なんで特別料金もらいますよ」
ふと気配を感じて店の片隅を見ると、無理やり店を開けさせられたらしき店員がノートパソコン片手にバックヤードに逃げていく最中だった。
ナルミは穏やかな帰宅をすっかり諦めると銀治のワイシャツを大胆に開き、タオルを巻き付け、ケープを付けた。髪を濡らし、ヘアクリップで留めると、先程の店員が意図して置き忘れていったらしきシザーセットを拝借する。
シザーに自分の姿が写る。肩までの長髪を乱雑に後頭部でまとめ、ディオール・オムの柄シャツを着崩した男。目だけが爛々と光っている。
本格的なカットは担当美容師に任せ、軽く梳いて整えることに決めると、後頭部からコムでなでつけ、かつての本業を始める。
「ナルミくん、うち来てどれくらいになるかなぁ」
「二、三年ですかね。その前のメンズバー含めたら三年半とか」
「今日も新人の世話してたじゃろうね」
「入店二ヶ月経ってシャンパンコールの一つも覚えられないから指導しただけです」
銀治は髪を触られながら、会話を続ける。まるで昼間の美容室の客のように。
「それで、何か話したいことがあるんですよね」とナルミは踏み込む。
前髪越しに閉じられていた瞼が開き、視線が合う。黒目ばかりが大きくなった、感情の浮かばない瞳。銀治はすぐに目を閉じると、小さな呼気だけが聞こえた。
「ナルミくん、来月から昇格じゃから頑張って」
自分の口から空気が抜ける音がした。驚いても手は訓練したとおりに動き続ける。ヘアクリップを付け直し、髪を梳かす。
「ありがとうございます。光栄です。でも店で言えばいいんじゃないですかね」
「サプライズじゃ、サプライズ。」
「繊細な作業してるときにサプライズするのは絶対にやめてください」
「まぁ、座布団が高くなる分だけ責任も増えるってこっちゃ。今の調子ならなんとかなるんじゃないかと思ってのう」
頭の中で計算をする。育てている女と育ちつつある女と、育ちきった女。浮かび上がる何人もの女の顔と持ってくる金の額。無言でシザーを動かすナルミをどう思ったか、
脳天気な声がかかる。
「まあ締め日まで二週間あるし、まだ内定と思っといてな」
「今月の売上次第じゃ話はボツってことで」
ハハっと軽い笑い。まだ月末の売上計上日まで時間があるうちに昇進条件を知らせてくれるのは温情なのだろうか。それともウマの鼻先に吊るされた人参か。
「ハッパかけられたならがんばりますよ……はい、お客様いかがでしょうか」
鏡に映る姿を見せると、深夜三時の客は何度か手で髪を触れると小さく笑みをこぼし、静かに頷いた。