暗闇は嫌いだ。ナルミは影波打つ部屋で一人つぶやいた。
闇の奥から無数の手が身体を絡め取り、底のないナニカに沈めこませようとする。そんな悪夢をいつからか見るようになった。
体は重く、足は棒のようで、ただ無様に腕を振るしかない。幼き日に祭りの露天屋で見た人形と重なる姿。
初めて溺れる夢を見た日の夜から、ナルミは必ず白熱灯を一つ点けてからベッドに横たわるようになった。
原因に思いを馳せようとするたび、頭に痛みが走る。
息を吐く。深く吸う。しっかりと吐き、空気を吸う。二回繰り返せば、平常に戻る。いつからか編み出した対処法は今日もまた自分を生きかえしてくれた。
大窓を開け、裸足のままベランダに出る。コンクリートの冷たさを感じながら夜明け前の新宿を眺める。カラスも眠った朝四時は新聞配達らしき原動機付自転車の音に遠き道走る車の走行音が重なって響いていたが、それでも毎夜の喧騒が嘘のようだった。
夢から覚めた朝はいつも再び眠るのに時間がかかる。冷気を浴びると、全身が撫でられ洗われた気持ちになる。
右腕を意識せずに動かして、煙草をやめていることに気づき、そのまま唇に当てる。口から呼気が漏れる。
カラスが鳴き出すまで、ナルミは静かに階下を眺め続けていた。
バスターミナル新宿から羽田空港へのリムジンバスが出ていると知ったときは、その利便性の良さに喜んだものだった。その喜びは必要性を迫られた際に追体験する。主に風俗嬢を出稼ぎ先へドナドナと送り出す時に。
四月一日は午後六時。ナルミはバスターミナルから少し離れた商業施設のカフェで横並びに座った女と見つめ合っていた。
「──だから旅費込みでも熊本の方がアツいって。同じソープでもメチャクチャ大違いだって。この間の石川じゃ全然稼げなかったって言ってたでしょ。おれの昔からの知り合いが全部アテンドするからさ、試しに一回行こうよ」
「でも熊本とか遠くないかなぁ」
「飛行機で二時間だから前より全然近いって。同じ出稼ぎでもスポーツ選手とか高所得者がくるし、そういう客層相手だったらマリちゃんなら百パーセントお茶引くこともないってわかるでしょ」
ホストであるナルミは自分の馴染み客──姫と総称される──を熊本県にある高級ソープランドに二週間の派遣をさせようと以前から画策していた。本来なら風俗嬢に仕事場を紹介するのは風俗スカウトの仕事であったが、それ以前に風俗業への就労意欲を掻き立てる必要があった。
すでに羽田からのフライトチケットは購入し渡しており、最後の詰めをしている真っ最中だった。
「今日の昇進式で俺も総支配人になるからさ、最初の月には、マリエに一番祝ってほしいんだよ」
相手に想像させる言葉を舌を回して続ける。ラストソングを歌う自分。隣に座るマリエ。若いホストたちの喝采。一番。輝く。きれい。大切。相手の心に引っかかるワードを探すため、リズムよくぶつけていく。
「わたし次の次の月で二六になっちゃうよ、もうアラサーだよ」
「えぇー、関係なくね。ぶっちゃけ今の店が悪いんだって」
信頼関係に依存したうえで会話の脈絡を切り、相手のほしい言葉を投げかける。自尊心の給餌。二五以上からアラウンド・サーティだ、などという余計な言葉は心中で捨てる。
いずれにせよ、この女は稼がなければならない。スマホの月賦代に毎月のクレジットカードの分割請求。前月の掛代も加わり、今月遊べば首が回らなくなるのは幼児でもわかる。
必要なのは無条件な肯定感。健常な生活を送る人であれば求めることすらないであろう未熟なもの。世知辛い現実を突きつけ、傷ついた自尊心を毛布のようにくるむ。ナルミの日常。
「──稼いだらさ、いっぱいお祝いしよ」
「うん、お祝いしよ……いっぱい稼いでくるから絶対待っててね」
最後に自分がこれから何をするかを、その口から言葉で吐き出させ、言質を得ることに成功するとようやくに会話は終わった。結局、この嬢が熊本行きに納得するのに十五分近くを費やした。
近時の半導体企業の進出をきっかけとした好景気に沸く彼の地では、九十分六万円のソープランドでも休む暇なく売り上げてくれるだろう。どこの世界でも働き盛りで金を持つ男たちが遊ぶ場所など変わりはしない。
今月末に女がどの程度の等級のシャンパンが卸すかを想像し、売上予定に積み上げていく。
最先端エレクトロニクスの集合体に値札が付き、射精の介助行為に値札が付き、店の酒にすら全て値段がついている。自分たちだけが値札のついていないが故に、時として評価すらされない存在に貶められる恐怖をナルミは嫌なほどにわかっていた。
空港行きのバスまで移動し、引いてきた灰色のスーツケースを格納スペースに預けると、再び手をつなぎ直し、強くその手を握った。女の顔を見つめ、小声で睦見合うように言葉を囁いた後、またね、と言って離れる。
大げさに手を振りながら乗車していていく女を眺め、無言のままにバスが成田へと走っていくのに視線を向け続けた。
バスが完全に姿を消すと、背伸びを一つ。ようやくの解放感は明日から始まるかもしれないラインメッセージの連続を考えなければ、浸るのに十分な喜びをもたらしてくれた。
その感情も、背後から冷水のような声を浴びせられるまでだった。
「──くっさい別れじゃのう」
「なんだ、お…」
振り返り見れば、知らず体が硬直した。
二十歳前後であろうか、バスターミナル棟からの光源を背後に、スーツケースに座る青年はまどろむかのようにナルミを一瞥した。青みがかった髪の毛は緩いウェーブを描き、涼やかな目は手元の爪を見るのに熱心で。
少年と青年の境目を引き伸ばしたような、危うさを伴った美の化身がそこにいた。
「その調子だと、ここ来る前にも散々に焼かされたみたいじゃの。女の一人や二人、さっさとはけさせろや」
「なんだお前──いや、どこかで会ったか」
僅かにぼんやりとしていたナルミに構わずに、つまらないものを見たなという表情で青年は言葉を続け、一方でナルミは脳内の人物録から相手が何者かを必死で思い出そうとしていた。
「──違う、会ってはいない。ミナミのやつだな。確か名前は」
「天使レイ。よく知っとんの。顔は売っておくもんじゃ」
所属店こそ違えど同じグループ系列のホスト、それもランカーだ。顔くらいは覚えていた。しかし実物を見ると、予想以上に小柄なのに加え、触れれば折れてしまいそうな華奢さが目立った。
「なんや、ジロジロと」
「いや、可愛いもん着てるなって」
ごまかしながら、天使の着ているパーカーを見る。片目に包帯を巻いたテディベアが鎮座し、一つしかない目がナルミを見つめる。
「わかるか!?東京モンにも見る目あるやつおるんやな」
曰く限定、曰くデザイナーのこだわり、曰く女に並ばせて買った一品物。そ、そうだなと返しながらこいつがバスターミナルでたたずんでいた理由を推理する。
「お前、ひょっとして新宿駅で迷子になったクチか」
「ちゃうわ。少し休んどるだけや」
「新幹線から乗り継いだはいいものの、ホームから改札口で迷って、とにかく地上に出たわけか」
そこから南口改札を抜けて、横断歩道をわたりバスターミナル。必ずあるであろう待合室で休むか、きっと電源が空っぽになったスマートフォンの給電でもしようというのだろう。
ほら、とクラッチバッグから薄型バッテリーをケーブルごと手渡す。
なんじゃと目をパチクリさせる様は見ものだった。
「使っていいぞ。同じ系列のよしみだ」
「お前やっぱホストか。……いや、おい」
「なんだよ、ケーブルでも違ったか」
「名前」
そこまで言われて名乗っていないことに気づいた。
「ナルミ。エンペラー・ファーストのナンバー・ツーだ」
すぐ近くの信号が青になり、雑踏が行き交う。レイは特に驚いた様子もない様子でぽつねんとつぶやく。
「売上は」
「一億八千万円」
ふーん。そう返ってきて、はてさてこいつの売上はいくらだったかと思い出そうとするも、そもそも関西圏のホストのことなどろくに記憶していなかった。
「青だから行くぞ、おい」
「待てよ、どこに行くつもりだよ」
「そんなの決まってる、店じゃ、店。いや、その前に飯か」
天使は機嫌良さそうに、まるで浮いているかのようにスーツケースを引き、横断歩道を渡る。首だけ振り向いて天使は微笑む。もう一度自己紹介じゃ、と。
夕焼けの中で、青色の髪がラピスラズリのように輝く。凛々しげな目元に引き寄せられる。
「天使レイ、二億四千万プレイヤーや。今夜からお宅んところで卓出させてもらう。なぁ、ナンバー・スリー」
ナルミは驚きに声も出せず、天使のあとをただただ追いかけ始めた。
カッコつけて早々にランクダウンする主人公