ゴールデンウィークが終わった平日の払暁時。
一人のホストが新宿区は大久保の小道をスマートフォンとコンビニ袋を両手に携えて歩いていた。猫しか通らないような建物の間を抜けていくのは、何度も通った家路への近道。
「アミちゃんおはよー。結構飲んでたからメッセしたじゃん、そしたら秒速で返すとか朝早く起きすぎだから」
頭の右側をコーンロウ風に細かく編み込みをかけたナルミは、笑いながら電話先の女と通話する。
「エンジェル二本ありがとうね、あれサプライズなのびっくりしたよ」
他のドリンク込みで計一二〇万円ほどのシャンパンコールの中で恍惚とした表情とした女の表情を思い出す。
一月に出会ってから四ヶ月が経つが、最近は来店するたびに大型注文をオーダーしている。ホストたちの喝采を浴びる姿はいっそ性的な絶頂よりも大きな快楽を彼女に与えているかのようだった。
「違う違う。レイに付き合わされてスマブラしてたんだって。今から寝るとこ。そっ、頑張ってね今日も。応援してるよ」
通路を抜けて一方通行の路に入るところで通話を一方的に切る。女との通話は切り上げないとキリがないものだった。
暗がりから薄明へと抜けて思い出すは二人、バリアンリゾートで迎えた朝。タクシー前で、誕生日にひとりでいたくないと言い募った赤い目があったからこそ超えた夜があった。
眉毛の薄れた顔でスープをすする姿と、三八歳の誕生日を迎えたとは到底思えない幼さ。その夜からアミは毎週金曜日、時には平日にも来店するようになった。
ぼんやりと、トレーニングジムとは無縁だという真っ白な肢体の柔らかさを思い出す。
──瞬間、衝撃に襲われた。
ナルミは真っ白なボンネットに飛び上がり、鯉のように跳ねた。フロントガラス越しに目が合ったのは、グレイの制服と帽子を身に着けた運転手。
間もなく、ナルミの体は抵抗するまもなくズリズリと下がっていき、ボンネットから新宿の路上に落ちた。
アスファルトは冷たく、心臓の音ばかりうるさい。
目線を横に向けるとファミリーマートのレジ袋から商品が散らばり、レンジで温めた鶏団子スープは排水口に飲まれている。
ドアの開閉音とともに、ゆっくりとした調子の声がかかった。
「大丈夫かい? スピードは出てなかったと思うけど」
「胸が痛いけど、生きてるよ……まさかリムジンに轢かれる日が来るなんて」
まさか小道の横から急に人が飛び出ててくるとは思わなかったのだろう。急制動した自動車は実際、ナルミの身体にさほどの損傷を与えていなかった。
しかし、急放出されたアドレナリンが低下していくうちに、車に衝突したというショックが体を強張らせ、背中や右腕から麻痺したようなしびれが登ってきた。
明け方の空を眺めて数秒。顔すら動かすのが億劫であったが、ゴロゴロと体ごと回転し、出てきたコンクリート造りの建物、その隙間に少しでも身を寄せる。
朝食の宛すらなくなった今、警察沙汰など面倒であったし二度目に轢かれるのさえ防いでしまえば、後はしばらく寝ていればなんとかなるだろうと見積もったのだ。
警察。病院。今夜の勤務。女。売上。頭蓋の中で単語が巡るが、疲労かショックからか、いずれもどうでもよいと心中から思ってしまった。
しかし、意に反して物事は変転する。二度目の開閉音がしたと思えば、ナルミの体はリムジンの運転手たちの手によって押さえつけられた。抵抗する間などなく、体が宙に浮いたかと思うと車体の薄暗闇の中に押し込まれていた。
猫一匹に見られることすらなく、一人のホストは歌舞伎町から連れ去られて行った。
新宿から国道二〇号線を東進し、皇居を超えた先。大手町にそびえ立つ高層ホテルの一室にナルミはたたずんでいた。
部屋の大窓からは外苑を早朝ジョギングする男女の列が遠目に見え、うっすらと自分の姿も映る。いや、紺色のソファに座りながらワインボトルを開栓する男も映っていた。
「せっかくの逢瀬だ。楽しもうよ、このひと時を」
そう言うと男──秋瀬ツバキと名乗った──はワインボトルを口につけ、勢いよく喉に流し込み始めた。
振り返ると、約三〇畳の室内にはダブルベットにデスク、テーブルセットにソファなど家具一式が揃い、その一席に秋瀬はごく自然な様子で座っていた。
透き通るような肌にサラサラとした黒髪。モデル顔負けの小顔に目立つのは涼やかな目元に色気を醸し出す口元。両肩に銀糸のリーフが編み込まれたエンブリッシュド・ジャケットを羽織っている姿は紛れもない美青年であった。
ナルミはソファから離れたダイニングチェアに座ると、無言のままに別のボトルにソムリエナイフを突き立てた。秋瀬に倣って白ワインを煽る。芳醇なまろみが舌上で残り、朝から飲むには少し贅沢であったかと反芻する。喉を潤し、白々とした視線を向ける。
「ぶっちゃけ気にしてないけどさ、一応轢いた側と轢かれた側だからな。もうちょっとかしこまれよ」
「運命が交差するってこういうことなんだろうね。ホイールオブフォーチュンとでもいうべきだろうか」
「回ったのは俺の体だけどな。自動車だからって微妙に上手いこと言いやがって」
それで、と次ぐ。
「さっきの中国語話してたおっさん、多分医者だろ。急に服ひん剥きやがって、マジで焼き入れられるかと思ったじゃねぇか」
ナルミはこの居室に文字どおり投げ込まれてから上半身の衣類を脱がされ、急に現れた背広姿の壮年の男に触診をされたのだった。
秋瀬は面白いものでも見るかのように顔をほころばせる。
「わざわざ手をかけるほどの価値が、君にはあると?」
「俺にはなくても、オーナーの面子には傷がつく。そしてうちのオーナーは恨みは絶対に忘れない人でね……まぁアマンの部屋取っておいてバカやるわけないか」
頭こそ打っていないが、車のフロントを前後に三回転半したダメージは心理的に残っていた。再びボトルを煽る。喉音を鳴らして飲むごとに、見えない傷が癒やされていくように感じられた。
視線を感じて目線を下げれば、気になっていたことを思い出す。
「あの人──」
「静粛に。主人が他人を同じ車に乗せることなんて滅多にない。光栄に思うべきだよ」
今は別の部屋でお休みだと言葉が続く。続き間にダブルベッドが鎮座するこの部屋より間違いなくハイグレードの一室に逗留する人物。
「あんたの金主さんね。それで、ベッドの上のそれは示談金ってことかな」
真っ白なシーツが光るダブルベッドの上には帯封された一万円札の束が積まれていた。
「何事にも区切りは必要なものだよ。贖罪の機会は誰にでも与えられるべきだ」
「ひー、ふー、みー……妥当なとこなのか、これは」
いいよ、貰っておくしタレ込まない、これで話は終わりだ。後は警察の監視カメラに映っていないことを祈るんだな。斜めに呷った白いワインの間から言葉をひねり出す。
スマートフォンをポケットから取り出すと、ガラスカバーがバキバキに割れていたので剥がす。幸いなことに端末の画面に傷はない。ブラウザからホスト検索サイトを呼び出し、眼前の男と見比べる。うっわー、と言葉が漏れる。
「秋瀬ツバキ、四億三千万プレイヤー。しかもダーリングループってめっちゃ競合じゃん。どこかで見たツラだとは思ったんだよ」
絶対にオーナーに事故を知られるわけには行かなくなった。これでも一応は億を稼いでいるプレイヤーの一人だ。稼ぎ頭その三を意図せずとはいえ加害されたと知ったら、歌舞伎町から何人が消え去るか分かったものではなかった。そして恨みは強者には向かわない。
秋瀬が不思議そうにこちらを見つめてくる
「──へぇ。強請らないんだね」
「俺は命が惜しい。あと少し積んでほしい気持ちはあるけど、秘密のままゴミ箱に突っ込んだ方が良いこともこの世にはあるんだよなぁ。あ、MRIは受けたいからその分は上乗せしてくれ」
「謙虚な姿勢は好ましいよ。人には分ってものがあるからね」
そう言って懐から百万円の束が一つ、ソファの脇に置かれる。
お前飲んだくれかと思ったら交渉役も兼ねていたのかよ。交渉中にはせめてビンダイレクトで飲むなよ。ナルミは心中でつぶやくが、当然ながら当人はどこ吹く風だ。
「東京にいながら古地のぬくもりを感じる。これは良いお酒だね」
「舌通り過ぎて喉で味わってるやつが味覚について言うのかよ。確かに美味いけどさ」
ぞんざいに味わっていても、舌上に芳醇さが残る。目をつぶれば遠きボルドーの地を感じた。
ラベルを見る。カリフォルニア産。空のボトルを投げ捨てる。アルコールの心地よさに身を委ねたくなる。
窓際の椅子から立つと、秋瀬の傍らに置かれた一〇〇万円の束を掴み、靴も脱がぬまま奥の間のベッドに横たわった。
目は閉じずにいると、視界の端から何秒か窓からの光が遮られ、影に覆われた。
「俺もう眠いんだけど。それとも人の寝顔を見る癖でもあるのか」
「君は不思議な目をしているね」
そう言うと秋瀬は覆いかぶさり、ナルミの前髪をかきあげた。互いの瞳は三〇センチも離れていない。一瞬、生暖かい呼気が鼻をくすぐり、それだけが秋瀬が本当に生きていることを知らせてくれた。
「メキシコでは死者の宴といってね、誰もが髑髏を被って正装して踊り歩く日があるんだよ。デッドマン・ウォーキングとでもいうのかな」
言葉は続く。
「君はつい数時間前に命が途絶えるかもしれない恐怖、その片鱗を味わった。だけど今は生きてワインを愉しんでいられる」
秋瀬の前髪が額につきそうだ。声は次第にささやくように絞られる。
「実際に死んだ人と、死の仮装を楽しむ人と、死の淵に立った人。一体どこが違うんだろうね」
秋瀬の瞳から目をそらすことはできなかった。ただ言葉が意味を持たずに頭蓋の中で響き渡る。
ナルミが何か言葉を返す前に、ドアがカチャリと音を立てて開き、男の声がした。
「ツバキ君、話し合い終わったってメッセ来たけど、俺ほんまに入ってええの……いぃ!?」
声の方を向くと、丸メガネをした黒髪の青年が、目を見開いてベッド上の二人を眺めていた。
ダブルベッドに男二人。二人揃って上着は乱れたように片肌脱ぎになり、傍らには札束と秋瀬の二本目のボトルが鎮座。第三者がどう見るか、危ないワンシーン以外にあるのか。
ナルミは呪縛が解けたように秋瀬を押しやると、札束を上着のポケットに押し込み、青年の脇を抜け、急いでホテルの一室から飛び出した。
背後からは男と秋瀬との痴話めいた話し声が聞こえるが、聞こえないふりをして走る。
エレベータから地階のタクシーに飛び込んで、ようやく人心地が付いた。
「なんだったんだよ一体」
タクシーが勝手に動き始め、交差点を抜けてようやく行き先を告げていないことに気づく。
運転手さん、と伝える前にかぶさるように運転席から声がする。
「主人から病院で精密検査を受けると仰せつかっております。このまま近隣の大学病院へお連れします」
ナルミは今度こそ、全身の力を脱力させてシートに横たわった。