――どうして、こんな事になったんだ……。
心の中でそう愚痴を零し、ハルユキは憂鬱そうに嘆息する。その原因は、彼の隣に存在していた。
「ほらほら、早く食べなさいよー。いらないとか言ったら、頬っぺたグリグリしちゃうぞー」
そう言って、ハルユキの頬を指でぷにぷにと突いてくる少女、出灰カガリである。
ハルユキとチユリを、現在の滞在場所であるあさやけ相談室に連れてきた張本人だ。
軽い自己紹介を行い事の顛末を話したところ、サンドイッチを食べるようにカガリが言いだしたのが始まりだった。
こんなに美味しそうなのにもったいないとか、せっかく作ってきてくれたのにとか、ハルユキはそれ以降彼女に駄目出しを受け続けている。
対面で座っているチユリへと視線で助けを求めるも、顔を背けて止めてくれない。チユリ自身怒っているのか、それともカガリを止めるのが嫌なのか……或いは両方かもしれない。
ブルータス、お前もか! という心の叫びが、信じていた幼馴染に裏切られたハルユキから聞こえてきそうだ。誰か助けてくれ……とハルユキが切実に願っていると、救いの手は意外なところから差し伸べられた。
「こらこら、無理強いをするのは駄目よ」
梅郷中の学生達のメンタルケアを行っている、スクールカウンセラーの納野サヤがカガリに注意したのだ。
梅郷中の学生達からは、サヤちゃん先生と呼ばれ親しまれているらしい。
「ぶー、わかりましたー」
注意を受けたカガリは、しぶしぶとハルユキから離れた。物足りなそうな表情を浮かべていたが。
そんなに人の頬を突くのが楽しかったのかよ。と恨めしく思いつつもハルユキは強気に出ることができない。相手は年上の先輩なのだ。あまり信じたくないが。
あんな人が年上だなんて、と現実の理不尽さを嘆いてると、サヤがコーヒー淹れたカップをハルユキとチユリに差し出した。
「はい。コーヒー淹れたんだけど、飲む?」
「あっ、い、頂きます」
「ど、どうも有難うございます」
恐縮しつつも、カップを受け取るハルユキとチユリ。
「あれ? あたしの分は?」
自分の分がないことに気づいたカガリが尋ねる。しかし、サヤからの返答は無情だった。
「人をからかう悪い子に淹れるコーヒーはありません」
「な、なん……ですと……」
酷くショックを受けた表情でカガリが項垂れる。どよーんという効果音が聞こえてきそうだ。
コーヒー一杯に大げさな、と思いつつもその憐れな背中姿にハルユキが助け舟を出した。
「あ、あのー。別にそこまで気にしてない……です」
「そ、そうだよ。カガリは悪くないもん」
ツーンと頬を背けるカガリ。早くも助け船を出したことをハルユキは後悔しそうになるが、腹いせにサンドイッチに齧りついて気を紛らわす。
チユリがようやくサンドイッチを食べ始めたハルユキの姿を見て、密かにほっと胸を撫で下ろした。やはりハルユキのことを心配していたらしい。
そんな三人の姿を、新しいコーヒーを淹れていたサヤは微笑みながら見つめていた。
午後の授業が終わり下校時刻になると、これといった用事の無いハルユキは帰路に就く。
舗装されたアスファルトの道路をカツカツと歩きながら、昼休みに起こった出来事に思いを馳せていた。
何時ものようにバーチャル・スカッシュ・ゲームを延々と繰り返し、終わるはずだった休憩時間。
だが、結論からいえばそうはならなかった。突如姿を見せた黒雪姫が残していった言葉が、ハルユキの脳裏を過ぎ去っていく。
――仮想世界も現実も飛び越えた、その先へと加速する為の力を、私が君に授けよう――
その言葉の意味を、ハルユキは理解できてはいない。当然だ。いきなりそんな意味深な台詞を告げられて、理解できる者など普通はいないだろう。
からかわれただけだ、という考えが浮かんでくるも、あの黒雪姫先輩がそんなことをするだろうか。という疑問もまた浮かんできた。
――わからない、あの人が何を想い僕にあんな言葉を残していったのか。
明日の昼休みにラウンジへ来い、と黒雪姫は言っていた。会いに行けば、本当に授けてくれるのだろうか。
現実も仮想世界も超えて、先へと加速する為の力を。
自宅に向かう間ずっと考え続けるも、ハルユキは黒雪姫の問いかけに対する自らの気持ちに答えを出せなかった。
自宅である高層マンションの一室に辿り着くと、ハルユキは一人で夕食を済ましてベットにダイブする。
母親は零時を過ぎなければ帰って来ず、朝に昼食代をニューロリンカーにチャージしてもらう時くらいしか顔を合わせていなかった。
ベットに重い身体を沈めながら、ハルユキはもう一つの昼休み中の出来事について考える。
強情を張って、チユリが作ってきてくれたサンドイッチの入ったバスケットを押し返してしまった際に、恐るべき俊敏さで壁にぶつかる前に両手でキャッチした少女。出灰カガリ。
今思えば、あの時周りに人の気配は感じなかった。あまりに予想外な出来事だっただけに、自分もチユリも開いた口が塞がらなかった程である。あの少女は一体何処から現れたというのか。
疑問に思いながらも、わからないものしょうがない。とハルユキはそれ以上考えるのをやめた。もともと人がいない場所だっただけに、気が付かなかったのかもしれないと結論付けて。
――やけに慣れ慣れしい変わった人だったけど、まぁおかげでチユリに嫌な思いをさせずに済んだんだ。文句を言ったら罰が当たるよな。
頬を突かれたりしたことは腹立たしいけど、と最後に呟いて、ハルユキは就寝した。
そして翌日の昼休み。荒谷達に呼び出された屋上には向かわず、ハルユキはラウンジの入り口の前に身を隠して立っていた。
呼び出しを無視すれば痛い目を見ると頭の中の理性が訴えていたが、黒雪姫先輩の処へ行く方が自分にとって最優先されるべき事柄な気がしたのだ。
どうせ居ないんじゃないか、という半信半疑な気持ちで入り口からラウンジの中を覗いたハルユキだったが、予想に反して最奥のテーブルに黒雪姫は居た。
「……いるじゃん」
思わずそう呟いて、ハルユキは黒雪姫の横顔を見つめる。
入り口から黒雪姫の居るテーブルまでは二十メートル程。歩いて向かっても十秒もあれば辿り着けるだろう間隔だ。たいした距離ではない。
しかし、それはこの場所がラウンジでなければ――の話だった。人気の高いスポットであるラウンジには、二年生以上でなければ立ち入り禁止の不文律が存在するのだ。一年生のハルユキが侵入することを許される空間ではない。
たった二十メートルが、ハルユキには気が遠くなるほどの距離に感じられる。軟弱な心が悲鳴を上げていた。
無理だ、帰ろう。購買で要求されたパンとヨーグルトを買って荒谷達に届けよう。何時もの隠れ家に篭って、仮想世界にフルダイブしよう。そしてバーチャル・スマッシュ・ゲームで時間を潰すんだ。そんな悪魔の囁きがハルユキの耳に入ってくる。
何時ものハルユキなら引き返しただろう。しかし、今日は違った。ぐっと拳を握り締め、意を決して一歩を踏み出す。
――くそ、ちくしょう。行けばいいんだろ!
ラウンジの中を歩き出した瞬間、一斉に周囲の目が集まってくる。非難と不快が込められた幾つもの視線が突き刺さった。
思わず立ち止まりそうになるのを懸命に堪え、両足を必死に動かしていく。十秒にも満たない僅かな時間が数百秒にも感じられたが、ひたすら気力を振り絞って歩く。歩き続ける。
そして、とうとうハルユキは黒雪姫が居る最奥のテーブルに辿り着いた。
「こんにちは。君、何か御用?」
しかし、ハルユキの期待に反して声を掛けてきたのは同席していた二年の女子生徒だった。
「えっと……あの、その……」
何を言うべきか、ハルユキは上手い言葉が見つからずに口ごもってしまう。
そこへ助け舟を出したのは、彼を呼び出した張本人にして、ずっと本に目を通していた黒雪姫だった。
「来たな、少年」
読んでいた本を閉じ、黒雪姫はテーブルに同席している者達に視線を送る。
「彼に用が有るのは私だ。済まないが、他の者は席を外して貰えるかな」
意外な人物からの申し出に興味深そうな表情を浮かべながらも、同席していた学生達は席を外していく。
「す、すいません」
思わず、ハルユキの口から謝罪の言葉が出た。
一年である自分の為に席を外してもらうなんて、と申し訳なく思いつつも、黒雪姫に促されてハルユキは席に着く。
周囲の奇異の視線に縮こまるハルユキに対し、黒雪姫は背筋をピンと伸ばしてまるで気負った様子が見受けられない。普段から人目を避けているハルユキと、常日頃から多数の注目を浴びている黒雪姫。両者の学内での立場を示しているようだ。
そしてハルユキが席に座ったのを確認した黒雪姫が次に取った行動に、ラウンジ内は大きなどよめきで包まれることになる。
ブレザーのポケットから一本のXSBケーブルを取り出すと、片方のプラグを首周りに装着している自らのニューロリンカーに差込み、もう一方のプラグをハルユキに差し出したのだ。
一瞬、黒雪姫以外のほとんどの生徒が何が起こったのか理解でなかった。
周囲のざわめきが酷く遠くに感じられ、胸の鼓動が高まる。夢でも見てるのかと、ハルユキは自分の正気を疑った。
だが――黒雪姫がハルユキに直結を促したのは、夢でも妄想でもない、確かな事実だった。
「あの、これをどうすれば……」
震える手でケーブルを受け取ったハルユキはどうするべきなのか理解しつつも、尋ねずにはいられなかった。しかし――
「君の首に装着する以外に使い道があるとは思えないが」
即答されてしまい、ハルユキは瞬く間に逃げ道を失った。数度深呼吸して心を落ち着かせた後、ハルユキは一気にプラグをニューロリンカーに差し込む。
瞬間――ピコーンという効果音と共にハルユキの視界で警告表示のメッセジーが映り、数秒と経たずに薄れて消えていく。
メッセージが消えて鮮明になった視界でハルユキが黒雪姫の微笑む姿を見つめていると、脳裏に黒雪姫の声が聞こえた。
『わざわざ御足労すまなかったな、有田春雪君。思考発生はできるな?』
思考発生は直結した状態から、ニューロリンカーを介して行う念話のような会話のことだ。ハルユキは同じく思考発生で言葉を返すことで、思考発生ができることを示す。
『は、はい。それで、あの……黒雪姫先輩が言っていた、現実も仮想世界も飛び越えて加速する為の力って……』
『ふふっ、まぁ、そう焦るな。私はこれから、君のニューロリンカーに一つのアプリケーションソフトを送信する』
黒雪姫はそう告げると、手を空中に翳して高速で動かした。白く細い指が素早く視覚化したウィンドウを操作し、一つのアプリケーションソフトの送信準備が行われる。最後にニューロリンカーへ指を当てると、美しい蝶のホログラムが出現し、優雅に舞いながらハルユキのもとへ飛んでいった。
蝶が目の前で消えると同時に、ハルユキの視界で《BB2039.exeを実行しますか? Run/Cancel》というシステムメッセージが表示された。
『それを受け入れたら最後。今、君の中に在る現実と日常は破壊され、新たな世界で生きていくことになる』
その不吉な宣言に、ハルユキは息を呑む。現実と日常が破壊される、信じ難い言葉だ。
――僕の日常、僕のリアル。
横目で周囲を流し見て、ハルユキは思う。
人目を避け、隠れるように生きる醜い自分。怯え、逃げ惑い続けてきた弱い自分。そんな現実を変えようともせず、諦めて動き出そうとしない愚かな自分。ハルユキの脳裏に無数の己の姿が映し出され、消えていく。
――何も、迷うことなんてない。
『望むところです。今在る現実が、本当に破壊されるというのなら』
それは黒雪姫に向けた言葉というより、自分自身に強く言い聞かせる為の言葉だったのだろう。キツく目を尖らせたハルユキは、空中に浮かび上がるRunの表示を指先で躊躇いなく押した。
同時に――燃え盛る巨大な焔が轟音を響かせて周囲に迸った。
突如その姿を現した紅蓮の炎は、ハルユキと黒雪姫を円状に囲い世界を紅く染め上げていく。
そしてハルユキの目の前に集うと、《BRAIN BURST》の文字を残して消えていった。
じっとその文字をハルユキが見つめていると、インジケータ・バーが表示されてインストールが開始される。
固唾を呑んでハルユキが見守る中、百パーセントに達するとバーは静かに消滅していく。
変わりに、《WELCOME TO THE ACCELERATED WORLD》というメッセージがハルユキの視界に映った。
『アクセラレーテッド……加速世界?』
『どうやら無事にインストールできたようだな。十分な資質はあるとは確信していたが』
『し、失敗することもあるんですか?』
『そう。このブレイン・バーストは適正のある者でなければインストールできないのだ。正確に言うと、脳神経反応速度が一定のレベルに達していることが条件になる』
『脳神経反応速度……』
ハルユキと黒雪姫が思考会話に集中していると、ラウンジの入り口の方がら怒声が響く。それは、ハルユキが最も会いたくない人物――荒谷の声だった。
「てめぇ! ブ……有田! 何バックレてんだ、コラァ!!」
基本原作沿いで進めていきます。たぶん。